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居たかった場と縁・出発

種田は誰かに批判されるのが怖いんだ!!大好きな大好きな音楽でさ!!でも褒められてもけなされても、評価されてはじめて価値がでるんじゃん!?-浅野いにお『ソラニン』

Twitterをやって良かったと思うのは、自分が方向性が同じだとか思ったり感性を憧れる人たちの中で自分の呟きに評価の実力差を突き付けられたこと。

私は大学時代、かなりWebに物を書くことに嵌まって。mixiなんかも猛烈な勢いで書いたのですが、私からみると浅い趣味にみえた友人たちの方が仲間内で“いいね”を得ていることに、というか自分がまるでいいねやコメントを得れないことにいらだちと失望を覚えていました。

今思えばそれは自分のサークル内でのキャラもあったというか、変人として自分で自分をネタにするような人間で、そしてサークル運営で他者の世話し気遣いをみせるわけでも競技で格好いい姿をみせるわけでもない自分は、いわばWebの場で「何を言うか」の前に実生活での「誰が言ったか」のレイヤーで評価を得られる人間ではなかったのでしょう。言葉より行動が大事で。もっと言えば他者にとっては「話をされる」より「聴く/訊く」方が喜ばれるというのも後に知りました。

それでも、その昔は「俺は内輪ウケはやらずに一般でも通じるネタをやるんだ」というつもりでした。けれど、今TwitterのTimeLineに安住している処から見返すと、自分はムラ的な狭いネタ人間なのではないかと想います。確かに「人間関係の話題による内輪ウケ」はしないけれども「狭いコンテンツの話題による“わかってる”クラスタ内での一種の内輪ウケ」ではないかと。

そしてこんな私でも受け入れてくれるニッチがあることをTwitterで知れて。いいねやリプライもされるし、自分が好きな音楽や美術の話題が“変わってる”とされない、寧ろ私が浅い人間になる世界。これは私にとってはオアシスといえました。

けれど、私自身が浅い存在になることと、自分より遥かに深く面白い、それこそ島宇宙の蛸壺を越えて一般にも通じる面白ネタを書ける人と同じ空間に載ることになりました。そこには嫉妬も感じることがあったのも白状しなければなりません。

しかし、これがなければ”何処か別の世界へ行けば俺は認められ輝けるはずだ”とか恥ずかしい妄想を抱えたままでした。

この自分が等身大での勝負というか、やりたい場で他己評価を知ることで、一つ地に足がついたというか、現実を見据えて、何か筆の向上、開けたコミュニケーションに謙虚に向き合える、寧ろどんどん邪念が取れ素直に澄んでいく気がします。

そして、もう長年といってもいい付き合いのあるフォロワーさんもいて。WebとRealというけれど、この二つは繋がっている部分もあるのだろうなぁと。虚心坦懐に縁を大事にしていければいいなと今は思います。

by wavesll | 2019-04-15 22:27 | 私信 | Comments(0)

怒りによって身体性を会得する噺ー自分よりロックな人をみて


第三シーズンが始まったEテレの人間ってナンだ!?超AI入門。その第2シーズンで語られるのは言語レイヤーと身体的体験という二階建ての知覚の話。

AIが文章の意味を理解しているのかという問いにジョン・サールの「中国語の部屋」という思考実験での回答があります。

ある作業員の仕事は外から入ってくる中国語の文字列をマニュアルに沿って変換して送り返す、例えば感情的な単語には感情的な単語を返す。こうすると何も言葉の意味を理解していなくてもやりとりが成立する、つまり意味が分かっているとみなされてしまうけれど、実際には意味が分かっていない。
このようなことがAIの文章作成にはあります。言語ゲームのみで具体的な身体性の血が通っていない。

ここからは私個人の論ですが、では身体性とは何か。それは扁桃体がもたらす快・不快による感情的経験による裏付けなのではないかと。

私は受験勉強を結構やった人間で、現代文なんかを解くのはどちらかと言えば得意だったのですが、大学時代にどうにも自分が空気が読めない突拍子のない人間なのだと気づかされて。

これは色々な要素もあったと思うのですが、言語レイヤーをやりすぎて実体験のリアルな情感を積まな過ぎたのもあるかもしれません。

個人的にはそれが一番顕著に表れるのは例えば映画や小説、漫画を読んだ時にどんな展開になっても”そうなんだな”とか理解しようとするんですよね。”これはリアリティがない”とかのジャッジをしないというか、”まーそんなこともあるんじゃない”なんて想ってしまう。

私自身が拘る部分が他者が拘る部分とまるで違うというか、自分がどうでもいいと思う部分を周りは重視して、変人にみられたり。で、それも笑って流していたけれど、ヘドロが溜まってきて暴発したりもしました。

私は快・楽こそ最も重要なことかと想っていましたが、ヒトとの折衝などによって起きる「不快」を見つめることで人生の輪郭と言うかリアリティの重みを知ることが出来るのかもしれないなんて近頃想っていました。

怒り、怒りが実は身体性の根源にあるとすればヒトは何に怒るのか。よくそれは「当たり前が侵害されたら怒る」なんていうけれど。

イカ天でベンジーが「君たちの持ち味は何でしょう」と問われ「正義」と応える場面は有名ですが、ロックの魅力は不良の正義にあります。正義感というのは怒りの一種でしょう。自分の内側から湧き出る感性に従う、その結果社会のルールと衝突しても、ファンはロックンローラーの正義に熱狂する。それを顕す破壊的なディストーションギターでの暴力衝動、これがロックの核の一つでしょう。

故にロックは常に矛盾するというか、一つの指針で割りきれるものではない。結局そのロックンローラーを教祖とした宗教で、法治でなく人治。言ってみれば全て程度問題で、ロック人がよしとすれば良くなりこりゃダメだとなれば悪しきものとなる。ここに私は言語ゲームの原理主義でなく身体性の「塩梅」をみるのです。ロックはイデオロギーではない。

そしてロックな人は多くの場合一般人より自由にいかれてみえる。けれど心中のルールに従っていて、彼らの中での塩梅がある。全て自由にやってよくも狂ってさえいれば良くもない。

大学時代の自分なんかはここを読み間違っていて、あまりにも自分の常識から逸脱した先輩と遊ぶ内にとことん破滅的にやろうとしたら可愛がってくれてた先輩に「もう友達じゃない」と言われたりもしました。つまりロックは原理主義でなく身体性の「いい塩梅」を模索しろという、己の正義の枠を実行するのがロックであると。

倫理基準が外(例えば社会)でなく己にあるから、他人の言葉でなく自分の言葉、借り物でなく実際に臓腑から出た言葉でないと響かない。また易々と他人を信じず自分で確かめないとおいそれと言葉にしない。社会の普通に迎合しない。己の精神に従う。つまり、ロックンローラーを本気でやってる人とはスムーズなコミュニケーションは成り立たない。

それ故にロックンローラーの中にはコミュ障にみえる人がいる。けれどそれは彼らが真摯にコミュニケーションを取ろうとしている故である。ベタ、普通、通常、一般なリアクションでスムーズに楽しない。ちゃらくやらない。無論これはロックンローラーの一部の人の話です。

そこへ行くと自分はサンプリング文化的であり、特にこの十年は正義よりも新しい刺激を求めているようにも思えて。メディア漬けでもある。今振り替えるとロックロック言ってたのにロック的な在り様でなかった。今、自分よりもよりエモーショナルに生きてロック概念を体現している人に触れてそう思います。

「ロックかと想っていたが、ロックではなかった」と認めること、真情を述べることはロック的ではあるけれども。ROCKに対する幻想が散ったことで逆にROCKな身体性が発生しているのかもしれません。ロックというアティチュードが形骸化しイノベーティヴでもなくなりダサくなり老害化している時代遅れ、なんて散々な状態な昨今ですが、だからこそ忌憚なく素直に推察を述べることが出来る土壌が自分の内部・外部に起きている、そんな気がしています。

少なくとも今回、ロックは原理主義じゃない、寧ろ真逆というところに辿り着けました。なのにロック原理主義みたいな偽のファンタジー言論がワナビーと形成されたのが、ロックが力を失った理由かもしれません。

骨格だけ残ることで身体の真情としてのロックの血肉化が漸くじりじりと始まっている。そんな平成の終わりは個人的には20世紀の終わりと言える気もしました。

by wavesll | 2019-04-06 04:03 | 私信 | Comments(0)

★の在りかた Freddie Mercury, Montserrat Caballé『BARCELONA』

BARCELONA, Montserrat Caballé, Freddie Mercury
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NHKBSで放送されたQueenのドキュメンタリーを2本観ました。その2本目で取り上げられていたのがフレディ・マーキュリーが晩年に取り組んだモンセラート・カバリェとのオペラ作品『BARCELONA』。日本語歌詞もあるフレディの芸術性が爆発した大作。素晴らしかったです。ロック・オペラとして、本流のオペラファンからは”いやー”と思うところもありそうですが、荘厳なオペラの世界への入り口として惹きつける魅力にあふれた名盤だと感じました。

2本のドキュメンタリーは映画『ボヘミアン・ラプソディ』の裏側はこうなっていたのかと思わせるもので、フレディの恋人たちなどが実際に出て来て見ごたえがありました。あまりにも劇的な人生。

人生自体がドラマのように感じることの凄味を感じつつ”Great Pretender”だったフレディを一人の人間として扱ってくれるトポスは何処かにあったのだろうか…当時はWebもなかった…などとも思いました。

凄まじい藝術を行うヒトはその藝が巧みなほどカミや魔人にしばしばみえます。けれど憧れが理解には最も遠いように、神格化は”人として扱うこと”からは最も遠いことかもしれない。私自身は芸術家は社会のルールに縛られないと思いますがそれと表裏一体となった『偉人の人生自体をドラマのように楽しむこと』の暴力性と、けれどその幻想が芸術家を時代の象徴へ昇華させるのかもしれないという功罪を想いました。

ただインターネット以後、特にSNS以後の世界に育ったWebネイティヴな世代はそもそもの気風が違うエリアにいるようにも思います。先日Googleがインターネット30周年を祝っていましたが、平成という時代は電脳空間が生まれ、社会に組み込まれていった時代だったなと。そこには旧世紀とは異なる形のスターの在り方があって、別のやり方のサヴァイヴの仕方がある。

もう暖かくなってきたというのに季節に遅れた服で町を歩く私ですが、「俺はアナクロ」と嘯いてばかりいないで、自分の歴史に筋を通しながらも現状にアジャストしていくべきなのかもしれない。それにしても『BARCELONA』の神聖な響きは本当に沁みる。そんな夜となりました。

by wavesll | 2019-03-14 23:03 | Sound Gem | Comments(0)

ETV特集 こころの時代 ECD 「個」を貫いた生きかた

ECD−マス対コア


MASS対CORE (LIVE AT TOWER RECORDS)ECD,YTR


逝去してこの1月で1年が経ったECD。彼の思想を取り上げたETV特集をみました。

『夫婦の前に、家族である前に、人は「個」である。』

ECDの「個」の信念はさんぴんキャンプを取りまとめ、日本語ラップが世間に認知され人気が出たまさにその時にラップシーンから離れたところに最も鮮やかに生まれます。

『まともな世界の仲間入りは耐え難いものだった。』

彼の「個」のルーツは中野での幼少時代に。6畳一間に4人。そこは元は車庫で、まるで路上。「おやすみなさい」も「ありがとう」も「ごめんなさい」も口に出さない家族。4人の自他が未分化で、蛙の卵のように繋がりお互いを個と看做さない環境で石田少年は過ごしました。

ECDはこの家庭環境の原因を戦争にみています。育ち盛りにろくにモノを食べれず、夢や理想と無縁で飢えへの恐怖を生きる原動力とする父親。母親の「人に迷惑をかけるな」は戦時教育からだと。両親は子ども時代の戦争体験から自分を個として尊重できない被害者だと。

そんな少年時代最大の出来事はデヴィッド・ボウイとの出会い。TVでボウイの番組がやっていたときに父が「何だこのバケモノ」と言った時、父に「ざまぁみろ」と言ってやりたかったそう。分かり合えないものが生まれたのが嬉しかった。断絶こそ欲しかった。

そこから彼は自分の個を探して。高校中退し家出。劇団では芽が出なかったが23才のときヒップホップ映画『ワイルド・スタイル』をみてこの”恐ろしく原始的な音楽”、まだ日本では知られていなかったラップで個を表現して。

そしてラップ音楽から決別。第一人者が独り道を違え、さらなる個をあらわす変化へ。アルバム『MELTING POT』はそれまでのメッセージ性の高い歌詞とは異なる歌詞が聴き取れないポエトリーリーディングな盤。

彼は「レコード会社が求めること、人の期待に応え、シーンを盛り上げるためにポップにやること」に違和感を持って周りから期待される音楽と表現したいものが違っていたことに悩んで。売り上げは落ち契約は解除、そこからECDは激情の裏方の仕事をしながら自主制作を続けます。

上手くいかない中、酒を飲み続けアルコール依存症に。

『死は遠ざけることは出来ないが引き寄せることはできる』

『結婚して家庭を持ち子供をつくることを平穏で安易な選択だと馬鹿にしていた。子どもと言う存在を許せなかった』

「個」を表現するには普通の幸せはいらないと考えていた。

或る日、病を持った猫に懐かれ。家に持ち帰ると子猫を産んで。死産も。『生命そのものに対する恐怖は自分に対する底知れない不信の種になった』。

その後妻となり亡くなるまで十年間を過ごす植本一子さんは「猫がいたから何とか生活を保てた。飼い猫が死んだときくらいしか凄い泣いてない」と話します。

日々を綴ったアル中日記には『やりきれないことばっかりだからレコードレコードレコードレコード』。世間に認められず破滅的な状況の中で個の表現を模索していた。

アルコール依存症から復帰し、劇場の仕事で生計を立てながら、かつての社会を斬るラップから自分の身の回りなどありのままを素直に歌うラップをしながたECDは自主製作を続けます。

そして猛アタックを受け、48才の時に24才下の一子さんと結婚。娘も授かります。

家族の繋がりに疑問を持ち個を追求したECD、家庭を持つことに矛盾はなかったのか。
映像作品『頑張れECD』には家族を持っても個を貫いたECDがいました。がん入院から自宅に帰り、一子さんの反対を押し切りラップを録音、大声を上げたためレコーディングが完成した時には体は限界、再び病院へ。

自分が自分であるために必要なことはラップでお金をもらう事。体を大事にすることを蔑ろにしても『君(=音楽)といられて幸せ』と歌います。

著書『他人の始まり因果の終わり』にて『どこまで行っても人は個である、一人である。誰もが地球に落ちてきた頼りない存在である』と。

個と言うかリアリストであり、徹底してリアルを歌うと「人間って一人だよね」と。同時に相手の個性も尊重、長屋的に忖度なしに手を貸すことも。

『父親と言う役割から離れた無力な肉塊として理解を求めたい。(~)他人の始まりなのかもしれない。偽善の快楽と安らぎをもたらしてくれる「一家団欒」は死後の世界にすら存在しない。それを自由と想いたい』とECDは語る。

彼との日々を振り返って一子さんは「個として生きて個として死ぬ。「他人」という表現は優しさ。許してくれていた。人に期待することなく自立していて、期待されたことは何もなかった」と語っていました。

ヒトはオランウータンと異なり社会性の中で生きる動物、特に近年はSNSなどで「共感」を求め承認欲求を肥大させる人間は私を含め多くいます。そんな中でECDのアティテュードは、その原因に機能不全家族があったとしても、清冽で余計な贅肉をそぎ落としてくれます。

つるむことは安定を産むけれど、自由を失う。実業としては需要は難しくなるけれど、本当に「個」としての表現を追求することの真摯さ。また変に相手に期待するから裏切られたなんて憎悪に駆られたりする。「他人」という意識が甘えから抜けることに繋がる。人に好かれること・ウケることに依存しない本質的な独立自尊が今の時代に鮮烈な風を吹き込んでくれる。他者に阿らず、期待せず、しかしだからこその優しさがあるハードボイルドなアティチュードに感銘を受けた視聴となりました。

by wavesll | 2019-02-15 00:22 | 私信 | Comments(0)

安定性が高まるほど速度を出せるか。刺激と不快は裏表か。M-1後1週間のラジオを聴いて。

M-1、今年も終了して。なんやかんや面白く観れました。
M-1終わりでの一週間の愉しみといえば芸人ラジオでの講評や裏トーク。今はRadikoがありますから、結構色々聴くことが出来ました。

で、聴いている内に想ったのが、”あれ?みんな「明るく楽しく」みたいなものを基礎基本とスタンスとってない?”ということ。
今年は久保田と武智の件もあったからか余計にその点がくっきりしたというか。”あれ?みんな物凄く安定してね?というか、俺、俺周りの環境も含めて不安定に過ぎるんじゃね?”疑惑がw

Twitterとかだと結構過敏さやピリつきや諧謔などが露出する事なんかもあるのですが、岡村のANNもポジティヴを肯定だし、夕方にやってる中川家のANNプレミアムなんかその安定性の凄さたるや。タイムフリーでいつも深夜ラジオ聴いてる人間からすると衝撃的というか、”あぁ、そういえば好きで聴いてる根本宗子と長井短のANNゼロでも二人ともディズニー大好きだったりするもんなぁ”と振り返って想ったり。

何かに傷つけられたり不快感に襲われたときにその超回復として創作が生まれることってあります。けれども、一級のPOPをやってる人たち、特に長年第一線に経ち続けている人たちからすれば、もう創作にネガティヴな外部からの刺激はいらないのかもしれない。

お笑いなんていうと、一時期は”この国がこんなに息苦しくなったのは、何でもかんでも過敏に『変だ変だ』とツッコミ囃し立てるお笑いブームのせいだ”なんて想った時期もあって。実際今もお笑い好きのBBSなんかみてるとあまりにも繊細に子細にコミュニケーションを分析する様子が見て取れて。

けれど、”感じ取る側・批評する側”としては刺激に関するチューニング感度を最大に回してもいいかもしれないけれども、笑いの創造者としては閾値を下げ過ぎているとすぐにスリップしてしまう、安定性を上げた方が結果として最大走行可能速度が上がり、小藪の言う處のビッグビジネスなんかも任せられるようになるのではないだろうか?なんかそんなことを感じましたね。

勿論、スリップスレスレでぶっ放していく面白さなんかもあります、実際根本長井ANNゼロやクリーピーナッツのANNゼロは安定してしまった現在のJUNK陣にないフレッシュさがあって今楽しく聴いているラジオなのですが、クリーピーナッツの二人が応酬する煽り合いや小者な”フリ”からの落しみたいな刺激って安定性を志向したら除かれる要素だと想うし、あのラジオはそこが面白い。自分はやっぱりあれも好きで。

けれど今回のラジオ・リスニングで凄く想ったのは、あれはあくまでショーで、そういう刺激をやりあって面白くなる「刺激」が「不快」と捉える人が多くて、普通の人は自分自身はそういう「刺激」には自分の生活では関わり合いになりたくない、寧ろそういう「刺激」をやらかす人間は『イキリヤカラなハラスメント野郎』なんだだろうなってことで。

みんな和気あいあいと仲良く穏やかに過ごしたいんだな、なんてそんな当たり前のことに気づいた師走でした。この時期といえば忘年会、なんかどうも行っても面白い噺が出ないからここ数年遠ざかっているのですが、そもそもの目的を懇親でなく刺激と取り違えていた感はありますね(苦笑

by wavesll | 2018-12-12 07:14 | 小ネタ | Comments(0)

人生の局面は計算しきれない、そこでどう動くか 人間ってナンだ?超AI入門 第5回「勝負する」






囲碁や将棋で人間を超えたAI

「運」や「ツキ」の正体とは?人工知能と人間で菖蒲の読み方に違うがあるのか?人間の勝負にかける行動原理とは?

ゲストはプロポーカー選手木原直哉。

ポーカーは運の要素も多く、一晩ならわからないが、一か月単位では強い人間が勝つ。

バックギャモンでは2000年にAIが人間を逆転したが、AIを人間が学んで人間のプロも強くなり2000年のAIよりは今の人間は強くなっている。

囲碁や将棋はすべての情報が明らかになっている完全情報ゲーム。麻雀やポーカーは相手の手が分からない不完全情報ゲーム。

アラン・チューリングはチェスのAIを考えた。その後チェスのディープブルーや完全情報ゲームで一番高度な碁のAlphaGoが人間に勝った。

偶然の要素が入る世界では運やツキを捕まえるセンスで人間に分があるのか?

探索木(ゲームで起き得る曲面を現した図)をつくって一番良さそうな手を考えるのがゲームをAIが攻略する方法。

囲碁や将棋は強化学習で今の状況からどう動けばいいかスコア付けし、AIは学ぶ。

将棋のポナンザはまず過去の棋譜を学ばせていたが、それだけでは足りないと、AI同士で対戦させて未知の局面を学ばせた。その数1兆局面。この膨大な経験をフィードバックした。

人間の勝利の定石が時に足枷になることが起きるようになった。

勝負勘を説明するのは難しい。プロはAIみたいな考えをして、より正しいプレイを心掛けている。

麻雀とかは「流れ」が話されるが、木原さんがいうにはそれは過去を語る話。けれど「流れを意識してのプレイ」で未来に影響を及ぼすことがある。”流れ”は人間が作り出した現象。

AIはどう偶然に立ち向かう?

将棋は手持ちの駒と駒の配置に点数を付けて評価しているが、麻雀はインターネット上に乗っているゲームデータから、局面ごとの相手の手牌を推定することから機械学習を始める。

ゲームのAIは「現在の状態」から「次の手の展開」を推測し、その探索木の先に「勝ち」「負け」を読む。
分岐数が5で50手先だと、5の50乗。とてもじゃないが計算できない。これが将棋だと10の226乗局面あるといわれており、これは2017年の最高のコンピューターでも138億年かけても解析しきれない数。つまり事実上すべての探索木を解析するのは不可能。

ゴールの100点から逆算して局面に点数を付け、良さそうなのを選ぶ。一見すると悪いけれど先読みすると良い手もある。

点数は将棋なら手駒から計算する。完全情報ゲームは評価点が付けやすい。けれど不完全情報だと難しい。

麻雀だと「こういう捨て牌ならこう」と限られた情報から相手の手を予測して計算。何を切ると上がりやすいかを選択。

プレイヤーは見えている情報から見えない情報を評価することが必要。膨大な対局データから確率を予測し評価点を算出。AIは期待値が高い手を選ぶ。

ポーカーはベッティングラウンドという勝負に乗るか降りるかを選ぶタイミングが4回あるのでそこで感覚を掴む。

不完全情報ゲームの究極は人狼。ウソをつきあい騙し合うゲーム。最近研究対象として取り上げられている。

AIが会話で人間の信頼を勝ち取る

会話が成り立つには「自分が何を思い相手にどう思われているかを把握する」ことが必要。なので「人間とは何か」「世界とは何か」を理解する事が必要。また主語が省略されるとAIは理解が難しい。この「心のモデル」をシュミレートするには小さい頃から心の理論を学ぶ。ここが要。

ビジネス上で交渉する時も相手の欲しいものを考えて一致点を探る処が重要。

人狼は言葉を使うために選択局面が無限大。ここで人工知能が行ったのはモンテカルロ木探索。サイコロを振ってまずその結果に従う事から始める方法。これは2006年以降に囲碁や将棋のAIで劇的な効果を上げた。

人狼では相手の役職を決める上で使う。ランダムに仮定して、ゲーム終了まで何度も予測する。その結果から自分が取った選択から勝利につながった探索木がわかる。勝つために必要な行動を後から評価する。

しかし人狼の選択は言葉のみ。過去に行われた局面にならないことも多く、攻略は困難。

選択肢が膨大でもランダムな選択を活かし勝つ確率の高い一手を取るのがモンテカルロ木探索。名前のモデルはモナコのカジノ・モンテカルロ。ギャンブルも科学も答えはルーレットに聴け?

人狼をみると「AIの人間性」を想う。なぜ人間が「人間性」を持っているかは、社会的な動物なので協力した方が得な場面では協力し、争った方が良い場面では争う、環境において一番合理的な選択は何かを取るように生物として仕組まれている。

AIが苦手なゲーム、人間が得意なのは「転移学習」。新しいルールが追加されることがゲームの世界では増えてきている。知らないルールを追加して新しいゲームで勝負するとAIはなかなか勝つことが出来ない。ラスベガスでは常に新しいゲームが入れられてくる。

人間は抽象化能力が高い。総合的な判断ができる。AIは局所的。だからこそAIには価値判断のために大量のデータが必要となる。

人生は不完全ゲーム。”あの時あの選択をしていたら…ああ話せば、あの時動いていれば”それが一つ縁起の味になっていると想います。様々なポイントで探索木が分岐する。

完全情報ではないし、完全情報だとしたって計算なんてできない膨大さ。言葉をはじめ選択肢は無限大だから、モンテカルロ木探索のようにえいやと賭けて動きながらOODAしていかなければならない、静的でなく動的な思考身体性が人生では求められます。

私は「心のモデル」が幼稚な場面が多く、意思疎通に失敗したり、踏み出せなかった悔恨があったりすること結構あって。それでも、閉じこもるのでなく理解を開いて、PULLそしてPUSHの働きかけをしないと人生が詰んでしまうなと。

浅い合理性を超えて真の人間理解の為のヒトの鋒が抽象化であり転移学習なのだなと。と、同時に棋士がやっているようにAIがビッグデータを用いて分析した戦略から学んで人生という樹を登る援けにすることはありだなとも思いました。










by wavesll | 2018-11-08 01:37 | 小ネタ | Comments(0)

お前の”思考の”オールを任せるなー安田純平氏の日本記者クラブでの記者会見によせて

【ノーカット】安田純平氏 記者会見


シリア取材にて人質になっていたジャーナリスト・安田純平さんの日本記者クラブでの記者会見の全編動画をみました。

ネットでは右も左も様々な事をかまびすしく騒いでいたこの事件ですが、実際にこうして話を聴くと安田氏が非常に高い知能や気力がありながら、けれども「凡ミス」により拘束に至ってしまった。また拘束状況も時によりその負荷が変わっていったという事が伝わり、まだ記憶の前後の混乱は残るものの、概ね信頼できると感じたところでした。

今はこうして記者会見も生で全編Webでみれますから、良い時代ですね。Youtubeの実況コメントもみていなかったので、『誰かのコメント達の最大公約数』でない『自分の意見』をまず固められて。絶賛でも批難でもない、色眼鏡を外して安田さんをみることができました。

そしてそれは、まさに戦場へジャーナリストが行くことの理由へとも繋がる気がします。つまり、他国の色眼鏡、自国政府の色眼鏡でない一次情報を手に入れることが、いかに認知の領域で日本国民の判断能力を拡げられるかということ。他人の意見を鵜呑みにせずなるだけ自分で一次情報に当たって考えること。その為に他国の色眼鏡がかかった情報でなく自国のジャーナリストが死地へ入ることの重要さ。

事が戦争だと『国益』の面から情報は覆われることが多々あります。実際、権力側はこうした取材を苦々しく想うことがあるかもしれない。また日本人の傾向として、自分の持ち場を出て公共についてはとやかく言わないという性質もあるかもしれません。

けれども、誰しもが暮らすこの平和を生きることを営むためにもインテリジェンスは必要であって、有権者としてその価値判断を他人に委ねず、出来る限りは一次情報に近いところを識ることが大切であるとこの事件で再び感じました。

cf



by wavesll | 2018-11-03 06:37 | 小噺 | Comments(0)

BS1スペシャル 原爆投下 知られざる作戦を追う -人としての圧と縁。米政権と米軍部の知られざる攻防

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NHKBS1で昨夏放送されたBS1 スペシャル 原爆投下 知られざる作戦を追う

アメリカ合衆国民が信じる「原爆投下によってアメリカ兵の命を救うことをトルーマン大統領が決断した」という事象が、現実にはトルーマンは決断をできておらず軍部に押し切られる形で原爆投下は行われ、悔恨の念を述べてすらいたという複数の米国の歴史学者の研究が近年出ていていて、それについて番組制作班が取材した成果を放送するという内容。

この番組で原爆計画の実行者として名が示されたのがレスリー・グローブス。マンハッタン計画の責任者だった彼が亡くなる3ヶ月前に残した空軍士官学校に残したインタビューテープ。これを4ヶ月にわたる交渉の結果、取材班は外部として初めて取材することが出来ました。

グローブスはこう述べています。「トルーマン大統領は市民の上に原爆を落とすという軍の責任を止められなかった。いったん始めた計画を止められるわけがない」。

実際、1945年の暮れまでに17発の原爆の生産ラインができていて、1週間に一発落とし日本を壊滅させることも出来ました。

原爆投下時の合衆国大統領であったトルーマン。彼はフランクリン・ルーズヴェルト大統領の急逝により何の情報も知らずに副大統領になってから三ヶ月目で大統領に。
ルーズヴェルトの下で既にマンハッタン計画を進めていたグローブスが提出した24頁の報告書も読まず、原爆計画の詳細を知らずに計画の続行を許しました。
トルーマンは「戦争の情報が無く、外交の自信もなく、軍が自分をどうみているかも不安だ」と手記に認めています。

グローブスはマンハッタン計画に於いて科学者にはそれぞれの技術的なことだけ教え、異論を出さないように管理、上官にも同じように行い、原爆計画の情報を自分だけに集約していました。

1945年の原爆投下の2年前から軍の中では投下場所を検討。当初はトラック諸島に落とす計画。東京に落とすという案も。
その中でもグローブスは原爆の威力が隅々まで行き渡る都市に落とし、22億ドルの国家予算をかけたプロジェクトの結果を出さなければならないと、地理的な要因から京都に落とすことを主張します。

けれどもトルーマン直属の部下でグローブスの上官であるスティムソンは京都に2度訪れたことがあり、米国の戦争責任を考え、市民が暮らす都市の真中へ原爆を落とすことに強く反対。トルーマンも投下は軍事施設に限り、女性や子どもをターゲットにしないようにと述べます。

京都への投下を否定されたグローブスは広島を軍事都市だと主張、トルーマン政権に広島には一般市民はいないと思い込ませました。

そして原爆投下。その様の写真を見たトルーマンは「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある」と悔いを述べます。

けれどもグローブスの野望は止まりません。軍では落した爆弾の数が多ければ多いほど評価されます。「2発目以降は準備ができ次第投下せよ」と指示。トルーマンが広島の写真を見て半日後には長崎に投下が為されます。

トルーマンは「日本の女性や子ども達への慈悲の心は私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している」と述懐し、八月十日、トルーマン大統領はこれ以上の原爆投下を中止すると閣僚を集め発表。3発目の準備をしていたグローブスも大統領の決断には従うしかありませんでした。

このように内実では大統領の明確な決断が無いまま行われた原爆投下でしたが、トルーマンはその後原爆投下を正当化するために「多くのアメリカ兵の命を救うために落した」とラジオで発表。ラジオ演説の原稿において「命を救うために原爆を投下した」という物語を後付で考え、投下の責任者にとっての都合のいい理屈としました。


この番組、英字字幕をつけて海外にも発信するべき内容だなと思うと共に、個人的に感慨を持たされたのは、米国政権内部に京都へ訪れた人間がいなかったら、京都が原爆にって消失していた、そして広島のことを政権が知らなかったゆえに反対意見が出ず原爆投下が通ってしまったという事実。

国際関係、戦争という極限状況においても、極めて個人的な事柄が意思決定に大きな影響を与えるという事実。

例えば私自身も中国・韓国へ訪れ、彼の地の人の温かみや愉快さに触れたことで大きくイメージが向上したというか、ネットで増幅しがちな嫌悪感に対する身体的な実感を持てたと感じていて。

外国の要人や、将来要人になるかもしれない若い学生などの人材を日本に来てもらうことは日本にとって大きな資産となるのだと感じました。逆に実習生制度のような奴隷同然に扱うことで、負のイメージをもたらすことの損失も思わざるを得ませんでした。

人間関係は確かに「距離感」が大切になることも大きいですが、身近な接触を保つことのもたらすポジティヴな結果というか、昔鶴瓶が言っていた「縁は努力」という言葉を想って。

そして軍部はその組織理論から、自然と政権や平和意識とぶつかるアクションを行う構造的要因もあるのだというのは、例えば日本での財務省の動きが省益を求めるばかりに国益を害する事にも通じて。70年経ってもヒトという種や組織のメカニズムはそう変わらない、故に歴史から学ぶことはある。人間と人間の対話と対決によって世の中は動いているのだと、改めて感じることとなりました。

by wavesll | 2018-10-22 20:56 | 私信 | Comments(0)

AKIRA『アヤワスカ!』から、旅を超えて日常の輪を誕生日に想

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2018年10月18日、34才になりました。相変わらず日々をやっています。

TwitterのTimeLineで『アヤワスカ!』という本が今なら無料DLできるという情報を観て、ここ数日スマホのKindleで読んでいました。読み易いし、隙間時間に電子書籍はありですね。

アヤワスカ。今までに幾度か耳にしていたナチュラル・ドラッグの名。著者のAKIRA氏は東京での幻覚体験から導かれるままにペルー、エクアドル、ブラジルの山麗そして密林の奥に旅し、そこで麻薬を使った精神体験を得る。大雑把に纏めればそういう体験物語です。

読んでいて”これは昔(といっても十年前)の自分のベクトルの遥かに凄い版の人だな”と感じて。私自身もナスカやマチュピチュの現地に行ったことがあり、ペルー扁の記述はかなり立体的に読み込むことが出来て。繰り出される知識も例えばマクルーハンなんかは自分もメディア論を読んでいましたし、彼がみた幻覚の日の出ならぬ”地球の出”は、私自身が人生でいつか味わってみたい夢そのものでした。

文章のドライヴする感覚も、繰り広げられるデータ達(例えば超ひも理論)も、何だか他人が描いたものを読んでいるというよりは、マチュピチュに行ったのはもう7年前ですが、過去の自分がそのままのベクトルで長じて書いたものを読んでいるようなパラレルな感覚を味わう読書体験で。

と、共に”今の自分はあの頃から目指すものが変わったのかもしれない”とも想ったのでした。

先日、年下の友人から「kamomeさんはインプットは凄いしているのにアウトプットを全然していない、宝の持ち腐れにみえますよ」と言われて。自分はその時”Blogにおいて自分なりにI/Oをしているのだけれどな”と想いながらも「昔は『最高の麻薬のような変性意識をもたらすエンターテイメントを成したい』と想っていたけれど、今はスタンスが変わったんだ」と応えて。

それは出雲・神在祭旅での脳がサーッと焼き切れそうになる体験から、全精力をかけて(といいながら完全ノードラッグですが脳内麻薬で半ば躁りながら)書き上げた妄論が総スカンになったあげく暴論をまくし立て、当時の仲間からどっちらけになって、そして311を経て、自分の中で石舟斎を目指すというか、宙に浮かび上がらずも、水面下で小乗仏教的に日々自分に高まる刺激を与え、それを書き記せばそれでよい、となったというのもあるかもしれません。

道化師で壊れた状態から素になって、あまり人にも付き合わずに自分の内の濃さを上げて。結果として昔はほとんど女っ気ないというかデリカシーのない人間だったのに、今ではある程度”傾聴”とか意識するくらいは社会意識、コミュニケーション感度が持てるようになった気もします。

さて、そんな10年代を過ごした先の2018年の今に感じるのは”自分は旅を超えていかなければならないのかもしれない”ということでした。

旅は本当に愉しい。あらゆることが鮮烈に新奇に映り、異化作用が起きまくり精神が感応します。それはインナーチャイルドを呼び起こすことかもしれない。けれども、得てして「広くて浅い奴もGood Night」になってはしないか。

『アヤワスカ!』を読んでいて特に途中まで想っていたのは”このドライヴ感は確かに面白い。けれどもこの旅路の記述は普通にこの地を旅すれば比較的容易に得られる知見に留まっていて、俺が旅したのとそこまで変わらず掘り下げる深さに於いてどうも刺激を受ける水準にないかもしれない”というものでした。

次から次へと新しいものを浴びてどんどんどんどん世界を拡げることはワクワクするけれども、一つのルーティンというか、一所懸命に日常の中で突き詰めていくDigを行わなければ辿り着けない領域があるのではというのがこの十年間の私の課題で。

メディアの水面に近い浅いところで自分は遊びすぎているのではないか。本当の”独自性”は旅ではなくいつもにみえる日常でどれだけ”汲み取る、編集する、発する”を究めることから生まれるのではないか、と思うのです。神話的なマクロへの関心から、微視的な視点への興味関心を持ったのは様々な人(特に女性に顕著ですが)の感性に触れたことから得た知見かもしれません。

その上で『アヤワスカ!』の麻薬による精神の昂揚の旅はけれども、私が知っている南米の粋を超えてさらなる深部・高みに達して、最後の辺りは読んでいて知的興奮を得て。アヤワスカというナチュラル・ドラッグは一度でその全てを知れるわけでなく徐々に神秘の扉を開いて、適切なシャーマンの導きを以て体験を為すのだなと。インスタントにどんどんスワイプしていくのではない、掘り下げる研ぎ究めがあって幻覚への旅の記述には目を瞠る處がありました。

「旅」に於ける「浅瀬さ」を乗り越える術は、一つには土地との関係を湛えていくこと。与那国旅行での毎年島に来ている方や島で働くようになった方との出会いも大きな感銘を与えて呉れましたが、人との繋がりは確かに一過性を越えていく一つの指針になるかもしれません。そしてこの『アヤワスカ!』のように大きなテーマを以て旅を一貫させること、己で旅行をフリースタイルすることもやはり大きいなと。

旅は日常からの特異点ではあります。けれどもその上で、日常や旅を包括する人生において、マクロな刺激とミクロな刺激をシームレスに統べるDig =「工夫・改善・創新の探究」を行う糸口をみつけたい、そんな営為を過ごす一年の輪をまた始めたい。誕生日にこんなことを想いました。

by wavesll | 2018-10-18 04:39 | 書評 | Comments(0)

國分巧一郎『中動態の世界』 自由と意志のパースペクティヴをあらわしてくれる書

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國分巧一郎 著 『中動態の世界 意志と責任の考古学』を読みました。

現代を生きる我々の言語は「する(能動態)」と「される(受動態)」というパースペクティヴに立っているけれど、古には能動態でも受動態でもない「中動態」があったという。本書は中動態に関する研究を掘り進めながら、「意志」とは何かという哲学的問いを顕としていきます。

さて、中動態。実は現在の「能動態←→受動態」という世界観になる前、能動態に対するのは中動態であり、中動態の一部の用法がその後に受動態を成していったそうです。

では「能動態←→中動態」というのはどういうパースペクティヴなのか。それは「動作が行為対象に働きかけることで完結する」のが「能動態」、「動作の働きが行為者自身に(利益であったり影響が)再帰する」のが「中動態」とのこと。「するかされるか」ではなく「内か外か」というパースペクティヴ。

そもそも動詞というものを探っていくと、その始まりは名詞からだったようです。「名詞的構文から動詞が生まれていった」という本書の言語考古学的な記述は「鳥は恐竜が進化したもの」という話くらい面白い。また現代の各国の印欧語族において「海」という言葉がそれぞれで異なること等から印欧語族の祖はウクライナや南ロシアのあたりだろうなんて話も面白かった。

古代世界に於いて問題となっていたのは「その出来事の存在」であり、「誰の意志か」はその後の変遷でフォーカスされていったもの。昔には日本語にもあったという中動態。今でもギリシャ語には中動態が残るそうですが、英語などでは中動態は受動態に母屋を取られてしまっています。けれども、「意志」というものを哲学者達は考察し、時に批判を行ってきたのでした。

本書の後半はハンナ・アーレント、フーコー、ハイデッガー、ドゥルーズ、スピノザなどの論を中動態という切り口で解説していきます。

例えばアレントはアリストテレスが唱えたプロアイレシスという概念はリベルム・アルビトリウムと同じく「選択」の行為であり、それは「意志」ではない、意志とは過去の事象から何の影響もなく全く新しく始められる事柄である、と定義します。

けれどもこの世界に生きる上で何にも影響を受けずに何かを行うことは不可能であるといえます。我々の行為は過去からの帰結ー選択である。

では例えば「銃で脅されて金を渡す」ことは自由意志による自発的な選択といえるでしょうか?確かに無理やり物理的な暴力を奮われて奪われたわけではありません。けれどもフーコーの考えを照らせば相手に「権力」を行使されての「仕方なく」の行為である。こうした能動とも受動とも言い切れない行為を中動態という概念は鮮やかに描写できると國分さんは言います。

私が本書でもっとも膝を打ったのはこの部分で。私は鬱をやった時に「みな自分自身の人生の選択は、全てを勘案した上で、最もやりたいことをやりたいようにやった結果なのだ」と思いついたことから反転攻勢にでたことがあって。

これは例えばアドラー心理学などを読んでも似たようなことが書かれていて、嫌われてもやりたいことをやるのが好いというようなことなんだななんて想っていたのですが、実社会に於いて「仕方なく行っている行為」は確かに存在するし、その事情を切り捨てるのは確かに乱暴な、それこそ暴力的な思考だなと。

最終章で「人は気質(身体)、人生(感情)、社会(歴史)ゆえに思うように行動できない」という話が出てきますが、全てのことに行為者/意志/責任の明確化が尋問される現代のパースペクティヴから中動態という概念はすこし頸木を外してくれる力があるなと想いました。その上で、純粋な能動がありえないにしても、明晰な認識を行うことによって受動から抜け出すことが出来、強制から自由になれるとスピノザを引いて國分さんは語ります。

本書において感心したのは「中動態」ということを魔法のように神秘的には扱わず、あくまで実際的に解説を行ったこと。その上で中動態という大きな切り口に沿って一貫した論が展開されるために、様々な哲学者の論が引用されてもぎこちなさを感じさせずにまとめられていました。

まだハイデッガー、ドゥルーズ、特にスピノザの辺りは理解が十全とは出来なく、今後の課題ですが、いつかこうした大家の思想にもがっつりと取り組んでみたくなるような、哲学へのいざないともなる読書体験となりました。

by wavesll | 2018-10-11 19:41 | 書評 | Comments(0)