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フェルナンド・ペソア著 澤田直訳編『ペソア詩集』 望みを絶った先の真情の詩

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ポルトガルを代表する詩人、フェルナンド・ペソア

ペソアのことを知ったのはTwitterで幾つかの文学者などのbotをフォローしているときにみつけた@FPessoa_bというアカウント。

そのあまりのネガティヴさ、ペシミスティックさに少々食らいながら”だけどこの人は凄いな”と思いつつ、長いことペソアの作品自体は手に取らずにいて。

たまたま今年、読書へ気が向いたときに”読んでみようかな”と購入したのがこの『ペソア詩集』。今年増刷されたはずなのにすぐに品切れになっていた。

で、読んでみると”あれ、意外と力強さがあるぞ”と思って。
ただ読んでいくとやっぱりこのペソアには喪失感というか不能感というか、無力な絶望感があって。その絶望の果てにどう生きるか、どう生きれるかというのが強さがあるというか、これはアドラーの『嫌われる勇気』を読んだ時のような、他者への期待感・愛されるという期待をすべて棄てた上でのサヴァイヴするための行為者という感じがしましたね。

恐らくそれは、若くして留学などをし文学などに才覚を発揮しながらも、実生活では経済的な不能感というか、彼の自意識での自分への期待値とはまるでかけ離れた経済的・社会人的な無能の烙印の中で、文学をいくらかいても”それが何になるんだ”という自問自答が心の中でこだまし続けた人生の発露でもあったのかもしれません。

「ぼくらはみな ふたつの生を生きている ひとつは生きられた生 もうひとつは思考された生 ほんとうの唯一の生は 本物と偽物のあいだに 分かたれた生

しかし このふたつの生の どちらが本物で どちらが偽物なのか それを説明できる者は この世には 誰ひとりとしていない それでぼくらは 自分の生が 思考される生であるかのように 生きることになる」

こんな調子で平静のなかで淡々と真実そのものを語っていくペソアの詩を読んでいると、まるで中学の時に『人間失格』を読むような、自分の存在自体や恥部が切り裂かれて血が滴るような感覚に襲われるというか、この言い放つ存在の本質に届く力は、ロックという表現だなと感じて。

さて、ペソアは「異名」という形式で詩を発表して。本人であるペソア名義のほか、アルベルト・カエイロ名義、リカルド・レイス名義、アルヴァロ・デ・カンポス名義の詩がこの書には収められていて。彼らには髪の色や人生自体の設定も創られていて、ペソアの世界では各人が同じ世界で相互作用しながらオペラのようなインスタレーションとして存在していると。

ただ小説の登場人物と違うのは、ペソアの研究によると、「キャラクターのために詩がつくられた」というよりも「詩のためにキャラクターがつくられた」とのことで。このペソアの同位体である異名たちは、現代においてはハンドルネーム等を多数アカウントを持つSNS人としてイメージするといいのかも。と同時にこの虚構性・フィクション的な感覚がペソア自身に「俺は文章の中の世界ではこんなにも力強いのに、そんなのは現実では何のパワーも持たず、嘘の存在として霧散してしまう」という感慨を持つことになったのではないかと思ったり。

さて、ペソアの異名のキャラは各人魅力的なのですが、中でもペソアが「自分の師である」としたアルベルト・カエイロの詩に現れる思想、それはこの世には物理的なことが真実すべてで、象徴がどうだとか、”その奥にある意味”だとか、そんなことは何の意味もありはしないことだ。それは神についてすらそうだ、という唯物的、あるいはスピノザや仏教の悟りにも近いような思想も、一旦社会に希望を断ち切られたうえで、すべての幻想を廃して生きていくアティチュードにみえて。

この不能感と、一種の攻撃性は、どこか矛盾している感もある気がしていたのですが、ペソアの詩を読むと、自分自身の人生の挫折感と、ポルトガルという国が大航海時代では世界の覇者だったのに今や凡国以下に国力が衰退してしまった国家としての栄光と挫折を重ね合わせていたようにも感じて。

また永遠の少女リディアに語り掛けるリカルド・レイスの詩と、今から100年強前の第一次世界大戦頃の技術増進の時代の未来派としてのパワーにみせられつつ、自分の非モテさを出したりもする男っぽいアルヴァロ・デ・カンポスの詩も、キリスト教以前のギリシャ・ローマの神話や詩人から「現代」に通じる時空を自在に行き来するようなペソアの哲学がみてとれ、キリスト教を排そうとしつつも認める距離感とか、近代人の懊悩にあふれた思想概念は非常に現代的というか、それこそネット時代に生きたらサイバーパンクを書いてそうな人だなと思いました。

何かになろうとしたけれど、何物にもなれず、年老いてしまった己。その中でくすぶり続ける心の焔。他者への期待はもう持てないのに、悟って”あきらめたよ”と嘯きながらももがき続けてしまう、滑稽な男の中にある思想の伽藍。

いつの世にも地獄をみた人間が真情と事実を遠慮なしに吐き散らすことへの魅力というのはあって。ロックンローラーやラッパーもそうだし、永野などの芸人もそうでしょう。その刃は、攻撃側である書き手自身も切り刻んでいく諸刃で、その生々しい鮮血と生肉が、リスボンの海に拡散し、時代も地域も超えて行って。いや、これはちょっと凄い詩集でした。

by wavesll | 2024-09-22 14:26 | 書評 | Comments(0)
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