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九鬼周造 『「いき」の構造』を読む -民族から生まれた精神性・価値観は国外に互換し輸出入は可能か?

c0002171_5371069.jpg九鬼周造著 『「いき」の構造』、哲学者九鬼が生きた現実を闡明にしていく本書、私は数年前、図書館で見掛け"なんか面白そうだな"と手に取ったのですがその時は借りず、数年経った今"よし、読んでみよう"と読み切った次第でした。この藤田正勝氏による全注釈が付いた講談社文庫版は章ごとの解説も含めとても読みやすく仕上がっていました。

初端から「言語というのは各国語で交換可能な物か」という問いが提示され、興味深い。
フランス語のCiel, Boisは英語のSky, Wood、ドイツ語のHimmel, Waldとは完全には一致しないという話。
これは実は私自身も、
"「猫」という単語は日本で見られる猫から立ち上がる言葉であって、CatやGatoはやっぱり英語圏やスペイン語圏の猫から立ち上がる概念だから、それぞれ微妙に異なるのではないか"
と考えたことがあって、同じ問題意識をもって読めました。言わば"猫という言語→実在する猫"ではなく"実在する猫→猫という概念"というディープラーニング方式で人は「猫」という言葉/概念を体得すると想うのです。

民族的な特殊性が言葉に現れる顕著な例として、九鬼はフランス語のEspritがドイツ語のGeistや英語のSpirit, Wit, Intelligenceと交換可能か?という問いを放ちます。これらの言葉は各々の国の民族性や風土に根差した魂のありようをもって存在している言葉、九鬼はそういうのです。

そして日本語においては「いき」という概念が、この種の民族的色彩の著しい語で、Chic、Elegant, Coquet等では完全に互換することは出来ないと九鬼は述べます。「いき」に近い感覚を形相的には西洋文化にも見つけることができるけれど、それは偶然似通っただけで、意味体験としての「いき」の理解は本質を問わなければならないと述べるのです。

そこから「いき」とは何かの語が示す事柄の説明に入ります。九鬼は江戸時代の文献などを駆使して、「いき」とは

・異性に対する「媚態」:一元的の自己が異性との間に可能的関係を構成する二元的態度

・「意気」すなわち「意気地」:「いき」は媚態でありながら尚、異性に対して一種の反抗を示す強みを持った意識

・「諦め」:運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心。これにより垢抜けにあっさり、すっきり、瀟洒なる心持ちとなる

要するに「いき」とは、我が国の文化を特色づけている道徳的理想主義(意気)と宗教的非現実性(諦め)との形相因によって、質量因たる媚態が自己の存在実現を完成したもの。「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということができないだろうか?そう九鬼は定義するのです。
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その後、九鬼は上品―下品、派手―地味、渋味―甘味といった軸から「いき」の座標を求めようとします。「いき」は媚態であるのだけれども、派手すぎたら野暮になる、また「いき」は意気の反抗心もあるから上品すぎても違う。「いき」は甘味から渋味に至る路の間にある、と九鬼は論じています。

確かに日本人の好きなテイストって「このケーキ甘すぎなくて美味しい」とか、甘ったるさのみなのを嫌います。また媚態というか、モテたいという意味でも、あんまりがっついてる人は嫌われるというか、恋人が欲しくても出会いは自然じゃないと格好が悪いといった感じ、あるかもしれないよなーと想いながら読んでいました。

面白いのは意気・野暮・甘味・渋味・上品・下品・派手・地味を各頂点として「いき」を図示しようとしている点。この直六面体を使えば、「雅」や「乙」、「きざ」そして「いろっぽさ」等も求められるそうです。

ここから「いき」が現れる具体的事例が挙げられていきます。湯上りは「いき」だとか、横縞より縦縞が「いき」だとか。ただここら辺はそこまでピンとこなかったかな。音楽において完璧な調和よりちょっとした変位の崩しがあるほうが「いき」だというのはちょっと面白かったです。

そして結論部。

体験を味わう際、五感は独立しているのではなく混然一体となり連携する、その中で聴覚と視覚は物事の違いを分けていく働きがあり、それは感覚上の趣味といえる。趣味とは道徳的及び美的評価に際して見られる人格的および民族的色合いのこと。ニーチェは「愛しないものを直ちに呪うべきか」と問い「それは悪い趣味で、下品だと思う」と述べています。

「いき」という趣味を九鬼は「媚態」「意気地」「諦め」とこれまでいってきましたが、この結論部ではそれらの観念的分析では抜け落ちる間隙があることを率直に認めています。

その上で、外国にあるものでも「いき」に似た感覚の具体的事象(芸術作品や仕草、建築)があるかもしれないけれども、「いき」の持つ本質は日本民族に固有のものであって、海外のもので「いき」に感じるものがあってもそれは「現代人の好む何ものか」でしかない、「いき」はわが民族存在の自己開示として把握されるべきものであると〆ます。

ここの議論で私が思ったのはHip HopはNYの黒人のルールに則らなければならない、或いは日本人がロックをやるのは馬鹿らしい、といったような論点、つまりその土地固有の魂から出ずる表現や精神様態は、域外に輸出、或いは逆に輸入可能なのかという点です。

九鬼は本書の草稿を巴里において書いたそうですが、異国の地から逆に日本が照らされたこの本はしかし、未だ世界が分断されていた、世界が広くグローバル化に塗り潰される前の世の中に書かれたようにも想います。

インターネットが地球を覆い、全球化した世界で生きる先進国を初めとする若者たちは一種文化に壁など意識しないのではとも想ったり、しかしISを初めとして民族・宗教間対立が起こり、右派勢力が台頭するのを見ると人間、妥当な"自分たちの国・文化"と想える範囲が広すぎるのも辛いのだなとも思ったり。

そんな中で、共生していく為に、まず互いの異なる点を真摯に見つめて、単にそれを一面的な価値観で塗り潰すのではなく、寧ろその色合いのグラデーション、或いは粒立ちが維持されたまま共に生きる、点描のような世界像へ向けた思索の試みだったのではないかなと、私は想いました。

XXYYXX // XXYYXX // Full Album


最後に最近気に入ってる「いき」な音楽を。海外産だけどw1995年生まれの俊英が2012年に出したこの音楽、音のシンプルさに、ジャンルも国も違うのだけれどもTHE BLUE HEARTSのような瑞々しい感性を感じました。ロックはともすると野暮になりがちだし、野暮を良しとする文化かもしれません。そういった意味で文化圏が全球化したインターネット以後の世界で生み出される色気と抑制が織りなすビートシーンに日本人の「いき」の感性は寄り添える気がします。
by wavesll | 2016-09-07 07:16 | 書評 | Trackback | Comments(0)

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む

c0002171_5405238.jpgマックス・ウェーバー (著), 中山 元 (翻訳)『日経BPクラシックス プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読みました。

ドイツにおいてプロテスタントが経済的な上層の地位に占める割合が高いのは何故なのか?を論の切っ掛けに、ベンジャミン・フランクリンが言うような≪「時は金なり~したがって時間を無駄にせず勤勉であれ」、「信用は金なり~他人との取引において正直・誠実であれば信用は高まり、さらなる利益を生む」、「金は金を生む~だから浪費するのでなく節約と合理的な運用が必要」≫という自分の資本を増やすことを自己目的にする倫理、「資本主義の精神」はどこから来たのかを論じます。

その結論を述べると、『天職(ベルーフ、コーリング)という観念を土台とした合理的な生活態度はキリスト教的な禁欲から生まれたもの』とマックス・ウェーバーは解き明かします。

ルターの宗教改革からカルヴィニズムが生まれ、とりわけ"神によって救われる人間か救われない人間は予め定められている"という予定説が人々に"私は神によって救われるのか否か"と常に不安定な状態をもたらし、"労働を天から与えられた職業"と考え、仕事に打ち込み神の栄光を現世に表すことに従事することによって"自分は救われている"と確信するための手段にしているとウェーバーは論じます。

プロテスタントの禁欲の教えは全てのキリスト者に対して、できる限り多くの利益を獲得するとともに、できる限り節約するように戒めます。この勤勉と節約により富が蓄積されるのです。

日本のお釈迦さまは『蜘蛛の糸』のように試しに罪人にチャンスを与えてサイコロを振りますが、全知全能なるGodは全てを見通しているはずだ、という論争。まさにロゴスの闘いというか、みな日本教なこの国にいると中々信教の実質的な影響力は感じずらいですが、海外では倫理というのは宗教から生まれえる、だからこそ異教徒・異民族と"常識"がぶつかり合う。そんな17世紀~19世紀欧州の空気を感じました。


c0002171_6354564.jpg今回の読解に非常に援けになったのは牧野 雅彦 (著) 新書で名著をモノにする 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 でした。ある意味『プロ倫』本体より面白い読書体験だったかもしれません。

『プロ倫』の前段階としてマルクスの『資本論』があり、ウェーバーはニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』にも大きな影響を受けています。また同時代のゾンバルトとも大いに論戦を行った。そういった流れを踏まえて『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』やその他のウェーバーの論文を論じたいい新書でした。

マルクスの『資本論』は富の基本形態は商品であり、商品の価値には使用価値と交換価値があり、マルクスは価値の源泉はその商品に投下された人間の労働だと言います。
労働力という特殊な商品は、その価格(多くの場合労働を再生産できるだけの賃金)を超えて働かせることができ、その剰余価値が資本家に搾取され利潤となり投資され、生産力が拡大されていく。とマルクスは論じます。

これに対しゾンバルトは『近代資本主義』において経済のシステムを「需要充足経済」と「営利経済」に分類し、個人などの具体的な需要充足を目的とする前者と飽くなき利益を求める後者としての資本主義経済を支える精神は単なる金銭欲や黄金欲とは異なっていると提示しました。

『プロ倫』はこれらの議論を受けての書物でしたが、ウェーバーは利潤追求の精神の直接の起源がプロテスタンティズムにあると論証したわけではなく、上に書いたようにむしろ利潤を追求しない禁欲的精神態度に由来し、天職に打ち込む態度をプロテスタンティズムは生んだというものでした。

ウェーバーの思想や問題意識の源泉を彼の個人史に求めるのは彼の知性に失礼かなとも思うのですが、脚注にあったウェーバーの個人的な事情は面白く読めました。彼は1897年に神経症に倒れ、病気からの回復過程で「プロ倫」等を書きます。不安から必死に逃れるため学問に打ち込んだウェーバー、ウェーバーは親に経済的に依存している「面目ない立場」に苦しむとともに母ヘレーネからの「職業を通じて己の使命を果たす人間のみが一人前」という圧力から解放されるために論文に打ち込んだのかもしれません。「資本主義の精神」を無限の利潤追求の精神でなく「職業義務」の観念の由来から検討するという課題設定という話は面白く読めました。

カルヴィニズムから生まれた禁欲による資産形成とその運用による資本形成は徐々に宗教的な熱狂は冷めていき、ウェーバーは「宗教的生命力に満ちた17世紀が功利主義的なその相続人達に残したのは何よりもまず、貨幣獲得もそれが合法的にさえ行われるならそれでいいという、恐ろしく―パリサイ的なといってもいい―疚しくない良心であった。『神に喜ばれるのは難し』という精神は消え失せた。こうして独特の市民的な職業のエートス(精神態度)が生まれたのである」と述べています。

ここの「パリサイ的」精神とは律法や規則に拘るだけではなく、それに従わないものを道徳的に非難し自分たちの道徳基準を強制しようとする攻撃的で強圧的な態度が「資本主義の精神」には孕まれているということ。

「疚しくない良心」とそれに基づく資本主義的労働者の形成により造られた近代的な経済秩序は「鋼鉄のような檻」と化しそこに住むのは「精神無き専門人、心情無き享楽人、この無に等しい者達は、自分達こそ人類が未だかつて到達したことのない段階に到達したのだと自惚れることになるだろう」とウェーバーはいいます。とこの「末人」は『ツァラトゥストラ』に出てくるものです。

ルサンチマンに牽制され、理想であれ富であれ遠くを見据えものに挑む努力そのものに人々が倦み飽きる時代が来る、彼らはそこそこの生活に満足し、適度の刺激と健康さえあれば満足する。その点で皆平等で、そう思わぬものは狂人として排除される。彼らは自分達が知識があり賢明で、ぬるま湯のような生活が本当の幸福であると想いこむ。そんな時代が来るだろうとニーチェは言うのです。

論文の最終局面に「末人」を書いたマックス・ウェーバーの問題意識は現代にも響くものがあります。

ウェーバーは神々から召命された天職を全うする、といった精神から倫理が消え、欲望も理想もなくなる社会が来るのではと想ったのかもしれません。何にも情熱を持てなくなった時に、その世界は徐々に冷えていくのか…? ロボットが労働を代理するようになればますます人間が"働く"意味もなくなります。さらに言えばAIが人間を知能で越えるシンギュラリティが起きれば"理性"すら意義を失い半ば家畜になってしまうかもしれません。

一方で、マネーを求めるレースにより、需要充足経済の朴訥とした時代が終わり、厳しい競争時代になっているとも言えます。経済選良達が弱者に対して無慈悲性を出すのは"努力"がトリガーとなっている気も。

私自身の考えを言えば、経済活動によって神の国を造るというよりは、CERN等の宇宙物理理論を発展させていくことこそ人類の使命であり、最もわくわくする事柄に感じますが、それも"人類"の名を借りた科学振興なのかもしれません。お金を別の方向に使えば救える悲劇もあるのにとも思いながらも、ついついマネーを心躍る方向に遣いたいとも思ってしまう。

その時"人間の使命、或いは地球市民の喜びとは?"或いは個人間における"人間らしさ"とは何かを考える事こそが社会的・哲学的課題になる時代、シンギュラリティは2045年ごろやってくると言われています。

その問題意識に通じるものを百年前に描いたウェーバーに感嘆するとともに、"人間"をもっともっと知りたい、社会システムを思考するためには人間理解こそ重要なのだという気持ちが高まった読書体験でした。

俺で良けりゃ必要としてくれ CALL ME CALL ME
電話一本でいつでも呼んでくれ 後悔ないようにしとくぜ
「人間的」とは何かな 答えの数が世の中の形
何年過ぎても同じさ 人が人の上を目指し 何年先でも同じさ 「I LOVE YOU」 「I LOVE YOU」が灰になる
―YOSHII LOVINSON/CALL ME



by wavesll | 2016-08-31 08:04 | 書評 | Trackback(1) | Comments(0)

続・アドラー心理学 <幸せになる勇気/黒い十人の女/天> ぬくもりという名の獣道

『嫌われる勇気』は読まずに、関連文書を読む ~自己欺瞞を超えて <アドラー心理学に触れて>という文章を数日前に書いたのですが、今回はその続編というか、エピローグです。

c0002171_19371092.jpgあの後、『幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII』、読んでみました。

前作『嫌われる勇気』で哲人が語るアドラー心理学に開眼し、その後教師になった青年が、現実ではアドラー心理学など何の意味もなく、壁が聳え立つだけだと怒りをもって再び乗り込んでくる…アドラー心理学を研究する岸見氏の知見をライターの古賀氏が掘り起こし、人生のテーマを解き明かす。といった内容。

今回の本が面白かったのは、アドラー心理学という理想論に現実の壁をぶつけ、観念論から実学へ寄せているという点。

前回『週刊ダイヤモンド嫌われる勇気特集』、『アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために』、『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』を読んだ時も"原因論でなく目的論で人は動いている"ということに身をつまされたのですが、今回も身をつまされる箇所がありました。それは"教育の場で問題行動を起こす子供の五段階"の部分。

子どもは、"自分が特別であること"を知らしめたい。その承認欲求を満たすために、

最初は
1."称賛の要求"
つまり学業やスポーツで成果を示そうとするそうです。一見問題内容でも、芽はここから始まると論ぜられていました。

学習課題のレベルが上がってそれが上手くいかないと
2."注目喚起"
つまり問題行動を起こすことで注目してもらおうとするそうです。不良行動や教室内の悪ふざけを行うそうです。或いは文化的な行為で自分の差異性を示そうとするそうです。

そしてそこでも自分を認めてもらえない、本当の意味での"尊敬"を得られないと
3."権力争い"
を始めるそうです。例えば親や教師に反発して毎回大人の意見に逆らったりして、とにかく大人の意見をつぶして自分の存在を示そうとする。岸見氏は教師が対応できる段階はここまでだと論じます。

それでも自分を認めてもらえないとなったとき、
4."復讐"
を行います。これは相手に後悔を味合わせるという意味での復讐で、暴力に訴えることもあれば、親や教師に無力感を味合わせることを目的に引き篭もったりすることもあるそうです。

そしてそれでも自分という存在をありのままに認めてもらえないとき、
5."無能の証明"
をするそうです。何を言ってもやる気を示さず、もう自分には何も期待しないでくれと無能を示そうとする。こうなると勇気づけを行おうとしても拒否反応を示してしまうそうです。

ここまで読んで、自分は大学時代の挫折に始まる自分の態度はまさにこれだなと想ったりしました。アドラー的には不本意かもしれませんが今の自分の過去の流れはこれだなと想ったりしました。

また『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』でも労働の意義は語られていましたが、『幸せになる勇気』ではもっと直接的に仕事論が語られていました。

アドラーは人生におけるタスクを
1.仕事(自分の能力を信用してもらい、生きる糧を稼ぐこと)
2.交友(自分の人間性を信頼してもらい、心を開いた人間関係を築くこと)
3.愛(二人で人生を歩み、「私」から「私達」になり自己中心主義を超えること)

と定めています。

『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』において、"生産性を追い求めることだけが答えでない"として、結果でなくプロセスを重視し、<熱をもって取り組めばたとえ失敗に終わったとしても素晴らしい人生だ>と書かれていました。これは私の人生のバイブルである漫画、『天』において赤木しげるが語る

いいじゃないか…!
三流で…!
熱い三流なら
上等よ……!

まるで構わない………
構わない話だ…
だから…
恐れるなっ…
繰り返す……!
失敗を恐れるなっ……!


に通じる話だと思います。

c0002171_10145447.jpg成果、数字、結果を追い求めて、人間らしい純真さが失われていく、といストーリーでいうと、先日衛星放送で流れていた市川崑監督の『黒い十人の女』を想います。

この映画に出てくる男は、仕事もできるTVディレクター。女をたぶらかす手腕も凄まじく、妻を含め両手で収まらない女性達に手を付けて、愛人・妻もその事実を知っても別れられない。そこでこの男を全員で殺そうという計画が立てられる…という話。

TV局という昼も夜もなく虚実綯交ぜの仕事で精を出し、女の攻略もお手の物。しかも"優しい男・できる男"という評価、数字を出し続ける上ではこの上ない男が、最後では生気が抜けてしまうのか…!?という話なのですが、これをみると全てをパーフェクトに成果を出していても、"愛"というものがないと人生は大きな破綻に襲われる…という戯曲にみえました。女性側の心理描写や言動が実態的な妙がある分、男の虚ろさが際立って、きわめて面白い筋と映画はなっていましたが、現実の人生でも仕事・交友・愛、どれかが欠けて他で補おうと必死でもがいても、満たされることはないのかもしれません。

愛するということを、アドラーは一種独特にとらえます。いわゆる"運命の人"など無い。「恋に落ちる」こともない。相手は誰だっていい。この人と人生を歩むと決めて、共に人生を歩んだとき、その一生が愛だと。そう言うのです。

これはかなり今の常識的な恋愛観とは異なりますが、実はこれは私が漱石と奥さんの逸話から想っていた明治の見合い結婚観に近いものでした。

まだ青臭かった大学生の頃、私はこの漱石の結婚を理想としていて、誰とでも付き合えるし、付き合っていくうちに二人が夫婦になっていくとか考えていたのですwかなりアドラーに近いwまぁ、その後、そもそも誰でもいいなんて男の彼女になってくれる女の子はいないと思い知らされたり、やっぱり誰とでも上手くいくわけでもないんだなぁと現実をみたり、色々あったものでした。

人間、意志の力は無尽蔵でないし、自分の身体力、そして時間も有限。その中で仕事・交友・愛をしていくには、理論だけではやっていけない場面も多いし、清濁併せ呑む生命力が人生を切り開く上では必要だと思います。その上で、最後のところで数字に心が殺されることのない人生を歩めたら、己を嫌うことも他者を裏切ることもなくやっていけるのだろうか。痛みを伴いながらでも、獣道を生き抜かなければならぬ。そう想いました。

サンボマスターの『そのぬくもりに用がある (LIVE)

by wavesll | 2016-07-25 20:53 | 書評 | Trackback | Comments(0)

『嫌われる勇気』は読まずに、関連文書を読む ~自己欺瞞を超えて <アドラー心理学に触れて>

c0002171_2434392.jpg週刊ダイヤモンド 2016年 7/30 号 [雑誌] (今こそ! 「嫌われる勇気」 初めてのアドラー心理学)は非常に面白い特集でした。

ここ数年自己啓発系からは遠ざかっていたので『嫌われる勇気』そして『幸せになる勇気』も良く知らなく、微かに"アドラー心理学"という言葉は知っていたのですが"嫌われることをいとわないきちんと叱る教育論で自分にはあわなそうだ"と敬遠していたのです。

しかし実際のアドラー心理学は私が想像していたのとは真逆でした。

彼はフロイトやユングと共に勉強会に参加し、後に袂を分かった人物で、その主張の根幹は"人の行動は過去のトラウマ等の『原因』でなく何がしたいかという『目的』によって起こされる"というもの。

『目的』を達成するために(主にアドラーは教育論を得意分野としましたが)『自分の課題と他人の課題を峻別し、他者の課題に踏み込まず自分の課題に他人を踏み込ませない』・『承認を得ようとしない』。何故なら人生の悩みは全て人間関係から起きているから。

その為『人を褒めない・人を叱らない』。その代わりに感謝と尊敬を伝え勇気づけることが推奨される。人を支配しようとするタテの繋がりでなく、フラットな人間関係こそが大事だ、と。

アドラー心理学は自己中心的な哲学、或いは人を突き放す哲学かもしれない。しかし人は体験からでしか学べない。子どもが失敗しそうになった時に先回りして苦難を取り除くのではなく、一度失敗の痛みを味合わせ自分の行為の責任と結果を認識させたうえで、これからは失敗しなうようにどうするか考えさせる。何、人間は死ぬ一瞬前からでも変われる。

というような特集でした。『嫌われない勇気』の番外編が載っていたり、なかなか上手く纏まっている特集だったように思えます。アドラー心理学は自己啓発の祖ということですが、『自分の小さな「箱」から脱出する方法』に於ける"自己欺瞞をなくす方法"に通ずる考えだなと感じました。

しかし他者からの承認や評価を求めないとしたら、確かに人に嫌われるかもしれないけれど自由な人生を歩めるかもしれない。他者からの承認や評価がなければ"金を稼ぐこと"が不可能では?金がなければ経済的自立ひいては精神的自立も難しいのでは?と想ったのも事実でした。

なぜアドラー心理学に共感と疑問を持ったのかというと、酷い鬱で引篭りをしていた時に何日も寝床で苦しんでいた時期が昔あり、その時私の中で光明が差したのは『もし俺が死にたいのなら今すぐ死んでいるはずだ。俺は生きているのだから、生きていたいんだ。みな色んなことを勘案したうえで生き方を選択しているのだから、全部ひっくるめたうえで"みなやりたいことをやりたいようにやっているんだ"』という考えに辿り着いたからでした。

けれども今はこれは傲慢な考えであるとも思います。私はこの考えに至りある意味"嫌われる勇気が持てた"というか、結局自分はやりたいことをやれているんだと思えました。

しかし例えば重病を患ってしまっている人に"あなたもやりたいことをやりたいように、生きたいように生きている"なんて言うのは大変傲慢な態度ですし、精神疾患に関しても逆にアドラー心理学に追い詰められてしまう方もいるようです。実際、トラウマで脳に拒否回路が出来ることもあるでしょう。そして"精神力の8割は体力"という言葉もあります。身体的な嫌悪感は根性論だけでは解決できないとも想います。

その上でよりアドラー心理学のことを知りたいと『嫌われる勇気』著者の一人で日本におけるアドラー心理学の第一人者の岸見一郎氏の

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために
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アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ
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を拝読しました。ダイヤモンドを読んで疑問に思った点が幾つか解消されているのと、特に後者では働くということに関して自分が知りたかったことが端的に描かれている気がしました。

人間、特に子どもは親の関心を引こうと"特別"でありたがります。親の期待に応えて真っすぐな道(例えば勉強やスポーツ)で成果を出して特別であれればいい。けれどそれらで上手くいかないと"悪いことをしようとして特別になりたがる"ことをしようとするそうです。

不良行為の根本には親に構ってほしい、世間に自分の存在を認めさせたいという心理があると岸見氏は論じます。大人でも"優越感競争"に興じるのは劣等感の裏返しだと。

"普通であることを恐れない"ことが成熟の証だと。そして"自分にしか出来ない、代わりの効かない仕事をするべきだ"と。

一見これらは矛盾するように思えますが人間社会は分業の世であり人それぞれ経験も知識も技能も違います。目指す理想も違います。

自分の中で"ど真ん中真っすぐな球"を投げても人によってコースに違いが必ずできる。だからこそ人間社会は分業で成り立っている。何も奇をてらわず、自分が一番いいという形で社会に貢献していると想えることが幸福を与えてくれる。私にはそう読めました。勿論、普通に囚われ過ぎて開拓心を失ったらいけないとも思いますが。

書籍の中では"共同体感覚"そのものが間違っている場合もあると語られていたり、仕事に関しても一度は思いっきり鍛錬して習熟したうえでないと仕事が楽しい楽しくないは語れないと書かれていたり、実際的に"自分の意志は伝え、相手に流されずとも角が立たない断り方"とかが提示されていて、一読だけでは拾いきれない数多くの示唆が書かれており、身になる本を読めたなと想いました。

『嫌われる勇気』は対話形式の自己啓発本臭が強すぎてちょっと読んだだけでやめてしまったのですが、また時が来たら読むかもしれません。

仕事が面白くない、嫌だ、踏み出せない、どうせ駄目だといって目を背け続けている事実を叩きつけられたというか、少しでも前に進むために学習や訓練すら行わないのは自己欺瞞で、駄目だと再認識させられました。人生が誰かとの競争ではなく自己の絶対的な旅路だと考えれば、自分自身の等身大の人生を認められる。まだちっぽけなプライドが残ってはいますが、この読書を機に再チャレンジをリスタートし、じりじりと研鑽を積みたい。そう思いました。

P.S.
これらの著作、Amazonの書評にエッセンスをまとめてくださっている方がいるので、要点だけ知りたい方は書評を眺めるのもいいと思います。そして気になったら手に取られて損はないと思います。

追記
以前は無償の善意を振りまいていた私も鬱を経験して『自分は生きたいように生きているのだ』と自覚しました。その結果、行き過ぎて傍若無人になってしまった私はその後多くの信頼を失うことになります。

ただその過程で気づいたのは、友人は友人であって、友人に何かしてもらえると考えるのは多くの場合は錯覚であるということ。

勿論、出来る範囲で付き合いをしたり貢献することはいいことだけれども各個人の人生は各個人の人生で、それこそ家族とかパートナーでないと他者である私の人生を共に過ごすことは、ほとんどない。みな自分の人生に精一杯なのだということです。

自分の課題は自分の課題。他者は出来る範囲で手助けしてくれることもあるけれども、自分の人生は自分で責任を持つ。

そして共に人生を歩む人たちにはやっぱり本気で関わりたいし、そうしたときにも自律し自立するためにこそアドラー心理学をスパイスに使うと意義深いのだなと想いました。

人は過去(トラウマ)にも未来(将来への期待)にも影響を受けて今を生きていると想います。今は今だけでなく過去にも未来にも繋がっているけれど、最善だと想える今の過ごし方をしていくトレーニングは人生をより良いものにするのだと今は想うのです。

そうして自立と自律ができてこそ、私に付き合ってくれる人への尊敬が自然に心から湧き出で、友とも信頼関係が築けるのではないか。今はそう想います。


この後『幸せになる勇気』を読んで、アドラー心理学についてもう一本記事を書きました。

cf.
続・アドラー心理学 <幸せになる勇気/黒い十人の女/天> ぬくもりという名の獣道


Depeche Mode-Violator (Full Album Remastered)


二村ヒトシ『すべてはモテるためである』 ・ 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』短評


by wavesll | 2016-07-22 03:47 | 書評 | Trackback | Comments(0)

フィクション故に真実が現れる 演技と本心-カズオ・イシグロ 文学白熱教室から

随分前に録っていたカズオ・イシグロ 文学白熱教室(こちらに書き起こしがあります)をみました。

「何故歴史や事実の報告、ノンフィクションではなく人は小説を読むのか」という命題に、カズオ・イシグロと聴衆が論議を深めていきます。

それは"真実"がどこにあるか、ということと密接に関係していくことが解っていきます。
現実に会う人は、真実だけを述べているわけではなく、他人に、そして自分にも嘘をつくことがある。個人だけでなく国家単位でも嘘(幻想)を流布することがある。

カズオ・イシグロは
わたしが非常に興味を持っているのは人が自分自身に嘘をつく才能だ
他人に嘘をつくつもりがなくても本当ではないことを言ってしまう
そのような信頼できない状況はフィクションを書くにあたって非常に有効で
フィクションにピタリとはまる方法だと思う
と述べています。

"現実"は必ずしも"事実"だけではない。"物語≒嘘"が"現実"への解釈としてもたらされることが、現実に起きています。

そんな時、小説が比喩表現として、"真実"を含み、"真実"を現すことがあると彼は言います。物語は人々を欺くことも、真実を突きつけることもあると。そこでその人、その人が属する文化圏の、嘘のない姿を顕すことが小説の意義だ。私はそう感じました。

無論、小説は"作り事"です。しかし作りごとだからこそ、真実が求められ、真実を現すことができるというのはそうだなぁと思いました。『わたしを離さないで』もSFですが、SFというジャンルは一つ原理をずらしたときに、人間がどう生きるかが重要になるジャンルだと。『攻殻機動隊』もそうですが、SFは"技術水準が変わると本当になるかも"という思考実験でもあるなぁ、等と感じました。

この間私はNumber Girl好きなあの娘は大人になってったよという感傷的な文章を書いたのですが、この文章は私にしては珍しくフィクションというか、演技がかった技巧で書いた文章でした。そのフィクションの部分というのは、ロックへの心酔の部分で、私にとって実際のところロックな幻想や魂が失われつつある、その青春への憧憬というか、過ぎ去った"あの頃"から自分が変わってしまいつつあることを認めたくなくて書いたところが大きかったのです。

肉体的・社会的・感覚的に自分の中で"ロック"が薄れている今、その本心でなく、"こうありたい、こうあったはずだというロックに心酔した自分"を書くために、その部分以外はほぼ本当のことを書き連ねました。嘘、というか物語を書くためにはそこ以外は本心のファクトを積み重ねるのがいいと思ったのです。自然に見せたかったから。

"自然に見せているか"というのも、物語を書くときも読むときも重要な因子だと感じます。というのも、私はたいていの物語の展開に"そうはならないだろ"とは感じないのです。物語を聖典のように捉えるというか"その状況になったらトンデモな展開もありうるかもしれない"と比較的無批判に漫画でもドラマでも捉えてしまうというか。逆に"そうは動かないだろ"なんて感想を聴くと、"自分と他人は違うのに、同じような感性を持っていると想うのか!あるいはその人をそういう人だと分析できるのか!!"と思います。そういった意味で私は世間知らず、ということかもしれません。

"そのキャラクターがその状況ならそう動くんだろう"という目でみる人間として逆に不思議に思うのが、ハリウッドにしろ日本のTVドラマにしろ、毎回似たようなキャスティングで同じ役者が幾つもの役をやる状態をよくみんな受け入れられるものだな、ということです。

"この人はこのキャラの肉体"としてみたいというか。幾つもの人間を同じ人が演じるのは冷めるなぁ、なんて思いませんか?その点マンガとかはそのキャラの肉体はそのキャラだけのものだから、いいなと。或いは舞台の時代なら、そこまで顔がじっくり近くで見れたわけではないし、メイクもそれぞれで全然違ったでしょうから気にならなかったからかもしれませんが、TVや映画だと"作り物"感が強すぎて。"演技してる"ことを技量として評価する人もいれば評価しない人もいると思いますが、自分としては主役がまだ売れてない新人とかの方が好みではあります。

"演技"というのが苦手なのは社会人失格だなとも思います。社会で経済活動を行う上では"その職業の役"をいかに上手く演じられるかが、社会人としての能力の指標ではないかなと思うから。

と、ここまで書いて、やっぱり自分はまだロックに心酔している人間なのかもしれない、少なくともロック的な"本心を歌う、自分に嘘をつかずに真実を歌う"ことに囚われていて、うまく演技ができないのかもしれない、と思います。それが上手くエンジンになればいいけれど、今は歯車が上手くいかず、堕落へ流れてしまって、もはやロック的な正義からも逃げているという。もっとタフになりたい、と心から思います。

そして今の自分やロックの夢に醒めてしまっている自分も、またいるのだなぁなんて思います。ただ、自分が達成したい水準で創りたいものを作ることは、何よりも美しいことだなとは想います。そういった意味で鴎庵はフィクションを書く時でも、ノンフィクションを書く時でも、自分の本心や真実を裏切らないことを書いていきたいなと。そんなことを考えた一両日でした。
by wavesll | 2016-06-02 18:02 | 書評 | Trackback | Comments(0)

アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第二・三編読書メモ

c0002171_19491881.jpgアダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』 第一編 読書メモに続き、上巻を読み切りました。

第一編では"富とは何か、何を持って価値とみなすか、その原理とメカニズム"について論じられましたが、第二編では資本の分類、そしていかにして資本が増大していくか、その蓄積と利用について語られ、第三編では富を管理する政治の側面の分析がなされていました。

アダム・スミスの視点だと、単純な快楽に金を使うのは浅ましい行為で、日々の娯楽に消費するのではなくで、資本は資本を増やしていく為に使うのが素晴らしい使い方だとしているのが印象的でした。しかし、こうした消費快楽が、大領主が富を家来たちを喰わせるのではなく宝物を買いあさることに使わせ、結果として都市国家の成立、つまり商人・手工業者の独立に繋がったと、第三編では論じていました。

また、第二編では銀行による信用創造が解説されるのですが、面白かったのは、過去の歴史を辿って、”無法図な貸し出しは必ず破綻する。世の企業家は「なぜ貸し渋りをするのか」と騒ぎ立てるが、そんな声に惑わされず、慎重な貸し出し業務を行うべきだ"という論陣が張られていること。それから200年以上たち、量的緩和やゼロ金利政策が行われる現代日本からすると、隔世の感というか、実際2世紀過ぎてるんだもんなぁと想いました。

生産的労働、つまり社会資本のストックとしてモノが残る労働と、非生産的労働、宗教・法律・医者・文人・エンターテイメント産業の人々を分けるのも興味深かったです。当時は著作権と言うものが無かったから、これらのサービス業者はフローとしてしかみなされなかったのでしょうか?"遊び好きは怠惰で貧しい"といわれるのは耳の痛い言葉ですね(苦笑 第三次産業が発達する現代の先進国は、コモディティから抜け出すためにデザイン性やエンターテイメント性、あるいは好感度なサーヴィスが求められることを想うと、数世紀前は貴族が暮らしていた生活高度を庶民が愉しむようになったと。アダム・スミスが現在を見たら、驚くでしょうね。或いは嘆くかもしれないw

それでも、スミスは"大国が民間人の浪費や無謀な経営で貧しくなることはないが、政府の浪費や無謀な政策でまずしくなることはある"と述べます。ここでやり玉に挙がるのは軍事費と宮殿や教会の煌びやかな建築費。憲法改憲や新国立競技場で揺れるどこかの国にも適用できるような話です。

政治と税の使い方に関して、本書を読んで興味がわきました。第三編では国王や大領主が如何に民衆を支配していたかが語られるのですが、そこでは集められた税は、支配層の贅沢や、軍を維持する費用、政治を行う費用に与えられていた。この税の利用の移り変わりと言うか、いかに”富の再分配”に遷移していったかの歴史、気になるなぁ。その前に政治、法、軍(当時の領主は判事でもあり総司令官でもあった)というのが社会のリーダー層に求められることなのだろうなぁと。アダム・スミスを読んでいると小さな政府の信奉者になりそうでもありましたwケインズも読みたくなりました。

また、"人は誰でも農業がやりたい。生きていくものを自分の手で誰にも指示されずにコントロールしたいから。その次は製造業、最後に一番結果をコントロールできない貿易がやりたいものだが、リスクを取った分だけ儲けも大きくなっていく"とか、"領主は自分の土地を改良してより生産的にしようとはしないが、商人は成功の見込みが見えたら、どんどん資本を投下して改良していく"という話も、リターンを得るためにはリスクを取れるか、計画性があるか、決断できるかにかかってるんだなぁと想いました。

いよいよ次の編からは下巻。アダム・スミス教授の話は面白く、学びと言う贅沢な時間を過ごせて幸せですが、スミス教授からは「生産しろ!」とどやされそうですねw

アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第四・五編読書メモ
アダム・スミス著 村井章子+北川知子訳『道徳感情論』"もしアダ"が書きたくなる稀代の"いいね論"
by wavesll | 2016-04-07 20:36 | 書評 | Trackback | Comments(0)

アダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』 第一編 読書メモ

c0002171_14451933.jpgアダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』
此の本を手に取ったのは、大学で経済学部だったくせにまるで経済を勉強せず、文学部の授業が一番楽しかった人間だった私が、社会の中で揉まれたり、打ちのめされたり、浮かんだりする中で、本当の意味で経済を学びたいと想った時に、翻訳家の山岡さんのこの文を読んだからでした。

経済学の始まり、古典中の古典のこの本を、この人の訳なら読めそうな気がする、そう想って取った本書。感想を述べると、困難、だけど読みやすいといったところでしょうか。実際、ようやく第一編を読み終えたところで、残り3/4が残っている状態なので、一編ずつ読書メモを纏めようかと想ったのでした。

「困難、だけど読みやすい」というのは、古典の格調高い難解な訳文でなく、平易な文章で訳されているので非常に読みやすいのです。しかし、まるで数学の定理を積み重ねていくような論理の山嶺に登る感覚と言うか、一文たりとも読み飛ばさない本でして、じりじり山頂を目指しているところです。

社会に出て経済と言うものを考えた時に、経済学は"価値の学問"だと思っていました。脳科学や社会学、法学、そして数学など多岐に渡る学際的な"人は何によって動くのか"を考える学問だと。そしてアダム・スミスはまさにこの第一編で"商品の真の価格と名目価格、労働価格と金銭価格"について論じています。

人間は分業を行う事で、各作業工程の熟練化とイノベーションを起こし、社会を発展させてきた。人はそれぞれ"プロフェッショナルな専門家"になることで、特に都市に於いては顧客が多いため、ニッチな職業でもやっていけるようになった。当初は物々交換だったが、貨幣を発明し、更に交換を便利にし、分業を助け、社会を発展させてきた。

その結果、人は自分の生活に必用なものの極一部しか自らでは作らなくなった。そうしたとき、人が豊かかどうかは、他人の労働を如何に支配あるいは購入できるかで測ることが出来るようになった。

アダム・スミスは"ものの真の価格、つまり、ものを入手したいときに本当に必要になるのは、それの生産に要する手間であり、苦労である(中略)労働こそが当初の代価、本来の通貨であり(中略)富の価値は、それで購入できるか支配できる労働の量にまったく等しい"と述べています。

商品の価値の真の尺度は労働ですが、違う種類の労働を比べるには、時間だけでなく、どこまで厳しい仕事かとか、創意工夫が必要な仕事かも考慮しなければならず、便宜上市場での駆け引きや交渉で労働の価値は決まります。そして貨幣経済の元では労働の価値はそれで交換できる商品の量で考えられ、商品の交換価値は貨幣で考えられる。とスミスは述べます。

そして面白いのは、金兌換性の当時は、金銀の価値と言う絶対的な保証のもとで貨幣経済がなりたつのかと思いきや、ポトシ銀山の発見など、金銀の使用可能量の増加によって銀の価値が上下したりするという話です。ここら辺の話はアベノミクスの量的緩和に通じる話で、昔からそういうメカニズムはあったのだなぁと。価値の尺度となる貨幣自身も価値が上下する変数となるというのは、面白くも面倒臭いですね。

労働の真の価格は労働に対して支払われる生活の必需品と利便品の量であり、名目価格は労働に対して払われる金銭の量。労働の報酬が高いか低いかは真の価格によって決まります。

同じ時期、同じ場所であれば真の価格と名目価格の比率はどの商品でも同じですが、時期が違ったり場所が違うと価格差(=裁定)が発生し、それもビジネスチャンスになると。確かにもう表参道ではだいぶ空いてるエッグスシングスも船橋では行列ですものね。

極未開な社会では労働の生産物は全て働いた人のものになるが、資本を蓄積する人が登場すると、労働者が原材料に付け加えた価値は、資本を事業に投じてリスクを取った事業主の利益と労働者の賃金の2つにあてられます。更にその土地が私有財産の場合、地代が価格の第三要素になります。

そうして作られる商品の"自然価格"とは商品の値打ち通りの価格、つまりその商品を市場に供給した人にとって実際に要した額に等しい価格です。この実際に要した額は原価や元値と違って、資本の利益(売り手の生活費)としてその地域での通常の利益率も加算されたモノです。

そして実際に売買される一般的な価格を市場価格と呼びます。アダムスミスは市場価格は需要と供給のバランスにより自然価格に収斂していくと述べます。それは儲からなくなった事業をやる人間がどんどん減っていき、もうかる事業に人が向かうからというロジック。確かにマット・リドレー著『繁栄』にはアメリカでは毎年19%の事業が入れ替わっていると書いてあったきもします。ちなみにこれは経済学トリビアなのですが、アダムスミス自身は「神の見えざる手」という表現は使わなかったようです。

しかし、スミス自身、この神の見えざる手は現実では慈雨分に働いていないと述べます。それ徒弟制などの職業を少人数に限定する法律によって職業移動の自由がはばまれることなどを挙げています。

労働者にとって経営者からいい条件を引き出せるときは、労働者の需要が増え続けている局面。労働賃金の上昇をもたらすのは国富の大きさではなく、国富の増加が続くことだそうです。ここら辺の話は日本よりシンガポールが勢いがあるから一人あたりのGDPにも勢いがあるという話や、長期デフレを何とかしてインフレに持っていきたいという経済政策にも通じる話です。国富が大きくても長期にわたって停滞している国は労働の賃金は高いとは考えられないそうです。

また、貧しい人は結婚への意欲が弱まるが、結婚できなくなるわけではなく、貧しい方が子沢山になるという論も出てきます。スコットランド高地地方で栄養失調に近い女性は20人以上子を産むのも少なくないが、贅沢三昧の貴婦人は子供を一人も産めないことも多いし、大抵2人か3人で精一杯だそう。享楽への情熱が強くなるから、なんて話は現在の先進国の少子化にも通じる話ですね。
ちなみにスコットランドの20人の話には裏の理由があって、20人生まれても環境の厳しさから2人も生き残れなかったそうです。

また、スミスは人口の最大部分を占める下層労働者が幸せに暮らせるのは豊かさが頂点に達した時でなく、社会が前進している時だそう。停滞している時は元気が無く、衰退している時は憂欝。どこかの国のエセリベラルな保守主義者に聴かせたいwまた労働の報酬が高いと庶民は勤勉になり、未来の為にも働くそうです

労働の賃金は快くなく、厳しいほど高くなり、仕事を習得するのが難しいほど高くなります。またいつもある業務か、臨時の業務かでも異なり、臨時の方が高いです。これは日本は派遣業でしっかりこのルールでやらないとアンフェアですね。その他社会的信用の高さや、成功を収められる可能性が高いかどうかも高低に影響します。面白いのは弁護士のような成功を収められる職業は、鳴りたいと想っている人に比べて成れる人が少なく、その敗者の分も勝者が総取りしているから高くなると。若い内は自分の能力を高く見積もりがちですからね。しかしその自惚れが社会を動かす原動力にもなっているのですね。

実際にはその他、地域地域での特色があり、当時の欧州は住む場所の移転が不自由でしたから、スミスの理想はなかなか難しかったそうです。都市部でないと成功し拡大できない業務もありましたしね。

また文人は聖職者になる教育を受けたが聖職者に成れなかった人の成れの果てだったそうです。少なくとも印刷技術ができるまでは文人は教師になるくらいしかなかったそうです。教育の安価化によって文人がギリシアの昔から比べると天と地ほどきつくなってきているという話は、インターネットによって苦しんでいる活字産業にも通じる話ですが、スミスはこの不平等は社会にとっては総合的にはいいことだと論じています。

その他、面白かった論では、高価な商品の総額よりも、安価な商品の総額の方が大きいという話。甲本ヒロトが「一番売れてるラーメンが一番美味かったら、一番美味いラーメンはカップヌードルになるぜ」という話を逆から読んだみたいで面白かったです。更にいえば、豊かな国ほど高級品が高値で売買されるようになるという話も面白く読めました。社会が発達し、富が増えれば、モノは自然と高値になっていくという。トランスナショナル化と失われた20年が進む日本ではなかなか上手くいっていませんが、綿密にデータに当たって書かれている本書を読むと、経済学は学ぶ価値があるなと想わされました。労働者と地主は自分の利益を最大化すると社会の利益も最大化するが、雇い主が利益を最大化しようとすると社会の利益が損なわれることもあるというのはブラック企業や内部留保に通じる話で、現代にも通じます。

というか、経済学部に限らず全学部でこれが読まれたら、国の活力が変わるかもレベルの読書体験。
今後の2~5編も楽しみです。

アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第二・三編読書メモ
アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第四・五編読書メモ
アダム・スミス著 村井章子+北川知子訳『道徳感情論』"もしアダ"が書きたくなる稀代の"いいね論"
by wavesll | 2016-03-29 16:25 | 書評 | Trackback | Comments(0)

マット・リドレー 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』 交易と創新による10万年の商業史

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マット・リドレー著 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』を読了しました。

人類が文明を発展させた要因は"交換"とそれによって起きた"分業による専門化"、更に"アイディアの生殖によって起こされるイノヴェーション"にあると論じた本書。

10万年前の手斧石器から、古代・中世、そして産業革命以後から現代(2010年初版発行)に至るまでの人類史を"世の中はどんどん良くなっていて、これからも良く成り続ける"という楽観論を夥しいまでのエビデンスの印象によって説得を聴く読書体験でした。

比較優位による自由貿易が繁栄を約束し、今身の回りにあるモノは、数千人、数万人の協業によって創られていること。或いは、交流を行わなくなったタスマニアの民の中で技術が退化して行ったこと等が論じられます。

“自給自足は貧困を産む”と。TPPとも関係づけられる話でもありました。

果たしていま日本で出来る比較優位な産業とは何なのか?あるいはマット氏が論じる貿易の自由によって、逆にルサンチマンは堪らないのか。或いは"ウォルマート"のようなスーパーは昔ながらの個人専門店の"分業"を壊しはしないか。

本書が出た後起きたシリア内戦で欧州に人が流入しているが、富を貪っていた欧州が自由を与えないのは不義理でないか。さらに言えばマット氏の地元、イギリスなどEUとしても福祉を認めない、このナショナリズムにおけるバックラッシュを考えたとき、単なる楽観はいただけないかもなと想いながら読んでいました。

特に"人類全体としてみればどんどん繁栄している、現代人はルイ14世と同じ暮らしをしている"といわれても実際に経済的幸福は相対的な順位で決まるだろうし、或いは悲劇に終われた人からすれば"全体が良くなったって自分には関係ないよ"と想うかもしれず、進歩のスピードが落ちても公がすべき仕事はあるように思えます。

一番面白く読めたのは"再生エネルギーは環境に悪い、化石燃料がいかに人類と環境にとっていいのか"と言う部分。再生可能エネルギーは土地を使うし、自然の景観を壊すのみならず、原生林に使える土地も減らしてしまうとのこと。

更に著者は遺伝子組み換え作物にも肯定的で、従来の小麦だって放射能を浴びせ突然変異させたものを口にしているのに、環境活動家によって遺伝子組み換え作物が、飢餓に苦しむアフリカですら忌み嫌われている、90億人になるとみられる人口を養うにはこの道しかないのに。しかも有機栽培も多くのエネルギーを消費するじゃないか、と論じます。

ここで想いだしたのは、学生の頃参加した"懐かしき未来"という講演会でスピーカーが「古来からの精神的に豊かな暮らしに立ち返ろう」と言う話をしていた時に自分が質問した「では地球の人口はいくつが最適だと思いますか」というのにはぐらかされたこと。昔ながらの生活は土地を使うし、ある意味とても贅沢で、現状の70億人もそれでは養えない。人類にとっての幸福の最大化とは何か、というのを考えざるを得ませんでした。

マット氏は、都市化が進むことで原野が蘇るかもしれない、とか、出生率は20世紀後半から先進国で落ち始めているし、もっと最近では少し持ち直し、人口増を抑えながら維持するようになっている、とデータを示して論じます。

ただ、彼の論は最初に反対する悲観論者の話を挙げ、それへの反論、と言う形で進むのですが、これ、逆にしても通じるのではと想うところもありました。

また博覧強記振りも示してはいますが、江戸時代を貧困の時代と言いイギリスの産業革命を持てはやすのは100万都市江戸の町人文化を知っている身としても異論があり、ツッコんでみれば誤りがありそうな気がしました。それでも、自由な商売環境が実際的に人類を豊かにしてきたというのは、この星全体では正しい噺だと思います。

未来に対する楽観論を、まさに数々の先行研究のサンプリングで明らかにしようとする姿勢は"アイディアの交配によりイノヴェーションは向上する"というのを身をもって示していて、なるほどなぁと想わせることもあり、生物学者の眼で見た人類10万年の商業史として面白く読むことが出来ました。

とかく批判論がのさばる未来予測に新風を巻き起こしただけでなく、悲劇を求めるメディア・エンタメ、そして政府・学者に対して"でも実際生活って向上してるよね"と楽観で水を差した本書。ともすれば"アーミッシュもいいなぁ"と想ってしまう自分に"創造的破壊"の世の中を渡る心構えを与えてくれました。

BABYMETAL - New Album 「METAL RESISTANCE」 Trailer


Avicii - True (Full Album) (Deluxe Edition)

by wavesll | 2016-03-08 02:06 | 書評 | Trackback | Comments(0)

常に最大の効用生産性を発揮するのが幸福なのか -ザック・リンチ/ニューロ・ウォーズを読んで

ザック・リンチ著『ニューロ・ウォーズ』を読みました。
c0002171_11502516.jpgfMRIによって進行中の脳の分析ができるようになって進んだ"ニューロ技術"を紹介する本書。

神経法学、マーケティング、金融、社交、美学、宗教、戦争、感情の整形、から論じる。6年前の本だが衝撃的でした。例えばこれから犯罪を犯すかどうかの意図を顔の筋肉から読み取る技術であったり、最前線で最大のパフォーマンスを行うことが求められるトレーダーや軍人は、ニューロ器具や精神に作用する薬を使って、人工的に"ゾーン"に入るようになるという話。藝術による脳内反応を分析して、より効果的な快楽を創りだせるようにしたり、神経内部の現象として神を捉えたり。

特に著者が力を書いていた法律面でのニューロ技術の導入の話は、分析の正誤の確率をしっかり話してくれたので、鈴木松美 編著 『日本人の声』よりも信頼できるかもとも想ったのですが、もう一つ深く書かれたいた軍事技術への転用の話は、"記憶を消す兵器"だったり"嘘をつけなくする薬剤"だったり、"すぐに筋肉が回復する装置"と俄かには受け入れずらい話でした。科学誌に論文が載ってる確かな話らしいですが。

受け入れずらいと言うのは、著者はこれからの20年は好むと好まざるにかかわらずニューロ技術を持つものが、競争に勝つ。トップ層の戦いに参加するためには、或いは敵に負けないためにはニューロ技術を推進しなければならない。とのことでした。

話を読んでいると、"悪の枢軸を打ち負かすため"との話が良く出てくるのですが、読んでるこちらとしてはアメリカこそが邪悪な技術を追い求める国家のようにみえてしまうのは否めません。

また、神経美容といって、記憶力を高める薬だったり、リタリンみたいなハイに慣れる薬が米国の学生の間では広く使われている。精神的な能力を補い増幅するために薬が使われるという話は、異様にも感じました。

しかし、それはアナクロな価値観かもしれません。"ニューロ技術は否応なく広がる"という著者の話は正しいと思うし、過去にはLSDも合法だった時代があったり、現代でもタバコとアルコールは摂取しているのは許されているし。実際日本でも神経美容薬と言うか、最近、あがり症に聴く薬、なんかのCMやってますよね。

或いは自分は"薬を使わない"ということを一つの誇りとして、薬を使わずに快くなるように音楽や芸術を使っているのですが、それはある意味、より良いオーガニック・ドラッグを探し求めているということかもしれません。結局目的は脳内麻薬を出すことなのだから、薬でも同じかもしれないし、それは素晴らし体験なのかもしれない。食わず嫌いなのかもしれません。

依存症にならない脳内麻薬発生装置ができたら、それはいいことかもしれません。『ウルトラヘヴン』のような世界が来るのかもしれません。

ただ、自分は、世俗的な生活ならば、精神の安定から最大の効用生産が行われると想うのですが、こと芸術に関しては、苦しみとか痛みとか哀しみとか、負の感情から名作が生まれること、あると想うのです。いつでもいつまでもハッピーで、常に最大出力で、最大の生産性を産むのが生きる目的なのか、そこには自分は一つの翳を観てしまう気もします。本書の中でも"悲しみが脳に深い感動を与える"とも書かれていましたが。

魔導技術のようなニューロ・テクノロジー、これらが世の中に広まり、森羅万象の全てが脳内の信号としてある程度把握されていく、操作されていく未来がやってくるのだな、と想いました。だからこそ、"生身の魔法"の価値が上がっていくのではないだろうかと想うと共に、ニューロ技術をその生身に掛け合わせるために使っていくのが、この先の世の中をヒトが生きていく方針なのかな、などと想いました。

人間の脳は1万年前からあまり変わってないし、特に感情をつかさどる部位は、哺乳類とか爬虫類脳とも言われています。技術をものにするために、身体がストレスを耐えられない負荷を感じていることからの軋轢は、ニューロ技術だけでなく、ある意味古代的な様式も重要になるのかもしれないと、この本を読んで逆に想った自分はやはりアナクロ爺の素養があるかもしれませんねw

Kenji Kawai - Cinema Symphony - Ghost In The Shell OST

by wavesll | 2016-03-05 12:37 | 書評 | Trackback | Comments(0)

洋楽と比べ邦楽は細く聴こえるのは何故か? - 鈴木松美 編著 『日本人の声』 読書メモ

今日もまた横浜中央図書館に行って、本を借りてきました。それがこれ。日本音響研究所のTVに出てる鈴木さんが、発声のメカニズムから、声から何がわかるか、そして日本人の声について書いておられました。洋楽と比べ邦楽は細く聴こえる疑問が氷解。なかなか面白い新書でした。鶯とウグイス嬢の声紋分析を比較したり、鈴木氏が関わったバウリンガルの開発話も。このエントリでは読書ノートとしておっと想ったところをメモしていきます。
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・声が"言葉"になるには、咽頭・鼻腔・気管で共鳴することが大きな要因である。共鳴体が大きければ低い音に共鳴、小さければ高い音に共鳴。(cf. ヴァイオリンとコントラバス

・声は口腔からの周波数や鼻腔からの周波数が上手く混ざったところで完全な声になる。それは口から12センチ離れたところ。そこから完全なる声になる

・人間の聴覚は約30~17,000ヘルツだが、聴きやすい周波数は大体2,500~4,000ヘルツ。自然界の音は幅広いが、人間の声は周波数幅が狭く、聴きやすい周波数を多分に含んでいるので、人の声は聴きやすい。更に、同じ大きさの音ならば、意味のある言葉を人間は無意識に聴こうとする

・人間が聴きとれる上限は約17,000ヘルツ程度といわれているが、超音波(20,000ヘルツ以上の音)に清涼感を覚えることがる。実際に実験すると、老若男女問わず、約9割の人が22,000ヘルツの音に脳波反応した。また、受け取り可能な周波数は言語によっても差異がある。英語には超音波まで含む発音が多く、英語を話す人たちはそういったレベルの音まで受け取っている

・風呂場で歌うと上手く聴こえるのは①風呂全体がエコーボックスとなり声の揺れが目立たなくなる②湯気で周波数の高い音が削られ、声が柔らかく聴こえる③水蒸気が声帯の皺を埋め、声帯の振動をスムーズにしてくれるから

・ヘリウムガスで声が変わるのは、一般的に気圧が低くなると声帯は振動しやすくなり、声は高めになるから

・声には、鼻が詰まったりして鼻腔を使わない鼻声と、鼻と口を正しく使った喉声がある。発声方法には喉の筋肉を使う方法と肺からの空気のスピードを変える方法つまり腹式発声がある。腹式発声を主に使う声として歌声がある。普段の声は悪いのに歌声は美しい人がいるのにその逆が無いのは、歌う時は意識して技術的に発声するが普段の声は意識や訓練なく発声しているから

・TV番組の実験で、声を出す時プロ歌手は腹筋80に対して喉の筋肉20という割合で使い分けていた

・声は声帯を振動させ口の中に共鳴体を作り外部に発するもの。大きい太鼓と小さい太鼓を叩いた時で音が違うように、人間も大きな顔の人は声帯も大きいので低い声、小さな顔の人は声帯も小さいので声は高くなる。男性と女性でも声紋は異なる

・周波数分析に使う変換式は仏数学者フーリエが発見したフーリエ変換という。CDやネット上の音源もフーリエ変換で音をデジタル化している

・性別の他、声紋からは体格、背の高さを推測できる。「ファントの法則」という理論が、背の高さと声の高さが、ある係数を加えて反比例することを証明している。背の高い人はパーツも大きく低い声。2003年現在では5センチ刻みで身長を判別できた

・声は25才を過ぎる頃から劣化していく。声帯と、口の構えを作る筋肉、神経の伝達能力の劣化から。そのような条件を組み込んで声を検証すると、年齢を5歳刻みで推測できる

・方言によって出身地が分かる。特徴を消すようにしても、かなり本格的な訓練を受けない限り自分が18才までに暮らした場所特有のアクセントが残る

・その人の職業が言葉や話し方に多大な影響を与える。教師は相手の話を余り聞かず、畳みかけるように話し、敬語が上手く使えない。接客業の人は、相手に好印象を与えるために反応を伺う適切な間を取り、特徴的なリズムを持つ

・声の周波数の乱高下で嘘をついているかわかる。聴いて分からない時も周波数分析で確実にわかってしまう

・アジア民族は広い草原や山々の中、より遠くへ声を届かせる為、周波数の高い音が必要だった。またアジア人全般、アングロサクソン系より体格が小さく、声帯も共鳴体も小さく、声は高くなる。しかし、日本語は高周波を必要としない言語なので、周波数は高くないが音域としては高いと言える

・日本人は腹式発声している人が少ない。日本語が肺からの空気圧を余り必要としないから。アジアの言語は言いを使わないで発せるものが多いが、韓国語は息を使った発音が多く、その意味で英語に近い

・東洋人はアングロサクソン系を比べると、頭の形が横幅が広く奥行きが短い。共鳴体の違いでその民族にとって出しやすい音があり、民族に適した言語体系になる。狩猟民族は肺活量が多いとか、アフリカのお皿を入れた下唇で発生しやすい言語体系など

・気象条件も声に影響を与える。寒い地域の人々は空気を沢山出すと体温に影響するのであまり口を開かずに声を発する。

・日本の女性は、言葉遣いの男声化や体格の発達から、声が低音化している。逆に男性は女性の社会進出の影響を受けてか高音化している

・縄文から弥生時代には日本では母音が8つあった。中国の影響の強さからか。

・日本でいい声とされるのは「渋くていい声」だが、欧米では高くて透き通るような声がいい声だと認識される
by wavesll | 2016-03-01 22:55 | 書評 | Trackback | Comments(0)