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舞台『海辺のカフカ』@赤坂ACTシアター 今まさに世界と対峙する物語・狂気に巻き込まれずタフになることの寓話


赤坂ACTシアターにて蜷川幸雄の『海辺のカフカ』をみてきました。
2F席後方からの観劇で、寺島しのぶ等の表情は掴めずとも、演者たちの演技には物語が息づいていて、原作は大学時代にむさぼるように読んだのですが、今回蜷川さんが非常に理解しやすく整理し魅せてくれたおかげで”こんな話だったのか”と大きな感動を受けました。

父親と、そして学校での軋轢を抱えた田村カフカ少年は、世界でいちばんタフな15歳になるために、そして損なわれないように四国・高松へ旅に出る。

一方で戦時中にある事件から知的障害を負った中田さんという老人は、ネコと話せネコ探しを仕事にしているのだが、ジョニー・ウォーカーという猫殺しの男と邂逅する。

文学として村上春樹の小説は軽く扱われることも多いですが、これを文学と言わずしてなんと言うのでしょう。母の愛の喪失、自分の影/半身の喪失、人間性の喪失、そして殺人。性愛の描写も、例えば15歳のリアルとしてのマスターベーションや、オイディプスをはじめとしたギリシア悲劇の要素、風俗描写は照れ隠しか突飛なキャラがアンリ・ベルクソンやヘーゲルを語る。そして(ここの描写は唯一記憶に残っていた)はじまりの石の異界空間。

蜷川さんは移動するガラスケースのセットという仕掛けでこの幻想と現実を抉る物語を見事に演劇化してみせました。

このジョニー・ウォーカーというキャラ、さらにはカフカ少年は酒鬼薔薇をモチーフにしているのは想像に難くありません。三島の『金閣寺』でもそうですが、現実に起きた犯罪というのは作家に”あれはどういう流れで起きたのだろう”と熟考させる契機となります。

優れた警察小説を書いた高村薫は酒鬼薔薇事件に「ついていけない」と語っていました。その闇への考察を村上春樹は本作において行ったのだと思います。無論、その後『絶歌』で馬脚を現したように、酒鬼薔薇は実に矮小な人間であったのですが…。

この劇を見ながら強く思っていたのは、”狂気に巻き込まれてはいけない”ということ。もっと具体的に言うとジョニー・ウォーカーの迷宮のような希死念慮に、思わず登戸の事件を想ってしまったのでした。

中田さんのキャラクターが秀逸なのは、現在(2002年)と戦時中をつなぐキャラだということ。戦争が何故恐ろしいかと言えば、本当に善良な人も、家族が殺されたりする中で人間性を失っていってしまうこと。それはヒトラーの狂気に巻き込まれ、官僚的に冷血の事態を巻き起こしたアドルフ・アイヒマンもそうです。ハンナ・アーレントはアイヒマンの裁判から彼の陳腐さ・矮小さを知りますが、「ひとりで死ねとは言わないで」に大きな異論が勃興したように、こうした「犯罪者への理解」はいつの世も瀬戸際な論考となりますね。

マルクス・アウレリウスは『自省録』の中で「最大の復讐は、相手と同じにならないことだ」と書いています。或いはニュージーランドの首相はテロ犯に対して「彼を徹底的に無名のままにする」と声明を発表しました。はじまりの石で開かれた森にいた2人のように、戦争から脱走することは、覚悟と犠牲はあっても、決して否定的に『海辺のカフカ』では描かれていません。狂気には向き合うのではなく、巻き込まれないことが肝要である、と。 

また性同一性障害などを2002年の段階で取り上げていたのは改めて時代の先をいっていたのだなと思います。セクシュアリティは本書においても重要なテーマで、あの黒いカラスはただのイマジナリーフレンドでなく、サエキさんの焦がれたカフカだったのだなと。プラトンの昔には男男、男女、女女と両躰あった精神存在が、神によって分割され、人間は己の半身を探すようになった。

メイン・テーマのOK COMPUTER / KID A的なエレクトロニカに、学生運動の頃のフォーク、そして戦前歌と音楽が射し表わす時代の空気に載せて己の根源的な片割れ探しの旅路は、本当に不可思議な世界を垣間見つつ、カフカ少年は再び旅という異界から戻ることを選択するラストへ、3h20mがあっという間でした。

蜷川幸雄という希代の演劇人によって、立体的に生気が物語に通い、本当に伝導率の高い、貴い時間を過ごすことが出来ました。素晴らしかったです。三回目のカーテンコールで寺島さんが蜷川さんの写真と共に現れたのには胸が熱くなりました。

by wavesll | 2019-05-31 02:35 | 舞台 | Comments(0)
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