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SNSの”正しい息苦しさ”に岡田尊司『過敏で傷つきやすい人たち』を読む ー鈍感と過敏は同居し、愛着障害による幸福感の欠如は零百思考をしないことと安全基地をつくることから改善する

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ふかわりょうの「ハイレゾ社会に御用心」というコラムを読んで”ハイレゾに関する基礎知識では間違っているけれど、Twitterがどんどん些細な粗さも許されなくなってきているなぁ”と想う昨今。

個人的には「少しのズレも許せなくなっちゃった」という意味で『LOVE PHANTOM症候群』と名付けているこの現象を考える上で岡田尊司『過敏で傷つきやすい人たち』を読んでみました。

やー!この本は面白い!同著者の『対人距離がわからない』はあまりガツンと来なかったのですが、『過敏で傷つきやすい人たち』の内容は上のような問題意識を持っていたからか、かなりするっと入ってくるものでした。

本書の中で語られるのは過敏性を持っている人は”ネガティヴな認識をしがちな人”よりも生きづらさを感じやすい事。そして遺伝などの生得的要因と強い結びつきがある神経学的過敏性よりも、養育要因や社会的体験、愛着対象との関係が強く影響する心理社会的過敏性が不味い場合の方が生きづらさや幸福度に強い相関を示すという事。

面白いなと想ったのは過敏な人は同時に鈍感な一面(低登録)も持っているという事。それ故ワガママだと認識されたり、人から指摘されることも多く、ネガティヴな認識を持ちやすい傾向がある、と。そしてネガティヴな認知以上に過敏さと強い相関があるのが、全部良いか全部悪いかのどちらかになりやすい両極端な認知(二分法認知)の傾向でした。

過敏性の原因には発達障害や愛着障害も成り得て、不安定な愛着は「他人には何も期待せず関わりを断つ回避型」か「大騒ぎして愛情や関心を得ようとする不安型」をもたらします。そして愛着不安が強い人は幸福度が低くなる傾向がかなり強いそうです。

愛着は単なる心理的現象ではなく自律神経系の働きに密接に結びつく生物的・生理的なもので、愛着が安定した人はストレス耐性が強いのに対し、不安型愛着の人はストレスに対して情緒的反応が過剰になりやすく、家族やパートナーにも愛憎の両方を巻き起こしやすく、ストレスも長引きやすい、と。

一方回避型愛着スタイルの人は一見クールに見えながら、実は気づかないふりをしているだけでストレスホルモンは上昇しており、直接自分がストレス源と関わる立場になるとポッキリ折れてしまうことがあるそうです。

愛着障害はもともとは親から虐待されたりネグレクトされた幼児に使う言葉でしたが、実際には大人になっても引き摺っている人が多く、その人たちを「未解決型愛着スタイル」と言うそうです。

ではどうすればいいのか。本書は過敏な人の適応戦略として

1. 刺激量を減らす
外からの刺激が閾値を超えないようセーブ。頭に出てくる雑念は懸案事項を書き留めることで外部化し抑える。またこのタイプの人と話す人は喋り倒さず沈黙も設ける。

2. 刺激を予測の付くものにする
生活や活動をルーティン化し、予測ができるようになると刺激の苦痛は半減。このタイプの人と付き合う人はサプライズは避ける。

3. 安全限界を超えない
刺激が閾値を超えそうになって、イライラや疲労感、集中力の低下などの兆候を見つけたら限界を超える前に止める。休みの日にぼーっとすることもメンテナンスとして大切。

4. 薬も効果的

5. 不快な刺激やストレス源の人間などを回避する

6. 感覚探究が高く神経システムが安定するために必要な刺激量が大きい人は旅行や芸術、スポーツなども大切に

7. 低登録な人は気が回らなかったり切り替わりが悪いと言われる人もいるが、寧ろ運鈍根は信用を得ることも。また過敏さと鈍感さが同居している人の過集中は天才的な閃きを生むことも。

8. 低登録の人は大きな刺激でないと感応できないので、スイッチが入りやすいように刺激強め、行動や質問と組み合わせてメッセージを送る

等が挙げられていました。(過敏な人たちは多様であり、これら等から自分に合うメソッドを自分で選び出すことが大事。)

本書はさらに進んで、過敏性を克服するために

1. 肯定的認知エクササイズで幸福と社会適応を高める

・感謝するエクササイズで、得ることが出来ている快楽に馴れっこにならないようにする
・「奇跡が起きて何でもできる力を得たとしたら、あなたはどうなりたいですか」という希望のエクササイズをする
・親切にするエクササイズはオキシトシンを分泌させる

2. 二分法的認知の克服エクササイズ

・良いところ探しのエクササイズ
・許しのエクササイズ
・第三者の視点を持つメタ認知のエクササイズ
・自分が相手と入れ替わるエクササイズ

・マインドフルネスの三分間呼吸法
背を伸ばし座って目を閉じ、1分目は自分の心の状態を感じ、2分目は呼吸を意識し、3分目は足先から膝、腿、尻、腹、背中、腕、肩、首、顔、頭の感覚に目を向けボディ・スキャニング。

・ひたすらポジティヴであればいいのではなく批判的な目も持たないと危険

・行動目標は小さなゴールの成功体験を積み重ねる
・主体的な関与が苦痛を減らす

3. 安全基地を強化する

・一日中ぴったりとくっついていられ、安全で、心地よい存在で、自分の反応に応えてくれる存在=安全基地をつくる

・ケアが必要な人の問題を解決する時は、その人をケアする人の大変さを受け止めたり本人の状況の理解を援けたりすることが効果的。

・愛着は相互のものであり、不快な相手は逆に自分のことを不快に感じていることも。相手を責める前に自分を客観視することが肝要。

・相手を全否定することは人間関係を破壊する。つい気を許して口にする否定的な口癖も積み重なれば相手を安全基地ではなくさせてしまう。

・人が健康に生きていくには依存と自立両方が必要

・安全基地になれない人からは、心理的、物理的に距離を取る

・恋愛や家庭でなく、仕事や趣味が安全基地になることも

という過敏性の本の愛着障害の克服に安全基地が大事だということを記し本書は終わるのですが、ここまで読んで冒頭のSNSの「少しのズレも許せない症候群」に関して、寧ろSNSを安全基地としている人が多いことの裏返しなのかもしれない、なんて思いました。

明け方書いたエントリで「左の人は無自覚な右の人を受け止め諭す度量がないと現実は変わらない」と書きましたが、寧ろSNSでのエコーチェンバーが安全基地としての機能を果たしているとすれば、無理に意見を異にする人と交わろうとするよりもクラスタで固まることが精神を安寧させるのではと。そういった意味でブロックやミュートを駆使するのは現実的改善かもしれませんね。

その上で、他者、それも「当たり前」が異なる人と語り合おうとする人は、クソリプの応酬だと拒絶されぬ工夫、例えば「Yes~but~」法などを使うことが、鬱憤晴らしに終わらない実効力を持つのではないかと改めて記してこの記事を終わります。

by wavesll | 2018-06-19 19:15 | 書評 | Trackback | Comments(0)

愛国ソング批難騒動から想う「当たり前」が違う相手との実効性のあるコミュニケーション

を聴いて。

最初は”ううぇえ…こういう話は聴いてて靄りそうだし、聴かないでおこうか”と考えたのですが、きちんと聞いてみると一面的な批判ではなく、真っ当な考察がなされて、また論客の一人が結構右だったりして左過ぎない構成になっていて聴けました。

個人的には「HINOMARU」も「ガイコクジンノトモダチ」も「NIPPON」も彼らの楽曲の中では凡曲に感じるのですが、それに対して「軍歌だ」「排外主義だ」と声高に批判されるのはどうにもTwitterも息苦しくなったものだなぁと。

無法図な批判が表現の自由からのバックラッシュが起こすという点も番組では触れられていて、やはり良くモノを考えている人の考察は深いと想ったので当ラジオ番組を聴かれるのをお薦め致します。番組の中でも「『HINOMARU』は軍歌ではない」と先ず語られていて、その上で歌詞の出来の悪さが語られていたりします。

ゆずの二人についても中高生の時にオールナイトニッポンSUPERで浜辺から公開放送してリスナーに「全体ここにくんな!いやク〇ニ!」とか言ってバカ騒ぎしていた二人を知っている身からすると、今の二人にはとても”正しい事”が求められているんだなぁと。

“もう彼らは少年少女が気持ちを重ねる若手な立場と言うより、或いは音楽好きの若者から「あいつら大したことないのに売れやがって」というルサンチマンを浴びる大メジャーな存在なんだなぁ、「栄光の架橋」あたりからその流れに一気になったのかなぁ、二人もおっさんの年だものなぁ、お互い年取ったなぁ”なんて思ったり。

番組の中でも『「右でもなく左でもなく」は無自覚なウヨクのテンプレ』『無思想を表明することの暴力性』が語られていましたが、確かに右の方がマジョリティな分、自分のポジションに無自覚な処はあると感じます。「何を言ってるの?これは”普通”でしょ?」と。

逆に「『右でも左でもなく』というのは右」と言われるということは、是々非々で語るのは右が多く、左は聴く耳を持たない印象があるのではと。これは左の人は普段右の世界に合わせなければならない状況の中で、異議を常に発する立場な構造が前提にあると想います。左の人は「『当たり前』が通じない世界」に怒りを感じざるを得ない。

人間激昂する時は何にかといえば「当たり前」が為されない時であって、「当たり前」が違う人同士で語ることの難しさを改めて感じた一件でした。

現状で出来るとしたら、無自覚な右派は自分が語っていることがどのポジションにあるかを自覚する事、そして左派はバックラッシュの藪蛇を生み出す言葉狩りの触発よりもアイメッセージ等を使っての他者への諭しがコレクトなのではないかと。意識を高くあろうとする側こそ度量がいるなと。

以前に知り合いから聴いたのは、選挙で、特に地方での選挙に於いては「どんなに相手が馬鹿だと想っても、馬鹿だなと見下げた瞬間に票は消えていく」ということ。革新派よりも保守派の方が清濁併せ呑む余裕があるというか、左派の方が原理主義的に感じることがあります。

Webではその狭量さが可視化されやすいのが残念な反発を招いている気がして。

現実世界ではマジョリティの保守派や腐敗した政治家が無自覚にデリカシーのない横暴を行っていて。逆に左派は多様性や弱者への優しい眼差しがあるのに、古くは新聞などのメディア、今だとWebでのエコーチェンバーで塊で提示される故に左派がマジョリティ的にプレゼンテーションされ、逆説的に”保守”がオルタナティヴな本音の選択肢として一つの土着になってしまった流れが、『ゴーマニズム宣言』以降の流れだと。

実効性のある戦いを左派がするために、濁りや愚かさを感情的打破ではなく深い言葉、叡智も駆使しながらやってほしいななんて先般の知事選のバウトをみても想う処です。

by wavesll | 2018-06-19 02:10 | 小ネタ | Trackback | Comments(0)

岡田 尊司 著『対人距離がわからない ─どうしてあの人はうまくいくのか?』読書感想メモ

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コミュニケーション指南書として期待していた柔らかい感じではなく、教科書的な堅めにコミュニケーションタイプによって人々を分類して、それごとの特質を分析・羅列する本でした。

人と親密になりやすい演技性パーソナリティーは幸福度が高いが、長い付き合いの中では真面目な強迫性パーソナリティ―の方が人から重要視されるとの話。またシゾイドや回避性パーソナリティー等のヒトとの関わりから遠のくタイプは幸福度が低いとのこと。

多くのコミュニケーション不全が自分に重なりなりつつもほとんどの話は深く刺さることはありませんでしたが、言語性IQ、動作性IQの他に処理速度という軸が社会の中でのロールを決めるという話と、「自分の悲しみやつらさを乗り越え、相手の視点など自分を超えた視点で振り返り、それを許そうとする」という「メンタライゼーション」という技術が人生を前向きに安定させるという話は興味深いものでした。

演技性パーソナリティーや反社会的特性のある人間に対しては拒否をきちんと主張しつつ、自分自身はそういうライフハックをすることを現実を上手く廻すために薦めながらも、最後に他者の心を打つのは真っ当な誠実さだと読めて、綺麗な噺に落ち着いたと感じました。

この著者はみてみると似たようなテーマで本を量産していて、ちょっと看板や視点を架け替えてるだけだと感じてもうこれ以上金を払うことはしないだろうけれど、一人の人間のリソースではそんなに多種多様に深く物事を書き記せるものでもないから、食っていくためには少しインスタントになっても新作を出し続ける必要があるのだろうなと。

お薦め度は3/10。特に「コミュニケーションのコツが知りたい」だとタイトルを観て期待した人にはあまり参考にはならない本だと想います。


by wavesll | 2018-06-13 05:01 | 書評 | Trackback | Comments(0)

冗談の行間が読まれなくなった時代に言葉はヴァーチャルではいられない

鬼畜系サブカルチャーの終焉/正しい悪趣味の衰退 - Underground Magazine Archives
を読んで、「シャレ」が「カルト」になっていく怖さを感じて。

「いい塩梅の悪ふざけ」は実際には相当タフな理力が求められ、実力が足りない者がその高度な遊びを「何でもあり、過激なほどいい」と誤解し全てがぶち壊しにすることは歴史上幾度も繰り返されていたのだろうなと。

私は「◯す」とか「◯ね」といった書き込みで警察が動いたりする昨今には“(悪趣味だけど)洒落が通じない”と思う人間だったのですが、実際、私自身価値観の倒錯から狂信な暴走をやらかすに至った上、「言葉はヴァーチャル」だけでなく心身への物理的影響もあるのだと今は意見を転向しました。

野放図な本音を発するのは軋轢を産んで。世の中のダブルスタンダード性というか、場面場面での受容の変容を受容できるかどうかが成人の作法の大きな要素で。法律でもプライヴェートでもなんでも絶対的な基準でなく、トコロ変わればヒトが変われば基準はいかようにも変わって。

「常に裏表のない」のみだと鵺のような社会の中では生きずらい様に想えます。人の間に絶対はなく即応が現実を動かして。人の間での場に合わせた洗練と真情の折り合いとした本音2.0が落とし処哉と思います。

同様に板の上の芸と板から降りた日常は異なるもの。

サブカルとかで遊んでるようにみえる文化人が政治的に正論を言うのは“遊びは遊び、マジはマジ”という分別があるからですが、Webによりメディアが板の上だけでなくなった今の時代、行間は読まれないとすると、粋ではないかもしれないけれど“この不謹慎は蔑まれるのが前提の遊びだと認識しています”という御断りが必要なのかもしれません。

また腐臭の漂う酸味はあくまでヴァーチャルだからこそ受容の間口を確保できるのであって。インコースぎりぎりを攻めるのはハイレベルな技量ですが「過激なら過激なほどいい」とビーンボールを投げたら総スカン。

極楽山本も「平成生まれ解禁だ~!」と言ってた頃は楽しかったけれども実際に淫行で捕まったら笑えない。『ガリレオ』でも殺人者を演じるために殺人するのが役に立つと言った犯人が喝破される描写がありましたね。

ついつい”ガチ=Nature”をモノホンとして有難がってしまいますが、アール・ブリュット的なモノは狙っても出せない、というか狙わずにも滲み出るものですから、”技芸=Art(ificial)”を鍛錬するのが一つ破滅からの抜け出しになるのかもしれない、なんて思いました。

ただ「デタラメで面白い」と喧伝してた人が一般人がデタラメやりはじめたら「もっと分別持とうよ」と言わざるを得ないのは、所詮そういう人の主張する価値観は絶対的でなく、相対的にオルタナティヴを提示してるだけで、主な役割はバランサーなのだなという点に悲哀も感じて。

その点で『今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。』と言った岡本太郎は筋金が入っていたなと。相対的でなく絶対的に価値認知範囲を拡げる運動というか。

ノイズへの冒険もそうですが、今の時代には「悪趣味を楽しむ(でも自省はする)という淫靡でウェットなフェティッシュ」よりも「より広い世界への探究への斥候としての法螺」の方があっているのかもしれません。

そこにあるのは高度な言語ゲームの粋というよりも野暮だけれどもリアルな迫真かもしれませんが、マルキドサドが『ソドム120日』で真に描こうとしたのは露悪的な性的描写の先に在る自由への渇望でもあったし、倒錯をするときは”倒錯している”と認識を保ち、さらなる広大な視野を抱けるかが遊びの鯔背さと救いの本質哉と想った次第でした。

cf.

追雑記

「いい感じの逸脱」をみた後進が「分かってない暴挙」をして先達が「過激すぎる、それは酷い」みたいなことを嘆く流れって数多ありますね。

私自身が良い塩梅が分からない人間だからか”なら最初から品行方正にしてろ”とか”変に粋を気取らず野暮でもきちんと注釈をいれてくれよ”とか望んでしまいますが、そもそも徳のない上層部は多く、不誠実さも含め誰しも完璧ではないと認識した方が良さそうです。

ですから上にもたれかからず、相手に対して批判的な目を向け、判断を丸投げせず自分の倫理観で判断を下さないと大惨事になるというのは日大アメフトでもそうでしたね。流されない強さが集団や組織の中で己を守る上では求められますね。


by wavesll | 2018-06-06 06:50 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

Showの虚で人生の実を破壊されないために

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気が滅入る報道ばかりで、人里から離れたくなります。と共に一方で人のぬくもりが時に欲しくなる。そんな肌寒さ。

気が滅入るのは自分自身の行動指針の不味さを他者の姿からみせつけられている気がして。

登山家の栗城さんが、亡くなってしまいました。
私が彼を初めてみたのは2010年頃、TVのドキュメンタリーで。その後何かのイベントで一度だけ握手し、手が本当に柔らかかった記憶があります。

メディアの寵児は往々にして専門家からはまがいものという扱いを受けるもので、実際栗城さんは業界内での評判は低かったけれども、パンピーの私にとっては一人の冒険者でした。

と、同時に今回の件で色々な記事を読んで、近年栗城さんが無謀さを増して破滅へ向かって行ったのを知り、私も彼を追い詰めた大衆の一人だったのではないかと、砂を噛む思いです。

10年くらい前のTVドキュメントでは栗城さんが7大陸最高峰単独無酸素登頂を目指した理由が「ニートに近かった頃元カノにふられ、何者かに成ろうと決意したため」と語られていて。その素人感が親近感に繋がって冒険の共有というコンセプトを肉付けしていた気が私はしています。彼を知る大学教授が人一倍お茶目でショウマンシップにあふれた学生時代の栗城さんを呟いていました。

けれど、彼は決定的に実力が足りていないのに、目指すルートはどんどん無謀に難易度を上げていったようです。通常のルートではなく、北壁、西陵、南西壁へと。

一説にはスポンサーを集めるために過激なゴールをぶち上げざるを得なかったとも言われています。その上で、是は勝手にシンパシーを彼に感じていた自分の目線では、彼は一発逆転ができるだけショウをインフレさせざるを得なかったのでは?と想うのです。

人から耳目を得ることが大好きだったお調子者。けれども「変わったこと」の刺激は摩耗し、インフレさせていかないと自分の価値が無くなってしまう恐怖。その結果、もはや自己破壊になるくらいにショウが暴走していく…。

ショウによって一発逆転を目指すにしても、藝を磨くというか、ファンダメンタルの研鑽をしていけば平衡感覚を崩すことはなかったかもしれないのに、積みを継続することでなく瞬発芸というか、栗城さんは所詮ショウだからと実力を上げていく努力を怠っていたように感じました。そして実を伴わない虚の結果、遂には命を失ってしまった…。

実を伴なわない虚のショウマンシップが不快さを振り撒いた最近の事象としてもう一つ上げられるのは日大ラグビー部での悪質なタックルをした選手の記者会見でTVが酷い行動をとっていたこと。

私自身マスコミの姿勢は「人の道に外れている」と想いながら、けれどメディアの人間は「こちとら面白いものをつくるために骨身削って生き馬の目を抜いているんだ、お前ら(世間)は面白いこと言えんのか」くらいのことを想っているのではないか、と想うのです。

文句を言いながらも俗情に流されてこういう過度に胸糞悪くショウアップされたニュースを視聴する人が多い限りは”結局こういうのが欲望されている”とマスコミの態度は変わらないと想います。メディアは”えげつなくても面白ければ(数字が取れれば)それが正義”というのが行動原理で、メディアに節度を求めるならば我々視聴者自身が節度が求められるのだと感じます。

ショウが節度を失っていくのはTVというメディアが本芸よりも余技やしょうもない素人芸に向いたものであることがあるかもしれません。

特にニュース(バラエティー)のコメンテーターなんて最たるもので、芸人、タレント、そして有識者としてでているのも別に専門家ではなく、井戸端会議の域を出ていなかったり。たまにワイドショーをみると”視聴者舐められてるなぁ”と想わざるを得ません。

結局のところ実を積み重ねるのではなく口先三寸のインスタントな虚で果実を得ようとするから人倫を失っていくのではないか、と。

他者に対して敬意がないのは自分自身のプライドをダンピングしすぎていることの裏返し。そして結局そういう虚芸では尊敬や自己肯定感は得られず“自分はこんなにも犠牲を払っているのに真っ当な評価を得られていない”と負のスパイラルが起きてゆく…。

ヒトとしてのバランスをショウマンシップが壊していく。無論当人に非はあるけれども、オーディエンスも一端を担ってしまっている。

もし”面白くなくてもあなたは大切な人なのだ”、或いは”インスタントな禁術でなく本芸の研鑽に邁進した方があなたの価値が上がる、あなたは自分自身の誇りや労苦を安売りする必要はない”と温かい指摘をしてくれる身近な人がいたら、その箴言を謙虚に受け入れることは、破滅の螺旋からの解脱の一助になってくれることと思います。

誰も犠牲にせずとも、僅かずつかもしれないけれども前に進み経験を積み重ねることは出来る。虚のレバレッジを利かせた空中戦が効果的な事もあるけれども、己をダンピングしなくて済む場所を見つけ、真っ当なぬくもりを得て仁を見出し己を高めていける。それは27クラブを通り過ぎた人間が歩むべき道なのかもしれない、さらに時代の新風もそういう気風に成ってきている。そんなことを近年とみに感じる処でした。

by wavesll | 2018-05-24 03:22 | 私信 | Trackback | Comments(0)

“常連”考

函館のラーメン店がミシュランに掲載され一見客であふれかえり、常連が入れなくなってしまったことから閉店したというニュース。

これに新宿のベルクの店長さんが反応していて。店は呼吸の合う常連がいるから成り立ち、ベルクは常連率が7割だからやっていける(新規が3割くらいあるのは気分転換になる)。と。

やっぱり何かの事業を営む上で常連という存在は何とも有難いものなのだなぁと想います。

この話を聴いたときに”さて、店にとって常連とは何人くらいいるのだろう?”とふと思って。ちょっと計算してみようかと。

念頭に在ったのは自分自身が好く訪ねる飲食店。それでも大体1ヶ月に1回訪ねるくらい。ディナーの店ならそれくらいの頻度が普通では?なんて思います。

カウンター席が20席くらい。営業時間が18:00-23:30。客の滞在時間が小一時間として、開店直後は待ちの列もでるので、全体としては7割埋る位で回転するとして、20 X 330/50 X 7/10 =92.4。

1日の客数が(客単価は考えていないけれども)90人として、それが30日で2700人。この内の7割が常連だとしたら1890。もし毎週通う常連がほとんどだとしても500人弱の常連が必要になるなと。

飲食店に於いて客側では”自分は常連”だと想っていても、店からしたら1/500、あるいは1/2000だとしたら、人間的な付合いのコミュニケーションは薄いのが当然というか、客として特別な関係を求めるのは求めすぎで、芸に惚れ、その上でのプラスアルファとしての阿吽の呼吸があるのだと。でもその呼吸があるからサービスが営めるのだなぁと。

逆に人間関係がもっと発生すると常連として訪れる頻度は高くなることはあると想います。バーなんかはほぼほぼ週何回も訪れる常連客で回っているだろうし。マスター、ママ、或いは客同士の濃いコミュニケーションがあるからこそ少人数でも頻度が上がって成立する形。

まぁ、その”人間関係”というのも曲者で、私も昔いきつけのバーがあったのですが代替わりして足が遠のき、かといってまた新たな人間関係へ身を投じるのも億劫ですっかり呑み屋に行かなくなってしまいました。またバーでも美味い酒とか、飲食店としてのクオリティもなければ客は居つかない。バランスは異なれど飲食店もバーも双方必要ですね。

そういった意味では今はTwitterのTLがサードプレイスというかバー的なタマリバとして生活の中で機能しているかもしれません。

では”Twitterで自分の『常連』って何人だろう?"と考えてみると、1800人強のフォロワーさんがいらっしゃいますがファボやRT、リプをくれるのは十指にみたない感じです。これはこの鴎庵もそうで、大体5000/monthくらいアクセスがあるけれども、そのほとんどは過去記事とかの一見さんで、最新記事を取り上げる内容に関わらずみてくれてそうなアクセス数は10/dayいない位。

なんと常連率が1割を切っているw 自らの筆力、惹きの無さを猛省するばかりですが、「今の時代ブログの常連になる人がどれくらいいるだろう?SNSを通して記事を読むだけがメジャーな行動様式だろう」なんて思ったり。時間が有限な以上、幾つもの場の常連には物理的にもなれませんものね。

とは言え目に見える反応は嬉しいもので、Twitterなんかの好反応には本当にモチベーションを大いに与えられています。そうした意味で自分に嵌ってくれる常連の方々という存在は何かをやっている人間には真に援けになるものだと、しみじみと想った次第でした。

by wavesll | 2018-05-22 02:46 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

柴田聡子「後悔」を補助線を引いてもらえたお陰で詩の深みに触れ好きになる

柴田聡子「後悔」(Official Video )

柴田聡子さんの『愛の休日』は様々な人の昨年の年間ベストで取り上げられていたのですが、どうも”自分とは性向の違う人なのではないか”という印象があってこれまで聴いてこなくて。

この大型連休にSpotifyで初聴きした際も女性の甘苦さを強く感じて、理解の範囲外さを味わったのでした。

けれど、今までも”名曲”とされているもので当初は良さが分からなくても、色々な人のカヴァーで好さに気づいたり、詩の良さに気づいたときに魅力を悟ることがあって。例えば七尾旅人 - サーカスナイト青葉市子のカヴァーで良さに気づいて。

”自分の今までのスウィートスポットを拡げてくれる楽曲なのかもしれない”と改めてYoutubeでアルバムのリード曲「後悔」を聴くと、当初”メロディが濃くない”と想っていた楽曲に繊細な魅力を感じ”これはサーカスナイトと同じタイプの名曲なのかもしれない”と想い初めて。

そんな時にある記事を読んで、衝撃的と言っていいくらいにこの曲の佳さを認識することになります。

お読みいただけましたでしょうか?圧倒されました。音楽への解説、特に詞の読解でこんなに自分の認識を変えられたのは近年ないレベルで、まさに補助線が引かれて理解が深まって。

ここ6年位、音楽を聴く上でサウンドを最重視するというか、寧ろ歌詞は音楽の本質ではないのかもしれないとすら考えたりする時期にいたのですが、最近また風向きが変わってきて、昔のような歌詞編重の聴き方ともまた違うけれど、詩の重要性を再認識するようになってきました。

「歌」は音と意味、双方が込められ発せられるもので、時として唄はマントラというか、「その言葉本来の姿」として「メロディ/リズム」が立ち現れるのではないか、なんて想うことがあります。真言さとしての歌の魅力。

その上で今回の件で単に”女子/女性”というだけでなく大きく”他者”として捉えた時に読解力と想像力があれば差異を乗り越えてコミュニケートできるのだなと、言語/詩に対する尊敬の念を捉えなおした次第です。また一つ聴験を深めさせてくれた柴田聡子さんと補助線さんに感謝を。

by wavesll | 2018-05-08 02:27 | Sound Gem | Trackback | Comments(0)

外野から見たハリル解任:日本に於ける面子政治の潜水したバーリトゥードさ

Konono No1が7年ぶりに来日公演という報せを聴いてふわっと想起したのが2006年に日比谷野音で観たKononoの想い出。

この当時の記事を読んでも分かる通り、私はクソガキだったw中高の知己の洋楽に詳しいがいけすかない(洋楽に詳しい人間は意地が悪い印象があるものだ)奴と共に行って、Kononoは最高にいかすダンスミュージックを打ち鳴らし、ライヴ後昂奮した私は友人に「この世界で一番最高の場所だったな!」と言ったら「は?そんなことはないだろ」と返され”やっぱこいつイラッとくるノリの悪い奴だ”と想った、という記憶w

今振り返れば、奴には当時の私には見えていなかったモノがみえていたのだろう。例えば、”己のいる場所が世界で最高の場だ”なんてのは一歩引いた眼で見たら”こいつ何言ってんだ”というものだ。

また音楽好きが高じて私が得た中で一番為になったと想う知見は”世界のすべての人間は、それぞれ違う好みを持っている別の人間で、全人類共通の『最上の音楽』なんてものはない”ということ。これは”音楽に興味がないから良さが分からない”とは異なって、寧ろ音楽フリークであるほどその好みは千差万別。それこそ”理想の音楽”は音楽好きの数ほど存在する。

音楽ライターには”POPを追究することがかっこいい”なんて人もいて、まぁ頑張って欲しいとは想うけれども、音楽の好みは人によってどころか同じ人間でも年齢によってだとか時代によってだとか移ろいゆく儚いもの。しかし聴いている当人たちは音楽の刺激を本能的な知覚というか、”この良さは誰でも一瞬で解るはず”と想ってしまう(Konono No1を生で聴いた私がそうであったように)。優れた音楽というのはそういう魔力を持つもので、故にディスコミュニケーションが発生することもあるのだ。

ところで、11年前の私は「Konono No1が地球最高のショウをした」という「私の意見」をいけすかない友人に否定されたとき「私自身」を否定された気になった。まぁ、好きな音楽に入れ込んで自己同一化する若者という面を私は持っていたが、もっと広義に「意見の評価」と「人間的な評価」を分別しない人は日本人には多い。

海外ではそこは確実に峻別され、それが議論の土台となっているとも聴く。それに対し日本人はそこをごちゃ混ぜにしているから議論が感情的な対立になってしまうと聴く。

無論海外でも「メンツが潰された」という対立は起き得るものだと想う。しかし議論というのは何らかの目的があってするもので、その目的遂行の為に論理的な取捨選択のための指摘が行われるのは正しい、というのは紛れもなく正論に想える。けれど一方で、”人間(あるいは日本人)、そんな割り切れるものでもなく、ケアがいるのでは?”なんてのも想ってしまう。

ここからの論(題としては本論)はまた聞きのまた聞きの話で粗が目立つと想うがご容赦願いたいのだが、昨今世間の耳目を集めているハリルホジッチ氏のサッカー日本代表監督解任のニュースで、Twitterのサッカー論客の人たちが両サイドから喧々諤々の論を話しているのだが、私のTLでみると”ハリルを解任すべきではなかった”という派に、傍目からだと理があるように想える。

まずW杯出場まで持ってきた時点で評価できるし、中堅国の日本にとっては親善試合で手の内をすべて見せるのは愚の骨頂、様々なテストを親善試合では行い、W杯本番で一気に積み上げた成果を出すはずだったのに…という主張だ。

また「選手とのコミュニケーションが上手く行っていなかった」という話も槇野の手記を論拠に「ハリルは高いレベルの要求をして選手に厳しい指摘を行った。30歳くらいのベテランにはそれが”自分のサッカーを否定された”と感じたかもしれないが、槇野のようにそこで腐らずに頑張って自分のレベルアップを感じた人間もいる」と話す。ハリル解任は一部の大スポンサーがつく選手の政治反逆ではないか、という憶測もある。サッカー協会内での政治的な派閥争いもあったようだ。

ここまで来たときに私の脳をよぎったのは「自分の意見(サッカー)を否定されることが自分のメンツを潰されサッカー人生を潰される」と一部のプレーヤーが想ったのではないか、ということだ。

日本代表において最大の目的はW杯で勝つことであり、その点においてアルジェリアの監督としてW杯で結果を出しているハリルの方が例えばサッカー協会等よりもサッカー知能に優れていると様々な記事を読むと感じ、少数の選手や協会内の権力闘争のエゴでそれを覆したのは日本のサッカーに於いて汚点を残すのではないかと想。

が、世の中は”正論”が通じるレイヤーと”政治的権力闘争”のレイヤーがあって、今回ディスコミュニケーションから裏への根回しも込みで代表監督を追放するというバーリトゥードな政治が行われてしまうに至ったのだと感じた。

本来、代表選手は勿論裏方だって個人的なエゴではなく大きなチームとしてのミッションで行動すべきで、厳しい要求も、上の人間が崇高な意思で愛をもって鬼になっている。けれども、ディスコミュニケーションが起きて相手が納得できない、或いは不満をベントする先が無い状態で、根にヘドロが溜まったのではないかと、記事を読んで上辺の理解くらいの人間としては想う。

この文章の冒頭で私は11年前の私を”クソガキ”と言ったが、実際は三十路の今も人格者などには全然なれていない。ましてやスポーツ選手はエゴでガンガン行く闘争本能も上に行くためには大切で、20代なんかは身体はもう成熟していても餓鬼の部分が多分に残っているものだ。そしてトップ選手はメディアや代理店からちやほやもされつけあがり、そして権力も得てしまう。それを利用する裏方組の暗躍もある。

個人個人で異なる人生を歩んで”理想”も異なって。そうした”扱いずらいメンバー”をどうガバナンスするか、という点でハリルの西洋人的な明快な正論が、鵺の様な日本の議論環境、メンツ社会に於いてW杯まで僅かな時期に破綻した。確かにコミュニケーション、それも言外を読むコミュニケーションが日本社会では必要だったのかもしれない。もう少しで完成形を見れたであろうハリル・ジャパンをみれなかったことは、個人的には惜しいなと想った處だった。

by wavesll | 2018-05-01 12:43 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

言葉がヴァーチャルであれない時代のネタづくりは心臓の声を聴くことかもしれない。



Web上での言葉の取り扱いがどんどん厳しくなっている昨今。おいそれとネタで罵詈雑言を使うと脅迫だ、名誉棄損だ、差別だ、ミソジニーだと世の中がどんどんクレンジングされているなぁと想います。

こればっかりは公に意見を書いているものですから居酒屋での与太話のような内輪のノリではいけないんだなと。”ネタじゃないか”というのは今の時代では通じず。実際圧縮空気を尻に入れて人が死んでしまったり、悪影響を無視できないところはあります。

今はShow(つくりもの)と実生活(現実)が峻別されずらくなっているというか、Showにはリアリティの追究が求められ、一方で現実が”盛られる”というかShow化している。そんなマーブルな状況の中でネタがネタで在れなくなっている。

人それぞれのポジションによってネタと現実の線引きに齟齬が生じ、その認識のずれから軋轢が生まれている。そう感じます。

そして本当にクローズでないオープンな場で発する言葉であれば、ポリコレに配慮せざるを得ないのが現状だと想います。

仮に原理原則のない恣意的な指弾が行われるにしても、懇切丁寧にハイコンテキストを説明するだけは怒りの炎上は避けられなかったり。

言葉はヴァーチャルだけれど、身体的な嫌悪感やイラつきは実体ですから。そこを論拠に相手が話していることを無視して論理で話しても平行線だし、寧ろ”頭でっかちにならずにスマホを捨てて人と交われ”が解になる場合も多いかもしれません。机上の対義語は身体性だと想うので。

話は変わって。Youtube, Netflix, Spotify, SNS...今あまりにもFREEなShowがありすぎて。そしてCGも含め修正が効く”ヴァーチャルデータ”が氾濫しすぎて。それ故にShowとしての価値が暴落しているのかもしれません。

逆に生身の価値が上がっていることはあると想います。スポーツが価値を高めているのもその流れというか。形而上的な議論の価値が落ちて、全てがネタ(≒ヴァーチャル≒嘘)とされてしまう今は”プラン”には価値がなく実装によってのみ価値が証明されるのだと。

体感化する事と、その際に起きる反応を仁鍛する事がこれからのネタには必要になるのかもしれない。鍵となるのは身体性。脳だけでなく心臓の声を聴くこと。そんな噺を認めてみました。

by wavesll | 2018-02-14 19:44 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

「俺になれ」を越えて -『高校生のための批評入門』を読んで

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一時期、男友達と話すとどいつにもこいつにも「俺になれ、俺のような価値観を持ち行動しろ」と言われているような気分になったことがありました。

それは恐らく被害妄想で、彼らは彼らの最善手と想う話をしてくれただけで、寧ろ「俺になれ」と望んでいたのは私で、相手が共感を示さないことに独り相撲でイラついていたのかもしれません。

大抵の人にとって最善の行動のラインは一つで。勝ち筋を一つしか見いだせない結果他人に助言する際に「俺になれ」となりがち。それは器の小ささでもあり、”本当に求められている言葉・態度ってどんなものだろうか”と想っていたのですが、この筑摩書房『高校生のための批評入門』はそれを考える一助になってくれました。

この本は批評のメソッドを直接的に解説する本ではなく、11のテーマで選ばれた51の批評文が載っているものです。批評の対象も、芸術作品や文学作品の批評というよりも世界が広くて、イルカ漁に関する反応の話から、奈良時代の世界音楽フェスティバルについての話、さらには「紐の結び目」についての話など多岐にわたっていました。

様々な世界の一端へのそれぞれの著者の視点を批評文ーそれは内なる声、世界への違和感であったり、個人的な想念ーを読み、そして付属の現代文的ワークをみながら感じたのは『違う視点の提供』や『易々と同一化しない』ことの意味。

相手の発言に対して理解を示すことは同調することがすべてではなく、異なる視点、違う人間としての言葉を出すことでもあるのだと。芯を食った批判は時に自分の同調者よりも語られていることを理解していることもあるかもしれないと想ったのでした。

全てが賞賛され、全体が盛り上がるのは楽しいものです。それは例えば「バーフバリ!バーフバリ!」と歓声を上げるマヒシュマティの国民をみても明らか。けれど、大いなる予定調和の中で塗りつぶされようとしてしまう”声”はないのか。その”声”も尊重されるべきではないかとも思ったのです。

ところで私は昔から”空気が読めない”、或いは”変な人”なんて評価を受けることが多かったのですが、個人的にはかなり保守的で付和雷同な人間なのではないかと思っていて。

自分で一から考えるというより”その分野に詳しい人たちの発言を調べ、その最大公約数を情報分析し、自分なりに噛み砕いて語る”ことが基本ラインで。

その結果情報処理は得意になったのですが、問題設定能力、つまり”問い”を創るのが不得手で。自分自身で課題を設定して意思決定する推進力が弱いところ、誰かの後に付いていくのではなく道を切り拓く力が弱いことがコンプレックスで。

自分自身が付和雷同的な人間だから、相手にも付和雷同を求めて「俺になれ」のような感覚を持ってしまっていたのかもしれないと今思います。

そして今回「批評・批判が必ずしも相手を貶すことではない」と腑に落ちたのは、長文で丁寧に文章で諭され、心に栄養を摂取できたことがあったと思います。

自分と違う感性の話を納得するにはしっかりとした分量での語りが必要になるのだと想います。批判自体は良くても、説明が足りていない批判だと価値が認識できず、反発を起こすことがあると。これは「自分の考えが理解されない」と相手の理解力の乏しさを逆恨みする前にも考えたいこと。

他者や周囲と全く異なる考えを持つことを恐れない、或いは相手に安易に同化を求めない。そして安易に譲らない。

言葉を尽くした上で異なる視座が同時に存在することを認める。I'm right, You're right. No one is left here.の心意気を持ちながら個人としての”自らの感覚、或いは違和感”を大切にする。そんな姿勢をこの本から学びました。

by wavesll | 2018-02-07 20:21 | 書評 | Trackback | Comments(0)