2018年 01月 19日 ( 2 )

東浩紀『観光客の哲学』感想:壊さないでネットワークを育むまなざしにふわふわした真摯さをみる

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漸く2度目の読了を終えました。

『観光客の哲学』という題名ですが、具体的な個別の観光の話をするのではなく、特定の共同体にのみ属する「村人」でもなく、どの共同体にも属さない「旅人」でもない「観光客」という像を以て「他者論」を行うという本書。

そしてその奥にあるテーマとしては「人として成熟したと認められるにはどう成ればいいのか」というもの。

ヘーゲルに於ける「国民となること」、そして国際社会の市民となることという個人→家族→国民→世界市民という流れではなく、観光客というふわっとした存在の「誤配」性を以て世界平和に寄与するという論旨。

『人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実に社会をつくる。なぜか。』というルソーの解釈。或いは『現代社会における政治(ナショナリズム)=上半身と経済(グローバリズム)=下半身の二元統治の上でリベラリズムをリバタリアンやコミュニタリアンが越え、〈帝国〉にマルチチュードが反旗を翻す』といった現在までの思想史の論じ方は非常に面白く読めました。

特に面白かったのは第一部の終盤に論じられたネットワーク理論。「スモールワールド」と「スケールフリー」という「べき乗分布」の枠組みによってウェブページの被リンク数や年収の分布、都市の規模と数の関係、論文の引用頻度と点数の関係、戦争の規模と発生数の関係、書籍の部数と出版点数の関係、金融危機の規模と発生数の関係、地震の大きさと頻度の関係、大量絶滅に於ける絶滅種類と頻度の関係が説明可能だというくだり。

ネットワーク理論により、人間社会の構造をあたかも自然現象であるかのように説明する言説の可能性が久々に現れた知的興奮がそこにありました。

その一方で第二部で提示される”成熟のカタチ”として「不能の父親として嬰児に触れるように他者と交わる」というアティチュードは、結局のところ問題の先送りというか主体的なプレイヤーであることの放棄な気がしたのも事実でした。

ただ、それも含めて東氏のありのままの思想表明となっていたというのはひしひしと感じて。

多くの先行研究である思想史の解説、繋ぎ合わせが大半を占める構成は批評家がかける”編むことによる先端の更新”であると感じたし、その二次創作的な姿勢から”創造至上主義者”から大なり小なりの批判を受けた結果であろうエクスキューズの多さにしても、そして「親子」という解も借り物でない実体験から生まれてきていることも含めて、東氏の今出せる棚卸的な本音の著作と感じました。

本書に於ける不満は「結局”観光客”という存在は何の意義をもたらすのか」が具体的に語られないところだと思います。

観光客というのは結局のところその行動としては「傍観者」。けれど例えば私自身先日のネパール旅行で生のカトマンズにて思った以上に文化財が残存していることを体感してそれをTweet等で拡散したことから「ネットワークに”近道”を創る」ことを実践したかもしれないと思って。

観光客は直接的に旅先の政治状況を動かすことはなく、或いは郷里の状況を決定的に動かすこともないかもしれないけれども、ふわふわした眼差しのRootを繋げることで、蝶の羽搏きを惑星にもたらすことはあるかもしれないと想いました。

それは”壊さないで、育む”親としての眼差しかもしれない。さらに言えば去勢された父親を肯定するとは戦後の米国に雌伏するこの国の姿を認めることでもある。いのちを繋げていけば未来が営まれる。そう想ったときに、第二部の意図するところにわずかばかりの共感を持てた気がしました。

by wavesll | 2018-01-19 21:00 | 書評 | Trackback | Comments(0)

代官山蔦屋書店の屏風絵

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by wavesll | 2018-01-19 19:29 | 街角 | Trackback | Comments(0)