魯迅『野草』を手に取ったのは本年の横浜トリエンナーレのメインテーマがまさにこの魯迅の「野草」であったこと。
私自身、実は今回の横浜トリエンナーレは、というかヨコトリは今までもそこまで食指が動かなくて。といいつつやはり横浜の街で開かれている芸術祭だけあってパブリックアートは普通に横浜で暮らしているうちにみていて
結局トリエンナーレ本体をみることは出来なかったのですが、そんな経緯もあって魯迅『野草』を読んでみたかったんですよね。
そして読み進める内にかなりぞわぞわとした圧を受けて。というのも、この残暑すら底冷えするような、フェルナンド・ペソアや
トーマス・ベルンハルトにも匹敵するような劇烈に鬱鬱とした感情が、それを伝導するに足る筆致で描かれていて。
実はこの読書、Apple Musicでカミラ・カベロのエロエロなライヴをかけながらみたのですが、それくらいしないとこちら迄陰鬱な谷に引き擦り込まれてしまうような精神波長がありました。
一つ面白かったのは
市原尚士評の「利口者」と「馬鹿者」のダイアローグという形式は『野草』の「賢人と愚者と奴隷」へのオマージュだったのだなというところ。この評もそうでしたが、横トリ自体も相当歴史的に積み重なってきた知見への学びとレファレンスがあったようで、う~んやっぱり行くべきだったなぁ。
魯迅は近代中国を代表する文学者ですが、やはりこの『野草』に於いてもその才覚は発揮されているように感じて。個人的なコンプレックスで”私の書く文には文学的な光がまるでない”というのがあって。どうも説明文的になってしまう。webとかで他の人たちの魔法的な魅力ある文章を読むと一抹の悔しさもあったり。
ただ、『野草』を読んで、”あぁ、文学というのは説明文からの発展というか、物事や心の動きを子細に見つめ、それをしっかりと出力することでも成しえるのかもしれない”と想って。魯迅のストレスフルそうな表情を想像しながらこの人からも文学が紡がれたのだということに一縷の希望を観た次第でした。