
『歎異抄』を読みました。「悪人正機」で有名なこの親鸞聖人の教え。今回知ったのは親鸞自身が画いたのではなく、親鸞の弟子の唯円が、師の教えが異なって歪められていくことを歎じて記したという事。
『方丈記』なんかも短かったですが、『歎異抄』も原典は文庫本で32頁という短さでするっと読めます。
そして…wこの光文社の『歎異抄』が非常に個性的なのは関西弁訳なんですよねwしかもコッテコテのw
冒頭からして「ひとに聞かせられへんアホなことばかり考えているワテ(唯円)ですけど、昔のことや今のことを思うてみるにつけても、先師・親鸞聖人のいわはったという教え(=口伝)が真の信心と異のうてきたのを歎いとります」という次第wこんな調子で関西人の唯円さんが、論語の「子曰く」のように親鸞師匠の言葉を伝えていくのです。
浄土真宗の教えの根幹は「他力本願」。「自力」に恃むのではなく、「衆生(ありとあらゆる人々)が本当の悟りを開いて、真実の往生を遂げるまでは私も仏陀になることはない」という阿弥陀如来の本願を信じ、その言葉への絶対的帰依として「南無阿弥陀仏」を唱えるという事。
「『南無阿弥陀仏』さえ唱えれば、善人でも悪人でも救われる」というのは”え?自己努力とかしなくていいの?”とつい思ってしまうのですが、仏教エリートの、学問を修めて煩悩を抑えて悟りへ行く、というのより、「凡夫でも『南無阿弥陀仏』と唱えれば悪人でも往生できる」というのは当時の社会において、広い社会包摂の機能を果たしたのではないかと思ったところでした。
そして自力でなく、寧ろ「自分」であったり「作為」であったりを滅していくことが「他力本願」のコア思想で。実は親鸞の言葉も、親鸞自身のオリジナルというよりもその師の法然の言葉であって、『歎異抄』で画かれるこの構造自体が「他力」を顕しているとのことです。
また親鸞は唯円に「自分の言葉を何でも従うか?」と聴き唯円が「はい」というと「じゃあ千人人殺しをしろと言ったらするのか?」と言い放つという結構刺激的な論議をします。自らの業縁にないことは出来ないという事。また『悪をつくったやつを助けなあかんという願がおありやさかい、わざと好んで悪いことをして、往生の業としよう』というのは邪見(間違った考え)で『薬があるというたからとて、毒を好むちゅうのはおかしなことや』と言ったのは”あ、なるほど、特異な教えと聴いていたけれども、こういう常識ラインの教えなのか”と想わされました。
私なりに『歎異抄』を解釈してみると、「南無阿弥陀仏」と唱えて滅我することで、一種野生動物の様な、天のままに生きるという事ではないかなと思ったのでした。業縁は受け入れ、その結果として悪人になってしまうことはあるかもしれないけれども、心根まで腐らせ捩れるのではなく、無駄に悪人を志向するのではなく、阿弥陀如来に帰依する心を持つことで、野に咲く花の様に美しく生きる、そういう生き方を志向する教えではないかなと。まっすぐに天に従って生きれば阿弥陀様が救ってくれると。だから無心に生きよう。そんな教えに感じました。
訳者あとがきで「関西弁は非母語」と書いてあって”なんだよwそうなのかよw”とは想いましたが、なかなかに面白い奇書として読書を楽しめました。