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イマヌエル・カント『純粋理性批判』から西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』へ。100分de名著をみて

毎月一つのテーマを取り上げて書物を解説してくれるEテレの100分de名著。六月のテーマは番組でも最難関となるイマヌエル・カントの『純粋理性批判』でした。


そもそもこの書物は何故書かれたかというと、「客観的事実は存在するのか?」というのが出発点。


例えば「赤い林檎」が存在していたとして、その「赤さ」は全ての人に共有できることなのか?ちなみに猫の視覚は赤を認識できません。みんな「赤」と言っているけれど、その「赤」は人によってことなる認知的な現象なのではないか?そんな疑問について考察したのです。


そこでカントが考え出した枠組みは、この世には事物(物自体)があるけれど、物自体はわからず、人間が主観で認識したもの(現象)しか人間はわからない。共通に共有できる現象を客観というのだというもの。


その人類に共通な規格を感性(五感、直観)と悟性(物事を判断し◎◎は✕✕である、と観念で思考し理解する)とし、絶対的な事実はないけど、共有できる認識はあるかも、としたのです。

番組ではこの「絶対的な事実はないけど、共有できる認識はあるかも」の例として「絶対的な正義はないけれど、例えば子どもの命を守ることは正義という認識は多くの場合共有できるかも」なんて例を挙げていました。

ここまでが第1回で、凄く共感したのは、私も“なぜ「あ」は「a」と認識されるのか?”とか考えたことがあって、シニフィエとシニフィアンのことを考えると言葉が指す対象は千差万別個別具体的な“共有できないこと”でも言葉の概念は抽出されて共有できるとされる認識だなぁなんて思ったことがあったからでした。物自体は捉えられなくとも現象(認識)は共有できるかも、と。

第2回は「1+1=2」といった数学や自然科学は何故文化を越えるのかというのがテーマ。


カントが衝撃を受けたのはデイヴィッド・ヒュームが「知識のもとは感覚的印象であり因果法則も習慣的信念にすぎない」と『人間本性論』で書いたこと。


自分が体験したことだけが真理を形作るイギリス経験論と、客観的事実を理性で理解できるという大陸合理論のアウフヘーベンをカントはしようとしたのです。


そこでカントが考え出したのは「ア・プリオリな総合判断」というもの。


判断には3つあるとします。

まず「分析判断」。これは「富士は山である」のように主語の中の情報を述語として判断すること。

もうひとつは「経験的総合判断」。これは「富士は3776mである」のように経験して主語にない情報を加える判断。


そして、「ア・プリオリな総合判断」とは「1+1=2」のように先天的で経験を必要とせずどんな状況かでも成り立つこと。つまり公理と因果律であり、自然科学は共通規格となりうるとしたのです。


ア・プリオリな総合判断には感性と悟性によって為され、感性は時間空間で直観、悟性はカテゴリーで判断されるとされます。


悟性には12のカテゴリーがあり、それは


量:単一性、数多性、総体性
質:実在性、否定性、制限性
関係:実体と属性、原因と結果、相互作用
様相:可能・不可能、現存性・非存在、必然性・偶然性


例えば「単一性」とはどこまでを1とするかは人間が決めるというもの。(2cmの線分を1としたら6cmの線分は3)


空間・時間(感性)とカテゴリー(悟性)を使ってアプリオリな総合判断が行われると共に、これまで・今・これから私がやっていることと取りまとめる純粋統覚があるとされました(ここの下りはちょっと駆け足でした。)


「ア・プリオリ」というのは良く聴く概念でしたが、大元はカントにあったのだなと。漸く腑に落ちることができました。

そして第3回、ここでは哲学によって答えを出せない問題をカントは訴えます。

何故かと推論する能力を理性といいますが、答えがでない問いまで人間は産み出してしまう。その再現ない問いを理性の暴走とし、その例としてカントは4つのアンチノミーを取り上げます。


1:宇宙には始まりがあるか始まりはないか
2:物質の最終要素はあるか

3:自由の原因性はあるか
4:無条件で必然的な存在者はいるか?


これらに関してカントは「ある」とも「ない」とも証明できてしまう、というのです。故に哲学の課題としては適さない、と。


それでもこれらについて考えたくなるのは、人間の理性の関心は


1完全性を求める 有限説
2真理を追究する 無限説


に非常に紐付けられているから、とカントはいいます。


ここまで視聴した際に私が思ったのは、「決定論(因果律)と自由」や「神がいるのか」といった問題は現代では哲学の課題というより、脳科学の課題であったり万物の理論を求めようとする理論物理学の課題であったりするなぁということで、古代の哲学的な関心は今哲学でなく科学が担っているのだなということ。

ではそうした課題は哲学のものではないとしたカントは哲学が考えるべきこととしたものは何かというと、「どうやって人は生きるか」という「生き方の問題」だったのでした。


ついに最終回、

「人は何を知り得て何を知り得ないか」について語ったカント。彼は「哲学とは何を目的とすべきか」について「私達人間はどう生きるべきか」という「究極の真理でなく究極の生き方」だと説きます。


理性が最も働くのは行動するときとし、
実践理性 究極の道徳的世界を思い描きそれにふさわしい最高の生き方を命じる事が肝要だと。


その鍵は「自由」。
欲望のまま行動するのは一見自由に思えますが、カントは欲望に負けるのは「自由に生きていない」、因果律(生理的欲求)に束縛された状態だとし、道徳的に生きる自由を説きます。


道徳的といっても、権威や伝統が定めた正しいことを無批判に受け入れることは道徳的価値無し。“これは正しいことだ”と自分で選択する。これが自由で、その際の指標は「人の幸福につながることか?」と「自分の成長に繋がることか?」というもの。


また、因果律(決定論)に立つと犯罪者も仕方なくそうなってしまうと考えたくなりますが、カントは道徳的に生きる自由があるから罪だといいます。


それは、人間の現象は現象界にありますが、自由は物自体と同じく叡智界に属し、認知できない、知らなければ、認識はないから自由はある。現象界は因果律。行為の主体は叡智界、自分で決めているというのです。感性(欲望)と理性(道徳)で人間は生きている。


カントは道徳に厳しく、困っている人を助けるにしてもかわいそうで支援は駄目で、相手の幸福、相手のためになることを、気持ちに動かされるだけでなく実践理性で考えて行うことが道徳といいます。


『純粋理性批判』の後に書いた『実践理性批判』では「汝の意志の採用するルール(格律)がつねに同時に普遍的立法の原理としても妥当するように行動せよ」と、「実践理性は究極の道徳的世界にふさわしい行動をしなさいと語りかける」と人間の尊厳を歌い上げたのでした。


ここに来て一気に抹香臭くなるというか、自然科学的なことだけでなく、思想や人間性にまで感性の共通規格を広げ、ア・プリオリとしようとするのは、あまりに「他者」の人間性の存在を無視しているのではないかと感じてしまいました。

これは100分de名著で、「誰にもそう感ずる価値観があり主客合一を目指す」とした西田幾多郎『善の研究』の回をみたときにも感じたことで。西洋的な“己が普遍だ”というのはあまりに不遜ではないか、と。

西田は後に主観・客観の場所性について思索を深め、『絶対矛盾的自己同一』において「異なるままに多即一」と語るのですが、これはカント哲学を非西洋的に深めたものかも?とも思いました。

とはいえ、イマヌエル・カント『純粋理性批判』、選り抜き解説でもあまりに巨大な書物でした。いつかきちんと読みきって、この山の頂から見える景色に辿りつきたいものです。

by wavesll | 2020-06-26 01:54 | 書評 | Comments(0)
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