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谷崎潤一郎『文章読本』 そこまで熟れきれない己を認知する卓越の書

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谷崎潤一郎『文章読本』を読みました。
本書では谷崎が1935年に上梓した「日本語での美しい文章とは何か」が書かれていて、読みながら私自身の文章や、ひいては生きる姿勢やセンスを添削されているような心地になる読書でした。

谷崎は本書において、基本的に好い文章を書こうと思ったら出来得る限り平明で、分かりやすい語を使うことに努めるべきであり、新奇な用語であったり難解な用語で文章を装飾するのではなく、出来得る限り表現を切り詰めて、饒舌を慎み、寧ろ「間隙」をつくるために論理的に繋ぐこともあえて書かないことすら推奨しています。

ことに用語に関しては西洋(から翻訳された)言葉ばかりか、漢語も避けるように促し、大和言葉でタイムレスなものを書くべき、翁にも媼にもわかる言葉で書くべきだと主張し、また「間隙」に関しては、日本語にはそもそも文法というものはなく、語彙も少なく朦朧としたのが自然の状態であり、主語を指定する必要もなければ、関係代名詞のような概念も本来日本語にはなく、日本人というのはお喋りな人間よりも寡黙な人間を貴ぶ民であるから、出来得る限り「語らないこと、含蓄を持たせること」が重要であると説きます。

これには参ったというか、私などはついつい新しい表現であったり、装飾としての漢語であったりを使いたがったり、音楽の感想においてもやたら「物凄い」とか「ヤヴァい」とか、そういった表現を使ってしまうため谷崎からしたら「品格がない」と言われてしまうだろうと思います。思えば、文豪botの言葉を借りれば「珍しいものをありがたがるな」とか「新しさに惑わされるな」といった箴言は世に多くあり、日本人の味わいというのはいかに淡いところの彩の違いを愉しむかといったものでしょう。

また昔から私は私の文章に「俺は」とか「自分は」という表現がほかの人が書くものよりも多いなと思っていたのですが、これは幼児のあたりから英会話教室とかに通った影響もあるのかもなとか思ったり、あるいは昔は”何故周りの人間はモノをWebに書かないのだろうか、あるいは何故自分のオンラインの発言は軽視されるのだろうか”と思っていたのですが、それはこの本で谷崎が書いた日本人のものの感じ方が今も息づいていて、日本社会では寡黙は雄弁に優り、そもそもお喋りというのがよしとされない社会だということが根底にあるのかもなと。

逆にTwitterなんかが心地がいいのは、あそこは「書くこと」が「存在」になる世界で、言葉で表現する人でほぼ占められているからだなと感じます。Twitterを世間と認識すると大いなる過ちが生じるのは間違いないですが、140字の中で日本語が英語よりも適性があったのは日本語が持つ「間隙」が丁度フィットしたからでしょう。私自身にとっても文字数の制約があることで簡潔な表現を書く訓練になっているなぁと思います。私のような人間が生きやすい空間が、現在にはWebに存在しているのだなと。

新語・流行語をなるだけ使うなという戒めについては、やはり谷崎自身が人生経験を重ねて時が経つと摩耗し消えていく表現というのを目の当たりにしたからでしょう。「新しさではなく、真の価値を見出すことを希む」ということ。これに関しては私はまだ熟(な)れていないのでしょう、まだまだ新しさを求める冒険をしたいし、その遊ぶ領域を広げる旅に人生の喜びを見出してしまうなぁと想います。けれども、老年を迎えたときは、谷崎のような思想に達しているかもしれないなとしみじみと想う読書となりました。

by wavesll | 2021-10-13 21:03 | 書評 | Comments(0)
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