
yes, mama ok?がサブスク解禁されたと聴いて。”あぁ、そういえば大学時代の友が好きだと言っていたなぁ”と聴いてみると、”えぇ!?こんなお洒落なサウンドなの!?”とびっくりして。
金剛地さんって
テレバイダーのイメージが強くて、当時の自分はyes, mama ok?を”サンボマスター、あるいはアジカンみたいな感じだろう”と聴かずに放っておいたのですが、これ、『砂のプリン』からしてピチカートファイヴみたいだし、そこから『Q&A 65000』までの流れは渋谷系から北青山喫茶ロックへの流れとも呼応するというか、”こんなお洒落な奴好きだったんだ…!”と。女性ヴォーカルだし。
私はいまだにこんな音楽紹介ブログをやってるくらいですから、相当自分の話や好きな音楽を誰かに伝えたい心根のある人間だと想いますが、最近思うのは”あぁ、あの頃俺は『全然話が通じない』と想ってたけど、彼らの話や嗜好に俺は耳を傾けていただろうか?”ということで。
思い返すと幾つかの、旧友たちがいっていた「コンテンツの欠片の記憶」をイマの自分の感性で追体験してみると、すっごく好かったりすることがあるんですよね。あの頃は自分はとても狭い思考に凝り固まっていたなぁと。
想えば「〇〇は『ずっと俺のターン』だね」と言われたこともあったな…多分私に足りていなかった(そして今も足りていない)のは「伝えよう・発しよう」よりも「耳を傾け聴こう」とするアティチュードの方なのだろうなぁと想いますし、あれから20年近くの人生経験で、多くの人は『面白いことを伝える』より『その人が話すことを興味深く聴きコミュニケートする』方が喜ぶことを知って。
これは持論なのですが、コミュニケーションって貿易だなぁと。どちらかが貿易赤字ばかりじゃコミュニケーションは成り立たない。
私自身、ルーティンのラジオとかが兎に角多いのでつい”俺は話を聴いてる”と想いがちですが、目の前の相手の言葉にもっと耳を傾け、返事を返すべきだよなと実感する日々で。
本当はコンテンツをキーにしてる時点で大分アレなのだとは思いますが、少なくともそういった藝に落とし込まれているものへの受容体は、昔よりも幅が広くなれたのかなぁと想う今日この頃です。