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情景翻訳論

R.E.M. 『Imitation Of Life』
シャレード ポップの技巧
詩人が名付けたヒヤシンス
人生の模造品
凍った池の鯉のような
金魚蜂の金魚のような
俺は君の泣き声を聴きたくない

それはおいしいサトウキビ
それはシナモン それはハリウッド
おいで 誰も見たことのない世界を試そう

君は偉大なものを求める
とりあえずパンを切り分けよう
君はもう既に全てを持っている 君なりのすべてを
ティーンエイジャーの金曜のファッションショーのように
コーナーに凍りつく
今までやらなかったことをしてごらん

Thats sugarcane that tasted good.
Thats cinnamon, thats Hollywood.
C'mon, c'mon no one can see you try.

誰も君が泣くところなんてみれないよ

それはおいしいサトウキビ
それは雹 それは君ができること
誰も見たことのない世界に行こう

サトウキビ
レモネード
俺はハリケーンなんか怖くない
誰も見たことのない世界へ行こう

雷嵐
津波
これらが押し寄せたって俺は怖くない
見たことのない世界へ行こう

それはおいしいサトウキビ
それは君自身 それは君ができること
未知の世界へ行こう

That sugar cane that tasted good.
That's who you are, that's what you could.
C'mon, c'mon on no one can see you cry.



前回引用した『救世主入門』の訳は村上龍さんのものをベースに、佐宗鈴夫さんの訳をミックスさせたものなんだ。

と、いうのも村上訳の評判がどうにも悪くて、実際に佐宗訳を読んでみるとそっちのほうがすっきるわかる箇所が多かったからだ。

村上さんのはどうもスパイスが多くて素材の味が分からないところが多いんだよな。そのスパイスが良い効果を出しているところもあるからそこは採用しているけど。翻訳者によって読んだときの印象が全然変わることってあるよね。これは自分で翻訳するようになってますます感じるな。上では「life」を「人生」と訳したけど、たとえば「命」と訳しても良かったわけだし。

ちなみに、俺の翻訳の仕方は「情景翻訳」といった感じのものだ。英語でまず情景を描いて、その情景を日本語で書き表すんだ。

一枚の絵があったとする。そこには水場があって、そばではたくさんの人々が思い思いにパーティを楽しんでいる。そういった様子が英語で描写されているとしよう。例えば"Half hundred people were dancing by the pond."なんてのがあったとしよう。これをそのまま訳したら「50人の人々が池のそばで踊っていた」になる。

でもそれは圧縮された情報を圧縮されたまま変換するようなものだ。氷山の頂点から別の氷山の頂点に飛び移るような作業だ。俺はこういうやりかたより、いったん圧縮された情報を解凍してから、再び圧縮するようにしたいんだ。

つまり、さっきの例で言えば、英語で描かれている絵を自分も見てしまうんだ。それを書いた詩人になりきって、できるだけ彼が知っていそうな背景知識も頭に入れた上で訳すんだ。

そうすれば同じ文章を見ても「多種多様な精神状態のパーティピープルが『C'mon』の看板が突き刺さった滝の注ぎ込む池の周りで思い思いのことをしている」とか、膨らまそうと思えば膨らませるわけ。

まぁ、このやりかたはオリジナルをそのまま読みたい人にはウケないかもしれないけど、翻訳は別の作品だってわりきっちゃえばアリだと想う。別のヴァージョンが作られると想えばいいんだ。

同じ題材でも、それを表現する人が持っているバックグラウンドや語彙ツールによって全然違ったものが生まれるんだ。例えば大塚愛の『恋愛写真』Stevie Wonder の『I just called to say I love you』は両方「ただ君を愛してる」ということを歌った歌なんだ。情景翻訳的にはこの二つは同一だ。

ところで、何かと評判の悪い村上版だけど、この文庫版の後書きには来日したリチャードさんの言葉も書いてある。せっかくだからそっちも書き留めておこう。


「人間が本当に愛するものを見つけることはとても大変なことで、それがすべて、要するに人生の中心だと思うね。

一生かかっても、ついにそれが見つからない人も多いと思うんだよ。だけど、ドアが閉まっていても、いつかは絶対に自分の好きなものが見つけられると、そういうふうに導かれているんだと信じることだね。

だいたいは、どこもかしこも閉まっていると、絶望的になっちゃうんだよ。だけど、あっちこっち叩いているうちに、どこかのドアがポンと開くと思うんだね。その開いたドアが、自分の一番求めている、愛するものへの道だと、とりあえず信じるんだよ。そこへ入る、またドアが全部閉まっている。必死になって叩くと、またひとつだけドアが開く。そういうところをひとつずつ通過しているうちに、いつか、ものすごい光が自分の中に出てくるはずなんだよ」

「人間は大体、目に見えるものしか信じないでしょう?たとえば、汽車の2本のレールは地平線のとこで絶対にくっついて見える。そういうふうに見えるからそう信じているけど、そうじゃないんだね。飛行機で線路の上を飛ぶと、2本のレールは、行けども行けども平行なわけだ。

また、雨が降って、地上では傘をさしている。人々は頭上に太陽があることを忘れているわけだ。だけど、ひとたび飛行機で雲の上に上がってしまえば、そこに太陽は、あるわけなんだよ」

「人間は学校というフェンスを出ると、そこは、ドラゴンワールド(現実の、悪意に充ちた世界)なわけだ。地上には三十億だか、四十億の人間がいて、おまえはその三十億プラス一の余り者にすぎない、おまえのことなんか誰も関心を持っていやしない、生きていようと死のうと、こっちの知ったことか、みたいな扱いを受けることになる。ある人間がだめになるというのは、そういうことなんだよ。

どうやってそれに対抗するかといったら、やっぱり自分の歌をうたい続けることだと思うね。『うるせえ、おまえのその変な歌をやめねえと張り倒すぞ』かなんか言われて、それでだめになっちゃうことだってあるけど、張り倒されても、まだ歌い続ける事だ。

もちろん、ドラゴン・ワールドにあっては、明日の飯代をどうしよう、今日の部屋代をどうしようなんてわずらいもある。それはしょうがないから、思いわずらい、駆けずる回りながらでも、自分の歌だけはうたい続けるわけだ。」

「これからの"神"というのは、決してわれわれに信じて貰うことを要求するのではなく、結局、この世の中はひとつのゲームであって、そのゲームをできるだけエンジョイするためにわれわれは生きているんだということを認識させるために存在する、そういう形での神でしかあり得ない、と僕は思っている」



この現世という名のキャノンボールランを走りきる原動力はやっぱり愛しかねぇよなwww


中村一義 『キャノンボール』
by wavesll | 2007-11-06 11:59 | 私信 | Comments(0)
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