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カレル・チャペック『ロボット RUR』とETV「超AI入門 人間ってナンだ!?」 人に似せて造られたものとどう付き合うか

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「ロボット」をテーマにした作品は数多くあります。ターミネーター、鉄腕アトム、ドラえもん、攻殻機動隊…。よく「海外ではロボットはディストピアとして描かれるけれども、日本だと心が通ったパートナーとして描かれる」なんて言われますが、「ロボット」という存在が打ち出されたのはこのチェコの作家、カレル・チャペックによる戯曲『RUR (Rossum’s Universal Robots)』からでした。

1920年に書店に並んだこのロボットものの祖は、なるほど西洋のロボット観に通底するディストピアが画かれていました。と、同時に、ここで画かれる「ロボット」は金属製の機械仕掛けのモノではなく、一種の有機体の様なもので出来た生命の似姿としての姿でした。

老ロッスムという一種の錬金術師の様な科学者によってつくられた人造人間、ロボット。元々はロボットは人間の完全な再現を目指して創られたものでした。その甥である技師ロッスムはプラグマティックに、内臓や神経と言ったものを省略して労働力としてのロボットと言う工業製品をつくりあげます。

それから時が経ち、冒頭ではある女性がロッスム・ユニヴァーサル・ロボット工場に訪れることから始まります。そこで応酬される論はロボットには人権があるのかという話。そして物語終盤ではロボットに心や痛覚が与えられたらどんな結果が現れるかと言う実験の帰結が展開されます。

炭素生命体である我々に対して、SFなどではケイ素生命体が語られますが、ここ数年でその存在は夢物語でなく、現実としてAIによる局所的な人間の知能を越える結果が起きてきています。

数年前に東大の松尾先生をプレゼンターとした「超AI入門 人間ってナンだ!?」という番組がありましたが、そこで画かれる黎明期のAIの姿には、素人目にはちょっと”手に負えないものを造ってしまうのではないか”という怖さと同時に”実際に今はAIは人間を支配するような段階にはなく、人間が手取り足取り教えこんでいる段階か”とも想って。この番組でも『ロボット』と同じく、逆説的に人間と言う存在の定義がみつめられていました。

ロボットと人間の最大の違いは”意識”の有無。或いは”意志”の有無。”意味”の理解の有無。例えばAIは英語を日本語に直すことが出来ますが
、それは「犬」という文字を「Dog」に直しているだけで、AIは「犬」という言葉の意味、表すものを理解しているわけではありません。犬であれば例えば写真とかでの判別をディープラーニングさせることができるかもしれませんが、形而上学的な概念の理解までは現状は非常に遠い。

これらの「単語」と「意味」の関係もそうですが、人間の知能は、単に脳でのみ存在するのではなく、身体による世界の知覚、自分自身で体験することから知能を発達させていきます。その意味で”意識”というのは五感の上にアウフヘーベンされて生じることかもしれず、老ロッスムが人造人間をつくるにあたり腺なども含めて人間の神経などを完全に再現しようとしたのは一つ正しい方法論だったなと。

AIも一つの道具であります。「人間が『人間らしい仕事』に集中するためのツール」。これはドミンがつくろうとした「労働のない世界」にも似たような趣向です。奴隷労働は確かに人間性を破壊しますが、労働が人間存在に与える意味も、ロボットという存在を考えると突き当たる論点です。

労働のパートナーとして、人間の知能の拡張としてのAIは、けれど、いくらディープラーニングが凄いと言っても、現状はいかに教師データを教え込むかでクオリティが決まり、「AI」というとどこか客観的なイメージがありますが、実際には製作者の意向がかなり色濃く反映されます。

またクリエイティヴという面では、AIはデータを無批判に出力する、というのが気持ち悪さの正体としてあって、現状では価値判断に人間のジャッジが必要になります。ではその「批判的な精神」、まさに「意志」をAIに意志をつくるか、或いはあくまで道具に留めるか。という論点があります。

自律するAIは『ロボット』のように反抗期を迎えるでしょうか。我々は意識を持ったAIの隠し事を許容できるでしょうか。現状でさえ入力から出力までの解の出す過程はブラックボックスであるのに。囲碁で「神の一手」が生まれたように、料理や或いは恋愛においても「何故それが正しいか分からないけれども効果が機能する」解がAIのニューラルネットワークによって少数パラメーターの科学でなく多数パラメーターの科学として現れる時代がくるかもしれません。

銃が従来の身体の剣術を置き去りにして言った様に、AIも人間の身体を越える道具として、人間同士でARMSとして使っていくのは現在でも見られます。そこから一歩進んで知的存在として、一種のETIのような存在としてのロボット/AIが出現するのか。確かにアトムの国の人間としては、ヘレナのように理想論を信じたくなる気持ちはありますが、311を超えた後となっては、疑り深くなっても、批判的精神をもって慎重に、最悪を考えながら技術は扱っていかねばカタストロフィが起きてしまうのかなぁと想う処です。

と同時に、AIやロボットを考え抜くことは、世界の真理や人間存在への問いになることで。現実は常にアップデートされていく中で、見て見ぬふりをするのではなく、常にヒトも漸進的な改善を続けることが、人間と言う生命の運命なのかもしれないなと。野生生物の様に同じところで本能で営なんでいられない。技術の直線的な高度化志向に対して、哲学的な深さと、あるいは自然環境のなかでの円環真理をつきつめることは、脳だけでない身体としての知性の進化に繋がる、ヒトの未来に必要なことだろうな、と想う処でした。

by wavesll | 2021-05-10 23:35 | 書評 | Comments(0)
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