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カテゴリ:私信( 738 )

居たかった場と縁・出発

種田は誰かに批判されるのが怖いんだ!!大好きな大好きな音楽でさ!!でも褒められてもけなされても、評価されてはじめて価値がでるんじゃん!?-浅野いにお『ソラニン』

Twitterをやって良かったと思うのは、自分が方向性が同じだとか思ったり感性を憧れる人たちの中で自分の呟きに評価の実力差を突き付けられたこと。

私は大学時代、かなりWebに物を書くことに嵌まって。mixiなんかも猛烈な勢いで書いたのですが、私からみると浅い趣味にみえた友人たちの方が仲間内で“いいね”を得ていることに、というか自分がまるでいいねやコメントを得れないことにいらだちと失望を覚えていました。

今思えばそれは自分のサークル内でのキャラもあったというか、変人として自分で自分をネタにするような人間で、そしてサークル運営で他者の世話し気遣いをみせるわけでも競技で格好いい姿をみせるわけでもない自分は、いわばWebの場で「何を言うか」の前に実生活での「誰が言ったか」のレイヤーで評価を得られる人間ではなかったのでしょう。言葉より行動が大事で。もっと言えば他者にとっては「話をされる」より「聴く/訊く」方が喜ばれるというのも後に知りました。

それでも、その昔は「俺は内輪ウケはやらずに一般でも通じるネタをやるんだ」というつもりでした。けれど、今TwitterのTimeLineに安住している処から見返すと、自分はムラ的な狭いネタ人間なのではないかと想います。確かに「人間関係の話題による内輪ウケ」はしないけれども「狭いコンテンツの話題による“わかってる”クラスタ内での一種の内輪ウケ」ではないかと。

そしてこんな私でも受け入れてくれるニッチがあることをTwitterで知れて。いいねやリプライもされるし、自分が好きな音楽や美術の話題が“変わってる”とされない、寧ろ私が浅い人間になる世界。これは私にとってはオアシスといえました。

けれど、私自身が浅い存在になることと、自分より遥かに深く面白い、それこそ島宇宙の蛸壺を越えて一般にも通じる面白ネタを書ける人と同じ空間に載ることになりました。そこには嫉妬も感じることがあったのも白状しなければなりません。

しかし、これがなければ”何処か別の世界へ行けば俺は認められ輝けるはずだ”とか恥ずかしい妄想を抱えたままでした。

この自分が等身大での勝負というか、やりたい場で他己評価を知ることで、一つ地に足がついたというか、現実を見据えて、何か筆の向上、開けたコミュニケーションに謙虚に向き合える、寧ろどんどん邪念が取れ素直に澄んでいく気がします。

そして、もう長年といってもいい付き合いのあるフォロワーさんもいて。WebとRealというけれど、この二つは繋がっている部分もあるのだろうなぁと。虚心坦懐に縁を大事にしていければいいなと今は思います。

by wavesll | 2019-04-15 22:27 | 私信 | Comments(0)

怒りによって身体性を会得する噺ー自分よりロックな人をみて


第三シーズンが始まったEテレの人間ってナンだ!?超AI入門。その第2シーズンで語られるのは言語レイヤーと身体的体験という二階建ての知覚の話。

AIが文章の意味を理解しているのかという問いにジョン・サールの「中国語の部屋」という思考実験での回答があります。

ある作業員の仕事は外から入ってくる中国語の文字列をマニュアルに沿って変換して送り返す、例えば感情的な単語には感情的な単語を返す。こうすると何も言葉の意味を理解していなくてもやりとりが成立する、つまり意味が分かっているとみなされてしまうけれど、実際には意味が分かっていない。
このようなことがAIの文章作成にはあります。言語ゲームのみで具体的な身体性の血が通っていない。

ここからは私個人の論ですが、では身体性とは何か。それは扁桃体がもたらす快・不快による感情的経験による裏付けなのではないかと。

私は受験勉強を結構やった人間で、現代文なんかを解くのはどちらかと言えば得意だったのですが、大学時代にどうにも自分が空気が読めない突拍子のない人間なのだと気づかされて。

これは色々な要素もあったと思うのですが、言語レイヤーをやりすぎて実体験のリアルな情感を積まな過ぎたのもあるかもしれません。

個人的にはそれが一番顕著に表れるのは例えば映画や小説、漫画を読んだ時にどんな展開になっても”そうなんだな”とか理解しようとするんですよね。”これはリアリティがない”とかのジャッジをしないというか、”まーそんなこともあるんじゃない”なんて想ってしまう。

私自身が拘る部分が他者が拘る部分とまるで違うというか、自分がどうでもいいと思う部分を周りは重視して、変人にみられたり。で、それも笑って流していたけれど、ヘドロが溜まってきて暴発したりもしました。

私は快・楽こそ最も重要なことかと想っていましたが、ヒトとの折衝などによって起きる「不快」を見つめることで人生の輪郭と言うかリアリティの重みを知ることが出来るのかもしれないなんて近頃想っていました。

怒り、怒りが実は身体性の根源にあるとすればヒトは何に怒るのか。よくそれは「当たり前が侵害されたら怒る」なんていうけれど。

イカ天でベンジーが「君たちの持ち味は何でしょう」と問われ「正義」と応える場面は有名ですが、ロックの魅力は不良の正義にあります。正義感というのは怒りの一種でしょう。自分の内側から湧き出る感性に従う、その結果社会のルールと衝突しても、ファンはロックンローラーの正義に熱狂する。それを顕す破壊的なディストーションギターでの暴力衝動、これがロックの核の一つでしょう。

故にロックは常に矛盾するというか、一つの指針で割りきれるものではない。結局そのロックンローラーを教祖とした宗教で、法治でなく人治。言ってみれば全て程度問題で、ロック人がよしとすれば良くなりこりゃダメだとなれば悪しきものとなる。ここに私は言語ゲームの原理主義でなく身体性の「塩梅」をみるのです。ロックはイデオロギーではない。

そしてロックな人は多くの場合一般人より自由にいかれてみえる。けれど心中のルールに従っていて、彼らの中での塩梅がある。全て自由にやってよくも狂ってさえいれば良くもない。

大学時代の自分なんかはここを読み間違っていて、あまりにも自分の常識から逸脱した先輩と遊ぶ内にとことん破滅的にやろうとしたら可愛がってくれてた先輩に「もう友達じゃない」と言われたりもしました。つまりロックは原理主義でなく身体性の「いい塩梅」を模索しろという、己の正義の枠を実行するのがロックであると。

倫理基準が外(例えば社会)でなく己にあるから、他人の言葉でなく自分の言葉、借り物でなく実際に臓腑から出た言葉でないと響かない。また易々と他人を信じず自分で確かめないとおいそれと言葉にしない。社会の普通に迎合しない。己の精神に従う。つまり、ロックンローラーを本気でやってる人とはスムーズなコミュニケーションは成り立たない。

それ故にロックンローラーの中にはコミュ障にみえる人がいる。けれどそれは彼らが真摯にコミュニケーションを取ろうとしている故である。ベタ、普通、通常、一般なリアクションでスムーズに楽しない。ちゃらくやらない。無論これはロックンローラーの一部の人の話です。

そこへ行くと自分はサンプリング文化的であり、特にこの十年は正義よりも新しい刺激を求めているようにも思えて。メディア漬けでもある。今振り替えるとロックロック言ってたのにロック的な在り様でなかった。今、自分よりもよりエモーショナルに生きてロック概念を体現している人に触れてそう思います。

「ロックかと想っていたが、ロックではなかった」と認めること、真情を述べることはロック的ではあるけれども。ROCKに対する幻想が散ったことで逆にROCKな身体性が発生しているのかもしれません。ロックというアティチュードが形骸化しイノベーティヴでもなくなりダサくなり老害化している時代遅れ、なんて散々な状態な昨今ですが、だからこそ忌憚なく素直に推察を述べることが出来る土壌が自分の内部・外部に起きている、そんな気がしています。

少なくとも今回、ロックは原理主義じゃない、寧ろ真逆というところに辿り着けました。なのにロック原理主義みたいな偽のファンタジー言論がワナビーと形成されたのが、ロックが力を失った理由かもしれません。

骨格だけ残ることで身体の真情としてのロックの血肉化が漸くじりじりと始まっている。そんな平成の終わりは個人的には20世紀の終わりと言える気もしました。

by wavesll | 2019-04-06 04:03 | 私信 | Comments(0)

令和に寄せて

(R)espect your(I)ndependent (P)lace. ECD 2015/07/17_国会前

令和、命令の令にみえる感もある。と同時にレイワの響きはしゅっとして。梅の花の季節を選んだというのは桜が持つ死のイメージより、これから芽吹く季節という意思を込めたという点で悪くはない。みためだけでなく地力という幹を太く出来れば善い花が咲くかもしれない。

中国古典を原典にせず万葉集から抜き出したけれども初春にトーハクでも展示された王羲之の蘭亭序を孫引くという多重の国際性と自国性を持たせていてバランスを考えたのだと想。

逆にこのしゅっとしてる感が平成の次に来るさらなるヴァーチャル時代感があるというか、2020もこのラインなのかなとも。今さらプロレス的ど根性再びも違うかもだが、実直さを意志しないとどんどん上辺だけなっていきそうな恐れも感じて。芯・塊・體が大事やも。

こうした物言いは難癖だと厭がられるかもしれないが、寧ろこれは難陳的な態度で伝統的なスタンスと言える。

発表された夜、令嬢の様なこの雅な音にはアントニオ・ロウレイロの『リーヴリ』が似合うと想いながらも、命令に対してはECDの『言うこと聞かせる番だ俺達が』の気概を持ちたい。卯月、平成のアディショナルタイムが始まった。

by wavesll | 2019-04-02 02:42 | 私信 | Comments(0)

3月11日に想。

辺境に游ぐから、土を支える人々を敬う。平らかに和やかなことの真善美がなければ、危うい線を攻める猶予も生まれない。端に生きる者としての矜持と願いだ。
by wavesll | 2019-03-11 21:36 | 私信 | Comments(0)

松田の早咲き桜とつるし雛 and 曽我梅林の枝垂梅

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松田の河津桜と曽我梅林をみてきました。かぐわしかった。つるし雛もあって。江戸の花見は梅だそうで。浮世絵のような光景でした。

by wavesll | 2019-03-03 04:09 | 私信 | Comments(0)

三浦海岸の河津桜

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by wavesll | 2019-02-28 00:02 | 私信 | Comments(0)

ETV特集 こころの時代 ECD 「個」を貫いた生きかた

ECD−マス対コア


MASS対CORE (LIVE AT TOWER RECORDS)ECD,YTR


逝去してこの1月で1年が経ったECD。彼の思想を取り上げたETV特集をみました。

『夫婦の前に、家族である前に、人は「個」である。』

ECDの「個」の信念はさんぴんキャンプを取りまとめ、日本語ラップが世間に認知され人気が出たまさにその時にラップシーンから離れたところに最も鮮やかに生まれます。

『まともな世界の仲間入りは耐え難いものだった。』

彼の「個」のルーツは中野での幼少時代に。6畳一間に4人。そこは元は車庫で、まるで路上。「おやすみなさい」も「ありがとう」も「ごめんなさい」も口に出さない家族。4人の自他が未分化で、蛙の卵のように繋がりお互いを個と看做さない環境で石田少年は過ごしました。

ECDはこの家庭環境の原因を戦争にみています。育ち盛りにろくにモノを食べれず、夢や理想と無縁で飢えへの恐怖を生きる原動力とする父親。母親の「人に迷惑をかけるな」は戦時教育からだと。両親は子ども時代の戦争体験から自分を個として尊重できない被害者だと。

そんな少年時代最大の出来事はデヴィッド・ボウイとの出会い。TVでボウイの番組がやっていたときに父が「何だこのバケモノ」と言った時、父に「ざまぁみろ」と言ってやりたかったそう。分かり合えないものが生まれたのが嬉しかった。断絶こそ欲しかった。

そこから彼は自分の個を探して。高校中退し家出。劇団では芽が出なかったが23才のときヒップホップ映画『ワイルド・スタイル』をみてこの”恐ろしく原始的な音楽”、まだ日本では知られていなかったラップで個を表現して。

そしてラップ音楽から決別。第一人者が独り道を違え、さらなる個をあらわす変化へ。アルバム『MELTING POT』はそれまでのメッセージ性の高い歌詞とは異なる歌詞が聴き取れないポエトリーリーディングな盤。

彼は「レコード会社が求めること、人の期待に応え、シーンを盛り上げるためにポップにやること」に違和感を持って周りから期待される音楽と表現したいものが違っていたことに悩んで。売り上げは落ち契約は解除、そこからECDは激情の裏方の仕事をしながら自主制作を続けます。

上手くいかない中、酒を飲み続けアルコール依存症に。

『死は遠ざけることは出来ないが引き寄せることはできる』

『結婚して家庭を持ち子供をつくることを平穏で安易な選択だと馬鹿にしていた。子どもと言う存在を許せなかった』

「個」を表現するには普通の幸せはいらないと考えていた。

或る日、病を持った猫に懐かれ。家に持ち帰ると子猫を産んで。死産も。『生命そのものに対する恐怖は自分に対する底知れない不信の種になった』。

その後妻となり亡くなるまで十年間を過ごす植本一子さんは「猫がいたから何とか生活を保てた。飼い猫が死んだときくらいしか凄い泣いてない」と話します。

日々を綴ったアル中日記には『やりきれないことばっかりだからレコードレコードレコードレコード』。世間に認められず破滅的な状況の中で個の表現を模索していた。

アルコール依存症から復帰し、劇場の仕事で生計を立てながら、かつての社会を斬るラップから自分の身の回りなどありのままを素直に歌うラップをしながたECDは自主製作を続けます。

そして猛アタックを受け、48才の時に24才下の一子さんと結婚。娘も授かります。

家族の繋がりに疑問を持ち個を追求したECD、家庭を持つことに矛盾はなかったのか。
映像作品『頑張れECD』には家族を持っても個を貫いたECDがいました。がん入院から自宅に帰り、一子さんの反対を押し切りラップを録音、大声を上げたためレコーディングが完成した時には体は限界、再び病院へ。

自分が自分であるために必要なことはラップでお金をもらう事。体を大事にすることを蔑ろにしても『君(=音楽)といられて幸せ』と歌います。

著書『他人の始まり因果の終わり』にて『どこまで行っても人は個である、一人である。誰もが地球に落ちてきた頼りない存在である』と。

個と言うかリアリストであり、徹底してリアルを歌うと「人間って一人だよね」と。同時に相手の個性も尊重、長屋的に忖度なしに手を貸すことも。

『父親と言う役割から離れた無力な肉塊として理解を求めたい。(~)他人の始まりなのかもしれない。偽善の快楽と安らぎをもたらしてくれる「一家団欒」は死後の世界にすら存在しない。それを自由と想いたい』とECDは語る。

彼との日々を振り返って一子さんは「個として生きて個として死ぬ。「他人」という表現は優しさ。許してくれていた。人に期待することなく自立していて、期待されたことは何もなかった」と語っていました。

ヒトはオランウータンと異なり社会性の中で生きる動物、特に近年はSNSなどで「共感」を求め承認欲求を肥大させる人間は私を含め多くいます。そんな中でECDのアティテュードは、その原因に機能不全家族があったとしても、清冽で余計な贅肉をそぎ落としてくれます。

つるむことは安定を産むけれど、自由を失う。実業としては需要は難しくなるけれど、本当に「個」としての表現を追求することの真摯さ。また変に相手に期待するから裏切られたなんて憎悪に駆られたりする。「他人」という意識が甘えから抜けることに繋がる。人に好かれること・ウケることに依存しない本質的な独立自尊が今の時代に鮮烈な風を吹き込んでくれる。他者に阿らず、期待せず、しかしだからこその優しさがあるハードボイルドなアティチュードに感銘を受けた視聴となりました。

by wavesll | 2019-02-15 00:22 | 私信 | Comments(0)

Sentimentoの季節 The 1975 - A Brief Inquiry Into Online Relationshipsに徒然寄せて

A Brief Inquiry Into Online Relationships / The 1975 (Youtube)


The 1975はデビューの辺りでInterFM Awesome Beatsが推していて、「Chocolate」とかヘビロテされていた想い出が。そこそこいいなと思いながらもナヨっとした雰囲気がどうも少女趣味に感じてストライクはしなくて。

昨年の話題作『ネット上の人間関係についての簡単な調査』もどうにもピンと来ていなかったのですが、ここ数日で非常に精神的に傷を負うというか、それこそ人生の進め方とかを重くダウナー気味に考えてしまって、そんな夜の暗黒の中、鬱っぽいTweetを打ち込みながら聴いた本作は、聖なる魔のようにするりと心の襞に入り込んできたのでした。

というわけで、久しぶりに徒然な文章を書きたいと鍵盤を叩いております。このアルバムの内容については下記の記事などが参照になるかと思います。




最近、人生について考えることが結構あって。『レディ・プレイヤー・ワン』を視た時に”Real”は神がつくりしゲームだとして、その最もメジャーなゲームは恋愛であり子育てなのだろうなと想って。

人間、同じゲームをやってる者同士だと話が合う確率が上がります。例えば自分は旅先で旅人同士で話すのが好きなのですが、それは「旅」という同じゲームのプレイヤーだからだし、Twitterが居心地がいいのもあの世界で可視化され集積しているのはtweetをしている同志だからだと思います。

一方で、そういったShow/コンテンツ(という言い方は嫌いなのですが)での会話以外、例えばリアルの知己などにあった時に、カルチャートークを封じられ徒手空拳になった時に”そうか、良く『オタクは「人」と話すのでなく「コンテンツ」を話している』というけれど、ここでいう「人」とは仕事であり家庭の話なのだな”と感じて。17時からオトコのグロンサンマンとしてはその方面はめっぽう薄弱で。

最近、会う人間から「お前はつまらない/つまらなくなった」と言われることが増えて。私自身としては過去で一番面白いことを追求している状態に感じているのですが、これはいわゆる仕事・家庭レースから外れて、同じゲームをやっていない故の断絶が起きているのかもしれないと感じます。勿論、鑑賞の度合いが増えすぎ、私自身がプレイヤーとなった時の筋力が落ちている恐れはありますが…。

ここ数年『「誰にでも好かれよう」は止めよう』として、ともすれば誰にも評価されなくても己が面白いと想うことを取材しその事柄への愛を綴れればそれでもいいのではないかと考え、いわゆるサーヴィス精神、他者の視線を捨象していたのかもしれません。

自分自身が『コンテンツ/Show』に溺れすぎて、人の道から外れてしまっているのではないだろうか…俺は本当に大切な事、例えば命とか以上に大切なことはないし、人との縁や絆を蔑ろにし過ぎてしまったのではないか。けれども『普通』に過適応して壊れてしまった過去を想うと、己のサヴァイヴを優先しないといけない。では俺が本当に欲しているものはなんなのだ…。

暗い部屋で一人、ディスプレイはつけたままそんな堂々巡りの逡巡をしながらこのThe1975の音楽を聴くと、初めて彼らの音が自分と共鳴したように感じたのでした。危機的状態に近年なかったというか、安定している時に響く音ではなく、精神的にダウナーな時に響く電子加工されたLow-Fiな柔らかいロック。

自己否定と憐憫、そして快楽原則への率直さと移り気な浮わつき。そこに思想というか偏屈な正義を加え、破壊と創造(というか変異・変奏)を常としてきたのがROCK MUSICだとしたら、The1975は正しくその系譜にあると想えます。

機械による語りがあるのはOK COMPUTERをつい想起しますが、インターネット技術はアーカイヴの再奏を産み、新たなプラットホームで歴史が繰り返されていることは指摘したい。その時代の風は例えば荒木飛呂彦はジョジョ6部ラスト以降で意識的か無意識的か描いていると想います。

ただ、フィリップス・コレクションをみても想ったのですが、文化が文化の内のみで進化を遂げ、社会の実相と関係が薄くなることはないのかなと想ったり。鏡であること、Realの比喩であることが絶対正義ではないけれど、現からの遊離が産まれやしないかと。

文化自体が環境化・外なる自然化してるのは『レディプレイヤーワン』でも『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』でもそう。ただ真善美の『真』をオタク・ユニヴァースの参照で強化する感は『シンゴジラ』をみて違和感があったところでもありました。ロックも文脈・参照のカルチャーでもあると思って。

ただ『A Brief~』はSNSによって現実がコンテンツに仮想的に侵食された環境下で生きる我々の人間関係が良きにつけ悪きにつけネットと(拒否するという選択肢を含め)相対しなければならない現代の実相からの反鳴で。そこではマッチングが設計され、出逢いと別れは容易にクリック出来る。そこへのThe1975の解・意志は歌詞カードをみないとわからず、今Geniusを読んでいるところです。

今年サマソニで来日する彼ら、最初は”B'zの前でなくイエモンの前とかもっと言えばYoshii Lovinsonの前が良かった"とか思ったのですが、冒頭に載せたO2アリーナのLIVE映像をみるとスタジアムクラスのバンドに成長したのが感じられて。今年の夏もFesのどの日に行くか悩ましく快い日々が過ごせそうです。

by wavesll | 2019-02-06 02:44 | 私信 | Comments(0)

『BS1スペシャル ラップと知事選 沖縄 若者たちの声』身体性をもったRealな政治意識の肝要さが伝わる好番組


This is Okinawa ある意味America それかChina  no わったーぬ(俺らの)沖縄(うちなー)
This is Okinawa どうしはAmerica 似たようなもんだ…

ラッパーのMuKuRoは「あまり基地問題は意識していない。基地があるから英語が喋れるようになったし、基地が無かったらラップしてないし…」と語る。沖縄の若い世界は基地のある環境で育った沖縄の若者の一つの声を発します。

BS1スペシャル ラップと知事選を視ました。20代30代のリアルな沖縄の状況を伝えてくれる番組でした。そこで鳴り響くのはヒップホップ。”ラッパーが嘘ついたら終了”との言葉。沖縄というとなどロックのイメージが強かったですが、コザなどで70年代80年代からかなり早くからヒップホップ文化が根付いていて「のこされ島」「RYUKYU JAPAN」などのアンセムもあるという。若者のリアルな言葉は今ロックよりもラップになり、沖縄のチャンプルー文化の中で日本、アメリカに対する様々な想いが鳴らされていて。

そしてそんな彼らもオレンジレンジや「琉球愛歌」を聴いている。重層的な地域性の濃さが沖縄にはあって。実際私も幾度か八重山を訪ねた時に、島の人同士は全員知り合いだというようなコミュニティーの繋がりの強さを感じました。

沖縄は日米のパワーバランスの軋轢が表出している、政治問題が皮膚感覚で感じざるを得ない地。その中で暮らす若者はノンポリの気楽さではどうしてもいられない。けれど「基地があるのが生まれてからの環境」の新世代が育ってきて、さらに事態は複雑になっています。

上にも書いたのですが、沖縄はリアルの存在が本当に大きいというか、首都圏に住んでいるとメディアの時空間がリアルを侵食しているのに対して、生でのプレゼンスがどうなのかが問われ、そのリアルさは首都圏だとメディア越しに触れることが多い政治という領域でも身体性を持っている気がします。MukuRoが「自分で体験して目でみて耳で聴いたものしか信じない」と言うのも本当に、ここでも『サウダーヂ』に連なる日本の地方のリアルがあって。

生の聲、生の体験。知らない誰かの受け売りでないその縦横の繋がりは、メディアやショウを通して物事を語ったり捉えてしまう自分にとっては非常にマッシヴな理想態でありながら、実存において「社会問題と自分の生がダイレクトに関わっている当事者性」こそが公共意識の第一歩であり、その體がなければ政治活動はどこまでも薄っぺらなものになると。革命が無いことが日本のロックンローラーの悩みだと宮本浩次は歌っていましたが、ここには火花散る軋轢と悲劇が存在している。

一種のピジン/クレオール的状況は今まさに日本全土にわたって勃興しつつあると想います。移民による多文化の潮流は先進国に共通した状況で、物わかり良くいい子ちゃんをしている坊ちゃんよりも一度リアルの谷に墜ちた先に”わかったふりをしないで1から積み上げる心動”を以て、公/社会に働きかける等身大があって初めてメディアがマクルーハンのいうように身体の延長として機能するのだなと想わされる沖縄のRealが描かれた好番組でした。

by wavesll | 2018-12-06 01:28 | 私信 | Comments(0)

BS1スペシャル 原爆投下 知られざる作戦を追う -人としての圧と縁。米政権と米軍部の知られざる攻防

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NHKBS1で昨夏放送されたBS1 スペシャル 原爆投下 知られざる作戦を追う

アメリカ合衆国民が信じる「原爆投下によってアメリカ兵の命を救うことをトルーマン大統領が決断した」という事象が、現実にはトルーマンは決断をできておらず軍部に押し切られる形で原爆投下は行われ、悔恨の念を述べてすらいたという複数の米国の歴史学者の研究が近年出ていていて、それについて番組制作班が取材した成果を放送するという内容。

この番組で原爆計画の実行者として名が示されたのがレスリー・グローブス。マンハッタン計画の責任者だった彼が亡くなる3ヶ月前に残した空軍士官学校に残したインタビューテープ。これを4ヶ月にわたる交渉の結果、取材班は外部として初めて取材することが出来ました。

グローブスはこう述べています。「トルーマン大統領は市民の上に原爆を落とすという軍の責任を止められなかった。いったん始めた計画を止められるわけがない」。

実際、1945年の暮れまでに17発の原爆の生産ラインができていて、1週間に一発落とし日本を壊滅させることも出来ました。

原爆投下時の合衆国大統領であったトルーマン。彼はフランクリン・ルーズヴェルト大統領の急逝により何の情報も知らずに副大統領になってから三ヶ月目で大統領に。
ルーズヴェルトの下で既にマンハッタン計画を進めていたグローブスが提出した24頁の報告書も読まず、原爆計画の詳細を知らずに計画の続行を許しました。
トルーマンは「戦争の情報が無く、外交の自信もなく、軍が自分をどうみているかも不安だ」と手記に認めています。

グローブスはマンハッタン計画に於いて科学者にはそれぞれの技術的なことだけ教え、異論を出さないように管理、上官にも同じように行い、原爆計画の情報を自分だけに集約していました。

1945年の原爆投下の2年前から軍の中では投下場所を検討。当初はトラック諸島に落とす計画。東京に落とすという案も。
その中でもグローブスは原爆の威力が隅々まで行き渡る都市に落とし、22億ドルの国家予算をかけたプロジェクトの結果を出さなければならないと、地理的な要因から京都に落とすことを主張します。

けれどもトルーマン直属の部下でグローブスの上官であるスティムソンは京都に2度訪れたことがあり、米国の戦争責任を考え、市民が暮らす都市の真中へ原爆を落とすことに強く反対。トルーマンも投下は軍事施設に限り、女性や子どもをターゲットにしないようにと述べます。

京都への投下を否定されたグローブスは広島を軍事都市だと主張、トルーマン政権に広島には一般市民はいないと思い込ませました。

そして原爆投下。その様の写真を見たトルーマンは「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある」と悔いを述べます。

けれどもグローブスの野望は止まりません。軍では落した爆弾の数が多ければ多いほど評価されます。「2発目以降は準備ができ次第投下せよ」と指示。トルーマンが広島の写真を見て半日後には長崎に投下が為されます。

トルーマンは「日本の女性や子ども達への慈悲の心は私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している」と述懐し、八月十日、トルーマン大統領はこれ以上の原爆投下を中止すると閣僚を集め発表。3発目の準備をしていたグローブスも大統領の決断には従うしかありませんでした。

このように内実では大統領の明確な決断が無いまま行われた原爆投下でしたが、トルーマンはその後原爆投下を正当化するために「多くのアメリカ兵の命を救うために落した」とラジオで発表。ラジオ演説の原稿において「命を救うために原爆を投下した」という物語を後付で考え、投下の責任者にとっての都合のいい理屈としました。


この番組、英字字幕をつけて海外にも発信するべき内容だなと思うと共に、個人的に感慨を持たされたのは、米国政権内部に京都へ訪れた人間がいなかったら、京都が原爆にって消失していた、そして広島のことを政権が知らなかったゆえに反対意見が出ず原爆投下が通ってしまったという事実。

国際関係、戦争という極限状況においても、極めて個人的な事柄が意思決定に大きな影響を与えるという事実。

例えば私自身も中国・韓国へ訪れ、彼の地の人の温かみや愉快さに触れたことで大きくイメージが向上したというか、ネットで増幅しがちな嫌悪感に対する身体的な実感を持てたと感じていて。

外国の要人や、将来要人になるかもしれない若い学生などの人材を日本に来てもらうことは日本にとって大きな資産となるのだと感じました。逆に実習生制度のような奴隷同然に扱うことで、負のイメージをもたらすことの損失も思わざるを得ませんでした。

人間関係は確かに「距離感」が大切になることも大きいですが、身近な接触を保つことのもたらすポジティヴな結果というか、昔鶴瓶が言っていた「縁は努力」という言葉を想って。

そして軍部はその組織理論から、自然と政権や平和意識とぶつかるアクションを行う構造的要因もあるのだというのは、例えば日本での財務省の動きが省益を求めるばかりに国益を害する事にも通じて。70年経ってもヒトという種や組織のメカニズムはそう変わらない、故に歴史から学ぶことはある。人間と人間の対話と対決によって世の中は動いているのだと、改めて感じることとなりました。

by wavesll | 2018-10-22 20:56 | 私信 | Comments(0)