BARCELONA, Montserrat Caballé, Freddie Mercury

NHKBSで放送されたQueenのドキュメンタリーを2本観ました。その2本目で取り上げられていたのがフレディ・マーキュリーが晩年に取り組んだモンセラート・カバリェとのオペラ作品『BARCELONA』。日本語歌詞もあるフレディの芸術性が爆発した大作。素晴らしかったです。ロック・オペラとして、本流のオペラファンからは”いやー”と思うところもありそうですが、荘厳なオペラの世界への入り口として惹きつける魅力にあふれた名盤だと感じました。
2本のドキュメンタリーは映画『ボヘミアン・ラプソディ』の裏側はこうなっていたのかと思わせるもので、フレディの恋人たちなどが実際に出て来て見ごたえがありました。あまりにも劇的な人生。
人生自体がドラマのように感じることの凄味を感じつつ”Great Pretender”だったフレディを一人の人間として扱ってくれるトポスは何処かにあったのだろうか…当時はWebもなかった…などとも思いました。
凄まじい藝術を行うヒトはその藝が巧みなほどカミや魔人にしばしばみえます。けれど憧れが理解には最も遠いように、神格化は”人として扱うこと”からは最も遠いことかもしれない。私自身は芸術家は社会のルールに縛られないと思いますがそれと表裏一体となった『偉人の人生自体をドラマのように楽しむこと』の暴力性と、けれどその幻想が芸術家を時代の象徴へ昇華させるのかもしれないという功罪を想いました。
ただインターネット以後、特にSNS以後の世界に育ったWebネイティヴな世代はそもそもの気風が違うエリアにいるようにも思います。先日Googleがインターネット30周年を祝っていましたが、平成という時代は電脳空間が生まれ、社会に組み込まれていった時代だったなと。そこには旧世紀とは異なる形のスターの在り方があって、別のやり方のサヴァイヴの仕方がある。
もう暖かくなってきたというのに季節に遅れた服で町を歩く私ですが、「俺はアナクロ」と嘯いてばかりいないで、自分の歴史に筋を通しながらも現状にアジャストしていくべきなのかもしれない。それにしても『BARCELONA』の神聖な響きは本当に沁みる。そんな夜となりました。