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『ブレードランナー ファイナル・カット』& 爆音上映 at 新宿ピカデリー『ブレードランナー2049』 ミレニアルな気風に向けた”神話”への端正なANSWER

Blade Runner 2049 Original Motion Picture Soundtrack by Hans Zimmer - (HQ) (HD)

『ブレードランナー ファイナル・カット』をBlu-Rayでみて、新宿ピカデリーにて爆音上映会『ブレードランナー2049』をみてきました。

『ブレードランナー』そのタイトルは今まで幾度も目にしてきて。そもそもサイバーパンクというジャンル自体がこの作品が打ち立てたものだというイメージとか、”神話”というか、二次的現象、三次的現象によって肥大化した巨大すぎる存在に思えて逆に手を付けてこなかったのですが、友人が「これ(2049)はいい」と言ってSFを読み始めたのもあって、今回この頂に登ってみたのでした。

『ブレードランナー』は端的に言えば「愛の映画」でした。

先日萩原朔太郎の『猫町』を聴いて”SFとは異郷への旅ではないか”と想って、この映画にもvaporwave的な異郷、すなわち非アルファベット圏である日本と中国が入り混じった電子的なディストピアのヴィジュアルの原像が打ち立てられていて。その後士郎、押井、ウォシャウスキーへと続くサイバーパンクの多重世界を跨ぐブロックチェーンの連綿をみた気分でした。

サイバー・ディストピアなエキゾチズム、それは『クラウド・アトラス』におけるネオ・ソウルにしてもそうですが、北米からみた”異郷・異文明”のエキゾな精神性がまず迫ってきて。しかし『ブレードランナー』が素晴らしいのはヴィジュアルのみの映画に終わらず、人間存在のソウルに訴えかける最上にエモーショナルな作品だったところにあります。

レイチェルの存在、ブレードランナーとしてシステムの中に強制されていたデッカードがヒトとしての選択をする、その愛へ駆られる、「人間でありたい」というココロが真に迫る。そしてサイバーパンクなお膳立てがあるからこそ、斜めに構えた野郎共の心にも届く、”ここまでやられたらロマンティックにならざるを得ない”という映画。

そしてみた『ブレードランナー2049』、これもまた愛の、今回はロマンスというよりも”親からの愛の渇望と喪失”の物語でした。

オリジナルでは「デッカードはレプリカントなのか」という議論がありましたが、今回の主人公のKはそもそもレプリカント。幼少期の記憶は一応あるけれども、それは移植されたもので、LAPDの上司をMOMとはいうけれども本質的には親はいない存在。そんな彼が”本来ありえない『レプリカントが産んだ子供がいるかもしれない』という捜査につく”という物語。

今回劇場で観たいと想ったのはこの映画の音響面を褒める意見などを聴いたからで。大変感心したのは『ブレードランナー』な世界観のリヴァイバルなvaporwave/Futurfunkへ行かずにDrone/Experimental/Industrialな音になっていたこと。蜂の羽搏きを鳴らした時なんかは明確にその意思を感じて。劇中でオールディーズが旧い郷愁として鳴ったのも相まって、近未来の米国への再到達というか、現代のインダストリアル・アンビエントとして音を鳴らそうとするこの映画は非常に美麗でした。

この映画はけれども、NTR的というか、愛を裏切られて喪失しながら味わうマゾヒズム的な聖性の物語でもあります。それは”ソウルがない、老人的だ”なんていわれるミレニアル世代にとっての真情挽歌なのかもしれない等と想いました。ラブプラスならぬJOIのAIホログラムによる恋愛関係は”何が疑似でなにがリアルか”が曖昧な今の時代の気分を顕わしているようにも思いました。

父的な厳しさと粗野さの究極は”国家”だと思いますが、そうした父権が否定され優しいChillが志向されるからこそ、逆説的に父の愛、父からの承認を求め、しかし不完全な男性としての父親に突き放される。そんなアダルトチルドレンな映画でもあるのではないかと感じました。

その上で、クールさが突き抜けインダストリアルなつくりは『Ghost in the Shell』は押井版よりも人間味あふれる士郎正宗の原作漫画が好きな人間としては”もっと人の熱があっても良かったのにな”とは思いました。この中ではデッカードとKの怒りは人間の熱気を発していたかな。

中国のPM2.5の極まったようなスモッグが吹き荒れる混迷な世界の中で、”今まさに物語が始まる”オリジナルにも重なるラスト。大音響で浸るには最適な美しく破壊的な現代の映像詩は”神話”にどう応えるかという課題への端正な解答にも想える出来でした。

by wavesll | 2018-02-27 04:53 | 映画 | Trackback | Comments(0)

BABY DRIVER 音楽と深く結びついた主人公の人物造詣が魅力的なクライム映画

Baby Driver Trailer #1 (2017) | Movieclips Trailers

BABY DRIVERをみました。
映像と音楽のシンクロが一番の売りと聴いていたのですが、動的シンクロだけならエヴァのOPの方が凄いなという感がして。英国人監督によって抽出された”This is U.S.”な感覚も、民族音楽好きとしては”もっとトロドロの妖しさが欲しい”と途中までノリきれなかったのも事実ですが、それはバーフバリの後にみた故の感想かもw

ただ主人公ベイビーの母親役をスカイフェレイラが演じることとか監督の音楽愛が随所に伝わってきて。古き良きロックがかかって起動するドライヴシーンを始めとし、ベイビーの人物造形に音楽が深く関わっていて。フィールドレコーディング・サンプリングには唸らされました。70sRockerだけでなく宅録族の心もくすぐるこのベイビーというイメージを打ち出しただけでもスマッシュヒット。

また他の役者たちも素晴らしくて。特にジェイミー・フォックス!このタチ悪い感じはモノホンと想わされるような存在感。ケヴィン・スペイシーの悪役の嵌り具合もハウス・オブ・ザ・カードに続いてよかった。そして女優二人の美女さも最高でしたw

ゲッタウェイ・ドライヴァーの物語というとレフンの『Drive』が想起されますが、本作はよりSweetにドラマを描いた感覚。なかなか楽しめる一本でした。

by wavesll | 2018-02-15 22:51 | 映画 | Trackback | Comments(0)

器がない兄が見た『バーフバリ 王の凱旋』&『バーフバリ 伝説誕生』

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「バーフバリ 王の凱旋」予告編

今話題沸騰のインド映画、『バーフバリ 王の凱旋』をみてきました。この映画は前作『バーフバリ 伝説誕生』からの完結編なのですが、本編が始まる前にダイジェストが流れるし、本作から見てもみれます。ただDVDとかで前作を見てからの方がいいかもしれません。

全世界で300億円を売り上げている『バーフバリ 王の凱旋』。Webの評判で”『MADMAX 怒りのデス・ロード』並みの神話!これをみればみな「バーフバリ!バーフバリ!」となる!”という絶賛具合に惹かれてみたのですが、実は途中までそこまでノリきれなくて。

神話的なつくりが大味に感じたというか、闘う女性像を打ち出していたのはわかるのだけれどもその点は『怒りのデス・ロード』が勝っているように感じたし、何よりこれを言っては詮無いのですが、王家の血を引く素晴らしい人物という主人公像が前時代的に感じて。

そういった意味では『シン・ゴジラ』の官僚たちの方が現代性が有るように感じたのでした。勿論”大衆が求める英雄像”は国によって異なるし、”俺はノリきれないけれどこのダイナミズムが絶賛される理由はわかる”と途中まで見ていて。

ただ或る視座を持ってから一気に物語が”自分事”になって。そのパースペクティヴは『器のない兄にとっての弟』というもの。

私は弟から尊敬されてはいない兄で。それどころか軽くみられるような具合。それも客観的にみれば私自身が甘ちゃんすぎて人の上に立つ器がない故で。

インドに儒教的な価値観があるかは不明ですが、弟から敬意を得られている感覚がない兄というのはどうにも具合が悪く。それは己の責任なのですが、その歪んだルサンチマンがバーフバリの兄を悪漢とさせてしまったのではないかと。

そんな訳で敵役に半ば感情移入する形でこの映画を見たのでしたw

ただ、私自身はこの邪悪な兄よりかはすこしはマシな心の在り様になれたのは、弟からの承認を明らめたことにあります。

愛ゆえに憎しみが湧くというか、承認欲求が満たされない故に苛立つことってあるのではないでしょうか?情を薄めることになるかもしれないけれど、承認を放棄することでその分憎悪に囚われることも減った気がします。

想えば年下の人間に成熟を求めるのも理不尽な話、そして一分野において劣っていたとしても全分野で敗北する訳でもなく、適切な距離を置くことが無為な衝突・消耗を避けることに繋がる。相手の美点も汚点も第三者的に観るのが肝要だと。

それに器を拡げる、或いは配慮を与えることをせずにただ敬意を受けるというのは理のない話。ましてや恐怖で得ようなんてのは最悪手、器とはいかに下に自由にさせられるかかもしれない、私欲を越えた行いこそが善君の在り様かもなぁなんて考えていたらラストバトルが終わっていました。

そんなわけで様々な想念が湧くいい映画で帰りにパンフも買ってしまったのですが、パンフは『マハーバーラタ』からの絵解きや『十戒』や『ベン・ハー』等の古典へのリンクばかりが語られていて、”本当は読みたかったのはもっと具体的で直接的な演出や演技についての話なのになぁ”とは想ったり。

これは好き好きというか、こうした文脈・血脈を語ることにも意味はあるとは思うのですが、ある映画の良さを語る時にその素晴らしさを”参照先からの正当性”に求めるよりも、その作品そのものに語れたらいいななんて最近は想っていたのでした。

なーんて言いながらこのエントリでは自分語りをガンかましてしまっているのですがw少なくともそこまで人の心の扉を開くエナジーに充ち満ちた映画でした。

2/2 追記
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Blu-rayを借りて『バーフバリ 伝説誕生』をみました。後編への伏線にあふれていて”時系列の入れ替えも含めこれは続けてみたい、まさに2本で一本だ”と想いました。

改めて舞台のヴィジュアルが素晴らしい。滝もそうですがマヒシュマティの王宮の威容が神話的な堂々たる迫力を支えていました。

また感心したのは戦闘スタイルが人物造形に繋がっている事。シヴドゥが滝登りで鍛えた肉弾派のファイティング・スタイルならば父バーフバリは王家の武術を学んだことを顕わす武具を卓越したファイティング・スタイル。

また『伝説誕生』の戦国無双を思わせる闘い方から『王の凱旋』では水戸黄門的な諸国漫遊からの一気に締めるスタイルなのは、武将から個人への物語のダイナミズムを表している気がしました。

また後編を見て上で綴った名君の条件は前編ではさらにあからさまに描かれていて、民を想う優しさ、兵を鼓舞する指導力、そして戦いに際しての機知と、これは大した王だ、と。その上で1・2共にヒロインがバーフバリに惚れるのはその強さに於いてというのも、男の条件を提示しているようにも感じました。

自分の権威を誇示したり、「俺はこれだけのことを為しているのに認められない」と”(正当だと自分では思う)取り分をよこせ”と喚くのは見苦しく、それは価値ある人だとしてもその価値を損なうことになってしまいます。バーフバリの無自覚な素晴らしさは実力に裏打ちされた上での利他精神にあるでしょう。

その上で、それは無自覚に(劣る者から)取り分を奪っているとも感じて。現代のテロリズムは弱者の凶行というか、まともに戦った結果勝てないことを理解した上で支配され奪われるわだかまりを無法に向けてしまっていると。

人生は奪い合いであり、そして最適化の結果が社会の在り様でもあります。その上でテロルに堕ちないよう世界の内に別次元のアジールのような曖昧な情況を維持した上でスポーツマンシップなエリアで競うことが大局の安定化にもなるのかもしれない、けれども実力・正義の人は、翳には配慮はしないかもしれない。ならば、生存空間を開くほかない。そんなことをこの豪気な映画を見て想いました。

by wavesll | 2018-02-01 21:19 | 映画 | Trackback | Comments(0)

『グーニーズ』が"家からゆける魔宮の伝説"で最高だった

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『The Goonies』をみました。
土地を取り立てられかけていて街を出なければならない主人公マイキーの家にはグーニーズ(間抜け団)の面々が。
屋根裏部屋に隠されていた海賊の宝の地図をみつけて。一方で悪名名高いフラテリーズ一家が脱獄し…というオープニング。

最初のグーニーズの悪ガキ達の悪戯をみていると「おいおい(汗 それやっちゃ迷惑になるじゃないか」と”あぁ、この映画は子供のうちに観ておかないと愉しみきれない奴なのかも…”と危惧したのですが、それは杞憂で。中盤以降のグイグイ引っ張る展開に心躍らされました。

”このワクワク感、インディージョーンズみたいだ”と想ったら製作総指揮はスピルバーグ。自分の地元での秘密基地感覚の探検から海賊の残したお宝へ、ワナを潜り抜けて怖い悪人に追いかけられながら最高の冒険を行う。手に汗握る感覚に”これ、TDRやUSJにアトラクションにして欲しい~!”と強く想いました。

『ゼロ・グラビティ』や『MADMAX怒りのデスロード』も最高のアトラクション・ムービーで、”もうこれを遊園地のアトラクションとして恒常展示してほしい”と想ったくらいでしたが、この『グーニーズ』も遊園地や或いは巨大室内プールでキャニオニング的なウォータースライダーと共に再現して呉れたら最高だなと。

今はディズニーランドでもフィルハーマジックで4Dxを駆使したりしてて、ノースポートモールのゲーセンのARゲーキャットストリートのGalaxyのVRアトラクションもそうですが、拡張現実がアトラクションになっていく流れがあると想います。それでもモンスターズ・インク“ライド&ゴーシーク!”のように手触りが伝わるリッチな体験の強みが物理的なマテリアルにはあるなぁと。

藝大美術館「素心伝心ークローン文化財 失われた刻の再生」にてみた敦煌莫高窟 第57窟等のクローンもそうでしたが、空間も含めたミクストメディアなArtとして、遊園地や映画館はインスタレーションの最新系としてアトラクション的に発展していて。美術展も含めて”空間性”そして”双方向な運動性”がキーになるのではないか、なんて思ったりしました。

それにしても『グーニーズ』、こんなに夢の詰まった映画も中々ない。家から始まる冒険譚。子供心を刺激するプロットや演出は初期ドラゴンボールドラゴンボールや名探偵コナンの少年探偵団の原型がここにあるのだなぁと。いい映画をみました。

by wavesll | 2017-11-23 10:34 | 映画 | Trackback | Comments(0)

MAD MAX BEYOND THUNDERDOME ー FURY ROADへの一里塚

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マッドマックス 怒りのデスロード4Dx@新宿TOHOシネマズ感想&1・2観た後の追記からMAD MAX FURY ROAD BLACK & CHROME at 川崎チネチッタ LIVE ZOUNDを経てどっぷりと嵌ってしまったMAD MAXワールド。

そんなMAD MAXの三作目、『MAD MAX BEYOND THUNDERDOME』がBSフジで放送されていて今回映画全作をみることができました。

何でも『迷作』とも言われていると聴いていた『サンダードーム』。
確かにみてみるとマックスのいた1作目から繋がる非SF世界からの世界観と、バーターシティの輩たちの2作目的なヒャッハーな世界観に加え、オアシスで原始共同体を営むキッズ達の世界観があるため、ちょっと主題がぼやけてしまった感がありました。

またアクションの見せ場もMAD MAXの代名詞ともいえるいかついカーアクションは終盤にあっさりめに出てくる感じで、中盤のサンダードームでの格闘がメインのアクションの見せ場で、新しいことを試そうという気概は感じるものの、迷作とまでいかないまでも、TVシリーズの異色回のような実験作であったと感じました。

ただ、この三作目、特に『怒りのデス・ロード』に嵌った人にとってはそのプロトタイプとしての面白味にあふれていて。

ウォーボーイの原型となるキャラがいたり、甚大な砂嵐が登場したり。『FURY ROAD』はフェミニズム的な感性で創られたという論がありますが、既にそれは今回のラスボスがティナ・ターナーが演じる女支配者であるという点に萌芽があるようにも感じました。

この映画でのTry & ErrorがArtと言えるまでに突き抜けた会心の『FURY ROAD』に繋がったのだと想うと感慨深くて。

『ウォーターワールド』や、或いは『猿の惑星』もそうですが、現代の神話としての異世界構築モノが近年好きで。

ヨアキム・トリアー『母の残像』のように淡々と迫りくる演技の洋画は好きなのですが、今の日本のドラマのように戯画的な演技の現代劇はどうにも嘘っぽく感じて。それならば世界ごと造りこまれたSFが寧ろ本物らしく感じられるのです。

この『MAD MAX』シリーズの面白い所は第一作では実社会をベースにしたドラマだったのに、そこから2で核戦争後のヒャッハーな世界へBeyondしたところ。『Thunderdome』から『Fury Road』の間には三冊のアメコミのストーリーがあり、最新作の『FURY ROAD』も三部作構想の一作目だとか。拡大するMAD MAXワールド、さらなる跳躍がこれから起きるのではないかと、今から未来が楽しみです。
by wavesll | 2017-10-12 19:59 | 映画 | Trackback | Comments(0)

打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?

forever friends | REMEDIOS

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DAOKO × 米津玄師『打上花火』も話題のアニメ映画、『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』のオリジナル実写、今までそのキャッチーな題名は良く聴いていたのですが、いざTSUTAYAで借りてみて50分のTVドラマだったと知りました。

夏休みの或る花火の日、少女と少年の思春期の儚い一日が描かれていました。

同級生のはずの奥菜恵と山崎裕太、そして少年グループの役者間には年齢差も感じさせられましたが、映像効果も相まって、御伽噺的な抒情性の強い物語となっていました。

あの年頃は女の子の方が精神年齢が高くて恋愛を意識する一方、小学生の少年は男同士でつるむ方が楽しかったり恋愛なんて恥ずかしいと想っていたなぁとか、1993年発表のドラマ内ではスーファミのスーパーマリオが遊ばれていたり、丁度自分と同世代でノスタルジーに襲われて。

敢えて言えばインターネットに汚染されていなかった頃の少年少女の世界。例えば「花火は横から見たら丸く見えるか平べったくみえるか」なんか今は検索すればすぐわかってしまいます。

さらに大きいのは、昔は少年・少女だけの世界があったけれども、今はネットで”大人”にすぐ触れてしまう。それも罵詈雑言や大人の汚い所にも。

勿論、今の子どもたちならではの、例えばYoutuberみたいな世界が今もあることは分かっていても、三十路としてはついつい”あの頃、良かったなー”と想ってしまうなぁと。

”少年の目からみた少女”があまりに鮮やかに描かれていて、今の視点からすれば”この少女の描き方はあまりに男のファンタジーに過ぎるな”と想ったり。勿論現実にこういう神秘的な女の子もいるかもしれないけれど、”こんな少女妄想じゃねか”とw

そして、男は異性と付き合うことでしか精神的に成長できない領域があるなぁと。女の人のライフサイズな強さ、弱さを知ってからみた感想は多分小学生の時にこのドラマを観ても想えなかっただろうと思います。

物語のエモーショナルな鮮やかさ。時を経てまた新たな輝きを放つFantasicな名作でした。50分のドラマでちょっと時間余る位のボリュームの物語をアニメで90分でどう調理したのか気になります。

またいつかの8月にレンタルして観てみようと思います。8/31のロスタイムに夏休みの残り香を嗅ぎました。
by wavesll | 2017-09-01 01:34 | 映画 | Trackback | Comments(0)

ゆきゆきて、神軍

ゆきゆきて、神軍 予告編

『ゆきゆきて、神軍』をみました。受け止めきれない。ドキュメンタリー。元軍人が終戦の23日後に「戦死」したという兵士の死の真相を死に関わった元軍人に詰問する。終戦から40年目、それぞれの生活があって、公私の為に口をつぐんできた彼らを、粘り強く時に逸脱しながら追い詰める。逃げ出したくなる。

最初「敵前逃亡で銃殺」という話だったのが、「白人黒人の人肉を食べたことを口封じするために銃殺」という話になり、遂に「人肉として食べるために仲間の日本人兵士を殺して食べた」という真相を話させる。本当の瞬間の連続に、地獄を味わう。戦争は、人殺し人間性を失うのは、地獄。

問い詰める奥崎は、「和をもって尊しとする」からすれば狂人にみえます。空気が悪く成るどころじゃない、元軍人の家族の敵視の目、元軍人自身だって己の人生をもって口をつぐんできた傷口を抉る。それは「真実を後世に残して戦争の地獄を伝えるため」。彼は首謀者を殺そうとし映画の最後で発砲する。

「あいつ和を乱すから不愉快だ」、「大人しくなるのが利口」、「大人になって」。それを乗り越え問い詰めるのは狂気にも見え、そして暴力もふるい、実際狂っているかもしれない。それでも、そんな狂気の剣を奮ってでも戦争を止めることは、戦争の真実をむき出しにすることは…しかし戦争は、剥き出しの暴露が正当化される事象ではないか。

奥崎は犯罪者で、狂人かもしれない。だけど一部の理があって、それは命であって。賢く国際情勢とかを話す"ものわかりのいい知識人"は怜悧で麗しいかもしれないけれど、奥崎のような”異物”は社会にとって必要悪に感じました。人殺しの”普通の日本人”兵士の話す姿は、貴重な記録。

文章だと衝撃が薄いかもしれませんが、問い詰める修羅場の映像でみると本当に緊張が、本当の人生のストレスがあって。快い言葉、ストレスフリーなWebシステム、ヴァーチャルの世界でない。人間の体臭、脱臭されてない、昭和の、人間の体臭のあった日本人がフィルムに焼き付いていました。

奥崎を監督が観察する形で『ゆきゆきて、神軍』は進むのが、最低限の客観性がある点でした。これが奥崎自身が製作者だったら、完全に独りよがりのイッちゃってる映画になったと想います。あくまで冷静なカメラが事のなりゆきを捉えていました。

されど視るものも安全圏ではいられない映画。笑いでまぜっかえす芸人など勿論いない。仲間の人間を殺して食べたことを自白させられる元兵士の姿に胸が苦しくなったのは、自分自身が問い詰められて罪を認めさせられるような、自白を強要させられる対峙に感じたから。

私は戯言にあふれた、ゆるふわした日本が好きだから、ブルーハーツの言う「本当の瞬間」などなるだけ無い世界の方が快いと思うから、だからこそ多くの日本人が『ゆきゆきて、神軍』をみるといいと、ボンクラだからこそ想いました。

そしてボンクラ的に言うと、『ダイの剣を抜くとき』というか。人間、嫌われても、空気を乱しても、それでもやらなきゃいけないことがあって、スマートでない、狂った、病気といわれる人間かもしれないけれど、戦争っていうのはそれだけのものなのだという怨念ともいえる熱量が『ゆきゆきて、神軍』にはありました。

「今商売中だから、仕事してるんだから」と詰問から元兵士を家族が守ろうとしたのが印象的で。金儲けや”空気”を乗り越えるのは、今の日本だと狂気にも想える信念だけなのかもしれません。みんな嫌われたくないし。社会を潤滑に回し続けるのが是。

しかし「システムだから・ルールだから」そんな事を言わせない、本当の対決。これは日本の、現代の日本と言える時代のドキュメンタリー。戦争は何よりも”普通の人だった兵士”を不幸にする。「仕方ない、時代の流れだし、戦争になることもある」という坊ちゃんたちに『ゆきゆきて神軍』お薦めです。TSUTAYAで借りれます。

cf.
この世界の片隅にatユーロスペース

ちなみに『ゆきゆきて、神軍』もユーロスペースで公開され、3ヶ月は連日立見、単館で5400万円ほどの興行収入をあげる大ヒットとなったそうです。
by wavesll | 2017-08-15 21:45 | 映画 | Trackback | Comments(0)

山村浩二 『右目と左目でみる夢』@渋谷ユーロスペース

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山村浩二 右目と左目でみる夢 “怪物学抄” 予告編


山村浩二 右目と左目でみる夢 “サティの「パラード」"予告編


数々の映画賞を総なめにした『頭山』で著名な山村浩二さんのアートアニメ短編集、『右目と左目でみる夢』を渋谷ユーロスペースでみてきました。

終映後真っ先な感想は”あー楽しかった!”

アートスタイルが埋没的でないから多様なヴァリエーションでも一貫性があって、それでいてきっちり“楽しい”のがいい。高尚だけど退屈なのとは違ってエンタメとしての分かり易さの匙加減がハオでした。

予告編が公開されている『怪物学抄』や『サティの「パラード」』もそうですが、音楽にも感性を感じるのが好い。ジブリなんかもそうですが、名作には名曲がありますから。

そして勿論映像が素晴らしい。アニメって実写と違って描いたものしか写らなくて。だから抽象表現でも面白味の意図が出やすくて、そこで如何に偶然的なファンタジーを達成するかが腕の見せ所なのでしょう。

石川九楊氏が『書は筆遣いの軌跡、書する姿が立ち上がる』と映像的な楽しみを話してくださっていたけれど、山村さんのアニメはまさに筆のアニマというか、描書の姿が立ち昇る感覚で。

線と線の"間"が絶妙。短編には古事記や俵屋宗達などを題材としたものも。温故知新というか、本当にユニバーサルな価値は時の流れに淘汰され残ったものに在るのかもしれません。

盆の時期、私には認知症の祖母がいるのですが、祖母の妹であるおばさんが昨年亡くなってしまって。眠る祖母を訪ねると、目を開けて「今妹と話しているから」。心霊といいますが、霊魂というのは心の現象として実在しているのではないかと想ったり。私も昔の知己が夢見に出ることがあります。

imaginationが, REMの事象としてでなく、目が覚めている状態でめくるめく映像体験。真っ暗な劇場は現と夢の間にある空間なのかもしれません。

すっくと立ったARTとしてのフィルムを大変愉しく拝見しました。
by wavesll | 2017-08-14 17:33 | 映画 | Trackback | Comments(0)

『Particle Fever』”神の粒子”の意味を伝える、ニュースの裏の真実を映したドキュメンタリー・フィルム

PARTICLE FEVER - Official Trailer (2014) HD


BSプレミアムで放送されたのをHDに録っておいてみなかったままだった映画『パーティクル・フィーバー』を漸く観ました。

ヒッグス粒子を確認したCERN(欧州原子核研究機構)のLHC(大型ハドロン衝突型加速器)での実験を通した数年に渡るドキュメンタリー。

コメンタリーによると、この映画を企画したのはCERNの科学者で、だからこそ完全協力によってその内幕が赤裸々に映されていました。

ともすれば変人、あるいはお堅い白衣の人々と想われがちな科学者。この映画ではCERNの人達が人間臭く、そして遊び心を持ちながら、しかし真摯にこのプロジェクトにチャレンジする姿が描かれていました。

ヒッグス粒子が発見されて、ノーベル賞を獲得したというニュースはみていたけれども、こうしてそれに関わった人々の姿を知ると、ただのニュースが実際的な物語として伝わります。

そして、人間ドラマというだけでなく、ヒッグス粒子発見がいかに人間の歴史の中で位置づけられるかの「意味」が描かれていたのが大きくて。

この世界を成り立たせる素粒子。まだ未発見の素粒子の中で存在が予見されていたヒッグス粒子が実在することを証明できたことは勿論それだけで偉大な業績なのですが、実はヒッグス粒子の「重さ」が重要で。

と、いうのも物理学者の中で、この宇宙の成り立ちについて、2つの大きな視座が近年唱えられていて、どちらが正しいかがヒッグス粒子の質量によって示されるだろう、ということがあったのです。

一つは「この世界は超対称性によって美しくデザインされている」という視座。これは重力、電磁力、弱い力、強い力の統一理論にもつながる物理学者が追い求める、「世界は何故こうなっているかにはワケがある、それを解き明かしたい」という視座。

もう一つは「宇宙自体が無数にあって、こうしたマルチバースの中で、この宇宙はたまたま成り立ったものにすぎない」という視座。これは宇宙定数の不可解さからも予測されるところですが、完全な偶然、完全なカオスを認めなければならないことになる視座です。

ホモ・サピエンスという種が宗教という大きな物語を得たのは太古の昔ですが、ニーチェが「神は死んだ」といってから数百年、今心の底から信じられる大きな物語は"科学"であろうと私は思います。

人間の愚かさは数千年前から大して変わらなくても、科学は進んできた。そして宇宙を解明してきました。それは云わば神の御業を解き明かしてきた軌跡ではないか、私はそう想うのです。

神は自然を美しく創ったはずである、こうした予見は多くの物理学者に通ずるドグマだと思います。しかし、もしマルチバースだとしたら、この宇宙は偶然こうなったにすぎず、幾らでも他の宇宙は成り立ち、物理法則ですら”絶対的なもの”ではなくなる。そしてヒッグス粒子の実験は、この試みを左右する実験だったのです。

ヒッグス粒子が115GeV(GeV=ギガ電子ボルト)だったら超対称性理論で予測されていた数値、逆に140GeVだったらマルチバース理論が予測する数値。

HLCでの実験で得られたデータ分析から、当初「140GeVの結果が出ている」との報が洩れ聴こえてきました。しかし段々データが集まってくるとそれは有意な結論ではないと判明してきて。

そして、いよいよ実験報告の場。そこで明らかにされたヒッグス粒子の質量は約125GeVとのことでした。"自然"は超対称性とマルチバース、どちらの道も明確には示さなかった。科学の徒の径は、いまだ未知の荒野を進んで行く。

LHCでの実験で、一度大規模な破損が出たり、人生をこれにかけたポスドク、また自分の人生を丸ごと捧げた理論が正しいかどうかが審判が下される教授たち、これらのドラマ、さらに上に述べたような宇宙全体の真理、人類存在の意味すらがこの"神の粒子"の実験にかかっていたとは…!全然知らなかった!

報道メディアは賤業というか、無関係者への見世物として心のない"客観的なニュース情報"を日々届けます。それは毎日毎日新しい情報を矢継ぎ早に出さなくてはいけない”News(新聞)”が抱える構造的な問題でもあります。しかしその数分のニュースの内実にはこんなにも重要なドラマがある。

それをこうして半ばインサイダーから届けられるドキュメンタリーが補完するのは素晴らしいなと想いました。アーカイヴとして意識した”作品”であることも大きくて。

これを流したBSプレミアムでは、副音声として東京大学数物連携宇宙研究機構の機構長の村山斉先生と東大物理同期のNHKプロデューサー井手真也の解説があって。"放送"でありながら録画(アーカイヴ化)を前提としたつくりは、ネットでオンデマンド配信もしているNHKならでは。

この映画は、現在はNHKでは配信されていませんが、Netflixで「粒子への熱い想い」というタイトルで配信されるようになったそうです。私はNetflixは契約していないので確認はしていないのですが、もし良ければ。

また英語のリスニングが出来る方はYoutubeにフィルムがまるまる上がっているので、是非是非どうぞ◎

Particle Fever (Documentary Filmz 2013)

by wavesll | 2017-08-10 21:28 | 映画 | Trackback | Comments(0)

ヨアキム・トリアー『母の残像』 ペルソナが剥がれる"本当の瞬間"の家族の肖像

「母の残像」予告編


c0002171_5375750.jpg伊勢佐木町のジャック&ベティでヨアキム・トリアー監督による『母の残像』をみました。大変に心揺さぶられました。

交通事故で死んだ戦場写真家の母と、残された父兄弟の物語。この三人それぞれに私自身を観た思いで。『カルテット』『人間の値打ち』等、昨今の人間ドラマの傑作群にこの作品も連なると想います。

何しろ役者たちの演技が上手い。イザベル・ユペールのキャリア・ウーマン然とした不敵な笑み、ジェシー・アイゼンバーグの賢く好感度の良い青年然とした顔、そして何より名演だったデヴィン・ドイルドの"難しい年頃の少年"の顔。「まさにどんぴしゃの顔つきをしてる」と惚れ惚れしてました。

しかし劇の終盤“それらはペルソナだったのかも”と想って。ペルソナが剥がされた顔。何とも名付けられない、粗く素の顔。それが映されます。

そんなものはみせずに済むならそれでいいだろうし見せたくないものでしょう。少なくとも社会生活を送る上では。ある意味一番ギャップがなかったガブリエル・バーン演じる役者の父親は職務を引退していました。

単なる"本音"とも違うペルソナが剝がされた"本当の瞬間"、それが印象的で。

半ばぶっちゃけというか隠し事なく話をする父、彼とギクシャクする弟。私自身弟とは上手くコミュニケーションが取れない人間で、「こういう奴あるある」とみてました。

しかし、好きな女の子に長文の告白録を渡そうとしたりとか、自分に一種の靈力があると想ったりとかをみてると「こいつは俺でもあったのかもしれない」と想って。そういった意味では世渡りが上手そうな兄が一番遠いのかも。

そして、女の子が自分の中での崇高な存在でないことを受け容れて、エゴを押し付けるだけから相手とコミュニケーションの度量を持つ、男へのステップを上るシーンも良かった。女の子の側にも純な良さがあったのも。

失った人からの残像は、自分の心が生み出した共に生きる想像。仲違いした人を夢見することもあるなと想ったり。人が生きていく上で溜まっていく精神的な残骸たち。そういうものを人間ドラマはデフラグしてくれます。心をさらってくれる、素晴らしいフィルムでした。
by wavesll | 2017-04-17 05:38 | 映画 | Trackback | Comments(0)