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100分de名著 ロジェ・カイヨワ『戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ』をみて

八月の100分de名著はロジェ・カイヨワによる「人間にとって戦争とは何か?」という根源的な問いに対して、人類学の視点から答えを出そうとした一冊、『戦争論』でした。

カイヨワは人間の内に潜む血生臭い戦争の女神、ベローナを炙り出します。それは文明の発展と戦争の必然。

文明は農耕による平和な富の蓄積から興りますが、部族社会の縄張り争いの戦争、そして封建社会の貴族戦争と規模が拡大していきます。

それでも貴族戦争までは、戦争はあくまで「上の人間がやりたいこと」で、庶民は関係ありませんでした。けれどもフランス革命により”王の国でなく俺たちの国”になった故に、戦争は万人の国民戦争になります。

さらに産業革命は大量生産を興し、故に大量破壊を必要として、戦争は経済システムに組み込まれます。
と同時に産業革命によって、地元から切り離され都会へやって来た人たちは、言語によって繋がることにより、ナショナリズムが生まれます。また国家はメディア、特に映像メディアを利用しナショナリズムを煽りました。exナチスの五輪利用。(ナショナリズムに関しては『想像の共同体』に詳しいです)

ここで恐ろしいのは、戦争という行為は国家に扇動されたゆえに起きるだけでなく”正しいと思ってやっていたら自然に起きてしまう”というメカニズムが人間文明にはあるということ。

ロジェ・カイヨワは祭りと戦争は、蓄積の浪費な非生産的で起立が解除される『聖なるもの』という共通点があるといいます。聖なるものは個々の意志の事象でなく、集団としての意志であると。

戦争は人間に無銘兵士の死としての価値づけ、誇り付けを与える神話的現象な巨大なシステムであると。大きな物語による、死を超えた高みに己を持っていくことで崇高、恍惚の美があるとカイヨワはいいます。

そこでは誰かが悪いと外部に戦争の要因が求められるというよりも、自分の欲望による戦争があり、破壊への歓び、暴力の快感、恐怖の裏返しの蹂躙の欲望があると。

では、祭りと戦争の違いは何か?祭りは人々が一つのグループとして集まり高揚を求める意志だけれども、戦争は外へパワーを解き放ち、打ち負かして服従させようという意志で、敵がいます。

そういった意味で社会・文明の老廃物を新陳代謝する、消費の回路を待つことが大事だと番組は言います。

拡大を続けてきた戦争と文明でしたが、核兵器という殲滅爆弾を産んだことで、人間的意味は戦争から奪われ、国民戦争は終わりました。双方の破滅が可能になってしまったゆえに核兵器の開発は世界戦争を起こせない状況をつくりました。

けれどもWW2以降も資本主義陣営と社会主義陣営の冷戦、そしてヴェトナム等を舞台にした代理戦争は続き、核兵器は使われないがあらゆる兵器が開発されました。

冷戦は終結したけれど、911以降テロとの戦争が起きます。テロには降伏も講話もなく、テロとの戦争の戦果は「テロリストを何人殺したか」になります。テロリストは自国の中にもいて、国民への監視社会化が進み、民間軍事会社も発達します。

政治、経済、科学の戦争への統合・組織化が進む中、平時と戦時の境が無くなってしまっている。

そんな状況を見通したカイヨワは、教育によって人々の意識を変えていくしかないが、それが戦争を求めるシステムのスピードを追い越せるかははなはだ疑問だ、と悲観的な言葉でこの本を締めざるを得ませんでした。

番組ではその「教育」は「あらゆる人間には差別がなく、人権がある」というお題目、理想こそがストッパーになるという〆がなされていました。

私自身はこの100分を通して思ったのは、私自身が以前よりもナショナリズムを軸とした「国家という大きな物語」に取り込まれてしまっているのではないかという恐れで。

大学の頃は国家の存在は薄いというか、”今はトランスナショナル企業もあり、インターネットによる自由な発展もあるのだから、国境に囚われるなんてナンセンス”くらいの心持だったのに、いつの間にか、Twitterや私がみているWebが、ネトウヨやネトサヨ的な言説のぶつかり、韓国からのヘイトや安倍政権のきな臭い米国への売国など、この十年で「国家」を意識することが増えたように思います。

これは単に私の視野が狭いというだけでなく、世界的にも、いわゆる多文化主義へのバックラッシュが起き、先進国各地で極右政党が台頭し、顕著な例ではブレグジットやトランプ大統領誕生などがこの十年で起きました。

それは今まで途上国から収奪できた先進国が、途上国が発展して経済的な力をつけたことと、移民により労働者が入ってきたことで、先進国の中間層が落ちぶれ、先進国内部で格差が広がり、余裕をなくし、不満が高まったことにあると思います。

つまり、「自分の生活という小さな物語」が競争によって損なわれてしまったゆえに「国家という大きな物語」にアイデンティティーを託すように、この世界がなってきたと。

さらに言えば、国内のテロとして、「インセル」であったり、「無敵の人」、あるいは発達障害によるものも、「本来『普通』だったら手に入れられるはずの自分の権利から己が阻害されている」ということだと思います、つまり「自分に人権を与えない社会への強烈な憎悪」。

私自身、挫折から、社会的に成功とは縁遠いところにいて、社会で「普通」にやっている人と話すとどうもマウンティングを取られているのではないかと被害妄想を食らうことがあります。社会的ステータス、収入、結婚、子育てetctec。日本語の「普通」って「完璧」を意味するから、日本社会は閉塞感があるのではないかなと常々思うところがあります。

けれども、そこで自分自身の生きがいを「日本賛美」という大きな存在に託さなくて、ある程度個人として立てているのは、私にとっては従来の共同体のお陰というより、Twitterでの縁など、Webを起点とした共同体(というには緩い)な繋がりのお陰も大きかったです。

人間には本能として、他者を蹂躙したい、征服したい、服従させたい、勝ちたい、マウンティングしたいという欲望があり、その圧に負けた人が、例えばいじめにあって日本の生徒が自殺したり、逆にアメリカの学生が銃乱射したり、それは「普通の強者」があまりに鈍感ゆえにみえない社会の軋轢ゆえでしょう、何しろ「普通の人」は「普通にしているだけ」ですから。

けれども、確かにWebは危険分子の先鋭化にもなるという意見もありますが、Webは人々にとっての安全基地、ルーエンハイムを提供している側面はあります。それは「実社会」で成功している場がある伊集院さんにはみえにくいものなのかもしれません。

けれども、戦争・テロを未然に防ぐには、これからの時代は、Webを介した「地縁でない小さな繋がり」が「大きな物語に飲み込まれないための役割」を果たすこともあるのではないかなぁ等と想った次第でした。人間、30を超えれば誰しもの人生に独自性が出てきて、単純な優劣の比較は本来できなくて、お互いに認め合うことこそが「普通」の価値観のはずで。ディグニティを人間はどこかで保たねばならず、それには社会における「合理的な人は無視するあそび」を必要とする人は、結構いる、そう想います。

by wavesll | 2019-09-13 03:22 | 書評 | Comments(0)
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