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100分de名著 フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』をみて -「西洋=スタンダード」を客観的に「まなざす」重要性

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2月の100分de名著はファノン『黒い皮膚・白い仮面』でした。

著者は黒人差別の構造を精神医学・心理学の立場から追求した精神科医で、後にアルジェリア独立運動に尽力した思想家、フランツ・ファノン(1925-1961)。ファノンは仏領マルティニーク島で生まれた、アフリカからこの地に連れて来られた奴隷を祖とする黒人。若き日は、叶う限り白人のフランス人に同化しようとした過去をもちます。しかし、どれだけ努力しようとも差別はやみません。フランス本国で圧倒的な疎外感にさいなまれた彼は、やがて精神科医となり、なぜこのような差別が生まれるのかという問題を精神医学・心理学を武器に使って解明しようとします。その集大成が「黒い皮膚・白い仮面」です。

マルティニークに暮らす黒人の子どもは、フランスの絵本やアニメをみて育ち、白人である主人公に自己を一体化させ、自然と「ニグロ(これは『黒い皮膚・白い仮面』にも出てくる表現として使います)」に対する”未開・暴力的・非文明的”といった差別の視点を内在化させていきます。マルティニーク首都の中流家庭に育ったファノンも自分をフランス人として認識し、成長していったのですが、対ナチスの為にフランスへ軍に参加した際、またフランスに留学した際にファノン自らがフランス人から「ニグロだ」と差別されたことから、西洋社会に根源的にある差別構造に直面し、差別の問題を深く考えるようになります。

この一連の流れの中で非常に刺さったのが、思想の枠組みをポップカルチャーによって植え付けられたという事。西洋人はカルチャーを通して自分の思想、あるいは「西洋こそがスタンダード」という「まなざし」を全世界に布教しているのだなということ。逆の視点でいうとたまに「何故日本のアニメだとキリスト教が悪玉に描かれるものが多いのか」という声を海外のフォーラムでみることがありますが、これなんかも異文化間の浸食合戦のような気がします。

このまなざし、「まなざす方は西洋(的価値観の)人」であり、「有色人種はまなざされる側」というのは、カルチャー全般に存在するように想って。一時期大流行りであった「日本スゴい」企画も、結局”白人に褒められないと凄さが分からないというか、白人の価値観を妄信・絶対化しているのかよ”と想う処でもあるし、また私はワールドミュージックが好きなのですが、世界各地のフィールドレコーディングであったり世界に発信する地場の音楽の盤の制作には白人が関わっていることが有ります。

さらには美意識、ルッキズムにおいても「白人的な見た目が美しいとされる」というのはあったりするんじゃないかなぁと。例えば天平時代の絵師が画いた美人と比べて日本のアニメ絵も異様に目が大きいですし、Production I.Gなんかはそこに意識的にあらがっているのだろうなと想います。これは完全に私の個人的なアティチュードですが、黄色人種として仏像的な美のフォルムの視座を持つのはいいんじゃないか?なんて気も持っていたり。

『黒い肌・白い仮面』の番組に話を戻すと、マルティニークでは「黒人は黒人としての特徴・歴史的根源に至高の価値がある、寧ろ黒人は素晴らしいのだ」のような「ネグリチュード」という思想が生まれ、ファノンもそれに傾倒します。黒人の生命力の迸り、その後のアメリカで言えば「Black is beautiful」運動のようなものですよね。

けれどもファノンはサルトルがネグリチュードについて書いた「白人優位に対するアンチテーゼにすぎず最終目的ではない」という指摘に”「ネグリチュード」は、黒人/白人の二項対立へと人間を閉じ込め、対話の可能性を閉ざしてしまうのではないか”と思い悩みます。

そして思索の末に、ファノンは「人間を閉じ込めるものから人間を解き放つこと」という普遍的な問題に到達します。人種差別は黒人だけの問題ではなく、そこでは「いかにしてわれわれは非人間の状態から抜け出して真の意味での〈人間〉になりうるのか」が問われます。ファノンは「おお、私の身体よ、いつまでも私を、問い続ける人間たらしめよ!」という言葉で『黒い皮膚・白い仮面』を締めくくるのです。

これは人種に於いてどちらが優位に立つということではなく、人種と言う色眼鏡を外して、個々の人間を個々の人間として捉える。「ウイという自由、ノンという自由」をすべての人間に解放する思想。つまり「西洋が人間(であり理知的存在)、非西洋は非人間(であり非理知的存在)」という視座を取り外し、人間である、或いは「人間性」をすべての人々に普遍的に開放する思想。

普遍的、「スタンダード」であることを西洋人は西洋人が自明的に持っている資質だと認識しているように感じます。建築にしても、衣服にしても、音楽にしても「西洋」的な構造は世界に広がりました。一時期「日本辺境論」みたいなのがブームになりましたが、日本人なのに日本を辺境、欧米こそが中心というような世界観を持っている人は多いと想います。(逆に言えば中国の台頭は、このパワーバランスを変える可能性はあります)。

音楽の話で言いうと、英米の音楽って私からすると「なまりが無く」感じるんですよね。フラットというか、逆に日本の音楽になまりを感じたり。その「なまり」こそが面白く、英米音楽に面白みが薄く感じることすら私はあったり。ただ最近日本のミュージシャンが「日本的な要素」をことさら音楽に入れて西洋市場に挑む姿、あるいは「日本的な物」を「エキゾチズム」的観点で愉しむことを「セルフ・エキゾチズム」あるいは「セルフ・オリエンタリズム」と否定的に捉える主張も聴こえます。

ここは本当に私自身の認識にもかかわる根深い問題で。「辺境」とか「エキゾチズム」とかではない、普遍的な視点で「単純にこれ、熱くない?最高にいいじゃん」という「まなざし」を持つと、一段上の世界へ行ける気はします。「エセ西洋、出羽守」的なまなざしを内在化させるのではなく、あくまで自分の中の普遍的な価値観をはぐくむ世界との向き合い方と言うか。

そんなことをこの100分をみながら想って。その意味では西洋を客観的に「まなざす」、西洋を研究・分析することは、その一里塚になるのかもしれないなと想った次第でした。

by wavesll | 2021-03-05 16:11 | 私信 | Comments(0)
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