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レイ・ブラッドベリ『華氏451度』伊藤典夫訳 ”本当のコミュニケーション”を考えさせられる一冊

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レイ・ブラッドベリ『華氏451度』を読みました。
本を持つことが禁止され、「昇火士」によって焼き払われてしまう世界の話。そこで主人公であり昇火士でもあるモンターグは本の重要性に気づき、体制と対決することになっていきます。

この物語は本と読書の重要性を謡いあげる物語なのは勿論、モンターグと少女クラリス、そしてモンターグと妻ミルドレッド、そしてモンターグと昇火士の上司ベイティーとの「対話」の物語でもあり、寧ろ「対話」こそが真のテーマなのではないかと思うのです。取り分けモンターグとミルドレッドのディスコミュニケーションは悲しく胸に迫るものがあり、同時に“家族とこそ「本当のコミュニケーション」がないことってあるよな”と想わされました。

この本が禁止された未来社会での、考えることを止め、TV等の「娯楽情報」を「消費」することで「幸せな気分になっているが実は虚無感がある」人々の姿は私自身にも重なりました。壁テレビに映し出される役者(本物の人間かどうかもわからない)を「家族」と考え、メディアが垂れ流す「参加型ゲーム」のようなものに興じるミルドレッドの姿。冒頭でミルドレッドは睡眠薬を大量摂取して命の危険も味わいます。刺激にあふれ楽しいはずなのに、虚無感を苛むミリーの姿にはどこかディスプレイばかりをみている自分とも重なって。無論SNSの向こう側には実際に生きる人々がいますが。

一方でモンターグが出逢う少女クラリスは、まるで『モモ』のように、相手の話をきちんと傾聴して「本当のコミュニケーション、深い話」が出来る存在で。娯楽に溢れている中で、私は「本当のコミュニケーション」って実は全然摂れてないのかもな、と想います。相手の、相手自身のこととの対話。誰かのつくった娯楽でなく、自分と相手の存在や人生の生の核心を交感し、働きかける会話。そうしたものは壁テレビの「家族」とは無論できないし、うざったいものとして遠ざけられてしまうものではないかと。クラリスとの出会いがモンターグを変えていくのです。

物語中でベイティーやフェーバーの台詞を通してブラッドベリは「焚書」をしてきたのは大衆自身だ、と語ります。時代のスピードは速くなり、書物は要約、概要、短縮、抄録、省略されていく。書物の一番の真価は毛穴が見える位のディテールにあるのに。”文学性”の本質はディテールから浮かび、読むのにかかる時間が思索を深め、それでもって行動して成果となる。「一瞬の消費」と「読書」は相反するものだと語られて。ここら辺の話は私は”凝縮こそが価値を生む”と日々書いている自分の文章は要約的で文学性がないと感じているのですが、その理由の一端がみえたようでドキッとしました。

本は読みながら立ち止まることが出来る。TVはそうはいかない、とブラッドベリは語ります。思索する上では立ち止まることが出来る本と言うメディアは良いのだと。

物事の視点を他人に任せず、自分で子細に当たる姿勢の友を昔「話が潤滑に進まず厄介な奴だ」と想ったものでした。そんな私が“あ、俺思索の放棄をしている”と想ったのはTVを2chの実況板を観ながらの観るのが常態化した時。「TVの感想を自分で想う前に他人の感想を読んでいる自分」に気付き恐ろしくなりました。TV放送はここ数年でさらにみにくくなり、VTRをみながら専門家でもない芸人が感想を被せるまでに至っています。

物語中に通底する戦争の影。社会のネガティヴな問題を語る時、人は楽しくありません。仕事だの、プライベートの人間関係だので疲れきっているのに何故さらに心労しなければならないのかは分かるところです。その結果、日本のTVニュースなんか最早バラエティーになってしまいました。

私は”興味を持てない有象無象の虚無的な会話でなく、本当に自分を愉しませてくれる内容ある藝の話がしたい”とこのBlogをやってるところがあります。ただ、ブログなんか毎日更新してると、次から次へ毎日I/Oしなければならないので、ともすると「取材対象をコンテンツとして使い果たす無礼なTVマン」の姿に重なるというか、記事を書くために次から次へと消費することがあります。

今ならサブスクがあるから音楽を毎日数枚を一度きりしか聴かないことも可能です。でもそんな姿勢には疑問もあるのと、またCOVID-19の自粛で生活に「余白」が出来たため本を読み始めたところがあります。すると名著とされるものでも案外読めるのです。少なくとも1hで10p読めれば10p進みます。大著のマラソンだって時速4kmの徒歩だって10hで歩けるのと同じです。

また古いかもしれませんがCDを買うと何度も聞き返すものです。確かに140文字のさざれ石ばかり読んでいると書物には尻込みしますが、案外読んでみたら読めるもの。そうして、物事の定規というか、思考の長さを細切れを積み重ねてでも長くすると、「追われている感覚」から自由になります。

何から追われているって、メディア・ストリームから。毎日どんどか生産される、生き馬の目を射る「最新情報」も無論大切ですが、それとは異なる時間軸も持つことは、非常に大事だなと。思えば旅、それも携帯も通じなかった海外旅行なんかはメディアストリームから逃れる格好の手段でした。普段メディアインプット漬けだと寧ろインプットを止めると己から出てくるものがあります。

ただ、私自身はやっぱり「藝」が好きなところがあり、本書で語られる「本当のコミュニケーション」と私自身の態度は相反するものにも感じて。私はミリーなのではないかという恐怖もあります。

と共に「映像」であったり「音声」に置いても構造的な「文法」を知れれば、同じものをみても今まで意識に登らなかった「意味・概念の集合体」として楽しめるのではないかとは思います。映像文化にも書物と同じような真の価値を持つものは当然あるだろうと。その点はブラッドベリはアップデートできてないとも感じて。「デザインあ」ではないですが、高校辺りでそういう映像表現講義があってもいいかとも想ったりもしました。

素朴に子どもをつくり育てて人とのメディアでない会話をする生活が絶対善として語られるのは”書物以外でだって本当に心を繋ぐ真価のある文化はあるのに”との反発もありますし、実は無為な飲み会のないこの2年が楽だった自分の様な者には大変苦い薬でもあった本書ですが、”本当のコミュニケーション”を考えさせられ様々な想いが去来する貴重な読書体験にもなりました。

by wavesll | 2021-08-01 00:02 | 書評 | Comments(0)
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