PIZZICATO FIVE 『東京は夜の七時』
渋谷あたりに出かけると、イルミネーションがきらびやかで、
華やかなクリスマスソングが流れてきそうな時期になったな。こんな時期に旬のものを読むのもいいだろうと想って
ディケンズの
『クリスマス・キャロル』を読んだ。
とんでもなく依怙地な守銭奴のスクルージが、死んだ親友の霊と、過去・現在・未来のクリスマスの精霊によって、心を(かなり乱暴にだがw)解きほぐされ、好々爺として幸せに生まれ変わるという話だ。
子供のころ友達もいなく孤独だったスクルージは、仕事に打ち込むうちに、徐々に拝金主義に取り付かれて、人間らしさから離れていく。経済競争を生真面目に戦おうとすると、周りがすべて敵となり、他人の善意どころか、自分の善意も信じられなくなる。書かれてから100年以上経ってもスクルージが人々に強烈なインパクトを残すのは利己的に生きる現代人の心の中にスクルージが住んでいるからかもしれない。
「良く生きる」とはどういうことなのだろう?あるいは「人生の勝利」とは何か?スクルージはそれをとにかく金を稼ぐことだと想っていた。しかし、このストーリーは人生の価値は金だけでは計れないことを語りかける。
経済学部の俺としては、幸福とはやはり効用なのではないかと想う。そして21世紀の脳科学をひとかじりくらいしている俺としては効用の単位は脳内で分泌されるドーパミンやセロトニンやβエンドルフィンなどの快楽物質なのではないかと想う。
その場合、幸福な人生とは「脳内で快楽物質が出まくっている人生」といえるだろう。
快楽物質はいろいろな方法で出せる。金を貯めて、通帳の残高を見ても出せるし、性的刺激によっても出せる。自分を喜ばせることで出せる。喜ばされることで出せる。
でも、俺は快楽物質は他人を喜ばせることでも出せると想うんだ。と、いうか、一人を同じ方法で喜ばせ続けることは限界効用の逓減の問題から無理だから、他人が喜ぶのをみて喜ぶほうがより効率的に快楽物質を分泌することができると想う。
とかいかれたことばっかり考えてるから大学で彼女つくれなかったんだよなー(苦笑
大学一年のイヴはたぶんダチと過ごして、二年目の慶応休学してるときは横浜のてんぐでダチと飲んで、三年目はダチと赤レンガに行き、四年目はダチと六本木ヒルズに行き、自分から寒風吹きすさぶこの季節の真っ只中へ突入してったもんなぁ。
まぁ、変に腐ってクリスマスを呪うようなスクルージになるよりかは、いくらかでも彼女いないなりにクリスマスを楽しめてはきた気もするな。
でもまぁちょっとこれからはまた新たなキャラ作って、彼女作りに挑戦してみようかな。これまでの反省を踏まえてその場合はこことかに書いているようなやばいことは一切いわないようにしようw
山下達郎 『クリスマス・イヴ』