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ダンテ・アリギエーリ (著)・平川 祐弘 (訳)『神曲 地獄篇・煉獄篇・天国篇』でキリスト教世界の地の底・浄罪の山・宙を旅する

ダンテ・アリギエーリ (著)・平川 祐弘 (訳)『神曲 地獄篇・煉獄篇・天国篇』でキリスト教世界の地の底・浄罪の山・宙を旅する_c0002171_16251027.jpg









この三日間でダンテ『神曲』の『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』を一日ずつ読んでいました。

この大著を手に取ることになったのは、コロナ禍の緊急事態宣言の頃にボッカチオ『デカメロン』を読んだ際に訳者の平川氏が「『デカメロン』は『神曲』を下敷きにして描かれている」というようなことを後書きで書かれていて、”そんな繋がりがあったのか”と購入して。

ただ、実は一巻辺り500頁近いものが三巻という大著さと、前に「『神曲』は輪読しないと訳が分からない」という話を聞いていたことからなかなか手が出なくて、今回数年の時を経てこの頂に挑戦することになったのです。

先に難解かどうかについて述べれば、確かに夥しい古今東西の英雄や市井の人々に地獄や煉獄、そして天国で出逢うため、西洋世界の古典作品の知識が読解の為に必要には成ります。ただ、平川氏の翻訳は大変に読みやすく、適切な脚注もついているために一気呵成に読めるというか、その面白さに惹きこまれてぐいぐい読ませる力が本書にはあります。いってみればルネサンス版のFGOとでもいえば伝わりやすいでしょうか。

物語の冒頭、ダンテは深い森で迷っています。当時ダンテはフィレンツェを政治犯として追放されて流浪の身であり、この森は人生の混迷の比喩なのかもしれません。そこで彼が敬愛する古代ローマの詩人ウェルギリウスに出逢い、ウェルギリウスと共に地獄と煉獄を、そしてダンテが恋焦がれるも他人の妻になった末に夭折した幼馴染のベアトリーチェと共に天国を旅することになるのです。

(あ、そうだ。このエントリは一定のネタバレが含まれます。全くのサラで読みたい方はどうかページを閉じられてください)

『神曲』は『聖書』に次いで西洋美術の数多のモチーフとなってきた作品ですが、何しろこの筆致が凄くて。地獄の圏谷を下っていく末に見る景色や煉獄の山を登っていく様、そして天国の果てでみたその景色の描写は、震えるような体感を与えてくれます。

そして、この世界観は徹頭徹尾キリスト教中心主義で。辺獄(リンボ)に始まる地獄にはウェルギリウス自身もいるのです。それは何故かと言えば、ウェルギリウスはキリスト教以前の人であり、キリスト教信仰がなかったために善き人であっても地獄の第一層に押し込められていて。実はここにはアリストテレスやプラトンもいるのです。

そこからどんどんと圏谷を下りて行って最深部へ目指す過程で『イーリアス』や『オデュッセイア』で読んだギリシア神話の英雄たちや神々、クレオパトラなんかもいて。

そして実は神曲はイスラム圏に於いては忌み嫌われる書で。というのもマホメットとアリーが凄惨な姿で地獄を味わっているから。ダンテが生きた当時、マホメットはキリスト教を分派させた悪人と考えられていたのです。

マホメットへの偏見もそうですが、実は『神曲』でダンテは自分と敵対した現世の人間を地獄などに、非常に良くしてくれた人間を天国に配置して。そう、ここが面白いのが神曲の地獄煉獄天国には神々やケルベロスのような化け物、歴史上の偉人たちと並んで当時のフィレンツェなどで実在していた人物たちも組み込まれているのです。さながら『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』のジャケのような一大絵巻が展開されるのです。

地獄の惨状は本当に筆舌に尽くしがたいというか、まるで『原爆の図』の広島の有様や、恐山の荒涼とした景色の様で

地獄の深部へ行くにつれて、凍えるような寒々とした景観がやってきて。封印されている巨人族(これらもギリシア神話から)たちを越えて、ついにコキュートスへ達するとそこには悪魔大王(サタン/ルシフェル)がブルータスとカシウスとユダを噛み締め食っていて。その獣性には息をのむような想いをしました。

”ここからどうやって抜けるんだ?”と想ったら悪魔大王の體を登ると悪魔大王が反転して、地表へ辿り着いたのです。
地獄はエルサレムの地下にあり、悪魔大王は地球の最深部にあり、そこで反転すると反対側の南半球に出て、煉獄が拡がっていて。そこにはレテの河も流れていました。忘却の河であるレテ、ceroの『POLY LIFE MULTI SOUL』にも「レテの水は飲まない」という詩があったなぁ。

この煉獄、私はこれまではっきりと煉獄とは何かを掴んでいなかったのですが、煉獄は「天国に行くための浄罪界」であり、煉獄山として存在しています。この険しい山を環って上がっていくことで、一環ごとに七つの大罪に対応して罪を贖っていきます。ダンテ自身も一環づつ上がるごとに身が軽くなっていきます。また別モノではあるのだけれども、ぐるぐると上がっていくその景色はまるでブリューゲルの『バベルの塔』だなと想起しました。

地獄でも、そして天国でもそうですが、何を罪とするか、何を徳とするかの序列は『神曲』の読みどころの一つで。例えば高利貸しなんかは地獄のかなり深いところに封じられます。なんか現実世界っぽ過ぎる気がして宗教の精神世界で取り扱うのは違和感が有る気がしますが、宗教が世を統べる規範として中世世界では大変な権威があったんだなと。

そして辿り着く煉獄の頂上にある地上楽園、ここにおいてダンテは最愛の人、ベアトリーチェに逢います。ところがベアトリーチェは今の言葉でいうところの「おこ」で。ダンテが彼女が逝去した後乱雑な人生をして彼女を想わなくなったことに腹を立てていて。

と同時に『神曲』におけるベアトリーチェは天国の解説者であり、絶対的な神に帰依した存在、ちょっとこの例は通じるか分かりませんが、江川達也の『Golden Boy』の金剛寺に帰依するオンナみたいな、ちょっとカルト幹部な上から目線のキマりかたをしていてwだがそのSっ気がまたいいwそして天国を登っていくにつれてベアトリーチェの神々しく気高い美貌も輝きを増していって。

天国は、宇宙。月から始まり、太陽や木星などの天をめぐって。
『神曲』の地獄篇と煉獄篇はその景色がリアルすぎるほどの克明な描写で綴られるのですが、天国に於いては実は空間物理的な描写は少なくて。何しろ光に包まれていて、眩しすぎてダンテは目がやられてベアトリーチェの笑みすらみえなくなることがあって(後に回復)。

では天国では何が描かれるかと言えば、キリスト教の神学というかダンテが基督教の理解を試されることもあるし、ダンテの心に浮かんだ基督教への疑問が天国の民たちによって回答されていって。

一大旅文学と言えば『西遊記』もありますが、いってみれば1/3が天竺での物語だとクライマックスってつくれるのかな?と想いつつ、”結婚式のニセ神父の言葉を聴いても、西洋の社会の根幹をなすのはやっぱりこのロゴスなんだよなぁ”とも思いながら読み進めて。ちょっとこの問答はチベット仏教の聖地、ラルンガルゴンパも想起しましたね。と同時にエチオピアの人々のキリスト教信仰を認めなかったりするのは欧州中心主義の差別的な視点の軛からダンテもこの時代の人間として逃れられなかったのだなと。

さて、そうして読む内に気づくのは天国における音楽の描写の多さ。神の御業をあらわす視覚的描写がない一方でそこで鳴り響く聖なる音が幾たびも幾たびも綴られて。
実は雰囲気を盛り上げるために『神曲』を読んでいる時にらじるらじるでNHKFMのクラシック番組をかけていたのですが、これが非常にマッチして。特に天国篇に於いて聴覚の刺激が文学を立体的に展開してくれました(オススメです)(さらに追記すると熾天使等はBASTARDのヴィジュアルで読みました)。

そして遂に出逢うアダム、エバ、モーセ、マリア、三位一体。至高天(エンピレオ)で眩くすべてを超越する光がさんざめいて、ページを読む手が止まらない。とてつもない奇蹟が眼前に広がるような、これはまことの最高潮でした。

この物語の中で過ぎた時間は一週間程だそうですが、実際本書は詩の形式であって文字数も比較的少ないので、一気呵成に読まなくとも一週間あれば読めると思います。一週間で地獄と煉獄そして天国を、旅してみませんか?

私はウェルギリウスが描いた『アエネイス』や、あるいは本書の題名に『神曲』という訳を出した森鴎外/アンデルセン『即興詩人』をめぐってみたくなりました。文学の廻遊の旅は尽きるところがありませんね◎

by wavesll | 2024-08-23 23:24 | 書評 | Comments(0)
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