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劇団肋骨蜜柑同好会「殊類と成る」@下北沢Geki地下Liberty Twitter時代の”生の有り様”をみせられた演劇

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すっかり変わってしまった下北の駅前の姿に衝撃を受けながら、マックの脇を入って階段を降り、観劇をしてきました。

この「殊類と成る」は中島敦『山月記』を下敷きにしながら、様々な人の日記などの実際のエピソードを取り込みつつ、人生において”なんでこうなっちまったんだ”と空虚な思いを感じている主人公のこれまでの人生を掘り下げながら、人でない殊類、虎と成り、そして…という演劇。

何しろ刺さったのが主人公の三蔵というキャラクター。この内向的で暗い変な空気で口下手な学生時代の三蔵は、俺じゃないか…!のちの三蔵の姿でもある浮浪者の変に人間味がだだ漏れている姿もなんか桃岩荘って感じだし、そして鬱になる三蔵、この鬱での光景(家族とのやり取りや知己との関係性)も真に迫っていて、ここら辺はどなたかの実体験も反映されているのだろうなと。

また”呪い”の原体験として幼少の時に先生から「人はいずれ死ぬ、全ては意味がない」という教えが劇中にあったように想いますが、私自身の想い出だと大学時代に『エレガントな宇宙』で超ひも理論を知ったとき、物凄く目を開かせられ感動しながらも”すべては絃の振動に過ぎなかったら、モラルなんて意味がないじゃないか”なんて考えになりかけたことを想いだします。

一方で物語のもう一つの軸として、イケメン生物教師中山が同僚や生徒に好意を持たれながら、でも手は出さない、妻との生活も守りながら、”自分はいたって正常な道を歩いている”と想っている姿と、結局それが関わる全ての女を不幸にして、最終的には「卑怯だ」と罵られる様があって。

これも別の意味で刺さったというか、私は学生時代は恋愛対象としてはみられない時期を過ごして、特に鬱をやって周囲に迷惑をかけてからは道化に徹して自分を嗤って過ごしていたので、女っ気もほぼほぼなくて。

その後社会に出て、再び鬱をやり、なんというか、それまでの人間関係も破壊し、”そうか、これまでズッコケることをネタにしていて一種無害で愉快な人物を演じていたけれど、周りはどんどん向上することを頑張っていて、誰も俺と同じようにズッコケることを付き合ってはくれない。けれど、まともに勝負したら人間の圧として周りには敵わない。ならば、俺は、俺を愉しませてくれる藝をしてくれる人と新たな関係性で生きていけばいい”とこの十年やってきました。

社会的には下層に位置していて、大学の頃まではそこそこ勉強は出来たけれど、今は野望や大志を棄て、深山幽谷の端に庵を構え、水面に石舟を沈める、そんな一種虎、それもかっこいいものではなく朝鮮民画のような素っ頓狂な虎に俺はなっちまったなぁと想うのです。

けれども、Webで、自分の愉しみとか欲する藝とかを追究していると、女性とのWebを介した関わりが生まれたりして。結局離れてしまいましたが、彼女も出来たり。中高も共学だったけれども、大学時代までホモソーシャルな関係性の中にいた自分にはそれは学びの場と言うか、妙齢の女性と関わることで男は精神的に前に進む部分もあるのかもしれないなと想ったりもしました。

けれど、経済的に、そして藝術を摂取し旅したいという業もあり、決定的に女性に対して責任を取ることが出来なかった。踏み出すことを恐れたりした。それで、結局は私自身も中山のように(あんなイケメンでもあんなモテ男でもありませんが)卑怯なアティチュードでろくでもないこともしてきたなぁと、想うのです。

そんな両主人公双方に自分との親和性をみていたら、なんと彼等(浮浪者も含めて)3人は同一人物の中山三蔵だったということが劇終盤で発覚します。それは上にも描いたようなことがあったので、”成り立つなぁ”と想ったのでした。

ちょっと知識があったばかりに周りを少し小馬鹿にして、で競争に負けたら”自分はダメ人間だから”と自嘲する、「結局それは努力、克服から逃げてんだよ」と言われる指摘は、本当に刺さったというか。三蔵は本当は詩を書きたいのだけれど、詩に向き合うことで鬱をやっちまったし、楽しく人生を生きながら周りの藝を愉しんだ方が愉快じゃないか、上手くやろうぜとサヴァイヴしてきて。けれど、本当は自分の言葉を紡ぎたい。

これは、Twitterなんかで批評をしている人にも通じる冷笑性への熱い一撃と言うか。恥をかくことを恐れている、或いは誰も気にしなくても自分の行動や感情を律するのは「自分自身に見せるための演技」だというセリフもありました。途中でTLが流れるような演出もあり、この劇の1つの要点はSNS時代における自己肥大であると想います。

結果、最後三蔵は「自分の生の感情をぶつけて想うように生きていいのだ、自分を偽ることはないのだ」と悟りかけます。ここは、二度目の鬱から治りかけた時に”俺は本当に死にたかったら死んでいる、俺は死んでいない、結果俺は総合的に勘案して生きたいのだ。というか俺がやっていることは総合的に勘案して本当にやりたいことをやりたいようにしかやっていないのだ。それはみなそのはずだ”というような思考に至り、攻撃性を獲得することがあったことを想いだしました。

そして最後は仲間と桜の下で大団円。これは、学生時代までの人間関係を破壊というか、人間関係でマウント(というと情けないですが)や負い目を持った者としてはちょっとほろ苦いラストではありましたが、観て良かったなぁと想える劇でした。舞台装置も様々な場面に変幻できるもので、非常に感心しました。観劇のきっかけとなったF/Fの林揚羽さんも可愛らしかった。

さぁて、この劇を観て、俺はどうしようか。少なくとも独り覚ったようなことを蠱毒することからは、一歩出ないといかんなぁ、そんな”有様”をみせてくれた劇でした。

by wavesll | 2019-12-10 16:04 | 舞台 | Comments(0)
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