人気ブログランキング | 話題のタグを見る

憎悪に支配されないために -RealとShowと誹謗中傷

テラスハウスに出演していた女子プロレスラー、木村花さんが亡くなられてしまいました。先ず第一に御冥福をお祈りいたします。

死因は発表されていませんが、彼女のSNSに誹謗中傷のコメントが殺到していて、それも一因ではと報じられています。

まだ若い、22歳の、前途洋々とした女性が命を絶ったこと、心が痛みます。今Twitterなどでは誹謗中傷への批判や、リアリティー番組というTV番組のありかたに批判が集まっています。

私自身はテラスハウスの視聴者ではないため、副音声で山里が煽ったとか、番組内で木村さんが激怒したくだりが反感を呼んだとか、伝え聞くだけで、そこにジャッジは下せません。

ただ、私自身の20代の過ちの話ならば出来るかなと想うのです。

私は高校くらいまではそこそこ勉強ができたのですが、大学のサークルでは”ダメな出来ない奴ポジション”になり、特に鬱で休学から復学してからは道化としての立場を積極的にやってきて。

”面白い人”には成れたけれど、人間としての尊敬とか、あるいは実力みたいなものの評価からは遠い学生時代を過ごして。
そんな中で休学中に始めたのが個人ニュースサイト、そうこの鴎庵でした。

Webではそこそこ上手くやれて。ここにおいて高校までの「本名」というパーソナリティとサークルでの「あだ名」というパーソナリティーと「カモメ」というパーソナリティーを持つ形となって。

そんなこんなで大学を卒業し、入った会社でまたしても上手くいかずに二度目の鬱、休職から、失職しました。

会社から解放されたことで、私の鬱状態は躁転したというか。ハイになって、一時期は遠ざかっていたmixiへ行くと、昔の大学時代の仲間が全然日記を更新していない。今思うと会社の繋がりとかの目線が有ったり、単に日記に飽きていたり、まぁ様々な理由があったのでしょう。そこを私は大きく勘違いして”お、みな会社に鬱にさせられているのだ。それをぶっ壊すロックな論をガンガン書いてやろうじゃないか”と。

けれどそんなものには評価はされず、遠巻きにみられるばかり。ましてや「いいね」なんて押されない。まぁ、昔から私のmixi日記には他の人間と比べるとコメントや「いいね」は滅多になされなかったのですが、”なぜ1クリック程の報酬もこちらの書き込む労力に対して払わないのだ。俺はお前らが俺より上手くやっていた時に付き合いに付き合ったじゃないか”と躁状態の怒りやすさから筋違いに激高し「お前らは資本主義の豚が!」とかトチ狂ったことを言って。

そりゃいわれる相手も仕事帰りにSNSみて罵詈雑言が並んで荒らされてたらムカつきますよね。どんどん私への批判は高まり、私はmixiから撤退し、大学関連の付き合いからは身を離すことになったのです。

この大失態、荒らしの酷い行為の時に私の心持にあったのは”俺は自殺するほど苦しんだんだからこれくらい言ってもいいだろう”、とか"金も奪ってないし暴力を振るったわけでもない"とか”これは正義なのだ。”とか…この邪悪さ、どこかで木村花さんにぶつけられた邪悪さに通じるものがあるのではないかと想うのです。

大学で道化をやっていた頃、私が行っていたのは『プライドのダンピング』とでもいうものでした。自分の欠点を喧伝する、自分を嗤うことで、笑いを得る。それは当時のM-1などのお笑いブームの影響もあったろうし、深夜ラジオ的なノリや、或いはロックにおける「ネガポジ反転」や「暴力的に強い言葉」もあるでしょう。自分がドブネズミみたいに汚くなることで、逆に美しくなる思想。そこからmixiで暴れた時は”なんで皆芸をしないんだ、あの頃俺はあんなにも楽しませたのに。俺が楽しんだっていいじゃないか”と筋違いに思っていたのです。

けれども、(あえてこの言葉を使うと)「普通の人」は”バカにされないために頑張っている”のであり、くだらない道化にはなりたくないものなのです。私が勘違いしていたのは私の言動を愉しんでいる人はいても私の様には彼らはなりたくないし尊敬もしない。寧ろ「本業・仕事」というかな、そういった実務の面で研鑽を積み重ねることがAuthorityになるのだと。ま、いわば私は成人していたのに小中学生の様に”面白い奴が一番偉い”みたいな価値観に染まっていたのです。

また、ここは大きいのですが、私はどこか「言葉はバーチャル」だと考えていた節があります。

テラスハウスを観て木村さんにヘイトを飛ばしていた人間に、”あれは台本があるようなショウなのに、実際に悪い人だと取り違えて過ちを犯す馬鹿だ”という声もありますが、寧ろ私は彼らは”あれはShowだ”と認識していたと思います。

そしてTwitterにおける自分の「いじり」もShowであると。実際のリアルな痛みではなく、ヒールが叩かれるというShowなのだと考えていたのではないでしょうか?

実際には言葉の暴力はリアルで悲痛な痛みとなって木村さんを襲った、或いは木村さんも「テラスハウスでの役どころ」と「Twitterでの自分のアカウント」と「素の自分自身」は明確には分かれていなかった。それはそうですよね。誹謗中傷と云うのは、現実社会での犯罪だという認識があまりに共有されていなかった。

お笑い文化は私はかなり好きなのですが、漫才やコント、落語ではなく、近年はどんどん「天然」やモキュメンタリー的なものにシフトしています。例えばクロちゃんのゲスさを嗤うとか。どんどん自分自身の暗部、ダメなところを曝して嘲藁ってもらうことで、メイクマネーしている。

確かにクロちゃんくらい国民のおもちゃとしての覚悟が決まっていれば別ですが、私はまぁあの頃から十余年、ストラグルする内に、「素人、或いは本芸がある人がプライドのダンピングをする必要はない」と想うに至りました。自分と相手の誇りを尊重して、敬意あるコミュニケーションを取る。或いは自分はチョケたとしても、ナメてくる奴は消す、というのがいいのだろうと。これはバービーとかペコパとか新世代のお笑い芸人にもトレンドが見えてくる話です。

結局、私を救ってくれたのはTwitterでの繋がりでした。Twitterでは少なくとも自分が愛するものに関しては真っすぐに愛したり、ネタをやるにしてもWebにネタを書くもの同士でROMがみえない環境だったし、一種の大人同士、他人同士の敬意ある関係があって、自虐的なものをしなくても「いいね」がちゃんと返ってくる、認められたい形でコミュニケーションを行える環境がありました。

木村花さんへの誹謗中傷を考えた際、そうしたことを行う人は、実社会で「普通にやって普通に負けている現実がある」のではと想うのです。ルサンチマンの捌け口として歪んだ正義を出している。確かに「人は無能になるまで出世する」と言いますが、実社会に於いて己自身が上手くいかない、無能化し競争に負ける事態が起きることはあります。

けれどもさかなクンがいうように「大海ではイジメは起きない」、或いは草薙素子が言うように「ネットは広大」。場所や付き合う人間を変えたらどこかに安全基地、ルーエンハイムがあるかもしれませんし、性が合う人間関係をみつけることができるかもしれません。

寧ろ昔の自分は人間関係維持に執着しすぎたというか、己を犠牲にして「付き合い過ぎた」なと。今はすっかり人付き合いが悪くなり、寧ろそれで親しい人から怒りを買うこともあり、羹に懲りて膾を吹いているかもしれませんが、気が乗らないものにはノらず、自分がノれるものにノっていく、結果として深山幽谷に暮らすことになってもSolitudeを大切に、Stand Alone Complexで、己のナイフを研いでいけたらいいんじゃないかなぁと想うのです。

憎悪に襲われそうになったら、出来るだけそこから逃げる、関係を断つ、ノらないこと。Twitterだったら報告してブロックする、或いは悪辣な政党には票を入れないことやデモで批判を誹謗中傷に依らずに粛々とやることが、結果として救いをもたらすのではないかと思うのが、2020年・令和2年の私のコミュニケーション思索の報告でした。

by wavesll | 2020-05-25 17:59 | 小噺 | Comments(0)
<< James Brotörhea... TOKYO JAZZ+plus... >>