漫画『昴』の作中、ボレロは「そこにあがってしまった者のダンス」として描かれています。
「赤い円卓は真っ赤に熱されたフライパンだ」
バレエダンサーにはボレロを踊ることが許されたダンサーとそうでないダンサーがいて、宮元すばるは許されたダンサーでした。
スバルは魔術的な舞踏を展開します。彼女を突き動かしているのは自分自身の戦う意思と、大いなる意思(神)の御心としかいえないものだったのでした。
「その道の一流を見ていると、彼らが『やらされているように』みえる」とプリシラ・ロバーツは語ります。
やらざるを得ない運命。それを切り開く姿は美しい。
「視野が狭いということは幸福なこと」
見るべきものがもうわかっているから。
僕も、いつかはそうなりたいですが、今はまだまだ悩める子羊って感じです。
そんなわけでボレロに興味があったので、『愛と悲しみのボレロ』を借りたのでした。
人生には2つか3つの物語しかない
しかし それは何度も繰り返される
その度ごとに初めてのような残酷さで
冒頭に引用されるウィラの言葉が、ボレロの本質を表しています。つまるところ人の一生は出会いと別れです。
結婚、死別、子供、友人、作品、戦争、芸術、愛、老い、街、生すべて。すべて飲み込み引き受けボレロは踊られます。
人生が映画に似るのか。映画が人生に似るのか。
ボレロは踊り手と観客の人生そのものです。
ジョルジュ・ドンは驚くべき身体能力と表現力で滞空時間の長いゆったりとした魔法のようなボレロを完成させました。
彼はもういませんが、いつか生で観たい踊りができました。