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己のコンプレックスを認識し、少しでもマシな自由を目指す 100分de名著『河合隼雄SP』、『生きがいについて』、『エチカ』を視て

ここ数日、録りためていたEテレの100分de名著を立て続けに見ていて。

『河合隼雄スペシャル』神谷美恵子『生きがいについて』、そしてスピノザ『エチカ』の回をみて。最後の『エチカ』はゲストの國分巧一郎さんの著書『中動態の世界』についての副読本にもなってくれました。

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さて、河合隼雄はユング心理学を学び実践的な心療治療を行った人物で、西洋人と日本人の心のありようの違いに関心を寄せた人でもありました。

ユング心理学の重要な観点の一つに心を痛めた人を救うには「How」でなく「Why」を掘り下げていくことが必要という考えがあります。物理的・科学的、あるいは病理的な解決法の提案ではなく、「何故、どうして」を突き詰めていくこと。それによって精神の調和を取り戻せるという考え方。

そして心の柔らかいところに「コンプレックス」というものがあって。ユング心理学ではコンプレックスを無意識の中にある複合結節心理というような捉え方をします。何かに苛立ち、引っ掛かりがあるとき、それは意識できるものでなく無意識のコンプレックスによって引き起こされていることがある、と。

そして人は自分のコンプレックスを意識することから自己防衛するために、外部にそれを投影することがあります。つまりいらだってムカつく相手の特徴こそが、自らのコンプレックスであるかもしれない、ということ。そして逆にそのムカつく事象が自分の問題であると認識し引き戻せれば、コンプレックスを解消することができると河合は述べます。

また河合は夢に出てくるイメージは、個人の無意識や普遍的な無意識(集合無意識)が表れることがある、と。特にアニマ(男性の中の女性)やアニムス(女性の中の男性)やグレートマザー(太母)や影(自分の中の受け入れたくない側面)を例示して語ります。

この後、番組は一種の普遍的無意識の反映としてか、昔話・神話から日本人の中空的な精神構造・無の円環構造へ話が進んで行くのですが、このコンプレックスとアニマの話がいやに刺さって。

私自身がムカついている、あるいはとらわれているモノはなんだろう?と考えたときに、「普通」であったり「筋力・仕事力といった分かりやすい男性性」にあって。これは大学時代からこっちどうにもしょうもないものとして自分が社会の辺境で過ごしているというのもあったというか、集団の中での立場に置いてストレートど真ん中にいれなかったというトラウマがあったり、あるいは「面白い」に関してのディスコミュニケーションがあったからだと思って。

そうしたことからの「普通・まとも」への憎悪にも似た感情、あるいは「お前らまるで面白くないじゃないか」といういじけは、同時に「分かりやすく立派な男性像」へのコンプレックスなのではないか。そんな感想を番組をみて得ていて。

そして、私自身は自分を仕事人でなく趣味人であると想っていて、いわゆる「生きがい」という言葉にも一種のコンプレックスの裾野が触れていたのですが、神谷美恵子『生きがいについて』の回では「生きがいブーム」をもたらした本書では「生きがい」は単なる労働というより「生存理由」とでもいうようなより深く広い思想だと知って。

神谷さんはこの本をハンセン病の療養所での職務の中から着想し、生の歓びが尋常でなく損なわれた状態でも、生きがいというものは種を土の中に宿していて、「待つ」ことによって、芽吹くことがあると。たとえ愛する人を失って身を切られるような思いになっても、そんなにも人を愛せたことは輝かしく、悲しみは一つの視点からは豊かであると。

そして生きがいを考え抜くことは、宗教以前の精神的宗教へ辿り着くというか、自然から、そして体験から結晶化した叡智の輝かしさ。何かを愛し、自己中心的な思考から抜け出すことで、生存理由はさらに輝いていくと。苦しみから生まれる喜びについて語られます。

私自身が生きがいを今まで何に感じたか思いを馳せ「世界を理解することかな」と想っていたところに神谷さんがハンセン病の患者さんの詩をひき「理解するでなく味わうことが大事」と言っていて、やっぱり身体的な智は重要だよなと。その意味で例えば麻薬の快楽で「生きがい感」が更新されてしまうのは非常に貧しい行為であろう、などとも考えました。

そして最後に大いに力を与えてくれた書がスピノザの『エチカ』。

最初に語られるスピノザの「汎神論」、すなわち宇宙全体、自然そのものが神であり、全ての事物に神が在るという思想は、非常に共感する思想で(アインシュタインも共感したそうです)。これは話せる人物が現れたぞと。

先の「生きがい」ともリンクするように想えたのは、スピノザは「善悪」というものを「力=活動能力が増大するか、減少するか」と定義していて。喜びを与えて活動能力を増やしてくれるものは善、その逆に悲しみで活動能力を減らすものは悪、と。そして本性にのっとって活動能力を発揮したいという衝動を欲望と言い、欲望に対してフラットな立場であるのも、非常にプラグマティックなように感じて。

人々は個々人で本性が異なり、あるがままに本性からの活動ができていれば自由、そうでなく外部から行動を強制されることを不自由とスピノザは定義し、人は完全に自由になることは出来ないが、自分が何によって動かされているのか、今持っているのはどのような感情なのかを認識することなどで、少しでも自由な度合いを増していくことが大切だと説きます。

そして真理というものは体感するもので、誰かから説得されるものではない、自分がレベルアップして認識を体験するものだと。ここら辺は『生きがいについて』の「待つ」にも通じるなと想いました。番組中では伊集院が「小津安二郎の映画を40を超えて”そうだったのか!”と気付く」という例を出していましたが、私も経験を重ねてゴダールの『気狂いピエロ』が得心がいったので、気持ちが少しわかったり。

自分が自分であるための力、場を意識しながら、活動能力を伸ばしていく喜び、そして時に待つことも大事。これを鬱だったり絶望していない平常時の姿勢、そして苦難にあるときは『生きがいについて』の姿勢を想いだして。そしてより自由であるためには、コンプレックスをも認識しながら、”自分はなぜこのような思いに駆られているのか”を客観する努めをする。そしてそれには身体的な智が重要である。この3人は同じゴールに様々な道筋で辿り着こうとしているのではないか、そんな視聴体験となりました。

by wavesll | 2019-06-27 21:52 | 私信 | Comments(0)

BS1スペシャル スプツニ子!「個人情報が世界を変える~データ社会の光と影~」 日本の主体性のなさ。最低でも最速の二番手であらねばなるまい。


スプツニ子!さんがプレゼンターとなって米国と欧州に現在起きているWebにおける個人情報の取扱いに関する取材をしたドキュメンタリー。

前半はU.S.で、CESを初めとして個人情報をどんどん提供することでさらによりよいサービスを受けることが出来る、そんなイノベーションをどんどん紹介しながらも、トランプが大統領選で行ったWebでのヒラリーのネガティヴキャンペーンに、Webの個人情報がプロファイリングされ利用された事例も紹介。

ケンブリッジ・アナリティカの元社員と、裁判を起こして自分の個人情報がどう利用されたか公開を求めて活動している人を取材し、スティーヴ・バノンが関わったケンブリッジ・アナリティカではアプリのゲームを配布し、それをPlayした人とその人と繋がりのある人からfacebookの情報を抜き出し、そこでAIを使って属性を分析。公開を求めた人の話によると、様々な政治トピックにおいて何を重要視しているかとか政治的な位置、共和党支持者か民主党支持者かも分析されていたらしいです(その人は浮動層と分析されていたそう)。

前半ラストで米国の研究者が「今プライバシーなんてものは無い。どんどん個人情報を提供し、どんどん生活を便利にしていく、そういう時代だ」と語る様子が流れます。

一方後半はEUで採択された一般データ保護規則(GDPR=General Data Protection)に関する取材。

これはデータの主権を個人に取り戻すという取り決めで、データをEU域外に持ち出すのも、勝手にプロファイリングするのも禁止し、場合によっては個人情報は削除を要求できるというもの。

というのも、現在では個人情報こそが富の源泉となっていて、トランプが大統領選で利用した手法も、基本的には広告会社がターゲッティング広告を行うために使っていたもの。ある調べではEU域内からU.S.カリフォルニアに流れている個人情報の価値は125兆円にものぼるといいます。この利益を欧州に取り戻そうというのがGDPRの主眼。実際この法律を使ってEUはGoogleに62億円の制裁金を課そうとしています。

EU議会の選挙に向けて政治的な鍔迫り合いはもう始まっていて、左派も右派も一般市民にそれぞれの主張を勉強会で話します。特に極右とされるグループの影にはあのスティーヴ・バノンが暗躍していたり、無論GDPRに関する立場も左派と右派では異なります。寧ろ極右はプロファイリング広告などを使って「ネットで真実」を推し進めるためにGDPRには反対していたり。

このGDPRが決まることで、欧州からITの大企業が引き上げる恐れがあったり、あるいはITにおけるイノベーションが立ち遅れることが懸念されたりもしていましたが、少なくとも現状ではベルリンはフィンテックにおける第一の都市であるし、あるいはプライバシーフレンドリーなスタートアップがどんどん起きていて、個人に紐づいた情報を4日間しか保持しない検索エンジンECOSIAのように寧ろ創新が起きている事例が紹介されていました。

番組の最後ではカリフォルニア議会で採択されたインターネットにおける厳しいプライバシー規制法案を取り上げて終わりました。

さて、この番組をみて感じたのは、ことWebにおける日本の主体性のなさ。
GoogleにせよFacebook、Twitter、あるいはSpotifyにせよ欧米にサービスを持っていかれて。Tiktokは中華だし、LINEは韓国。ITのサービスの利益をみすみす海外に渡してしまっています。

これは日本の意志決定層の後進性と言うか足の引っ張り合いも大きくて。LINEの開発チームはもともとはライブドアの人たちで。ホリエモン憎しで潰したせいでものの見事に鳶に油揚げをかっさらわれ、膨大な個人情報を明け渡すことに成りました。(LINEは韓国の国家情報院(旧KCI)Aに傍受・分析されているのは有名です)

ここ数年のITであったりAIの番組を見ていると、日本においても競争力を高めるためにプライバシーはどんどん捨てていかねばなるまいという論調が大きいものでした。中国ではITにおける社会信用システムが築かれているとか、そういう煽りも。日本でも信用スコアの動きは始まっていますね。

そんな流れの中で欧州のハッカーたちは自分達でオープンリソースの地図を作ったり、プライバシーに配慮したチャットアプリをつくっているという話には心打たれました。また経済的な利便性の論理に流されることなく「本当に自分たちにとって重要で利益に成ることは何か」を考察し、決定を下すEUは、やはり哲学が根付く土地であるなと想いました。

また中国にしても自国でYoutubeやTwitterを使わせない政策をしたことでウェイポーやアリババなど自国のIT産業を育てたのは”まず自分が第一運動であろう”という意志に感じて。

日本の場合はF社などの守旧派が幅を利かせ、ベンチャー企業を圧迫しているとも聴きます、ライブドアにしてもそう。イノベーションを阻害する老害は除去する必要がありますが、それ以前に少なくとも現状では自分が第一運動であろうとせず、流されるままにヴィジョンなく動いてしまっているとも感じて。まぁこれは軍事面でU.S.に依存し属国化しているというのもあるとは思いますが、残念なこと。

そしてもしゼロから思想を立ち上げることが現状苦手だとしても、最速の2番手と言うか、世界の最新の動きを分析・実践し、フットワーク軽くスピード感をもってITの世界では勝負をしていかないと本当に今後の日本の産業は目も当てられないことになりそうです。想うに、国産への想いは多くの国民は持ちながらも、F社などのせいかは分かりませんがあまりにも窮屈なサービスの惨状から海外産のサービスに日本のユーザーも流れてしまっている。創新が活発化するには、抑え込んでいる老害から解放し、「自分が何を欲しているかを真摯に見つめ、行動する」ことを促すことが何よりも重要だとも感じました。

この番組は2019年5月11日(土) 午前0時40分から再放送されるそうです。もし良ければ是非ご観覧を◎

by wavesll | 2019-05-10 01:20 | 小ネタ | Comments(0)

五月病の身心を温める南米スロウ・テクノ / エレクトリック・フォルクローレ









十連休明けの朝のニュースで五月病のことが取り上げられていて。会社や学校に行くのが胸が苦しいとの訴えが、長期休暇明けには多いとか。

学校もそうですが会社だと十連休で仕事脳が解除されてヌケてしまって、新人さんとかだと”上司から「教えたことが何故できないんだ!」なんて責められそう…”と気が重い方もいらっしゃったのでしょう。そこら辺をケアするのも上司に必要とされるマネージ能力なのですけれどね。もしかしたら休み明け初日に学校や会社にいけなくて、今それが重く悶々とされているかたもいらっしゃるかもしれません。けれど鬱になりそうな時に一番やってはいけないのは自分で自分を責めること。もう”悪いのは俺じゃないモード”で周りのせいにしましょう。

今年は私は特に気分が落ち込むこともなかったのですが、20代の頃には五月病と言うか、鬱になったことがあったので、お気持ちは察します。

何かお伝えできることはないかなと考えたときに、”もう、飯食べたら速攻で寝るのがいい、そして超早朝から起きるといいですよ”という手があって。

個人的に想うのが、朝に会社/学校に行きたくない気持ちの35%くらいは眠いことが原因だと思うのです。眠れない理由で、嫌な上司とかの要因もありますが、まず直接的には眠い中無理やりやる気を出すのってきついですよね。

だから、もう夜は速攻で寝るのが吉だと思うのです。”寝れないよ”という方に朗報なのが、眠れなくても暗闇で目をつぶって横になってるだけでも結構身体って回復するらしいです。

そして22:00前に寝たら、まぁ結構な早朝/未明に起きたりもします。そこからじりじりと徐々に体調を整えて出社時間を迎えるというのは案外悪くありませんよ。眠気抜けてると、出社の辛さ、軽減します。

その朝に何をするか。新聞を読むもよし、前日の夜にみたかったTVを録画しておいて明朝にみるもよし、今はradikoタイムフリーで深夜ラジオだってオンデマンドで聴けます。私のような方はブログを更新するのもありかも。

で、個人的にはお好きな音楽をだらっとかけるのって結構気持ちあがりますよ。今だとSpotifyでもタダで聴けますし、Youtube等に大量にアルバムやライヴやミックス音源があります。

もし何か音楽をお薦めするとすれば、今一番熱いジャンルが南米スロウ・テクノやエレクトリック・フォルクローレと言われるジャンル。

元々は十年前くらいにデジタル・クンビアというジャンルが流行って。クンビアというのはペルーなんかの民族音楽なのですが、いなたい朗らかさが電子化されて聴き馴染みが良くて、不思議な魅力を持った音楽で。

それがここ数年、またブームが進化してるというか、voodoohopという中南米のクルーの他ZZK recordsの面々や、欧州出身のDJなんかもこの分野に参戦してきて、活況を呈しているのです。丁度いい明るさと怪しさ、聴いていてキリキリ摩耗するというよりかは、じわじわ心を温めてくれる感覚は、カラダを整えるのに、また未明から早朝の時間にも合うのではないかな想います。

上に上げた動画に加え、このブログでも他にも




の記事などでこのジャンルの音楽は取り上げています。民族音楽好きにも、クラブミュージック好きにも、そしてすべてのグッドミュージック好きに。ここまでで出てきたミュージシャン動画・記事でもう1週間以上は楽しめる分量だと思いますし、検索からYoutubeでさらなる数珠つなぎにしていってもいいですし、生で聴きたくなったらFRUEさんやShhhhhさんのイベントをチェックしてるといいかもあるかも。 ”なんか気分重いし最近のフレッシュな音ないの?楽しくなるやつ”という方にちょっとしたミュージックガイドとして記事を認めてみました。

(あ、深酒はダウナーになる人もいるのでご注意を。あとおせっかいな話ですが5chやtwitterは場合によるとネガティヴにズブズブ漬かる場合もあるので、できれば夜は全部ぶったぎって速攻で寝るのをお勧めいたします。)

そして大切なことをお伝えします。五月病でも軽いのは睡眠や栄養、音楽などでも気持ちは軽くなりますが、重い鬱の方はできるだけ医院にいかれた方がいいです。肺炎の時に薬飲まないで根性で直す方はいらっしゃらないと思います。時に薬は有用です。

これは私自身もそうでしたが、鬱の時の止めどなく重くあふれる思考と責めのネガティブな言葉を、医者も含めて“なぜきちんと聞いてくれないのか”と思うことは多々あると思います。と同時に今は“あのとき立派そうな顔をしている様にみえた周りの人達も全然余裕のない、強くない人間なのだ”と知りました。

ただやっぱり鬱の時は心行くまで吐き出したい想いはあると思います。それは自然なことで、悪くはないです。その場合もプロのカウンセラーを探す、というのは一つの手かなとも思います。実際問題、みな、大したことなく弱い精神なのです。“ちゃんとしてそうなツラ”をしてバランスを保とうとしているだけなのです。仮面は時に意義があります。

そして、鬱の方が周りにいる方は、自分の平衡状態も大切にされてください。私も鬱の時に周りを恨んだり、逆に鬱の友人に付き合ったとき恨まれたりもしました。被災地ボランティアと少し似た部分もあって“俺はこうしてやったのに感謝しない!”と怒らないで、自分の安定は確保しながら相対して頂けると幸いです。

by wavesll | 2019-05-07 21:55 | 小ネタ | Comments(0)

遠藤ミチロウさんからの餞

2018.02.04 DOMMUNE FUKUSHIMA!#40 遠藤ミチロウ「PUNK・盆唄・NO RULE!!!」

素っ裸でぽーんと出るような人間的魅力のかたまり。ニンゲンってこれだなぁと。

平成の終わりは幾つもの巨星たちを連れて行ったけれども、最後にミチロウさんも連れて行ってしまった。
発表のタイミングに意向が反映されたかはわからないけれども、新元号に変わっても、日々は繋がっているんだと最期の最期に一撃かますのもロックだなと。

人間の體から生まれる音、それが少なくとも日本のロックなのではないか。精気の盛り、血潮の燃え。この素っ裸をやっぱりすべての基本にしたいなぁ。感情も、智も、毒も、病も、最期の最期まで蒼くなれる。寧ろ、これは野生の人間からの餞。俺も、やるよ。やってくよ。研鑽(反復・工夫)をサボらずに、いや、時々サボりながら。

by wavesll | 2019-05-01 11:19 | Sound Gem | Comments(0)

自分の生活の歴史に、湖面のような音楽を

Laura Mvula: NPR Music Tiny Desk Concert


令和に変わってまずしたのは食器洗い。でインスタントコーヒーを飲んで。

平成の最後の日は、夕に退位の儀式をみて。夜はDOMMUNEでΦononのLiveをみていました。

Twitterから漏れ聞く「TVがどれもつまらない」の声。特にNHKへの批判。硬質な知性を失っては、情報の重みも失うなと思います。

元号という制度は一つの家系がその国の時間/歴史を統べる制度。

本当に大切なのは、メディアであったり、あるいは社会の支配する「流れ」でなく、自分自身の生活で。彼らの影響力の重力にただ落とされるのではなく、スイングバイする、意識し選択する、そして自分の暮らしを見失わないことが大切なのだなぁと、想います。

けれども、とはいえ始まった令和の時代。徳仁今上天皇陛下には、私(/世代)の時代を象徴する人ではないかなと実は感じていて。その始まりにLaura Mvulaの、静謐な、そして声調の捻りの持つBitter Sweetな歌を。みな自分の歴史をそれぞれ生きていて、狂乱のPushでなく惹き込まれる湖面のような音が、この日にはあう気がしました。

by wavesll | 2019-05-01 08:09 | 私信 | Comments(0)

BAD COMMUNICATION



以前のことでトラウマとなっているのは、躁鬱で傍若無人に暴れた際人間関係が破綻したことで、その象徴として「もう二度と会うことはないだろう」と言われたことがありました。
その時正直“会いたいと思うほど愛せる魅力を君はみせていたつもりなのか?”と思ってしまって“嗚呼俺は人でなしなのだな”と己に呆れたことがありました。魅力をみせる努力しない人っているものだと思うと共に、自分は”友達づきあい”に求めすぎなのだと感じます。

ンな事みな要求してない、というか向こうからしたら私なんかはToo Muchなのだろうと。最低限の礼儀がありゃ友人関係の維持には何の問題もないということでしょう。それじゃつまらない、となると羅の螺旋に入る(苦笑)

自分は他人に話したいネタが多いタイプで、自分ばっかり話すのも悪いと一時期友人に「何か面白いことあった?」とあいさつ代わりに聴いていたのですが、これが不評でw今見返すと鬼のような”What's up?”だなとは思いますw「面白いこと」の程度にはよりますが、鉄板レベルだとそうそう人生で産まれるものでもないですしね。

そもそもこのBlogを立ち上げる時も”どうせやるなら毎日更新したいけれど、自分でネタをつくっていたら毎日更新は難しいから、そうだ羅列型ニュースをやろう”と個人ニュースサイトとして始めたのでした。

その後羅列型ニュース更新は止め、自分で主に画くエントリが増えましたが、それでも藝に対するレポートが多く、取材して書くという点では広い意味で鴎庵はニュースサイトだなぁと想っています。ほぼ日刊更新で完全に内から出てくるものだけで書き続けるのは少なくとも私には難しい。

となると「取材(という名の遊興)」を行う訳ですが、ここで友人との齟齬が起きてくる。そりゃ未だ一人やもめの私と子供ができ、下手したら家のローンも払っている友人とでは遊びの話題、特に頻度が合うという訳にもいかない。

そんな訳で話しかけるPushを止め、Webに綴り反響営業を待つPullへと軸を移したのでした。

「面白い」にも色んな観点がありますが、私の場合は趣味と実益を兼ねるというか、自分自身に藝や學びのカリキュラムを組んで、それを論述するというのが基本で。これも家庭を持つと自分のきままなわがままを通せない場面も多いと思います。

逆に夫婦・子ども・あるいは「働き」なんかは私から見たら完全独自コンテンツであって、メディア的なものより第一運動純度の高い面白さがそこにあるとおもいます。オーガニックというか。それを成せることへの憧憬は私も勿論あります。”俺は煩悩だけなんじゃないか”と。

冒頭の古い友人への想いもそうなのですが、私は面白さを求めてどこか破綻していたのだなと想うし、逆に言えばこのあいだ描いた居たかった場と縁・出発というエントリで書いたようなTwitterという書くことで存在する安全基地のお陰で、自分の欠落へ目を向ける力を得れたのかもしれないなと思います。

B'zの「Pleasure '91 -人生の快楽-」に「勝手知ったる少ない仲間と敵だ味方だと騒いでる 止まれないこの世界で胸を張って生きるしかない」なんて詞がありますが、お互い道が離れていったときに「Love Phantom」とように「2人で1人になれちゃうことを気持ちいいと思ううちに 少しのズレも許せないセコい人間になってたよ」では不味いということでしょうね。それぞれの道から遠くへ交信を送るくらい、異なることへの真摯さが必要なのだなぁと今朝想いました。

by wavesll | 2019-04-21 09:10 | 私信 | Comments(0)

居たかった場と縁・出発

種田は誰かに批判されるのが怖いんだ!!大好きな大好きな音楽でさ!!でも褒められてもけなされても、評価されてはじめて価値がでるんじゃん!?-浅野いにお『ソラニン』

Twitterをやって良かったと思うのは、自分が方向性が同じだとか思ったり感性を憧れる人たちの中で自分の呟きに評価の実力差を突き付けられたこと。

私は大学時代、かなりWebに物を書くことに嵌まって。mixiなんかも猛烈な勢いで書いたのですが、私からみると浅い趣味にみえた友人たちの方が仲間内で“いいね”を得ていることに、というか自分がまるでいいねやコメントを得れないことにいらだちと失望を覚えていました。

今思えばそれは自分のサークル内でのキャラもあったというか、変人として自分で自分をネタにするような人間で、そしてサークル運営で他者の世話し気遣いをみせるわけでも競技で格好いい姿をみせるわけでもない自分は、いわばWebの場で「何を言うか」の前に実生活での「誰が言ったか」のレイヤーで評価を得られる人間ではなかったのでしょう。言葉より行動が大事で。もっと言えば他者にとっては「話をされる」より「聴く/訊く」方が喜ばれるというのも後に知りました。

それでも、その昔は「俺は内輪ウケはやらずに一般でも通じるネタをやるんだ」というつもりでした。けれど、今TwitterのTimeLineに安住している処から見返すと、自分はムラ的な狭いネタ人間なのではないかと想います。確かに「人間関係の話題による内輪ウケ」はしないけれども「狭いコンテンツの話題による“わかってる”クラスタ内での一種の内輪ウケ」ではないかと。

そしてこんな私でも受け入れてくれるニッチがあることをTwitterで知れて。いいねやリプライもされるし、自分が好きな音楽や美術の話題が“変わってる”とされない、寧ろ私が浅い人間になる世界。これは私にとってはオアシスといえました。

けれど、私自身が浅い存在になることと、自分より遥かに深く面白い、それこそ島宇宙の蛸壺を越えて一般にも通じる面白ネタを書ける人と同じ空間に載ることになりました。そこには嫉妬も感じることがあったのも白状しなければなりません。

しかし、これがなければ”何処か別の世界へ行けば俺は認められ輝けるはずだ”とか恥ずかしい妄想を抱えたままでした。

この自分が等身大での勝負というか、やりたい場で他己評価を知ることで、一つ地に足がついたというか、現実を見据えて、何か筆の向上、開けたコミュニケーションに謙虚に向き合える、寧ろどんどん邪念が取れ素直に澄んでいく気がします。

そして、もう長年といってもいい付き合いのあるフォロワーさんもいて。WebとRealというけれど、この二つは繋がっている部分もあるのだろうなぁと。虚心坦懐に縁を大事にしていければいいなと今は思います。

by wavesll | 2019-04-15 22:27 | 私信 | Comments(0)

怒りによって身体性を会得する噺ー自分よりロックな人をみて


第三シーズンが始まったEテレの人間ってナンだ!?超AI入門。その第2シーズンで語られるのは言語レイヤーと身体的体験という二階建ての知覚の話。

AIが文章の意味を理解しているのかという問いにジョン・サールの「中国語の部屋」という思考実験での回答があります。

ある作業員の仕事は外から入ってくる中国語の文字列をマニュアルに沿って変換して送り返す、例えば感情的な単語には感情的な単語を返す。こうすると何も言葉の意味を理解していなくてもやりとりが成立する、つまり意味が分かっているとみなされてしまうけれど、実際には意味が分かっていない。
このようなことがAIの文章作成にはあります。言語ゲームのみで具体的な身体性の血が通っていない。

ここからは私個人の論ですが、では身体性とは何か。それは扁桃体がもたらす快・不快による感情的経験による裏付けなのではないかと。

私は受験勉強を結構やった人間で、現代文なんかを解くのはどちらかと言えば得意だったのですが、大学時代にどうにも自分が空気が読めない突拍子のない人間なのだと気づかされて。

これは色々な要素もあったと思うのですが、言語レイヤーをやりすぎて実体験のリアルな情感を積まな過ぎたのもあるかもしれません。

個人的にはそれが一番顕著に表れるのは例えば映画や小説、漫画を読んだ時にどんな展開になっても”そうなんだな”とか理解しようとするんですよね。”これはリアリティがない”とかのジャッジをしないというか、”まーそんなこともあるんじゃない”なんて想ってしまう。

私自身が拘る部分が他者が拘る部分とまるで違うというか、自分がどうでもいいと思う部分を周りは重視して、変人にみられたり。で、それも笑って流していたけれど、ヘドロが溜まってきて暴発したりもしました。

私は快・楽こそ最も重要なことかと想っていましたが、ヒトとの折衝などによって起きる「不快」を見つめることで人生の輪郭と言うかリアリティの重みを知ることが出来るのかもしれないなんて近頃想っていました。

怒り、怒りが実は身体性の根源にあるとすればヒトは何に怒るのか。よくそれは「当たり前が侵害されたら怒る」なんていうけれど。

イカ天でベンジーが「君たちの持ち味は何でしょう」と問われ「正義」と応える場面は有名ですが、ロックの魅力は不良の正義にあります。正義感というのは怒りの一種でしょう。自分の内側から湧き出る感性に従う、その結果社会のルールと衝突しても、ファンはロックンローラーの正義に熱狂する。それを顕す破壊的なディストーションギターでの暴力衝動、これがロックの核の一つでしょう。

故にロックは常に矛盾するというか、一つの指針で割りきれるものではない。結局そのロックンローラーを教祖とした宗教で、法治でなく人治。言ってみれば全て程度問題で、ロック人がよしとすれば良くなりこりゃダメだとなれば悪しきものとなる。ここに私は言語ゲームの原理主義でなく身体性の「塩梅」をみるのです。ロックはイデオロギーではない。

そしてロックな人は多くの場合一般人より自由にいかれてみえる。けれど心中のルールに従っていて、彼らの中での塩梅がある。全て自由にやってよくも狂ってさえいれば良くもない。

大学時代の自分なんかはここを読み間違っていて、あまりにも自分の常識から逸脱した先輩と遊ぶ内にとことん破滅的にやろうとしたら可愛がってくれてた先輩に「もう友達じゃない」と言われたりもしました。つまりロックは原理主義でなく身体性の「いい塩梅」を模索しろという、己の正義の枠を実行するのがロックであると。

倫理基準が外(例えば社会)でなく己にあるから、他人の言葉でなく自分の言葉、借り物でなく実際に臓腑から出た言葉でないと響かない。また易々と他人を信じず自分で確かめないとおいそれと言葉にしない。社会の普通に迎合しない。己の精神に従う。つまり、ロックンローラーを本気でやってる人とはスムーズなコミュニケーションは成り立たない。

それ故にロックンローラーの中にはコミュ障にみえる人がいる。けれどそれは彼らが真摯にコミュニケーションを取ろうとしている故である。ベタ、普通、通常、一般なリアクションでスムーズに楽しない。ちゃらくやらない。無論これはロックンローラーの一部の人の話です。

そこへ行くと自分はサンプリング文化的であり、特にこの十年は正義よりも新しい刺激を求めているようにも思えて。メディア漬けでもある。今振り替えるとロックロック言ってたのにロック的な在り様でなかった。今、自分よりもよりエモーショナルに生きてロック概念を体現している人に触れてそう思います。

「ロックかと想っていたが、ロックではなかった」と認めること、真情を述べることはロック的ではあるけれども。ROCKに対する幻想が散ったことで逆にROCKな身体性が発生しているのかもしれません。ロックというアティチュードが形骸化しイノベーティヴでもなくなりダサくなり老害化している時代遅れ、なんて散々な状態な昨今ですが、だからこそ忌憚なく素直に推察を述べることが出来る土壌が自分の内部・外部に起きている、そんな気がしています。

少なくとも今回、ロックは原理主義じゃない、寧ろ真逆というところに辿り着けました。なのにロック原理主義みたいな偽のファンタジー言論がワナビーと形成されたのが、ロックが力を失った理由かもしれません。

骨格だけ残ることで身体の真情としてのロックの血肉化が漸くじりじりと始まっている。そんな平成の終わりは個人的には20世紀の終わりと言える気もしました。

by wavesll | 2019-04-06 04:03 | 私信 | Comments(0)

★の在りかた Freddie Mercury, Montserrat Caballé『BARCELONA』

BARCELONA, Montserrat Caballé, Freddie Mercury
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NHKBSで放送されたQueenのドキュメンタリーを2本観ました。その2本目で取り上げられていたのがフレディ・マーキュリーが晩年に取り組んだモンセラート・カバリェとのオペラ作品『BARCELONA』。日本語歌詞もあるフレディの芸術性が爆発した大作。素晴らしかったです。ロック・オペラとして、本流のオペラファンからは”いやー”と思うところもありそうですが、荘厳なオペラの世界への入り口として惹きつける魅力にあふれた名盤だと感じました。

2本のドキュメンタリーは映画『ボヘミアン・ラプソディ』の裏側はこうなっていたのかと思わせるもので、フレディの恋人たちなどが実際に出て来て見ごたえがありました。あまりにも劇的な人生。

人生自体がドラマのように感じることの凄味を感じつつ”Great Pretender”だったフレディを一人の人間として扱ってくれるトポスは何処かにあったのだろうか…当時はWebもなかった…などとも思いました。

凄まじい藝術を行うヒトはその藝が巧みなほどカミや魔人にしばしばみえます。けれど憧れが理解には最も遠いように、神格化は”人として扱うこと”からは最も遠いことかもしれない。私自身は芸術家は社会のルールに縛られないと思いますがそれと表裏一体となった『偉人の人生自体をドラマのように楽しむこと』の暴力性と、けれどその幻想が芸術家を時代の象徴へ昇華させるのかもしれないという功罪を想いました。

ただインターネット以後、特にSNS以後の世界に育ったWebネイティヴな世代はそもそもの気風が違うエリアにいるようにも思います。先日Googleがインターネット30周年を祝っていましたが、平成という時代は電脳空間が生まれ、社会に組み込まれていった時代だったなと。そこには旧世紀とは異なる形のスターの在り方があって、別のやり方のサヴァイヴの仕方がある。

もう暖かくなってきたというのに季節に遅れた服で町を歩く私ですが、「俺はアナクロ」と嘯いてばかりいないで、自分の歴史に筋を通しながらも現状にアジャストしていくべきなのかもしれない。それにしても『BARCELONA』の神聖な響きは本当に沁みる。そんな夜となりました。

by wavesll | 2019-03-14 23:03 | Sound Gem | Comments(0)

ETV特集 こころの時代 ECD 「個」を貫いた生きかた

ECD−マス対コア


MASS対CORE (LIVE AT TOWER RECORDS)ECD,YTR


逝去してこの1月で1年が経ったECD。彼の思想を取り上げたETV特集をみました。

『夫婦の前に、家族である前に、人は「個」である。』

ECDの「個」の信念はさんぴんキャンプを取りまとめ、日本語ラップが世間に認知され人気が出たまさにその時にラップシーンから離れたところに最も鮮やかに生まれます。

『まともな世界の仲間入りは耐え難いものだった。』

彼の「個」のルーツは中野での幼少時代に。6畳一間に4人。そこは元は車庫で、まるで路上。「おやすみなさい」も「ありがとう」も「ごめんなさい」も口に出さない家族。4人の自他が未分化で、蛙の卵のように繋がりお互いを個と看做さない環境で石田少年は過ごしました。

ECDはこの家庭環境の原因を戦争にみています。育ち盛りにろくにモノを食べれず、夢や理想と無縁で飢えへの恐怖を生きる原動力とする父親。母親の「人に迷惑をかけるな」は戦時教育からだと。両親は子ども時代の戦争体験から自分を個として尊重できない被害者だと。

そんな少年時代最大の出来事はデヴィッド・ボウイとの出会い。TVでボウイの番組がやっていたときに父が「何だこのバケモノ」と言った時、父に「ざまぁみろ」と言ってやりたかったそう。分かり合えないものが生まれたのが嬉しかった。断絶こそ欲しかった。

そこから彼は自分の個を探して。高校中退し家出。劇団では芽が出なかったが23才のときヒップホップ映画『ワイルド・スタイル』をみてこの”恐ろしく原始的な音楽”、まだ日本では知られていなかったラップで個を表現して。

そしてラップ音楽から決別。第一人者が独り道を違え、さらなる個をあらわす変化へ。アルバム『MELTING POT』はそれまでのメッセージ性の高い歌詞とは異なる歌詞が聴き取れないポエトリーリーディングな盤。

彼は「レコード会社が求めること、人の期待に応え、シーンを盛り上げるためにポップにやること」に違和感を持って周りから期待される音楽と表現したいものが違っていたことに悩んで。売り上げは落ち契約は解除、そこからECDは激情の裏方の仕事をしながら自主制作を続けます。

上手くいかない中、酒を飲み続けアルコール依存症に。

『死は遠ざけることは出来ないが引き寄せることはできる』

『結婚して家庭を持ち子供をつくることを平穏で安易な選択だと馬鹿にしていた。子どもと言う存在を許せなかった』

「個」を表現するには普通の幸せはいらないと考えていた。

或る日、病を持った猫に懐かれ。家に持ち帰ると子猫を産んで。死産も。『生命そのものに対する恐怖は自分に対する底知れない不信の種になった』。

その後妻となり亡くなるまで十年間を過ごす植本一子さんは「猫がいたから何とか生活を保てた。飼い猫が死んだときくらいしか凄い泣いてない」と話します。

日々を綴ったアル中日記には『やりきれないことばっかりだからレコードレコードレコードレコード』。世間に認められず破滅的な状況の中で個の表現を模索していた。

アルコール依存症から復帰し、劇場の仕事で生計を立てながら、かつての社会を斬るラップから自分の身の回りなどありのままを素直に歌うラップをしながたECDは自主製作を続けます。

そして猛アタックを受け、48才の時に24才下の一子さんと結婚。娘も授かります。

家族の繋がりに疑問を持ち個を追求したECD、家庭を持つことに矛盾はなかったのか。
映像作品『頑張れECD』には家族を持っても個を貫いたECDがいました。がん入院から自宅に帰り、一子さんの反対を押し切りラップを録音、大声を上げたためレコーディングが完成した時には体は限界、再び病院へ。

自分が自分であるために必要なことはラップでお金をもらう事。体を大事にすることを蔑ろにしても『君(=音楽)といられて幸せ』と歌います。

著書『他人の始まり因果の終わり』にて『どこまで行っても人は個である、一人である。誰もが地球に落ちてきた頼りない存在である』と。

個と言うかリアリストであり、徹底してリアルを歌うと「人間って一人だよね」と。同時に相手の個性も尊重、長屋的に忖度なしに手を貸すことも。

『父親と言う役割から離れた無力な肉塊として理解を求めたい。(~)他人の始まりなのかもしれない。偽善の快楽と安らぎをもたらしてくれる「一家団欒」は死後の世界にすら存在しない。それを自由と想いたい』とECDは語る。

彼との日々を振り返って一子さんは「個として生きて個として死ぬ。「他人」という表現は優しさ。許してくれていた。人に期待することなく自立していて、期待されたことは何もなかった」と語っていました。

ヒトはオランウータンと異なり社会性の中で生きる動物、特に近年はSNSなどで「共感」を求め承認欲求を肥大させる人間は私を含め多くいます。そんな中でECDのアティテュードは、その原因に機能不全家族があったとしても、清冽で余計な贅肉をそぎ落としてくれます。

つるむことは安定を産むけれど、自由を失う。実業としては需要は難しくなるけれど、本当に「個」としての表現を追求することの真摯さ。また変に相手に期待するから裏切られたなんて憎悪に駆られたりする。「他人」という意識が甘えから抜けることに繋がる。人に好かれること・ウケることに依存しない本質的な独立自尊が今の時代に鮮烈な風を吹き込んでくれる。他者に阿らず、期待せず、しかしだからこその優しさがあるハードボイルドなアティチュードに感銘を受けた視聴となりました。

by wavesll | 2019-02-15 00:22 | 私信 | Comments(0)