【ノーカット】安田純平氏 記者会見
シリア取材にて人質になっていたジャーナリスト・安田純平さんの日本記者クラブでの記者会見の全編動画をみました。 ネットでは右も左も様々な事をかまびすしく騒いでいたこの事件ですが、実際にこうして話を聴くと安田氏が非常に高い知能や気力がありながら、けれども「凡ミス」により拘束に至ってしまった。また拘束状況も時によりその負荷が変わっていったという事が伝わり、まだ記憶の前後の混乱は残るものの、概ね信頼できると感じたところでした。 今はこうして記者会見も生で全編Webでみれますから、良い時代ですね。Youtubeの実況コメントもみていなかったので、『誰かのコメント達の最大公約数』でない『自分の意見』をまず固められて。絶賛でも批難でもない、色眼鏡を外して安田さんをみることができました。 そしてそれは、まさに戦場へジャーナリストが行くことの理由へとも繋がる気がします。つまり、他国の色眼鏡、自国政府の色眼鏡でない一次情報を手に入れることが、いかに認知の領域で日本国民の判断能力を拡げられるかということ。他人の意見を鵜呑みにせずなるだけ自分で一次情報に当たって考えること。その為に他国の色眼鏡がかかった情報でなく自国のジャーナリストが死地へ入ることの重要さ。 事が戦争だと『国益』の面から情報は覆われることが多々あります。実際、権力側はこうした取材を苦々しく想うことがあるかもしれない。また日本人の傾向として、自分の持ち場を出て公共についてはとやかく言わないという性質もあるかもしれません。 けれども、誰しもが暮らすこの平和を生きることを営むためにもインテリジェンスは必要であって、有権者としてその価値判断を他人に委ねず、出来る限りは一次情報に近いところを識ることが大切であるとこの事件で再び感じました。 cf ▲
by wavesll
| 2018-11-03 06:37
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ボルダリングジムに入会してしまいました。ルビコン川を渡ったwプールが閉まる時期に締まった躰を目指したし。腕とか太くなったら嬉しいなぁ。
今まで中学の卓球部は別として、取り組んだスポーツは大学時代のサイクリングとマラソン位だったのですが、ボルダリングは個人競技とはいえ今までと比べると技術的な要素が大きいスポーツらしいスポーツで。 ホットヨガをちょろっとやった時も待機時間にスゴイ体勢でポージングしている人がいて”仙人だ”と想ったものですが、ボルダリングジムの練達者の人の動きなんかはスパイダーマンというか、カミ。これで全国レベル、世界レベルになったら界王神レベルかと。 そう想ってNHKBSで放送された世界ユース選手権をみたのですが、一撃で決める様は超人過ぎてもはやショウとしてみてしまうレベルでした。 スポーツは自分の身体そのものが本質となるから、その制約が面白いなと想います。それから比べると言語の表現と言うのはすぐ簡単に「K2を3秒で駆け上がった」とか書けてしまう。言葉はヴァーチャルであるから、薄っぺらにならないかは文章にいかに身体性を入れられるかなのだなぁと。 またショウとして楽しませるレベルのパフォーマンスでなく全然でも、自分の身体を動かせば脳内物質が出るから全然楽しいという。ボルダリングジムの中にもコミュニケーションはあるけれど、他者と比べるというより自分自身の過去のパフォーマンスと比べて向上を愉しむ視点が持てるとぐんぐん楽しめそうな気がしました。 先程言語は物理と比べていかようにも楽に表現できる(故に差別化に別軸の工夫がないと面白くない)と書きましたが、プレイヤーでなく何かの鑑賞レビューなんかはさらに”執筆における抵抗・摩擦”が無いゆえに差別化しようとして捩子くれるパターンって結構あるなぁと想ったのでした。 プロの批評レベルに、基礎知識や関連情報のエヴィデンスで積み上げるというのが王道の方法だけれども、鑑賞者として差別化しようとした時に自分がやってしまいがちだったのは”どんどんコアなもの、レアなものをDigる道”だったなぁと。レッドオーシャンで勝負するのではなくブルーオーシャンを求めて海を渡り続けたというか。 勿論、新雪のパウダースノーほど滑っていて気持ちいいものはないですが、別視点で”その文化を伝道する”みたいな目線でみると、これは相当留意しないとうまくいかないものだなぁと想います。 オタク的な人がやってしまいがちなのは、趣味仲間を増やしたいんだけれど、ついその文化の一番濃厚なところをそれも夥しく出してその千尋の谷から這い上がった獅子の赤子をトライブに入れたい、みたいなタイプで。 でも、例えば自分はボルダリングはあくまでレジャーというか、スポーツとしてガチで極める気には今はなっていないし、運動音痴なだけど楽しみながら筋トレみたいにできたらいいなぁくらいの人間で。初心者の前の部外者は大抵そういうライト層なものではと。 そんな自分も「展覧会にデート目的で来る奴は本当の美術好きじゃない」とか想っちゃったりするので、コアな人からはライト層はそりゃ軽く捉えられることもあるかもなぁと。 でももしある人が自分が好きなものの良さを”わかってない人”に伝えようと想ったら。初心者への目線を忘れているとフレッシュマンが入らずにシーンが先細っていくこともあるのかもなぁと想います。 勿論ガチコアだけで回っていけたらそれは幸福なことだと想いますが。最初はデートの為でもいいじゃないかとw桜木花道だって最初は春子さん目当てだったしw 何かを好きになる気持ちが芽生えるって、念能力の会得にも構造が似ているかもしれないと想ったりします。 強い念攻撃の洗礼を受け、ダメージを追いながらも急激に目覚めることはあるけれど、基本は自分のオーラの流れを意識することから初めて修業の中時間をかけて開花させていくことが王道で。 自分の場合もボルダリングは前からメディアを通して興味が湧いてて、その上で身近な人が始めて誘われて、一度ビジターでやってみて、そこからちょっと間が開いてから二度目でビジターがなくて”じゃあ会員登録します”と。単純接触効果というか、幾度もアクションを重ねられて自分でも行動に繋がって。 鴎庵で音楽を紹介したり展覧会レポで「おすすめです」とか書いていますが、私自身はそれ一撃でリスニング・鑑賞まで行くとは想っていなくて、そこに繋がるまでの100の働きかけの一つになれたら嬉しいなぁという想いです。基本情報に欠ける記事になりがちなのはアレですが、それこそ今はサーチしようと思ったら幾らでも惚れますからね。 そういった意味では文章における身体性、筆力と言うのは、一つには記述の精確性と実在感をいかに与えるかというところなのかもしれません。それが”内容”というか。妄想を書くにしても、いかに伝わるように書くか、鴎庵を始めてもう十数年経ちますが、未だに筆力はまだまだ。ラップトップの鍵盤を弾く腕をほんのちょっとでも上げていきたいなぁと希を述べて拙文を終わります。 ▲
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| 2018-09-09 05:04
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想うに私は”伝えたい欲”が大きすぎるのかもしれません。多くの人は相手の反応が芳しくない時は更に押すのではなく、身を引く。わざわざ無理に推す労苦はしない。ここが差異なのだと。Webにものを書くのも今でこそTwitterなんかで反応が返ってきたりしますが昔は何の反応もなくても発信し続けたのは”これを伝えたい”という焔があったからだと想うのです。 ただあまりにも「聴いてくれ」の圧が強いと逆効果と言うか、軽んじられる事ってあるよなとも想います。短く飄々とした格好良さ、語り過ぎない潔さや余白の方が結果も出るなと。自分はもっと引き込む/惹き込む術を学びたいと思いつつも、伝えたい煩悩が未だに燃えて。もっと上手くやれればなぁ…と想う次第。 上手くBlog等のPull型非同期メディアを活かせたらと想うと共に、そういう形でアクセスしやすく情報をOutputしてくれる方には同志と言うか、有難いサーヴィスをしてくれていると想います。話をする人より話を聴いてくれる人が重んじられる世ですが、ROMより語り手の方が私は好きです。まぁ、是はポジション故かもしれませんが。 傾向として個人よりメディアとかの方が”伝えたい欲”が大きいので、ラフに扱えると言っては語弊がありますが、基本的に言及することがポジ反応となるから取り扱いやすく、逆にアマチュアの方々の方が情報の取り扱いはシビアになる印象です。 その上で、一次情報に当たろうと想ったら幾ら面倒なことがあっても個人個人とのコミュニケーション醸成が求められるし、TVクルーの横暴の話をみると、”伝えたいんだろう?これくらい当たり前にいいだろう、広まるんだから”という傍若無人さがあるなと。相手の尊厳を大切にする姿勢を失っては餓鬼畜生の身に自ら堕ちますね。みながみなそんなにも”伝えたい・広めたい”と想っているわけではないことを認識しなければいけないなと。誰もが規模拡大のインフレーションを目指しているわけではない。 また旧友に「最近は得意な分野で勝負しているというか、自分の土俵を出なくなったなぁ」と話したとき「他人の土俵に出ていく姿勢が良かったんだけどな」と言われて。確かに己の小さいお山の大将なグルになっては傍目からみてつまらないし、例え下手で恥をさらしても相手の土俵へ出ていくこと、恥をかけるのは強みでもあるのだなぁと想います。 と、同時に外部の方を惹き込みたい側に回ったら、最大限相手に恥を感じさせない配慮がいるのだなと想います。コアな沼へ惹き込むときに千尋の谷に突き落とすとコミュニティーの濃度を保つことはできるけれど、すべての分野はマニアが潰すというし、フレッシュマンを惹き込む遊びがないと蛸壺だなと。 とはいえ、私的なコミュニティはそれこそ広まって”バカにみつかる”事態は避けたいだろうし、私自身も”本当にそれを希求する人”が楽しめなくなるくらいBusyになるのはいかんなぁと想います。メディア的な活動の誠実さとは何かという問いは常に思いながら試行錯誤していくことが大切だなと、今想う處です。
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by wavesll
| 2018-09-01 09:33
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夢の中で俺はいつのまにか死んでいて。それに、友人たちと遊んでいるが俺だけ認識されないことで気づく。 この夢の世界では霊魂として存在するものも少しばかり物理現象を起こせて。 実家でポスターガイストとか起こすと親父が「あいつも迷惑なやつだ」とか愚痴って。母さんが「優しい子ではあったから」とかなんとか言って。俺が最後に「俺の音楽などのコレクションは◎◎へ譲ってやってほしい」との“死後遺書”を鉛筆で書くところから字が薄れていく情景で夢から覚めた。は!今の俺も実は…。 ▲
by wavesll
| 2018-08-17 05:00
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Webだと無礼がマナーというか、丁寧過ぎる言説よりも暴言ギリギリくらいの煽り合いが”冗談がわかっている”と良しとされることがありますが、切羽詰まっている人にとってはいじりが大きく尊厳を傷つけて恨みを溜め込ませ予期せぬ暴発を招くことがあります。特に死を近くに感じている人には安全地帯に居る”普通の者”は憎悪の対象になってしまう。
人間、いつ一番無礼な物言いになるかと言えば、己が絶対正義になった時。 マスコミがマスゴミ呼ばわりされキャスターやコメンテーターが槍玉に挙げられるのは彼らが澄ました顔で社会正義の高みから指摘を続けることが不愉快に感じられるから。彼ら自体は権力に対して市民の味方で言論を発しているはずなのに、「人にケチをつけてばかりだ」と誹りを受ける。人を批判するというのは全く諸刃の刃なものです。 それでも社会の公器ならば最低限のマナーを(往々にして破るのがマスゴミですが)守るのがマスコミですが、ネットウォッチ界隈は不快な痰壺で、それでいて一種の”正義感”を自認している。いやいや、賎しい行為だと弁えた方がいいと想いますがそれは藪蛇ですね。 人を呪わば穴二つと言います。私自身もこういうエントリを書くのは不遜なのだと想います。 批判する行為において参考になるのはマツコ・デラックス。明らかに異形の怖さとしょうもないヌケ、そして共感を突く意見。”絶対正義”の側ではなく、敢えて穴を開け負けをつくることでヘドロが堪らない塩梅の上手さがマツコさんにはあります。 いじり・いじめ的なコミュニケーションが受容されるのは芸人文化のなした業ですが、弄る側が弄り返されたときに不愉快な態度で圧をかけてしまったらそれは双方が楽しむ仲間のコミュニケーションでなく一方的な殴りつけのハラスメントです。 日本は自殺的な社会だから”それくらい許してやれよ、洒落が分からん奴だ”となりますが、想い出すのは南米に旅行した時のこと。 イグアスの滝壺ボートツアーで客を撮影するスタッフに中指を立てた白人男性は詰問されボートを下ろされました。またリマで世話になったガイドさんは「空手を習っていたので街中で女の子に横暴をふるう輩をとっちめたら、付き合っている彼女から『それで復讐されて刺されでもしたらどうするの?私は大切じゃないの!?』と責められた」と言っていて。 海外では人前で罵倒することは暴力と同等と言うか、他殺的な社会では面子を壊したら明確に怒りを招くもの。シャルリーエブド的な社会の方が特殊と言えるかもしれません。 そう想うとWebでは軽視されがちな”礼儀”というのは、自己防衛のために非常に有効な手段なのだなぁと。特にオンライン上だけで完結するのではなくフェイス2フェイスの場にも繋がる場合は。オフラインだけでなくWeb上でも礼儀をもって相手に相対することは自らの安全のためにも大事なのだなと想うのです。 ”礼儀正しくするだけだと相手がつけあがるじゃないか”となるでしょう。変な絡みをしてくる人も出てくるかもしれません。そういう人には伝わるように拒否を示すことは大事だとは想います。 ただ、何もかもがクリーンなだけでも人の匂いが消えるもので。木村充揮さんのニクオンでのライヴでヤジを飛ばし捲ってる五月蝿い客がいて『不快だし消えてくれないかなこいつ』と思ったものですが、彼には寧ろそれがハレの場で、木村さんは上手くあしらいヤジも含めてライヴを鳴らしていて。それはとても人情の深さがある磁場だなぁと感じたのでした。 と同時にあまりに無理をしすぎることも自分を過信しているということかもしれません。特に『過敏で傷つきやすい人たち』は不愉快な人間から出来得る限り身を離すことで心の健全が保たれ破滅をさけられることはあると想います。 自分へのいじりには出来る限り寛容に、けれど他者にはできるかぎり礼節をもって。それはアダム・スミスが『道徳感情論』で示した規範の態度でした。 話している当人は自分等そんな大物でもないただの個人だ、だから強者に対して弱者の代表として幾らでも攻撃できるのだと想っていても、一部の人から見れば非常に巨大な権威にみられ、敵視されることもあります。自己も他者もとるにたらない未熟な存在な場合が多いのに。 口は禍の元。冗談の行間が読まれなくなった時代に言葉はヴァーチャルではいられない。虎穴に入らずんば虎子を得ずといいますが、それは伝家の宝刀の例外的場合で。君子危うきに近寄らず、最も不愉快で蟲のような相手にこそ礼儀をもって盾とするのがリアルとWebが地続きになった時代の基本戦略ではないかと想った處でした。
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by wavesll
| 2018-06-26 22:01
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鬼畜系サブカルチャーの終焉/正しい悪趣味の衰退 - Underground Magazine Archives
を読んで、「シャレ」が「カルト」になっていく怖さを感じて。 「いい塩梅の悪ふざけ」は実際には相当タフな理力が求められ、実力が足りない者がその高度な遊びを「何でもあり、過激なほどいい」と誤解し全てがぶち壊しにすることは歴史上幾度も繰り返されていたのだろうなと。 私は「◯す」とか「◯ね」といった書き込みで警察が動いたりする昨今には“(悪趣味だけど)洒落が通じない”と思う人間だったのですが、実際、私自身価値観の倒錯から狂信な暴走をやらかすに至った上、「言葉はヴァーチャル」だけでなく心身への物理的影響もあるのだと今は意見を転向しました。 野放図な本音を発するのは軋轢を産んで。世の中のダブルスタンダード性というか、場面場面での受容の変容を受容できるかどうかが成人の作法の大きな要素で。法律でもプライヴェートでもなんでも絶対的な基準でなく、トコロ変わればヒトが変われば基準はいかようにも変わって。 「常に裏表のない」のみだと鵺のような社会の中では生きずらい様に想えます。人の間に絶対はなく即応が現実を動かして。人の間での場に合わせた洗練と真情の折り合いとした本音2.0が落とし処哉と思います。 同様に板の上の芸と板から降りた日常は異なるもの。 サブカルとかで遊んでるようにみえる文化人が政治的に正論を言うのは“遊びは遊び、マジはマジ”という分別があるからですが、Webによりメディアが板の上だけでなくなった今の時代、行間は読まれないとすると、粋ではないかもしれないけれど“この不謹慎は蔑まれるのが前提の遊びだと認識しています”という御断りが必要なのかもしれません。 また腐臭の漂う酸味はあくまでヴァーチャルだからこそ受容の間口を確保できるのであって。インコースぎりぎりを攻めるのはハイレベルな技量ですが「過激なら過激なほどいい」とビーンボールを投げたら総スカン。 極楽山本も「平成生まれ解禁だ~!」と言ってた頃は楽しかったけれども実際に淫行で捕まったら笑えない。『ガリレオ』でも殺人者を演じるために殺人するのが役に立つと言った犯人が喝破される描写がありましたね。 ついつい”ガチ=Nature”をモノホンとして有難がってしまいますが、アール・ブリュット的なモノは狙っても出せない、というか狙わずにも滲み出るものですから、”技芸=Art(ificial)”を鍛錬するのが一つ破滅からの抜け出しになるのかもしれない、なんて思いました。 ただ「デタラメで面白い」と喧伝してた人が一般人がデタラメやりはじめたら「もっと分別持とうよ」と言わざるを得ないのは、所詮そういう人の主張する価値観は絶対的でなく、相対的にオルタナティヴを提示してるだけで、主な役割はバランサーなのだなという点に悲哀も感じて。 その点で『今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。』と言った岡本太郎は筋金が入っていたなと。相対的でなく絶対的に価値認知範囲を拡げる運動というか。 ノイズへの冒険もそうですが、今の時代には「悪趣味を楽しむ(でも自省はする)という淫靡でウェットなフェティッシュ」よりも「より広い世界への探究への斥候としての法螺」の方があっているのかもしれません。 そこにあるのは高度な言語ゲームの粋というよりも野暮だけれどもリアルな迫真かもしれませんが、マルキドサドが『ソドム120日』で真に描こうとしたのは露悪的な性的描写の先に在る自由への渇望でもあったし、倒錯をするときは”倒錯している”と認識を保ち、さらなる広大な視野を抱けるかが遊びの鯔背さと救いの本質哉と想った次第でした。 cf. 追雑記 私自身が良い塩梅が分からない人間だからか”なら最初から品行方正にしてろ”とか”変に粋を気取らず野暮でもきちんと注釈をいれてくれよ”とか望んでしまいますが、そもそも徳のない上層部は多く、不誠実さも含め誰しも完璧ではないと認識した方が良さそうです。
ですから上にもたれかからず、相手に対して批判的な目を向け、判断を丸投げせず自分の倫理観で判断を下さないと大惨事になるというのは日大アメフトでもそうでしたね。流されない強さが集団や組織の中で己を守る上では求められますね。 ▲
by wavesll
| 2018-06-06 06:50
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函館のラーメン店がミシュランに掲載され一見客であふれかえり、常連が入れなくなってしまったことから閉店したというニュース。
これに新宿のベルクの店長さんが反応していて。店は呼吸の合う常連がいるから成り立ち、ベルクは常連率が7割だからやっていける(新規が3割くらいあるのは気分転換になる)。と。 やっぱり何かの事業を営む上で常連という存在は何とも有難いものなのだなぁと想います。 この話を聴いたときに”さて、店にとって常連とは何人くらいいるのだろう?”とふと思って。ちょっと計算してみようかと。 念頭に在ったのは自分自身が好く訪ねる飲食店。それでも大体1ヶ月に1回訪ねるくらい。ディナーの店ならそれくらいの頻度が普通では?なんて思います。 カウンター席が20席くらい。営業時間が18:00-23:30。客の滞在時間が小一時間として、開店直後は待ちの列もでるので、全体としては7割埋る位で回転するとして、20 X 330/50 X 7/10 =92.4。 1日の客数が(客単価は考えていないけれども)90人として、それが30日で2700人。この内の7割が常連だとしたら1890。もし毎週通う常連がほとんどだとしても500人弱の常連が必要になるなと。 飲食店に於いて客側では”自分は常連”だと想っていても、店からしたら1/500、あるいは1/2000だとしたら、人間的な付合いのコミュニケーションは薄いのが当然というか、客として特別な関係を求めるのは求めすぎで、芸に惚れ、その上でのプラスアルファとしての阿吽の呼吸があるのだと。でもその呼吸があるからサービスが営めるのだなぁと。 逆に人間関係がもっと発生すると常連として訪れる頻度は高くなることはあると想います。バーなんかはほぼほぼ週何回も訪れる常連客で回っているだろうし。マスター、ママ、或いは客同士の濃いコミュニケーションがあるからこそ少人数でも頻度が上がって成立する形。 まぁ、その”人間関係”というのも曲者で、私も昔いきつけのバーがあったのですが代替わりして足が遠のき、かといってまた新たな人間関係へ身を投じるのも億劫ですっかり呑み屋に行かなくなってしまいました。またバーでも美味い酒とか、飲食店としてのクオリティもなければ客は居つかない。バランスは異なれど飲食店もバーも双方必要ですね。 そういった意味では今はTwitterのTLがサードプレイスというかバー的なタマリバとして生活の中で機能しているかもしれません。 では”Twitterで自分の『常連』って何人だろう?"と考えてみると、1800人強のフォロワーさんがいらっしゃいますがファボやRT、リプをくれるのは十指にみたない感じです。これはこの鴎庵もそうで、大体5000/monthくらいアクセスがあるけれども、そのほとんどは過去記事とかの一見さんで、最新記事を取り上げる内容に関わらずみてくれてそうなアクセス数は10/dayいない位。 なんと常連率が1割を切っているw 自らの筆力、惹きの無さを猛省するばかりですが、「今の時代ブログの常連になる人がどれくらいいるだろう?SNSを通して記事を読むだけがメジャーな行動様式だろう」なんて思ったり。時間が有限な以上、幾つもの場の常連には物理的にもなれませんものね。 とは言え目に見える反応は嬉しいもので、Twitterなんかの好反応には本当にモチベーションを大いに与えられています。そうした意味で自分に嵌ってくれる常連の方々という存在は何かをやっている人間には真に援けになるものだと、しみじみと想った次第でした。
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by wavesll
| 2018-05-22 02:46
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最近日々が充実しているというか、5月に入ってからこっち遊興を盛んに行っていて。
そんな中でも特に個人的には嬉しかったのがカザフスタン民族音楽コンサート@東京都立中央図書館と太尾堤緑道のヨコハマビエンナーレ'89の彫刻遺産群。というのもこれは私自身が足で稼いでみつけたモノゴトだからです。 カザフスタン・コンサートは元々はTwitterで広尾の図書館でカザフスタン展をやっているのをみて先月訪ねた際に館内のポスターで知ったもので、太尾町の緑道は偶々初めて訪ねた時に見付けたもの。 今、自分のWeb巡回のほとんどはTwitterを通してに為ってしまっていて。自分自身でフォローした方々が発信してくれる情報だから基本的に自分好みの情報が集まってくるのですが、段々換気が必要になるというか空気に新規さがなくなって来る感覚があって。 特に素晴らしい景色とかを先にWebでみて興味を惹かれてその地に行ったりすると、何だか”答え合わせ”をしてしまっているような気になることがあります。 "先に概念を知ること"が世界から神秘性を失わせることはあるのかもしれません。例えば私は幸運にも暈(ハロ)や環水平アークをその概念を知る前に体験し大いに驚いたのですが、もし既知の現象だったとしたらあんなにも自然の驚異を感じてはいなかったと想います。先に知識を得ることで、フレッシュな驚きが損なわれてしまう。 自分で編んだ居心地のいい濃い情報網よりも、寧ろ街中でエンカウントする広告の方が”既知でない”。或いは自分の足でみつけたモノゴトの方がWeb定期巡回路よりも”自分とって特別な情報”となるのは、生身で五感を駆使した方が”自分事”になりやすいからかもしれません。 ただ、Webが未知感のある情報を届けてくれないかというとこれは勿論違って。 例えばYoutubeのお薦め動画はなかなか馬鹿にならなくて。過去の閲覧記録からのお薦めで私が好きそうな未知の音楽をYoutubeで発見する事が結構あります。Webがセレンディピティを破壊するのではなく、Webメディアのフィリタリングを通して紹介されたモノゴトに”手垢がついた”と感じてしまう、というのが論点なのかもしれません。新しい血を入れ続けることが肝要なのかも。 兼好法師は「レアモノを有難がるのは情弱だ」と言っていましたが、自分が関わる度合いが高い経験ほど充実感・特別感は増していくもの。Webには生の第一次データの発信も大量にありますから、メディアの選別を経ない野良データに当たって行ったら、効率は悪くなるかもしれないけれど、Web体験とセレンディピティがより両立できるのかもしれない。そんな事を想いました。 追記 上に書いた話は、私がメディア漬け人間だからこその感慨なのかもしれません。多くの方々にとっては”そりゃ自分でやった方が遣り甲斐あるだろ”かとw 私はWebにモノを書き始めた時に”内輪受けだけは嫌だ”と強く想っていました。私を個人的に知らない人にも価値があるものを書きたいと。 その流れでメディア一般にオーソライズされていることについて書くことが多かったように思えます。上に書いた”自分が関わる度合いが高い経験ほど充実感・特別感は増していく”というのは逆に言えば他者から見ると”ンなこと他人には関係のないことだ”となるでしょう。 実際、鴎庵の記事別アクセス数は取り上げる題材にかなり左右され、今月でいうとオザケンのライヴ感想レポが一番集めていて。カザフコンサートや太尾町の彫刻はニュースネタとしては客観的には確かにコアなさざれ石で、私自身の筆力の足りなさ故に惹きつけられてないのは精進しないとなと想います。 その上で今の自分がより”野生の物事”感に惹かれるのは、Twitterによって自分の関心による情報収集の濃さに満たされたからともいえると想います。自分の好きな味だけを思う存分食べられた故に次の段階へ行けるようになったと。 何か物を書く上で必要なのは廣く情報を得るだけでなく、寧ろ情報を絞ること、時に情報を断つことで己の密度を高めて内から湧き出す声に耳を澄ますことだと感じていて。ネタがマイナーでも逆にメジャーでも奥い語りが出来たら独自性のある記事が書けるだろうと。 今新しい心持ちを持てているのは鱈腹情報摂取できた結果で、Twitterに感謝しながら次の展開を張っていけたらと今は想う処です。 cf. 13年前の個人ニュースサイトをメインとしてやってた頃の記事。昔の方が堅い記事書いてたなぁ、今は緩いw ▲
by wavesll
| 2018-05-16 04:01
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Konono No1が7年ぶりに来日公演という報せを聴いてふわっと想起したのが2006年に日比谷野音で観たKononoの想い出。
この当時の記事を読んでも分かる通り、私はクソガキだったw中高の知己の洋楽に詳しいがいけすかない(洋楽に詳しい人間は意地が悪い印象があるものだ)奴と共に行って、Kononoは最高にいかすダンスミュージックを打ち鳴らし、ライヴ後昂奮した私は友人に「この世界で一番最高の場所だったな!」と言ったら「は?そんなことはないだろ」と返され”やっぱこいつイラッとくるノリの悪い奴だ”と想った、という記憶w 今振り返れば、奴には当時の私には見えていなかったモノがみえていたのだろう。例えば、”己のいる場所が世界で最高の場だ”なんてのは一歩引いた眼で見たら”こいつ何言ってんだ”というものだ。 また音楽好きが高じて私が得た中で一番為になったと想う知見は”世界のすべての人間は、それぞれ違う好みを持っている別の人間で、全人類共通の『最上の音楽』なんてものはない”ということ。これは”音楽に興味がないから良さが分からない”とは異なって、寧ろ音楽フリークであるほどその好みは千差万別。それこそ”理想の音楽”は音楽好きの数ほど存在する。 音楽ライターには”POPを追究することがかっこいい”なんて人もいて、まぁ頑張って欲しいとは想うけれども、音楽の好みは人によってどころか同じ人間でも年齢によってだとか時代によってだとか移ろいゆく儚いもの。しかし聴いている当人たちは音楽の刺激を本能的な知覚というか、”この良さは誰でも一瞬で解るはず”と想ってしまう(Konono No1を生で聴いた私がそうであったように)。優れた音楽というのはそういう魔力を持つもので、故にディスコミュニケーションが発生することもあるのだ。 ところで、11年前の私は「Konono No1が地球最高のショウをした」という「私の意見」をいけすかない友人に否定されたとき「私自身」を否定された気になった。まぁ、好きな音楽に入れ込んで自己同一化する若者という面を私は持っていたが、もっと広義に「意見の評価」と「人間的な評価」を分別しない人は日本人には多い。 海外ではそこは確実に峻別され、それが議論の土台となっているとも聴く。それに対し日本人はそこをごちゃ混ぜにしているから議論が感情的な対立になってしまうと聴く。 無論海外でも「メンツが潰された」という対立は起き得るものだと想う。しかし議論というのは何らかの目的があってするもので、その目的遂行の為に論理的な取捨選択のための指摘が行われるのは正しい、というのは紛れもなく正論に想える。けれど一方で、”人間(あるいは日本人)、そんな割り切れるものでもなく、ケアがいるのでは?”なんてのも想ってしまう。 ここからの論(題としては本論)はまた聞きのまた聞きの話で粗が目立つと想うがご容赦願いたいのだが、昨今世間の耳目を集めているハリルホジッチ氏のサッカー日本代表監督解任のニュースで、Twitterのサッカー論客の人たちが両サイドから喧々諤々の論を話しているのだが、私のTLでみると”ハリルを解任すべきではなかった”という派に、傍目からだと理があるように想える。 まずW杯出場まで持ってきた時点で評価できるし、中堅国の日本にとっては親善試合で手の内をすべて見せるのは愚の骨頂、様々なテストを親善試合では行い、W杯本番で一気に積み上げた成果を出すはずだったのに…という主張だ。 また「選手とのコミュニケーションが上手く行っていなかった」という話も槇野の手記を論拠に「ハリルは高いレベルの要求をして選手に厳しい指摘を行った。30歳くらいのベテランにはそれが”自分のサッカーを否定された”と感じたかもしれないが、槇野のようにそこで腐らずに頑張って自分のレベルアップを感じた人間もいる」と話す。ハリル解任は一部の大スポンサーがつく選手の政治反逆ではないか、という憶測もある。サッカー協会内での政治的な派閥争いもあったようだ。 ここまで来たときに私の脳をよぎったのは「自分の意見(サッカー)を否定されることが自分のメンツを潰されサッカー人生を潰される」と一部のプレーヤーが想ったのではないか、ということだ。 日本代表において最大の目的はW杯で勝つことであり、その点においてアルジェリアの監督としてW杯で結果を出しているハリルの方が例えばサッカー協会等よりもサッカー知能に優れていると様々な記事を読むと感じ、少数の選手や協会内の権力闘争のエゴでそれを覆したのは日本のサッカーに於いて汚点を残すのではないかと想。 が、世の中は”正論”が通じるレイヤーと”政治的権力闘争”のレイヤーがあって、今回ディスコミュニケーションから裏への根回しも込みで代表監督を追放するというバーリトゥードな政治が行われてしまうに至ったのだと感じた。 本来、代表選手は勿論裏方だって個人的なエゴではなく大きなチームとしてのミッションで行動すべきで、厳しい要求も、上の人間が崇高な意思で愛をもって鬼になっている。けれども、ディスコミュニケーションが起きて相手が納得できない、或いは不満をベントする先が無い状態で、根にヘドロが溜まったのではないかと、記事を読んで上辺の理解くらいの人間としては想う。 この文章の冒頭で私は11年前の私を”クソガキ”と言ったが、実際は三十路の今も人格者などには全然なれていない。ましてやスポーツ選手はエゴでガンガン行く闘争本能も上に行くためには大切で、20代なんかは身体はもう成熟していても餓鬼の部分が多分に残っているものだ。そしてトップ選手はメディアや代理店からちやほやもされつけあがり、そして権力も得てしまう。それを利用する裏方組の暗躍もある。 個人個人で異なる人生を歩んで”理想”も異なって。そうした”扱いずらいメンバー”をどうガバナンスするか、という点でハリルの西洋人的な明快な正論が、鵺の様な日本の議論環境、メンツ社会に於いてW杯まで僅かな時期に破綻した。確かにコミュニケーション、それも言外を読むコミュニケーションが日本社会では必要だったのかもしれない。もう少しで完成形を見れたであろうハリル・ジャパンをみれなかったことは、個人的には惜しいなと想った處だった。
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by wavesll
| 2018-05-01 12:43
| 小噺
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こればっかりは公に意見を書いているものですから居酒屋での与太話のような内輪のノリではいけないんだなと。”ネタじゃないか”というのは今の時代では通じず。実際圧縮空気を尻に入れて人が死んでしまったり、悪影響を無視できないところはあります。 今はShow(つくりもの)と実生活(現実)が峻別されずらくなっているというか、Showにはリアリティの追究が求められ、一方で現実が”盛られる”というかShow化している。そんなマーブルな状況の中でネタがネタで在れなくなっている。 人それぞれのポジションによってネタと現実の線引きに齟齬が生じ、その認識のずれから軋轢が生まれている。そう感じます。 そして本当にクローズでないオープンな場で発する言葉であれば、ポリコレに配慮せざるを得ないのが現状だと想います。 仮に原理原則のない恣意的な指弾が行われるにしても、懇切丁寧にハイコンテキストを説明するだけは怒りの炎上は避けられなかったり。 言葉はヴァーチャルだけれど、身体的な嫌悪感やイラつきは実体ですから。そこを論拠に相手が話していることを無視して論理で話しても平行線だし、寧ろ”頭でっかちにならずにスマホを捨てて人と交われ”が解になる場合も多いかもしれません。机上の対義語は身体性だと想うので。 話は変わって。Youtube, Netflix, Spotify, SNS...今あまりにもFREEなShowがありすぎて。そしてCGも含め修正が効く”ヴァーチャルデータ”が氾濫しすぎて。それ故にShowとしての価値が暴落しているのかもしれません。 逆に生身の価値が上がっていることはあると想います。スポーツが価値を高めているのもその流れというか。形而上的な議論の価値が落ちて、全てがネタ(≒ヴァーチャル≒嘘)とされてしまう今は”プラン”には価値がなく実装によってのみ価値が証明されるのだと。 体感化する事と、その際に起きる反応を仁鍛する事がこれからのネタには必要になるのかもしれない。鍵となるのは身体性。脳だけでなく心臓の声を聴くこと。そんな噺を認めてみました。
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by wavesll
| 2018-02-14 19:44
| 小噺
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