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仕事は義務でなく権利

Vampire Weekend - A-Punk

俺は大学生の頃、飲み会とかがあるたびに「あぁ~この金でCD2枚買うか映画2本みれたよ~」とかどっかで想っちゃう奴だったw人付き合いに金銭的リソースを割く余裕がなく、それよりも自分の道を極める方向に使いたい感じの奴だった。

今は、音楽の面で一応は自分のやりたい領域まで聴きまくったという感覚と、個人でできる人生の極め方に関してはもうやりきったなと想っているので、むしろ周りに関わったりだとか、周囲と関係性を創ったりとか、貢献したりすることに興味がある。

逆にあの頃はよく飲みたがっていた周りの奴らなんかは、今は却って仕事道に邁進しちゃって、それ以外に時間的リソースを割く余裕がないようにも見える。仕事には人生を入れ込む魔力のようなものがあると想。それに勤労は日本人の3大義務の内の一つだしね。

ただ、これいっちゃうと日本人でいられなくなってしまうかもしれないが、俺は単純な意味で金を稼ぐ労働にはあまり興味が持てない人間なんだwwwwwいわゆる<仕事>より、<余暇>を大切にしてきたし、今後も大切にしていきたいって思ってる。むしろどっちかっていうと仕事よりも余暇に人生の重きをおいた人間だ。

まぁそんな人間なりに<仕事>に向き合おうと仕事の領域を拡大したりとか、まとまった遊びが生活(仕事含む)全体に与える効率化を論じたりとかしたけど、結局の處、やっぱり仕事(他人をお金を取れるくらい喜ばすこと)は義務でなく、権利だと想。勤労は権利だ。

ヤマト人は元々が農耕民族で、農業と言うのはある時期になったら村総出で一気に軍隊式に農作業をしなければならない。そして休閑期はマニファクチュアーが行われる。そうなると農民に休みはない。というか<休むのは周りに悪い>みたいな価値観が育っていくんじゃないか?そして仕事というのは基本楽しいしね。

でも、仕事を離れて、旅したりだとか、頭空っぽにしたりだとか、落ち付いたりはしゃいだりする<時期>が1年の中で会った方が、より生活は充実すると想。仕事がもたらす円循環の軌道から逸脱する時が人生に定期的にあったほうがいい。

仕事からFREEになって、めいっぱい楽しんだら、また仕事したいって想えるんじゃないかなぁ


Staff Benda Bilili - Je t'aime (live, NRK, Nov. 2009)
by wavesll | 2011-02-11 07:54 | 私信 | Trackback | Comments(0)

新時代の潮流

GREEEEN 愛唄

RADWIMPS 25コ目の染色体


音楽の世界で、マイナーシーンというのは非常に個性的で、それはそれで面白いのだが、やはりメジャーシーンの流れも外せない。その時代にウケていることは何かを探ることで、今、何が求められているのかと言う人々の希求する空気を感じとることができる。またそれによって自分の身の振り方も考えられると想。

最近のミュージシャンの中で、この取り組み方は面白いなと想う男性グループはGREEEENとRADWIMPSだ。

GREEEENは歯科医師を目指す4人組グループで、まぁその内の何人かはもう試験に受かって晴れて歯医者さんになってるはずだが、なんと顔出しもしなければライヴもしないという、<完全にプライヴェートを大事にしたまま藝能活動をするミュージシャン>というのが生き方として非常に新しい。

或る意味、ルックスやキャラに頼らず、自分が産み出す音楽に依ってだけで勝負してる潔いスタイルだし、金太郎飴とも揶揄されるその一本調子の楽曲スタイルも、完全に自分のやりたいことが定まっていて、ハイレベルの作品を量産できる才能があるといえるかもしれない。また私的な伝説が無い分、より身近に感じられて、<大日本人を必要としない社会>にとっては非常にマッチしたアーティスト像なのかもしれないなと俺は思ってる。<インターネットでの有名人>にも似た、顔は知らないけどその人の藝は知っているという形態なのが、非常に21世紀的だ。

RADWIMPSは高校+αレベルの学術的知識をフックに使った曲が多い。なんというか知識のひけらかし感とか、その割には突っ込んだ面白みとかはないけど、真っ直ぐなメッセージを伝えるために勉強した知識を使ってちょっとひねってるあたりが、<日常から半歩ズレた面白さ>があって善いのだろう。これくらいのズレ具合ならば一般的な中高生も楽しめるという事だろう。俺がやったことはかなーり突っ込みすぎ&現実から飛躍しすぎで、面白いと想える人が深く狭すぎたんだなぁ。松本も「一般受けする為には3割くらいの力でやる」みたいなことを言ってたしなぁ。

ここら辺が現状分析だけれども、近未来の話をすると、またCHEMISTRYみたいな正統派GROUPがクると想。
野球の祐ちゃんみたいな、非の打ちどころのない<とってもかっこよくて優等生>を受け入れる素地がまたできているように想うからだ。


CHEMISTRY - Point Of No Return
by wavesll | 2011-02-10 11:26 | 私信 | Trackback | Comments(0)

普通の人付き合い

Chemistry - You Go Your Way


色々考えたけれども、mixiでの俺の失敗について、このエントリで一つの結論を持ちたい。

俺はmixiで表現者仲間が欲しかったし、仮に日記を書く表現者仲間としてじゃなくても、俺自身の日記に関してイイネやコメントで感想や評価、反論を書くことで自己表現できる人が増えればいいなぁと想っていたのだけれども、それはほとんど叶わなかった。

それは、まず日記が画かれなかったのは、みな忙しいからだと想。仕事で忙しく、時間的にも気力的にも体力的にも、日記を量産できる状態にないからだと想。またそれほど他者と自分の経験を共有したいとも思ってないのだろう。日本人の多くはタテワリの秘密主義だしね。

そして俺の日記にコメントがつかなかったのは、俺が喧嘩売ったから、まず<褒める・共感する>という動作をしづらくさせたからだろう。俺は<可愛く>なかった。また俺としてはすかすかの理論のつもりだったけれども、ツッコミどころも少なかったようにみえたのか、論理のアラが発見しづらかったのかもしれない。反論の余地がなかった。よって俺の日記にはコメントがつかないんだ。おそらく生きる意識も全然違うから、共感もされないんだろう。

今まで俺は<<普通>>と闘ってきたが、別に俺自身が普通の感性を持ってないわけではない。むしろ普通の感性に<加えて>更に発展的な感性を想っているといった方がいいだろう。俺も大事に扱われたら嬉しいし、否定されたら傷つく、その上で求められることに応えることがカッコいいと想うから、きついことに耐えられたんだ。大学時代は。

去年からの俺はSとして全開で、大学の頃の俺はMとして全開だったように想える。Sの方が実は脆く、Mの方が逞しい。そしてSもMも相手を想うが故の行動だというのが、愛と憎しみの業なんだよなぁ。

俺はこれからは自分の中のSとMを上手い具合に出し入れしながら中庸の濃度を目指していきたいなぁと想。0と1の間の虹色の中に艶というものはあるから。色恋にしても、友情にしても、時に相手を立てて自分より上に位置させてやることが、人間関係の潤滑油となるだろう。

また相手に期待しすぎるのも考えものだ。mixiの件だって、正直俺の日記をみるので精一杯の譲歩だったのかもしれない、彼らにとっては。俺としては逆に毎回みられるだけの場合は立ち読みされてるような感覚になったが。こればっかりはアレで、自ら経験しないと相手の気持ちはわからない。おそらく彼らには、毎日ネタを書き続けている人間の気持ちはわからないだろう。ウケてるかどうか不安になるのだ。ほんの一言、いいねといわれるだけでどれだけ励みになるかは、演った人間にしかわからないところだというのがほんとのところなのだろう。まぁ俺の言い方も悪かったし、もう終わったことをくよくよするのも止めよう、仕方がなかったことなんだ。お互いまだ若すぎた、余裕がなかったんだ。

普通、というかベタなことは、おそらく男女間ではより顕著だと想。俺だって女の子は普通に可愛くて、料理ができたりとか、優しかったりとかした方が普通にいい。ただそれに変、というか素敵なところがあると更に最高だが。女の子だって、男は普通にかっこいい方がいいに決まってるだろう。

あとは、普通に「かわいいね」とか「好きだよ」とか「この料理おいしいよ」とかよくいってくれることが嬉しいに決まってる。恋人がモテてると嬉しいかどうかに関しては、微妙だ。モテすぎて、浮気とかされたら、かなりムカつくのがベタな反応だろう。とにかく大事にお姫様みたいに扱われたいんだ。普通に。

ま、努力しますw


岡村靖幸 カルアミルク
by wavesll | 2011-02-09 23:35 | 私信 | Trackback | Comments(0)

普通教とは

PIECES OF A DREAM CHEMISTRY

世の中を生きる内に、俺は<普通の人々>という集団にぶち当たった。

高校時代は肉の会という今思えば超絶異端集団に属していたので、俺自身が変人だとはほとんど想わなかったが、大学のサークルに入ると、<普通=大多数の人>と俺とでは行動原理や思考/反応が大きく異なることが確認された。

例えば俺は<自分が嬉しいという事よりも周りや他者が嬉しいことが素晴らしい>、みたいな人を喜ばせたがる藝人根性があるが、普通の人はまず自分が嬉しい事を優先しているように見えた。

また俺は<カッコ悪いことがカッコいい>や<ヤヴァイことが素晴らしい>みたいな価値観を持っていて、自分がいじられたり窮地に陥ったりすると「最高だなぁ」と嘯いていたが、普通の人は<カッコ悪いことはカッコ悪い>、<安定・安全・きれいなことが素晴らしい>ということのようだった。簡単にいえばエグザイルやケミストリーがフツーに好きでそれしか聴かないみたいな感じだった。

俺にとってエグザイルやケミストリーのようないわゆる<普通>な音楽は、Realそのものではない、嘘っぱちのような甘ったるさの伴う音楽だった。ドラゴンボールで育った俺にとって人生は修業と闘いであり、その激しさ、野蛮さ、熱さ、それに伴う苦みと痛みこそが人生の実だったように思えた。

そんな俺にとって、大学で出逢った<普通の人たち>は一種のカルチャーショックだった。その<ただただ仲良くしよう>という関係性は非常に居心地が良かった。時々、<お前は普通じゃない>という扱いを受けて、まるで俺が人間として扱われてないような気分にさせられたけれど。

けれども、それは俺自身の社会的スキルが低かったり、天然ボケだったり、とにかくも<俺ができない・劣っているから>そういう扱いをうけても仕方ないと思って、俺はむしろ自分の馬鹿さ加減・出来無さ加減をどんどん前面に出すようにして、自分をネタに周りを楽しませることで<普通の集団>の中で生きる道をみつけていった。

しかし、余りに俺は馬鹿にされたり無茶ぶりされるのに平気な顔をしすぎたのかもしれない。俺に対する要求は時間が経つにつれどんどん高くなり、俺だったらネタ方面だったら何でもできるようなキャラになってしまった、そのくせ<普通のこと>ができなかったから、俺は特に尊敬もされなかったし、彼女もできなかった。ここら辺から俺の中に黒いヘドロがたまっていく。

ただ、俺の場合、<普通の価値>というのも認めていた。俺は<カッコ悪いはカッコいい>と想ってるだけで、別に<カッコいいはカッコ悪い>と全面的に否定しているわけではなかった。要は<カッコいいの範囲>が広かったんだ。俺もベタにいいものはいいと想うし、普通の価値観は認めている。それ以上に<彼らにとっては『変』な価値観>に価値を見出していただけで。

主流派の人達って、メインストリームしかみれない可能性がある。例えば合衆国の人達は英米の音楽しか基本聴かないだろう。これが日本だと邦楽の他に普通に洋楽も聴ける環境にある。いわゆる劣勢な文化圏に属する人は、優勢な文化も体験できるという意味でむしろ有難いことなのかもしれない。

まぁ逆恨み気味かもしれないが、普通の連中に鬱屈した気持ちを抱えたまま大学を卒業して、社会で挫折して、それを抜け出し、人生の躁鬱期から立ち直った時に想ったのは<今こそ『俺をいじった奴らをいじりかえす時』なのかもしれない>ということだった。なんとなく大学時代に感じていた生ぬるい<お前はできない奴だ>という空気を、完全に入れ替えられる時がやってきたのかもしれないということだった。

それは過去に一度鬱から立ち直った時に感じた<以前より遥かに自分が強くなる現象>を今回も感じていたからだ。俺は少なくとも思考・感受性・文章能力の面ではサークルの誰にも負けているつもりはなかったから、そこで力を示そうと想った。

そして昨年仕掛けたKESSへのmixiでの全面戦争で<普通の奴ら>が言ってきたのは<<人にはおのおの異なる価値観や能力があるんだから、どちらが上でどちらが下という事はないよ>>ということや<<<俺は議長を見下してる>>>とか言う事だった。はあ~あ、という感じだ。じゃあ俺が耐えたあの8年間はなんだったんだ?俺は能力が低いから馬鹿にされていて、今度は能力が高くなったから馬鹿にしたら、人の価値は能力によるものではないという。また別の奴はやっぱりそれでも俺を見下してるという。お前らの言ってることは矛盾しすぎててわけがわからないよ、俺には。

結局、彼らの中で一番の価値あることは<普通であること>なんだ。それより下では馬鹿にされるし、それより上には目指そうという価値を認めない。つまり社会の中での多数派=平民が持つ数の暴力が<普通教>の正体だ。

タチが悪いのは<普通の連中>は<数の暴力>を持っていて、さらにいうと<普通の無謬性を疑わない>から、平気で<普通を善意で押しつけてくる>点。ここで異端と軋轢が産れる。日本って<普通>は無条件にいいと押しつけられるけど、<じゃあなんで普通がいいの>とゆわれると、それに明確な答えを出せる人間は少ない。まさに思考停止の窮みだ。

江戸時代の普通では穢多・非人は差別されていたし、現在でも知的障害者や精神障害者、ゲイの人達などは差別されている。差別することが<普通>だ。だって<普通の感覚>じゃ気持ち悪いんだもん、彼らは。でもだからって差別していいのだろうか?例えば現代人が19世紀アメリカに行ったら<それが普通だから>黒人奴隷を使役していいのだろうか?違うだろう?普通と言うのは無謬ではないんだ。普通がダメなことだってある。普通が絶対に正しいなんて価値観、俺は絶対に認められない。

しかし普通に異を唱え、場の空気を乱す俺みたいな存在はKYとか気が違ったとかいわれる。事実俺は結局mixiという<俺にとっては戦場>から敗北し退散した。結局俺の価値観は認められなかった。まぁ認められなかった理由としては伝え方にかなり問題があったから、コーチングができてなかったからだと想うけれど。兎に角俺は闘うのを止めた。

いつだって、同調圧力は多数派の方が高い。少数派が多数派に合わせる形にほとんどなる。平民は特権層だ。しかし公民権運動を例に出すまでもなく、人類の歴史は<虐げられてきたものが生きる権利を得てきた歴史>だ。いつか、笑顔の明日がやってくることを俺は予期しているんだ。


エレファントカシマシ - 悲しみの果て
by wavesll | 2011-02-09 01:12 | 私信 | Trackback | Comments(2)

Neo Classic

マカロニ Perfume

年始に録画した坂本教授の『スコラ』をみた。

<新しい時代の音楽のスタンダード>として、バッハ、ジャズ、ドラム&ベースが紹介されていた。バッハにはベースラインがあったり、ジャズが元々はマーチングバンドからきていたりとか、ベースはコントラバスだったのかとか、目から鱗の音楽の時間だった。

音楽にはたまにそれまでの方法論から遥かに逸脱/漸進する人々が出てくる。そうした人が音楽の新しい時代を創ってきたのだろう。それは坂本教授の視点で見るとクラシックからジャズ、そしてテクノへ移って行ったとされてるのだろう。

もちろん音楽の芳醇な世界は坂本教授が番組で紹介した以外にもあるから、あくまでこれは<スタンダード>としての進化なんだろう。雨後の筍のように出てきては消えていった創新の泡が音楽の進化を支えている。

また日曜に池上さんのテレ東の番組で、島根の石見銀山の町がこれからの地方都市のロールモデルとなると紹介されていた。

情緒豊か、地域としての統一感や地域性豊かなブランド力、その地域にしかない食べ物や企業風土が若者を惹きつけ、町の新陳代謝が進むとされていた。

俺も日本に求められているのは新陳代謝だと想うから、現実にそれが実現できていることにはかなり感嘆した。

なかでも気になったのが、<まるで江戸時代のような木でできた風のジュースの自販機>と、長屋のような外見だけど中は、雰囲気を活かしながらもシックなアパレルショップ。

俺は常々、ケータイ電話やクルマは、<外装はオリジナルのままで、内部は最新鋭というモデル>を出してくれないかな―と想っていたから、この2つはsoreに近いものがあるのではないかと想った。古き良き感覚を、未来の技術で創り上げるのは、なんとも素晴らしい<懐かしい未来>が舞ってる気がする。

ドラスティックに<近代化>を押し進めるのはもう好い加減やめて、これからは失われし心の力と進みゆく技術が高次元で融合された<超古代>をこの世に造るというのは、いかがだろうか?

HI TECH JAZZ (ORIGINAL MIX) - UNDERGROUND RESISTANCE
by wavesll | 2011-02-08 01:11 | 私信 | Trackback | Comments(0)

iZmode

と、いうわけで島根県は出雲にいってましたw去年の11月に。
10月を神無月といいますが、出雲では神在月。

そして旧暦なので、太陽暦で霜月が太陰暦では神在月というわけだ。
本日、俺は出雲大社で八百万のカミガミを迎える儀式に立ち会った。

出雲というのは、神代のこの国の中心だった、縄文から弥生に移る過程で、権力は出雲政権から大和政権に禅譲された、この物語が描かれているのが古事記だ。

そのため現在の菊国家にとって二重亀甲剣花菱国家は、いくら「国譲り」が大国主大神から天照大御神になされたとはいえひとつ翳を落としている。ギリシアなんかだとウラノスもクロノスもゼウスらに殺されてるからやはりこの国は「和を持って尊しとなす」とゆうか「維新」な風土であることは確かなんだが、山陰地方は冷遇されている。

そもそもこの古来には葦原の中津国と呼ばれていた地域には都市国家が林立していた。中世に入り菊から葵に二権分立支配体制が完全に固定化されても琉球/隼人 エミシ/アイヌという異民族はこの地域に存在した。

ヤマトンチュの王権(おそらくは縄文人と百済などの渡来人の混血国家)と古代種との境目で、古きよき「カミ」が「守」に殺された様子を描いたのが「もののけ姫」だった。実際、東海道メガロポリス国家権域と、琉球/蝦夷の狭間、屋久島と白神山地がモデルとなっていた。

そして「千と千尋の神隠し」の舞台は、おそらく出雲だ。神々たちが休むまほろば、湯屋のモデルは道後温泉とされているが、おそらくこの「神在祭」もモティーフに違いないと読んでいた。

そして、俺の推論は意外なところから補強された。岡山から出雲へ向かう途中、水辺を線路がずーっと通っていたんだ。そして電鉄出雲市駅から単線で出雲大社前まで行く道は、真っ暗で、遠くにクルマか電車の光の筋がみえるようなさびしいところだった、『まるで千尋とカオナシがのった電車のシーンみたいだった』

そもそもカミとは何か。それは『仮想化された超存在』だ。伝説上の人々、死んだ祖先、大自然。これらに比喩表現の詩/史的ブーストがかかり人間の「上」に「かみ」が想像/創造される。 更に言えば現代的な意味でのGODとは、宇宙のSYSTEMそのものの比喩に他ならない。

出雲大社や三内丸山遺跡は巨大だった。巨人族の棲家といってもいい。巨人族といえば、北欧神話の神々にとってのライバルであり、ラグナロクで戦う相手だ。北欧神話はギリシア神話と対応する。そしてギリシアの神々もまた、古事記の神々と同じように人間味にあふれた『仮想化された人々』だった。

おそらく『巨人属』とは日本列島で言えばマンモスやナウマンゾウなどの巨大生物や山嶺、海原といった『ロギア/ゾオン系の存在の比喩』だったのかもしれない。古の昔にも、恐竜は死に絶え、小型の哺乳類がその後の覇者となった。これと相似の出来事が古代の世界各地で起きていたのかもしれない。

古代の神話に現れる共通の出来事というと『洪水』だ。おそらくはメソポタミアの辺りで実際に起きた水害が各地に伝播する過程でメタ化されていったのだろう。実はアメリカ大陸にも洪水伝説があるとかないとかwグレートジャーニーだな、情報のw

というわけで今回は特にこれといったオチもなく終わろうと思います。あぁ、あの時漫喫で満喫してる石井香織ちゃんの動画貼ろうかw

RADWIMPS おしゃかしゃま
by wavesll | 2011-02-07 12:41 | | Trackback | Comments(0)

松本人志『大日本人』 ハレとケガレ

松本人志の『大日本人』をみた。いや、この映画凄いよ、誰だこの映画がつまらないって云ったのは!

<大日本人>は芸能人、松本人志自身のメタファーであり、それはハレとケが逆転している生活を送っている存在、つまりは天皇であり、プロレスラーであり、ウルトラマンであり、力士であり<大日本人=カミ>すべてを指す概念だと想った。というかそう読めばこの映画はとってもすっきりと読める。

日本人の中で、少なくとも<4代目>、つまり昭和の辺りまでは藝人というものはまさに<カミ>だった。sono存在は完全なるハレであり、儀式的お約束、藝が大事にされる感覚がかなりあった。力道山やジャイアント馬場、アントニオ猪木がHEROとして存在できた時代だ。

しかし平成バブルの狂乱で、<ハレがケを侵食した>.
日常がハレとなってしまった。この時代に<大日本人>に求められることはあまりに要求が高くなりすぎて、<5代目>は躰に電流を流しすぎて死んでしまった。これはバブル崩壊のメタファーかもしれない。

そしてデフレ時代に生きる<6代目大日本人=松本人志>は、<<英雄なのに一般人と同じ境遇を要求されている>>。geiの世界はケの世界と比べて競争が非常に厳しく、そう簡単に生き残れないから、羽目を外すのは当たり前なのにそこにも<デリカシーやシンパシー>が求められるようになってしまった。これは<改善活動>が大きすぎて、本来ケの世界がハレの世界並に厳しくなって、笑って許せるバッファがなくなったこと、また藝が飽和してしまって稀少性も、必要性もなくなったこと。要は<藝人が普通の人になってしまった時代>が訪れた事を指している。つまり藝人のケガレた部分が増幅される<時代の空気>になったんだ。

鬱鬱としたペースで話は続く、おそらくこの<溜め>に多くの観客は耐えられなかったのだろう。しかし、最後、モロウルトラマンのパクリみたいな奴らが出てくる特撮パートで、それまでのストレスがいっきに反転し解放されきったすっきりした笑いの気持ちで映画は終わる。やはり松本は素晴らしい藝人で、腕は決しておとろえてないと想った。


ハレ晴レユカイ
by wavesll | 2011-02-06 22:57 | 映画 | Trackback(1) | Comments(2)

Progress

朝生deha今夜も不毛な議論が行われていた。人生、個々の人生はそれぞれ経験値が違って、それによって何が大事かも何ができるかも違ってくるんだなぁ、

俺はホリエモンの気持ちが少しわかったけれども、彼のように経済力だけで平和に暮らせるほど現代人は頭良くない。未だに国民国家や軍事力と言うのはかなりでかいプレゼンスを持ってる。

革新派や理論派が切り捨てようとする<現実>は、おそらくかなり大きい。というか革新派の<<現実>>と、保守勢力の<現実>はまるで違ったものなのだろう、表面上は同じに見えてもそこから見出すものがまるで違う。

そして残念ながら、この國の大多数の人間たちは<できない凡人>なんだ。頭の悪い馬鹿だから、カシコのいうことなんかわけがわからないし、わけがわかっても信じられない、そして行動できないっていうところがほんとのところだろう。

インターネットはヒトとヒトを繋げもするが、それぞれ住みわけもさせる。twitterにはモノを考えられるカシコ、mixiにはモノを読むだけで自分の意見を明らかにするリスクがとれない奴ら、モバゲーにはゲームするだけのコミュニケーションメンヘル、facebookには就活生、2chにはネガティヴモテない君が、集まりやすい。というかそれぞれそういう人たちが住みよい<場>なんだ。時間経過とともにゲームの構造から空気=プロトコルが醸造される。

俺はtwitterやblogを棲家としていたから、mixiの立ち読み文化にはどうにもガマンがならなかったけど、なんてことない、彼らは何も俺に悪意があったわけではなくて、コメントやイイネをする必要を感じていなかったのだし、できなかったのだ。それどころかできないことを悪いと感じることすらもできなかったのだ。人間のtypeが異なる。というかお互いの立場を経験できれば、この逝き違いは解消できると俺は想。

俺はそれぞれがそれぞれの立場を理解した方がいいとは思うが、あきらかにmixiよりtwitterの人たちの方が能力が高いと想、webというかCreativeに関して。CGMとしてtwitterの仕組みの方がmixiより優れていたんだなぁ。mixiは2chを模倣していたけれども、確かに俺も2chでは画きこまずに眺めるだけの傍観者だった。mixiは普通の人にとっては眺めるだけで満足してしまう情報消費TOOLなんだな。そこら辺が<できる俺>にはわかっていなかった。

俺は経済力と言うのを結構軽視する傾向にあるけど、現実世界としてはまだまだ経済力は強いし、それによってアイデンティティを保ってる人が多いわけだから、性急に事をどうにかしようというのは間違いだ。大人を変えるのは難しい。齢18を越えたら人は基本的には変わることを嫌うようになり、固定化されて生きていくのが<大多数>だからだ。

理論派はどうしても現実世界の<痛み>とか<肉体的感覚>を軽視しがちだけど、俺の場合はどっちかっていうと<自分は耐えられたんだから>と特殊な自分の事情を一般化してしまう嫌いがある。俺は明らかに特別製の人間だから、俺を基準に世の中を考えてると、マルクス主義の再来となってまた世界が混乱してしまうだろう。維新を興すには仲間がいる。その仲間が育つのを、今は待つ時なのかもしれない。

まぁ、少なくともこのサイトにいつも来てくれている人は、曲がりなりにも俺に仲間意識をもってくれているということなんだろう。ありがとうございます。


KOKIA - ありがとう・・・
by wavesll | 2011-02-05 06:08 | 私信 | Trackback | Comments(4)

HardCoreなものを受け止められる社会

スピッツ 渚


ポスティングやってると、ポストって色々な形式があるなぁと想。それでもまぁ大体4typeくらいにわけられるけど。

マンションなんかは一カ所にポストがあって一気に配れる。
戸建はいちいち門とかまで入らなければならない場合もあって、めんどくさい。
犬なんかもいたときなんか、かなり配るのがきついw
中には<チラシお断り>と書いてあるポストも有り、これには配らない。SPAMになっちゃうからね。

チラシを配るという行為に伴うく苦労や心理的障壁が、ポストに纏わる環境によって異なるなぁと想った。

ちょっと思い出したのは、年始の朝生で、東が、エロ漫画規制の都条例に関して「昔みたいに草叢に落ちてるエロ本をようやっと拾ってエロをみれるというような距離の保全はすべき」みたいなことを言ってたことだった。何も完全に表現を法で禁止しなくとも、或る程度のバッファをもたせることで自由と安全を両立させられるのではないかと想。

世の中に出ているもので、マジョリティが楽しむものってたいがいはPOPなものだ。多くの人は甘ったるいものしか興味がないし、そもそも楽しめない。苦みや辛みは、社会から取り除かれようとされている。

しかし一部の冒険心に溢れる青少年や、感受性の鋭い表現者にとってはその<Hardな痛み>こそが生きる源となってる。そこを取り除いてしまうと、世の中の藝術がまるでFORTHを失ってしまうと想うし、社会としても甘ちゃんばかりで、弱体化してしまうと想。やはり一部の人間はHARDCOREを求めているんだから、そこを禁じることは許されない事だ。

でも、HARDCOREなものがPOPな社会からすぐにアクセスできるというのも危険な気がする。一部の<覚悟のあるもの>だけが辿りつける場所に配置すべきだと想。それはアジールであったり、都市の深層であったり、自然の奥地であったりだ。<バカにみつかる/理解される>とその手のFORTHは狂気/凶器になるから。

星は天空に位置するからこそ美しいと鑑賞できる。これが近すぎたらイカロスでなくとも燃え尽きてしまうから。


イースタンユース ギラリズム夜明け前
硬直した感受性は泣かない
くたびれ果てた感受性は泣かないもんだ
寄り集まって 慰めあって 文殊の知恵を手に入れた
老成して 出来上がって 立派な知恵を手に入れたって

それがなんだろう?
それがなんだろう!
汗が冷える 夜明け前

あれがこうなったらいいのになぁ
これがああだったらもっといいんだがなぁ
そんな訳がねえだろうと科学的な検証だ
そんな訳がねえだろうと現実的な訓戒だ

それがなんだろう?
それがなんだろう!
汗が冷える 夜明け前

帰ろう帰ろう 俺に帰ろう
たぎる想いもそのままに

ああ 遠すぎて見えない
ああ 近すぎて気づけない
遠すぎて見えないからって見ない訳にはいかない
近すぎて気づけなくともそれでいい訳ぁねえだろう
さあ もっとくれ!もっとくれ!
もっと!もっと!もっと!

それでいいんだよ!
それでいいんだよ!
ギラギラしてる夜明け前

帰ろう帰ろう 俺に帰ろう
たぎる想いもそのままに
by wavesll | 2011-02-05 00:31 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

冬のある日 春のある日

A Message Song - Pizzicato Five

ドワンゴクリエイティヴスクール2010年度生声優科・舞台公演『銀河中学三年宙組賢治先生』をみた。友達が賢治先生役だったんだ。

俺はかなり腑抜けてて、それが彼の卒業公演であることを知らずにのんきに下落合と下高井戸を間違えて仕舞い、一時間も遅刻して彼の見せ場を見逃すという大失敗を犯してしまった。普段偉そうに自分の創作物をみてくれ、評価してくれと周りを罵ってたくせに、いざ自分が他人の一番大事な瞬間を身に行く時にそんなことをしてしまう。俺はなんと愚かな奴なんだろう。

宮澤賢治の作品群をモチーフに、物語は<本当の幸い>を掴むためにどう<善く生きる>べきかが描かれていたように想。俺はどんぐりの裁判の辺りから見ていたのだけれど、個々のドングリが主張する<俺の個性はこれだ!俺が一番偉い!>という姿と、俳優としての彼らの姿勢が重なった。結局上に立つのは一番自分の弱弱しさを知り、周りから蔑まれている悲しみを知っているどんぐりだったのだが、彼らは本当に楽しそうに演じることをしていて、「あぁ、この一種のエゴこそが生きる力なのかもしれないなぁ」と想った。

世の中を生きていく上では、<やらなければならないこと>が沢山ある。金を稼いだり、知己や親戚、ご近所さんと交流したり、家族を養ったり、日本国民は<勤労・納税・教育>が義務だしね。それをしていない人は日本の中ではアウトカーストとみなされる。

でも、<本当の幸い>っていうのは俺は<やりたいことをやりきってる人生>だと想。そして、本当に<やらなければならないこと>が<やりたいこと>なのかは重々考えたほうが善い。あきらめた夢はないのか。その夢はいつか叶えられるのか。夢をかなえる為に行動してるのか?

だから俺は仕事/労働の範囲を広げたい。仕事って他者を喜ばせることで、その対価は今までは<金>しかなかったけど、これからは<評価>を得る為になす藝も仕事として認められる世の中になって欲しいと俺は心から想。

ところで、劇の中で主人公の三郎少年は、自分がジョバンニでなくザネリだったと悔むのだが、俺自身、他者から傷つけられている弱い存在のつもりでも、俺より弱い人たちの気持ちを傷つけている。

例えば、せっかく誘ってくれた友達の気持ちを、一時間もの遅刻で傷つけてしまったし、後輩の女子たちに何度も電話をかけていたのはパワハラだったかもしれない。俺は自分のことを権威・権力からは外れたよわよわしい人間だと考えていたけれども、やはりそんな俺でも権威・権力はあって、俺はそれを見て見ぬふりをして権威に嵩を着て権力行使していたのだろう。なんと愚かな人間なんだ、俺は。というのはそういう意味だ。

ただ、俺は三郎君は<ジョバンニかザネリか>じゃなく、<ジョバンニでありザネリでもある>と想。人は多重だ。2人の人間がいて、その関係性はいつも同じじゃないと想。あるところでは先輩でも、或る分野では後輩ということはあるし、例えば俺はblogの画き手でもあり読み手でもある。サーヴィス提供者でもあり消費者でもある。俺はそれは0か1かの完全に切り替わることではなくて、ゆらめき滲む、Multi taskな性質だと思っていて、消費者の立場の時でもサーヴィス提供者の立場に立って相手を気遣うことができるし、読者の時でも作者の気持ちに立って作者を応援することができると想。人生は多重、時には端役であり時には主役であり、時には主役であり端役であるはずなんだ。

節分が今年もやってきて、春がやってきた。俺はそれまでのソーシャルグラフを整理して、例えば後輩の女子たちのメアドと電話番号をケータイから消した。俺は弱い人間だから、淋しくなったらきっとまた迷惑電話をかけてしまうから。新しい風が吹く、俺も男として独り立ちしてもいい頃合いだらう。新しい恋でも探してみませうかw

キャンディーズ 春一番
by wavesll | 2011-02-04 02:42 | 私信 | Trackback(1) | Comments(0)