星川淳著『屋久島の時間』 を読みました。彼は1995年の時点で屋久島で13年暮らしている人物で、半農半文筆活動をしている方です。
確かに、彼はエコロジーな精神でもって彼なりに努力して日々を「まっとうに」生きていました。すばらしいとは思いました。
しかし、僕はネガティブな人間なので、こういうネイティブに生きる人の話を聞いていると、どこからか「お前らみたいな生活は悪だ。馬鹿だお前らは。私たちのような暮らしが正しいし賢いんだ。」といわれているように思えてきてしまいます。
僕みたいな市民は生きることが許されないとでもいうのでしょうか。彼は、近代的な生活は破滅へのプレリュードを奏でていると言っています。まっとうに、自給自足の生活をすれば、人間も自然と共に暮らせると彼は説きます。
僕は彼の話を聞いて、彼のいうような生活をしたら、人口は減るだろうなと思いました。人一人一人、自給自足で生きていくとしたら、都会のように人口密集など出来ません。1750年(産業革命)以降続いてきた人口急増と都市化の流れは逆転し、人口は近代以前に戻らねばならないのではないでしょうか。そして、その世界で暮らせる人間の数は今より確実に小さい。彼は、僕からすれば選民思想の持ち主です。僕のような都会の民には生きる権利すら認められないのでしょうか。
人間だけが、他人のために食料を栽培する生き物でしょうか?女王蜂のために働くハチもあるいは他人のために働いているかもしれません。でも自己の種の絶対数を増やすために作物を育てる生物は人間だけです。彼はその人間の人間らしさすら否定しているように思いました。
共有地(コモンズ)の悲劇という言葉をみなさん聞いたことがあると思います。ハーディンはこの中で、子供を生む自由を規制するべきだと述べています。最適人口に収まり、破滅へ向かわないためには「人口の増加の自由」という共有地を放棄せねばならないと彼は述べます。僕は、たしかに人間は欲望を手放すことで新しい自由を得ることができるとは思いますが、そんなみんながみんな悟った世界が幸せだとは思えません。機会費用のほうが大きくなってしまうと思うからです。
ここまでかなり<自然・近代以前・悟った人々>批判をしてきたのですが、星川氏に関しては、正直頭が下がります。彼は生半可なナチュラリストではないからです。10年以上前からパルプの大体作物としてケナフを栽培し、自然に負荷のかからない小型水力発電で生活するという徹底振りには敬服しました。その上で、その態度すら傲慢なのではないか(基本的に人間全体が傲慢なのですが、ナチュラリストの方々は「自分たちは違う」と考えられそうなので)と思い、このエントリを書きました。
地球が有限である以上、拡大成長という麻薬の量は規制されなければならないのは当然の認識として持たねばならないと思います。その上で、人間の、そして地球の幸福をどう実現していくか。考えていかねばならないなと思いました。