
本日八月十五日は終戦記念日。この「終戦」という記式には「敗戦の誤魔化しじゃないか」という批判も近年言われていて、私自身「敗戦記念日」の方が正しい言い方なのではないかと想っていましたが、この1967年の映画『日本のいちばん長い日』をみると、8/15は少なくとも日本人にとっては本当に艱難辛苦の果てに「戦争を終わらせた日」でもあるのだなと。
物語の冒頭、実は私はここに最も震えることになったのですが、7/26に連合国からポツダム宣言の受理を求める要求が来ていて。
外務省は「カイロ宣言よりも遥かに受諾しやすい」というのですが、大日本帝国の閣僚会議で三船敏郎演じる陸軍大臣などの反対から意見はまとまらず、その上「きちんと反対意見を出せ」という突き上げを食らってメディアに「日本政府はポツダム宣言を黙殺」と報じられ、それが海外へ拡散し、連合国が態度を硬直化させ、広島に原爆が落とされ、ソ連は裏切り侵攻してきて、そこで万事休すだと再び閣僚会議が開かれてもううだうだになり、長崎にも原爆が落とされ、最終的に昭和天皇のご聖断によって終戦を決めるという。
って、7/26の時点で適切な政治的判断でポツダム宣言を受理出来てたら広島も長崎も原爆で破壊されることがなかったばかりか、ロシアに北方領土を不法占拠されることもなかったじゃないかと。大日本帝国政府というか軍部が囚われた「本土決戦」という妄念で意思決定が遅れたことは日本にとてつもない禍根を残すことになったのだと。
ここにおいて三船敏郎の、押しがとにかく強い陸軍大臣は印象最悪になるのですが、その背景には下からの陸軍の兵からの突き上げがあったし、もっと言えばこれまでこの戦争で死んでいった日本兵の死を無駄にするのかという思念、いってみればサンクコストに囚われてさらなる虐殺を国民にもたらそうという、軍隊の妄念的な情が、冷静な政治的判断を日本人にさせなかったというのは、この映画の令和を生きる我々に向けた最大の教訓であったと想いました。
そして映画はポツダム宣言を受理することに決め、そして天皇の玉音放送が流れるまでの24時間の日本史に残る攻防を描き出します。つまり軍部の青年将兵たちが暴走し、天皇が住む宮城を乗っ取り本土決戦へ持ち込んで国民の命を使って最後まで戦おうとすることに対して昭和の大人たちがどう「戦争を終わらせたか」が描かれて。
まるでドキュメンタリーのような圧倒的な迫力で描かれるこの攻防、映画物語としてみたときに”これは非常にスリリングなポイントだな”と想ったのは玉音放送を録音したレコードがマクガフィンになっていること。つまり青年将校たちは玉音放送がラジオで全国放送されたらもう戦争は終戦になってしまう、ゆえに何としてでもレコードを奪いたい。方や宮内庁や大日本国政府の側の人達はこの玉音放送のレコードこそが終戦を世界へ発表し、日本を殲滅から救う聖杯となる。
普通マクガフィンというと「スペシャルなアイテムだけど、映画に於いて実質的な要素というより謎めいている雰囲気だけのオブジェクト」であるけれども、玉音放送が録音されたレコードは、本当にこの国の趨勢を決めた聖物なのだなと。ここは手に汗握る展開でした。
そして、玉音放送で思い出したのは『この世界の片隅に』であの温厚だったすずさんがラジオからこれが流れたときに怒号したこと。軍部に限らず、日本国民は戦争に犠牲に犠牲を払って、それでもなんとかこの太平洋戦争を戦ってきて、銃後の人々でもあまりにも終戦にはサンクコストが大きすぎた。だからこそ、「一度始めた戦争を終わらせることの困難さ」、「終戦」の重みを伝えてくれる映画だと想います。
太平洋戦争の始まり、真珠湾攻撃を描いた『トラ・トラ・トラ』もそうですが、こういうのシーズンには毎年テレビで放送すればいいのになぁ。私が子供の頃はよくお盆の頃は金曜ロードショーで『火垂るの墓』とかやっていたけれど、近年はめっきりやらなくなってしまったなぁ。岸田や麻生や日本会議や統一教会自民党など戦争を望むとっつぁん坊やな政治屋たちにNHKと民放TV局はアンダーコントロールされてしまっているのか?八月のこの季節にはテレビはもっと社会の公器として流すべき物語があるのではないかなぁと、近年とみに想いますね。