
川端康成の『雪国』を読みました。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」というあまりにも有名な書き出しは「夜の底が白くなった」と美文が続々と続いて行って。
主人公の島村が恐らくは越後の温泉地を訪ね、そこで芸者の駒子と葉子という二人の女との触れそうで触れない感情の交わりを過ごすという物語で。
十代の頃に島村と出会った駒子は島村に情愛を深く持っていて、それに対して島村は駒子の心に気づき、情愛を持ちながらも「友人でいたいから肉体関係は持たない」と突き放している。駒子とつかず離れず、いやヤらないだけで恋愛的な密接な関係性を遊んでいて、さらにはこの旅で新しく出逢った葉子にも強く惹かれている、という。
”さんざん魅惑し心を奪っているのに、カラダに手を出さない、責任を持たないで心を弄ぶなんてクズ男じゃないか”とは思うのですが、どうやら島村は親の財産を食いつぶしながら、世間的に何の役にも立たない西洋舞踊の研究を(それを映像として観ているわけではなく書物で)研究するという生活をしていて、さらには細君もいるということで、なんというか不能感が島村の心の芯には纏わりついているのではないかなと想いました。
また個人的に印象的だったのは物語に幾度も挿入される虫の描写。なんというか小さい虫を潰したり逃がしたりするような描写なのですが、温泉と虫というと志賀直哉の『城の崎にて』を想起させて。一人男が温泉地に泊まりに行くという行為・環境はどうにもエモーショナルな風合いが高まるのかもしれないなとも考えさせられました。
まるで活動写真のように物語はアップされパンされ、不意に終わります。インモラル性があるからこそ耽美さと冷酷的というくらいの現実味がこの小説には宿されているなと。さらに言えばモラル、インモラルの前に「そうであってしまった現実」がさらりと描かれているように読めるのはやはり筆力ということなのだろうなと。