
さて、最近WAAQ終わりにダイヤモンド地下街の有隣堂に寄って一冊文庫本を買うのが日課になっています。
日々さらさらと流れる中で、古典的な書籍を読んでいくのは何かしらページを積むことになるのではという期待と、ちょっと高いクラフトビール缶より文庫本の方が安いという実利的なものもあってw
で、買って読んでみて想うのが、著名な、クラシックといえる物語や随筆が、案外短かったりすること。
鴨長明『方丈記』なんか23ページだし、このカフカの『変身』も僅か112ページなのです。これは読書へのハードルが下がって素晴らしいですね。100ページ台の名著を読むと”自分はあまりに「古典を読む」ということを大仰に考えすぎていたのかもしれない”とびびっていたのを反省したり。
『変身』は、読んだことがない人でも『ある日起きたら自分が虫になっていた男の小説』ということは大抵の人なら知っているでしょう。私も知っていました。でもやっぱり全文読んでみると知らなかったポイントがいくつも見つかりますね。
例えば虫になってしまうグレーゴル・ザムザは勤め人だという事。外交販売員として各地を飛び回り、嫌みな上司にいつか退職届を叩きつけてやると想いながらも立派に家族を養う大黒柱となっている。
そんな彼が突然虫になってしまう。サラリーマンが虫に。この一般的世界から急に物語的な変容が起きるのが、
『砂の女』的なリアリティからの神話的世界性を感じました。
さて、『砂の女』では”「砂の穴の中の暮らし」と言うのは何を表しているのか”が一つ読解の要でありましたが、『変身』においては”「虫になる」とは何を表しているか”を読解することが肝となりましょう。
グレーゴルは醜い虫になってしまう。自分の部屋に半ば閉じ込められ、妹グレーテが持ってくる食事を食べながらも、徐々に人間から虫に精神的にも変わっていく変容を味わいながら、それでも(意思は通じられないけれども)家族の会話を聴きながら、思考は明快に、日々の中で自分なりに過ごそうとする。けれども、家族からは息子だと認識されながらも一種生理的な恐怖と嫌悪の対象となってしまう。特に父親からは物理的な攻撃も受けてしまう。グレーゴルは働いて貯めた金でグレーテを音大に行かせてやることをクリスマスに発表しようと想っているくらいに家族想いな男なのに…。
さて、勿論グレーゴル・ザムザに最終的にどんな運命が待ち受けているかはネタバラシはしませんが、訳者の解説には『虫になるということを一旦外して考えると、これは突然引き篭もりになった男と家族の物語ではないか』みたいなことが書かれています。成程、解説によるとカフカは当時表紙絵に虫をヴィジュアライズされたのを嫌がったそうです。やはり『虫』というのは何ものかのメタファであるのでしょう。
個人的には、家族の扶けなしに生きていけなくなってしまったグレーゴルの描写は(昨今の話題の影響もあるのでしょうが)一種の障害を後天的に負った人な感や、或いは醜さの極致な存在になったという意味そしてグレーテの美しさとの対比で、ルッキズムの物語としても読める気がしました。ただ生きているだけで(建前ではそうでないと周りは言い聞かせるけれども)不快感を巻き起こしてしまう世界の残酷さ、また介助する家族の疲弊・ケアの必要さも読み取れたり。どれだけ心が清浄な人でも、毎日毎日ずっとずっと続いていくと削られていってしまう。逆に介助される当人は”自分は絶対弱者だ”と想うと当人なりにのびのびやる、バリアフリーの運動家になることが自己目的化したり。
「差別はいけない、差別のない世界をつくらなければならない」という理想は言うは易しだけど実現するのは大変なハードルがある。「介助する人をケアするには?」「あるいは介助される人が『役に立つ・存在として周りの人に利益を働く』には?」そして「生存権、人権は保障されて当然。それをどう社会に冗長化するか」といった論点が小説を読みながら浮かびました。
障害や、或いは前述した引き篭もりの様な心の病を負った人が介助されるのが当然と想う一方で、天賦の格差を完全にフラットにした世界が『タイタンの妖女』では
<徹底的に無関心な神の教会>が支配するディストピアとして描かれていたり。何事もゼロor100でなく、いい塩梅を探るのが政治と言うものでしょうが、社会の為に人があるのではなく、人の為に社会があると考えた時に、その「人」から排除された「虫」にも権利を拡大していくことは道徳的には全くもって正しいことですが、現実で起きる大きな摩擦をこの物語は先んじて提示して、”ではどうする?”という鮮烈な問題提起になっていると感じました。