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AKIRA『アヤワスカ!』から、旅を超えて日常の輪を誕生日に想

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2018年10月18日、34才になりました。相変わらず日々をやっています。

TwitterのTimeLineで『アヤワスカ!』という本が今なら無料DLできるという情報を観て、ここ数日スマホのKindleで読んでいました。読み易いし、隙間時間に電子書籍はありですね。

アヤワスカ。今までに幾度か耳にしていたナチュラル・ドラッグの名。著者のAKIRA氏は東京での幻覚体験から導かれるままにペルー、エクアドル、ブラジルの山麗そして密林の奥に旅し、そこで麻薬を使った精神体験を得る。大雑把に纏めればそういう体験物語です。

読んでいて”これは昔(といっても十年前)の自分のベクトルの遥かに凄い版の人だな”と感じて。私自身もナスカやマチュピチュの現地に行ったことがあり、ペルー扁の記述はかなり立体的に読み込むことが出来て。繰り出される知識も例えばマクルーハンなんかは自分もメディア論を読んでいましたし、彼がみた幻覚の日の出ならぬ”地球の出”は、私自身が人生でいつか味わってみたい夢そのものでした。

文章のドライヴする感覚も、繰り広げられるデータ達(例えば超ひも理論)も、何だか他人が描いたものを読んでいるというよりは、マチュピチュに行ったのはもう7年前ですが、過去の自分がそのままのベクトルで長じて書いたものを読んでいるようなパラレルな感覚を味わう読書体験で。

と、共に”今の自分はあの頃から目指すものが変わったのかもしれない”とも想ったのでした。

先日、年下の友人から「kamomeさんはインプットは凄いしているのにアウトプットを全然していない、宝の持ち腐れにみえますよ」と言われて。自分はその時”Blogにおいて自分なりにI/Oをしているのだけれどな”と想いながらも「昔は『最高の麻薬のような変性意識をもたらすエンターテイメントを成したい』と想っていたけれど、今はスタンスが変わったんだ」と応えて。

それは出雲・神在祭旅での脳がサーッと焼き切れそうになる体験から、全精力をかけて(といいながら完全ノードラッグですが脳内麻薬で半ば躁りながら)書き上げた妄論が総スカンになったあげく暴論をまくし立て、当時の仲間からどっちらけになって、そして311を経て、自分の中で石舟斎を目指すというか、宙に浮かび上がらずも、水面下で小乗仏教的に日々自分に高まる刺激を与え、それを書き記せばそれでよい、となったというのもあるかもしれません。

道化師で壊れた状態から素になって、あまり人にも付き合わずに自分の内の濃さを上げて。結果として昔はほとんど女っ気ないというかデリカシーのない人間だったのに、今ではある程度”傾聴”とか意識するくらいは社会意識、コミュニケーション感度が持てるようになった気もします。

さて、そんな10年代を過ごした先の2018年の今に感じるのは”自分は旅を超えていかなければならないのかもしれない”ということでした。

旅は本当に愉しい。あらゆることが鮮烈に新奇に映り、異化作用が起きまくり精神が感応します。それはインナーチャイルドを呼び起こすことかもしれない。けれども、得てして「広くて浅い奴もGood Night」になってはしないか。

『アヤワスカ!』を読んでいて特に途中まで想っていたのは”このドライヴ感は確かに面白い。けれどもこの旅路の記述は普通にこの地を旅すれば比較的容易に得られる知見に留まっていて、俺が旅したのとそこまで変わらず掘り下げる深さに於いてどうも刺激を受ける水準にないかもしれない”というものでした。

次から次へと新しいものを浴びてどんどんどんどん世界を拡げることはワクワクするけれども、一つのルーティンというか、一所懸命に日常の中で突き詰めていくDigを行わなければ辿り着けない領域があるのではというのがこの十年間の私の課題で。

メディアの水面に近い浅いところで自分は遊びすぎているのではないか。本当の”独自性”は旅ではなくいつもにみえる日常でどれだけ”汲み取る、編集する、発する”を究めることから生まれるのではないか、と思うのです。神話的なマクロへの関心から、微視的な視点への興味関心を持ったのは様々な人(特に女性に顕著ですが)の感性に触れたことから得た知見かもしれません。

その上で『アヤワスカ!』の麻薬による精神の昂揚の旅はけれども、私が知っている南米の粋を超えてさらなる深部・高みに達して、最後の辺りは読んでいて知的興奮を得て。アヤワスカというナチュラル・ドラッグは一度でその全てを知れるわけでなく徐々に神秘の扉を開いて、適切なシャーマンの導きを以て体験を為すのだなと。インスタントにどんどんスワイプしていくのではない、掘り下げる研ぎ究めがあって幻覚への旅の記述には目を瞠る處がありました。

「旅」に於ける「浅瀬さ」を乗り越える術は、一つには土地との関係を湛えていくこと。与那国旅行での毎年島に来ている方や島で働くようになった方との出会いも大きな感銘を与えて呉れましたが、人との繋がりは確かに一過性を越えていく一つの指針になるかもしれません。そしてこの『アヤワスカ!』のように大きなテーマを以て旅を一貫させること、己で旅行をフリースタイルすることもやはり大きいなと。

旅は日常からの特異点ではあります。けれどもその上で、日常や旅を包括する人生において、マクロな刺激とミクロな刺激をシームレスに統べるDig =「工夫・改善・創新の探究」を行う糸口をみつけたい、そんな営為を過ごす一年の輪をまた始めたい。誕生日にこんなことを想いました。

by wavesll | 2018-10-18 04:39 | 書評 | Comments(0)

國分巧一郎『中動態の世界』 自由と意志のパースペクティヴをあらわしてくれる書

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國分巧一郎 著 『中動態の世界 意志と責任の考古学』を読みました。

現代を生きる我々の言語は「する(能動態)」と「される(受動態)」というパースペクティヴに立っているけれど、古には能動態でも受動態でもない「中動態」があったという。本書は中動態に関する研究を掘り進めながら、「意志」とは何かという哲学的問いを顕としていきます。

さて、中動態。実は現在の「能動態←→受動態」という世界観になる前、能動態に対するのは中動態であり、中動態の一部の用法がその後に受動態を成していったそうです。

では「能動態←→中動態」というのはどういうパースペクティヴなのか。それは「動作が行為対象に働きかけることで完結する」のが「能動態」、「動作の働きが行為者自身に(利益であったり影響が)再帰する」のが「中動態」とのこと。「するかされるか」ではなく「内か外か」というパースペクティヴ。

そもそも動詞というものを探っていくと、その始まりは名詞からだったようです。「名詞的構文から動詞が生まれていった」という本書の言語考古学的な記述は「鳥は恐竜が進化したもの」という話くらい面白い。また現代の各国の印欧語族において「海」という言葉がそれぞれで異なること等から印欧語族の祖はウクライナや南ロシアのあたりだろうなんて話も面白かった。

古代世界に於いて問題となっていたのは「その出来事の存在」であり、「誰の意志か」はその後の変遷でフォーカスされていったもの。昔には日本語にもあったという中動態。今でもギリシャ語には中動態が残るそうですが、英語などでは中動態は受動態に母屋を取られてしまっています。けれども、「意志」というものを哲学者達は考察し、時に批判を行ってきたのでした。

本書の後半はハンナ・アーレント、フーコー、ハイデッガー、ドゥルーズ、スピノザなどの論を中動態という切り口で解説していきます。

例えばアレントはアリストテレスが唱えたプロアイレシスという概念はリベルム・アルビトリウムと同じく「選択」の行為であり、それは「意志」ではない、意志とは過去の事象から何の影響もなく全く新しく始められる事柄である、と定義します。

けれどもこの世界に生きる上で何にも影響を受けずに何かを行うことは不可能であるといえます。我々の行為は過去からの帰結ー選択である。

では例えば「銃で脅されて金を渡す」ことは自由意志による自発的な選択といえるでしょうか?確かに無理やり物理的な暴力を奮われて奪われたわけではありません。けれどもフーコーの考えを照らせば相手に「権力」を行使されての「仕方なく」の行為である。こうした能動とも受動とも言い切れない行為を中動態という概念は鮮やかに描写できると國分さんは言います。

私が本書でもっとも膝を打ったのはこの部分で。私は鬱をやった時に「みな自分自身の人生の選択は、全てを勘案した上で、最もやりたいことをやりたいようにやった結果なのだ」と思いついたことから反転攻勢にでたことがあって。

これは例えばアドラー心理学などを読んでも似たようなことが書かれていて、嫌われてもやりたいことをやるのが好いというようなことなんだななんて想っていたのですが、実社会に於いて「仕方なく行っている行為」は確かに存在するし、その事情を切り捨てるのは確かに乱暴な、それこそ暴力的な思考だなと。

最終章で「人は気質(身体)、人生(感情)、社会(歴史)ゆえに思うように行動できない」という話が出てきますが、全てのことに行為者/意志/責任の明確化が尋問される現代のパースペクティヴから中動態という概念はすこし頸木を外してくれる力があるなと想いました。その上で、純粋な能動がありえないにしても、明晰な認識を行うことによって受動から抜け出すことが出来、強制から自由になれるとスピノザを引いて國分さんは語ります。

本書において感心したのは「中動態」ということを魔法のように神秘的には扱わず、あくまで実際的に解説を行ったこと。その上で中動態という大きな切り口に沿って一貫した論が展開されるために、様々な哲学者の論が引用されてもぎこちなさを感じさせずにまとめられていました。

まだハイデッガー、ドゥルーズ、特にスピノザの辺りは理解が十全とは出来なく、今後の課題ですが、いつかこうした大家の思想にもがっつりと取り組んでみたくなるような、哲学へのいざないともなる読書体験となりました。

by wavesll | 2018-10-11 19:41 | 書評 | Comments(0)

特別展「昆虫」@科博にて翠虹の蛾や蟻との共生生物などに魅了される

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科博の昆虫展にラス日に滑り込み、夥しいインセクト達を写真にぱしゃりしてきました。今回は数多の画像でフォトレポートです。上のはベストバタフライだったニシキオオツバメガ。生物的には蝶と蛾の違いってないらしいです。
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やー、改めて見ると腐海のようになってしもうたw 写真も緩い、流れの中でも綺麗に撮れるように技を磨きたいw

昆虫は甲殻類に近いだとか、クロアリはハチの仲間だけどシロアリはゴキブリの仲間だとか、標本を視るだけでなく昆虫のメカニズムがとてもわかる展覧会にわくわくさせられて。

そして会場は親子連れの海!お子様達のパワーに驚くと共に、親と子という関係性が人を大人にさせるのかもなぁなんて想ったり。

人間という生物が共同生活を行う上で、僅かな差異がその人の独自性としてロールを形づくり、それが多重フィードバックして人格をつくるというか。人間とはよく言ったもので、人の間で人間なんだなぁと。

自分は様々な集団に属して、最初に思い描いていた方向はトップに立てないから他との搦手で歩んできたところが大きいなぁと。それでもWebに何かを書くこと自体はもう十年以上やっているから、本当に性に合っているのでしょうね。一種のベルーフなのやも。

お土産コーナーのジャポニカ学習帳パロまで十二分に愉しませてくれた昆虫展。 図らずも人の生態についても考えさせられた特異な体験となりました。

by wavesll | 2018-10-09 21:49 | 展覧会 | Comments(0)

界隈の外へ広めようとするなら



ボルダリングジムに入会してしまいました。ルビコン川を渡ったwプールが閉まる時期に締まった躰を目指したし。腕とか太くなったら嬉しいなぁ。

今まで中学の卓球部は別として、取り組んだスポーツは大学時代のサイクリングとマラソン位だったのですが、ボルダリングは個人競技とはいえ今までと比べると技術的な要素が大きいスポーツらしいスポーツで。

ホットヨガをちょろっとやった時も待機時間にスゴイ体勢でポージングしている人がいて”仙人だ”と想ったものですが、ボルダリングジムの練達者の人の動きなんかはスパイダーマンというか、カミ。これで全国レベル、世界レベルになったら界王神レベルかと。

そう想ってNHKBSで放送された世界ユース選手権をみたのですが、一撃で決める様は超人過ぎてもはやショウとしてみてしまうレベルでした。

スポーツは自分の身体そのものが本質となるから、その制約が面白いなと想います。それから比べると言語の表現と言うのはすぐ簡単に「K2を3秒で駆け上がった」とか書けてしまう。言葉はヴァーチャルであるから、薄っぺらにならないかは文章にいかに身体性を入れられるかなのだなぁと。

またショウとして楽しませるレベルのパフォーマンスでなく全然でも、自分の身体を動かせば脳内物質が出るから全然楽しいという。ボルダリングジムの中にもコミュニケーションはあるけれど、他者と比べるというより自分自身の過去のパフォーマンスと比べて向上を愉しむ視点が持てるとぐんぐん楽しめそうな気がしました。

先程言語は物理と比べていかようにも楽に表現できる(故に差別化に別軸の工夫がないと面白くない)と書きましたが、プレイヤーでなく何かの鑑賞レビューなんかはさらに”執筆における抵抗・摩擦”が無いゆえに差別化しようとして捩子くれるパターンって結構あるなぁと想ったのでした。

プロの批評レベルに、基礎知識や関連情報のエヴィデンスで積み上げるというのが王道の方法だけれども、鑑賞者として差別化しようとした時に自分がやってしまいがちだったのは”どんどんコアなもの、レアなものをDigる道”だったなぁと。レッドオーシャンで勝負するのではなくブルーオーシャンを求めて海を渡り続けたというか。

勿論、新雪のパウダースノーほど滑っていて気持ちいいものはないですが、別視点で”その文化を伝道する”みたいな目線でみると、これは相当留意しないとうまくいかないものだなぁと想います。

オタク的な人がやってしまいがちなのは、趣味仲間を増やしたいんだけれど、ついその文化の一番濃厚なところをそれも夥しく出してその千尋の谷から這い上がった獅子の赤子をトライブに入れたい、みたいなタイプで。

でも、例えば自分はボルダリングはあくまでレジャーというか、スポーツとしてガチで極める気には今はなっていないし、運動音痴なだけど楽しみながら筋トレみたいにできたらいいなぁくらいの人間で。初心者の前の部外者は大抵そういうライト層なものではと。

そんな自分も「展覧会にデート目的で来る奴は本当の美術好きじゃない」とか想っちゃったりするので、コアな人からはライト層はそりゃ軽く捉えられることもあるかもなぁと。

でももしある人が自分が好きなものの良さを”わかってない人”に伝えようと想ったら。初心者への目線を忘れているとフレッシュマンが入らずにシーンが先細っていくこともあるのかもなぁと想います。

勿論ガチコアだけで回っていけたらそれは幸福なことだと想いますが。最初はデートの為でもいいじゃないかとw桜木花道だって最初は春子さん目当てだったしw

何かを好きになる気持ちが芽生えるって、念能力の会得にも構造が似ているかもしれないと想ったりします。

強い念攻撃の洗礼を受け、ダメージを追いながらも急激に目覚めることはあるけれど、基本は自分のオーラの流れを意識することから初めて修業の中時間をかけて開花させていくことが王道で。

自分の場合もボルダリングは前からメディアを通して興味が湧いてて、その上で身近な人が始めて誘われて、一度ビジターでやってみて、そこからちょっと間が開いてから二度目でビジターがなくて”じゃあ会員登録します”と。単純接触効果というか、幾度もアクションを重ねられて自分でも行動に繋がって。

鴎庵で音楽を紹介したり展覧会レポで「おすすめです」とか書いていますが、私自身はそれ一撃でリスニング・鑑賞まで行くとは想っていなくて、そこに繋がるまでの100の働きかけの一つになれたら嬉しいなぁという想いです。基本情報に欠ける記事になりがちなのはアレですが、それこそ今はサーチしようと思ったら幾らでも惚れますからね。

そういった意味では文章における身体性、筆力と言うのは、一つには記述の精確性と実在感をいかに与えるかというところなのかもしれません。それが”内容”というか。妄想を書くにしても、いかに伝わるように書くか、鴎庵を始めてもう十数年経ちますが、未だに筆力はまだまだ。ラップトップの鍵盤を弾く腕をほんのちょっとでも上げていきたいなぁと希を述べて拙文を終わります。

by wavesll | 2018-09-09 05:04 | 小噺 | Comments(0)

誰もが”伝えたい欲”が大きいわけではない



私はべらべらべらべら喋る人間で、話し出したら止まらないタイプで"みな話したいことは勝手に話すし、話さないという事は話したくないことなのだろう"なんて勘違いをついしてしまったりするのですが、身近な人から言われた「何でちゃんと質問して会話を促さないのか」とか「したい話しかしないんだな」が心に残って。

想うに私は”伝えたい欲”が大きすぎるのかもしれません。多くの人は相手の反応が芳しくない時は更に押すのではなく、身を引く。わざわざ無理に推す労苦はしない。ここが差異なのだと。Webにものを書くのも今でこそTwitterなんかで反応が返ってきたりしますが昔は何の反応もなくても発信し続けたのは”これを伝えたい”という焔があったからだと想うのです。

ただあまりにも「聴いてくれ」の圧が強いと逆効果と言うか、軽んじられる事ってあるよなとも想います。短く飄々とした格好良さ、語り過ぎない潔さや余白の方が結果も出るなと。自分はもっと引き込む/惹き込む術を学びたいと思いつつも、伝えたい煩悩が未だに燃えて。もっと上手くやれればなぁ…と想う次第。

人に”これを話したい”の意欲は人によって異なって。確実に相手に響くクオリティでないと話すOKラインを越えなく瑣末なことは語らない人も多いし、逆にいくら伝えたいからって相手の反応を無視したゴリ押しは寧ろ避けられる原因。そして自分が聴く側に回った時に相手のプレゼンを上手く回転させるリアクションをするのは礼儀の面でもコミュニケーションとしても健全な努めなのだなぁと。気を緩めるとベラベラ話してしまう私には傾聴は未だに大きな課題で。

上手くBlog等のPull型非同期メディアを活かせたらと想うと共に、そういう形でアクセスしやすく情報をOutputしてくれる方には同志と言うか、有難いサーヴィスをしてくれていると想います。話をする人より話を聴いてくれる人が重んじられる世ですが、ROMより語り手の方が私は好きです。まぁ、是はポジション故かもしれませんが。

傾向として個人よりメディアとかの方が”伝えたい欲”が大きいので、ラフに扱えると言っては語弊がありますが、基本的に言及することがポジ反応となるから取り扱いやすく、逆にアマチュアの方々の方が情報の取り扱いはシビアになる印象です。

その上で、一次情報に当たろうと想ったら幾ら面倒なことがあっても個人個人とのコミュニケーション醸成が求められるし、TVクルーの横暴の話をみると、”伝えたいんだろう?これくらい当たり前にいいだろう、広まるんだから”という傍若無人さがあるなと。相手の尊厳を大切にする姿勢を失っては餓鬼畜生の身に自ら堕ちますね。みながみなそんなにも”伝えたい・広めたい”と想っているわけではないことを認識しなければいけないなと。誰もが規模拡大のインフレーションを目指しているわけではない。

また旧友に「最近は得意な分野で勝負しているというか、自分の土俵を出なくなったなぁ」と話したとき「他人の土俵に出ていく姿勢が良かったんだけどな」と言われて。確かに己の小さいお山の大将なグルになっては傍目からみてつまらないし、例え下手で恥をさらしても相手の土俵へ出ていくこと、恥をかけるのは強みでもあるのだなぁと想います。

と、同時に外部の方を惹き込みたい側に回ったら、最大限相手に恥を感じさせない配慮がいるのだなと想います。コアな沼へ惹き込むときに千尋の谷に突き落とすとコミュニティーの濃度を保つことはできるけれど、すべての分野はマニアが潰すというし、フレッシュマンを惹き込む遊びがないと蛸壺だなと。

とはいえ、私的なコミュニティはそれこそ広まって”バカにみつかる”事態は避けたいだろうし、私自身も”本当にそれを希求する人”が楽しめなくなるくらいBusyになるのはいかんなぁと想います。メディア的な活動の誠実さとは何かという問いは常に思いながら試行錯誤していくことが大切だなと、今想う處です。

by wavesll | 2018-09-01 09:33 | 小噺 | Comments(0)

ボルダリング触発想念徒然

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初めてボルダリングをやりました。傾斜がつくと難易度ガチ上がり。何気に開始の石での姿勢維持が難しい。アトラクションでなく継続して向上していく活動といった感じ。夏のプール以外のスポーツ・レクリエーションをみつけられ大収穫。他人を気にせずに勝手に鍛練できる個人競技なのが性にあってて。で、今日は筋肉痛でしたw握力の消耗も半端ないw

此処の処「プレイヤー」と「鑑賞者」のことを考えていて。スポーツをやるというのはまさにプレイヤーになることですね。

運動やってる輩の輩振りには辟易させられることがしばしばあるのですが、自分で運動やると“そうか、自分が主体なのと肉体疲労+脳内物質分泌で自分の目的以外の事がどうでも良くなるのかもしれん”と。仕事で精神疲労すると重い作品とかより軽いポップを求めたりしますが、他者に構う気持ちが薄くなると共に自己肯定感が増進するのだなと。

文化系にしても自分で創作している人は己に関するところのみを集中しているというか、鑑賞・批評的な人の方が“社会的正しさ”とかに拘泥する印象があって。「挑戦している人には批判する時間はないし、批判している人には挑戦する時間はない」というのはある程度当たっているところもあるなぁと。

私自身はヲタな側の人間なので、双方の感覚を知るとどうにもどっちつかずな蝙蝠な心持ちになります。

最近Instagramにアカウントだけつくって漠然と眺めているのですが、あの空間もプレイヤー的と言うか、顔出してガンガン陽るく第一運動している人が多くて、相対的にTwitterの場ってネガティヴさとかポリコレ棍棒な空気が溜まっているなと想ったり。

“何てセンスが粗いんだ”と言う側に身を浸せば、対岸は“何故そんなにセンシティヴなのだ”となって。そして「双方を知ればいい」とつい言いそうになりますが、総花的にリソースを分割すると一点に突き抜ける者には勝てないというのも人生で学んだことで、ポートフォリオを雑に薦められる立場にはないのも現状です。どの念能力を伸ばすのもストラテジーで。

ただ、日本ではあまりにも社会的な論議の情報が薄く、そうした言論の流布・討議の場としてTwitterは機能していたりするなとは想ったりします。例えば「鰻を食べることは現状問題がある」みたいな話はTwitterだと大勢を占める意見となっていますが、TVのみを視聴してそうな人には「そもそも問題自体ないでしょ、しゃらくさい」と一笑に付されることもしばしば。問題を意識した上で露悪的になるとか以前な状況で。

ドイツ人が「日本人はそんなに仕事をして家族と過ごしたり社会のことを考える時間はあるのかい」と言ったというような噺がありますが、日本の場合は労働の強度が高すぎる故に社会的な意識が削られているというか。なんでも“我慢”も有限資産なのだそうです。物理的でないものでも“減るものじゃなし”ではなく、減るのだそう。ヤポネシアの人は色々我慢しすぎて自制心が壊れてた結果、痴漢もするし鰻も食べるし差別上等になってるのかもしれません。南米とかで”これでも社会が回るのか”というカルチャーショックを浴びるのも一手かもしれませんね。

そうした意味で、TwitterやらSNSをやれている層はある程度の余裕が生活に在る層なのかもしれません。日本のハードな労道社会状況だとWebでアウトプットするのもリスクもあるし、子どもがいたりしたらそれこそ眼前の状況に注力しないと回らないし。

古い友と会った際「まだブログやってんのw?」と言われることがあります。彼等は仕事で自己実現度合いが高いのかもしれないし、私は子どももいなく暇というのもあるのでしょう。誰に需要があるか謎に読書感想文を自主的にあげる始末w ただ下手だとしても、好きなのだなぁと。R.バックにとっての飛行機のような愛するコトとしてWebに文章を綴る生活習慣があるのだなと想います。ここら辺は”なんでそんなWebを大事に思うのw?”とか理解されづらい處ではありますが。

自分自身がWebに文章をボトルメールのように投げるのは、感覚が刺さってくれる受容体のある人がフェイス2フェイスでは見付けづらかったのもあるかもしれません。オタクは人間とでなく話題と会話しているなんて揶揄もありますがやっぱり内容のあるコミュニケーションが好きで。またこうして勝手に音楽や本の感想をUpしている人間ですが、学生時代は読書感想文などは嫌いで。今でも他者の評価に曝される文を書く時は強張ってしまいますが、センスの合わない教師の評価を受けるために文を書くのも本を読むのも無価値に想え、渋々芥川の『鼻』とか『蜘蛛の糸』とか極薄の奴で書いたものでした。

昔は「俺の文章全然反応が返ってこない」なんて懊悩がありました。ただこのBlogも十年を超え、過去の自分の文章が他者の文章のような距離感で読めるようになると己の文章の問題点がみえてきて。端的に言って一人よがり。基本情報が足りえていないので分かっている人しか分からず、そして分かっている人にはクオリティの掘り下げが物足りない半端な代物であるということ。未だにこの課題が私の文章では解消されていないなぁと。インスタントな文章より推敲を積み重ねて長く読まれる記事に仕上げるのも一策なのかもしれないと想ったりしています。

と、こんな感じでつらつら想念が湧き出でたのでした。最近はすっかり付き合いが悪い人間になっていたのですが、誘いに応じて自分の土俵から出て新体験をし身体と脳が活性化したのか、旅の夜のような異化体験が起きて。縁を大事にするという意味だけでなく、他者の企画に乗るのは世界次元を拡げてくれるなぁと。

行きたいライヴや展覧会、旅が多過ぎて“自分は他者の声を聴くのは好きだし尊重してる”と思っていても、それは”自分が大きな関心を寄せる対象”に限られていたのかもと。身近な人からは“あいつは好きなものは好きだけど大好きじゃないものは一顧だにしない”とか思われてたりする恐れもあるかもと。

下手にWebでヴォランタリーに情報発信していると、ついつい「面白い噺をなるだけこちらに負荷かけずにFreeに発信して呉れよ」とか思ってしまい、こりゃブラック企業な発想だなと(苦笑 Tweetで発信してくれるサービス精神ある人ばかりでもないし、顔を突き合わせないとアイスブレイクしない、或いは適切な会話のキャッチボールからでないと噺が零れない人の方が多いですものね。

昔は文章を読まれても何の反応もないことに「搾取されてる」みたいな頓珍漢な怒りを覚えたこともありましたが、相手の時間と気力をコストとして払わせてしまっていたよなぁと今は想います。みなそれぞれ辛苦了しながらやってるのだと。頼まれてもいないのにネタを披露しておいて「ネタつくる苦労も分かってくれよ」はお門違いな主張ですね。その上で個人的な我儘でTwitterのフォローはなるだけネタを発信してくれている方に限ったり、できるだけちゃんと読みたい故にフォロー数を絞ったりさせて頂いて。ROMの人がなるだけ視界に入らないようにしています。尊厳をダンピングしないのは肝要で。

他者発の企画に乗るというJUMPもそうですし、ヒトの文章を読むこともそうですが、自分にない領域を始めるにはMPの消費があって。そしてボルダリングなんかはHPの消費もある。スピード、己のスピードでやれることが最もrelaxできることで、B'zの稲葉さんでなくても自分のスピードでやれないとすぐに潰れてしまうものだなぁと。

そして自分のスピードを大事にするように他者のスピードも大事にしたい。ビジネスでなくプライベートはせめてそうしたい。そうした時に、非同期なコミュニケーションとしてのWebの在り様はまだまだ究めるValueがあるなぁと想った處でした。

by wavesll | 2018-07-27 03:33 | 私信 | Comments(0)

礼儀は盾

Webだと無礼がマナーというか、丁寧過ぎる言説よりも暴言ギリギリくらいの煽り合いが”冗談がわかっている”と良しとされることがありますが、切羽詰まっている人にとってはいじりが大きく尊厳を傷つけて恨みを溜め込ませ予期せぬ暴発を招くことがあります。特に死を近くに感じている人には安全地帯に居る”普通の者”は憎悪の対象になってしまう。

人間、いつ一番無礼な物言いになるかと言えば、己が絶対正義になった時。

マスコミがマスゴミ呼ばわりされキャスターやコメンテーターが槍玉に挙げられるのは彼らが澄ました顔で社会正義の高みから指摘を続けることが不愉快に感じられるから。彼ら自体は権力に対して市民の味方で言論を発しているはずなのに、「人にケチをつけてばかりだ」と誹りを受ける。人を批判するというのは全く諸刃の刃なものです。

それでも社会の公器ならば最低限のマナーを(往々にして破るのがマスゴミですが)守るのがマスコミですが、ネットウォッチ界隈は不快な痰壺で、それでいて一種の”正義感”を自認している。いやいや、賎しい行為だと弁えた方がいいと想いますがそれは藪蛇ですね。

人を呪わば穴二つと言います。私自身もこういうエントリを書くのは不遜なのだと想います。

批判する行為において参考になるのはマツコ・デラックス。明らかに異形の怖さとしょうもないヌケ、そして共感を突く意見。”絶対正義”の側ではなく、敢えて穴を開け負けをつくることでヘドロが堪らない塩梅の上手さがマツコさんにはあります。

いじり・いじめ的なコミュニケーションが受容されるのは芸人文化のなした業ですが、弄る側が弄り返されたときに不愉快な態度で圧をかけてしまったらそれは双方が楽しむ仲間のコミュニケーションでなく一方的な殴りつけのハラスメントです。

日本は自殺的な社会だから”それくらい許してやれよ、洒落が分からん奴だ”となりますが、想い出すのは南米に旅行した時のこと。

イグアスの滝壺ボートツアーで客を撮影するスタッフに中指を立てた白人男性は詰問されボートを下ろされました。またリマで世話になったガイドさんは「空手を習っていたので街中で女の子に横暴をふるう輩をとっちめたら、付き合っている彼女から『それで復讐されて刺されでもしたらどうするの?私は大切じゃないの!?』と責められた」と言っていて。

海外では人前で罵倒することは暴力と同等と言うか、他殺的な社会では面子を壊したら明確に怒りを招くもの。シャルリーエブド的な社会の方が特殊と言えるかもしれません。

そう想うとWebでは軽視されがちな”礼儀”というのは、自己防衛のために非常に有効な手段なのだなぁと。特にオンライン上だけで完結するのではなくフェイス2フェイスの場にも繋がる場合は。オフラインだけでなくWeb上でも礼儀をもって相手に相対することは自らの安全のためにも大事なのだなと想うのです。

”礼儀正しくするだけだと相手がつけあがるじゃないか”となるでしょう。変な絡みをしてくる人も出てくるかもしれません。そういう人には伝わるように拒否を示すことは大事だとは想います。

ただ、何もかもがクリーンなだけでも人の匂いが消えるもので。木村充揮さんのニクオンでのライヴでヤジを飛ばし捲ってる五月蝿い客がいて『不快だし消えてくれないかなこいつ』と思ったものですが、彼には寧ろそれがハレの場で、木村さんは上手くあしらいヤジも含めてライヴを鳴らしていて。それはとても人情の深さがある磁場だなぁと感じたのでした。

と同時にあまりに無理をしすぎることも自分を過信しているということかもしれません。特に『過敏で傷つきやすい人たち』は不愉快な人間から出来得る限り身を離すことで心の健全が保たれ破滅をさけられることはあると想います。

自分へのいじりには出来る限り寛容に、けれど他者にはできるかぎり礼節をもって。それはアダム・スミスが『道徳感情論』で示した規範の態度でした。

話している当人は自分等そんな大物でもないただの個人だ、だから強者に対して弱者の代表として幾らでも攻撃できるのだと想っていても、一部の人から見れば非常に巨大な権威にみられ、敵視されることもあります。自己も他者もとるにたらない未熟な存在な場合が多いのに。

口は禍の元。冗談の行間が読まれなくなった時代に言葉はヴァーチャルではいられない。虎穴に入らずんば虎子を得ずといいますが、それは伝家の宝刀の例外的場合で。君子危うきに近寄らず、最も不愉快で蟲のような相手にこそ礼儀をもって盾とするのがリアルとWebが地続きになった時代の基本戦略ではないかと想った處でした。

by wavesll | 2018-06-26 22:01 | 小噺 | Comments(0)

SNSの”正しい息苦しさ”に岡田尊司『過敏で傷つきやすい人たち』を読む ー鈍感と過敏は同居し、愛着障害による幸福感の欠如は零百思考をしないことと安全基地をつくることから改善する

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ふかわりょうの「ハイレゾ社会に御用心」というコラムを読んで”ハイレゾに関する基礎知識では間違っているけれど、Twitterがどんどん些細な粗さも許されなくなってきているなぁ”と想う昨今。

個人的には「少しのズレも許せなくなっちゃった」という意味で『LOVE PHANTOM症候群』と名付けているこの現象を考える上で岡田尊司『過敏で傷つきやすい人たち』を読んでみました。

やー!この本は面白い!同著者の『対人距離がわからない』はあまりガツンと来なかったのですが、『過敏で傷つきやすい人たち』の内容は上のような問題意識を持っていたからか、かなりするっと入ってくるものでした。

本書の中で語られるのは過敏性を持っている人は”ネガティヴな認識をしがちな人”よりも生きづらさを感じやすい事。そして遺伝などの生得的要因と強い結びつきがある神経学的過敏性よりも、養育要因や社会的体験、愛着対象との関係が強く影響する心理社会的過敏性が不味い場合の方が生きづらさや幸福度に強い相関を示すという事。

面白いなと想ったのは過敏な人は同時に鈍感な一面(低登録)も持っているという事。それ故ワガママだと認識されたり、人から指摘されることも多く、ネガティヴな認識を持ちやすい傾向がある、と。そしてネガティヴな認知以上に過敏さと強い相関があるのが、全部良いか全部悪いかのどちらかになりやすい両極端な認知(二分法認知)の傾向でした。

過敏性の原因には発達障害や愛着障害も成り得て、不安定な愛着は「他人には何も期待せず関わりを断つ回避型」か「大騒ぎして愛情や関心を得ようとする不安型」をもたらします。そして愛着不安が強い人は幸福度が低くなる傾向がかなり強いそうです。

愛着は単なる心理的現象ではなく自律神経系の働きに密接に結びつく生物的・生理的なもので、愛着が安定した人はストレス耐性が強いのに対し、不安型愛着の人はストレスに対して情緒的反応が過剰になりやすく、家族やパートナーにも愛憎の両方を巻き起こしやすく、ストレスも長引きやすい、と。

一方回避型愛着スタイルの人は一見クールに見えながら、実は気づかないふりをしているだけでストレスホルモンは上昇しており、直接自分がストレス源と関わる立場になるとポッキリ折れてしまうことがあるそうです。

愛着障害はもともとは親から虐待されたりネグレクトされた幼児に使う言葉でしたが、実際には大人になっても引き摺っている人が多く、その人たちを「未解決型愛着スタイル」と言うそうです。

ではどうすればいいのか。本書は過敏な人の適応戦略として

1. 刺激量を減らす
外からの刺激が閾値を超えないようセーブ。頭に出てくる雑念は懸案事項を書き留めることで外部化し抑える。またこのタイプの人と話す人は喋り倒さず沈黙も設ける。

2. 刺激を予測の付くものにする
生活や活動をルーティン化し、予測ができるようになると刺激の苦痛は半減。このタイプの人と付き合う人はサプライズは避ける。

3. 安全限界を超えない
刺激が閾値を超えそうになって、イライラや疲労感、集中力の低下などの兆候を見つけたら限界を超える前に止める。休みの日にぼーっとすることもメンテナンスとして大切。

4. 薬も効果的

5. 不快な刺激やストレス源の人間などを回避する

6. 感覚探究が高く神経システムが安定するために必要な刺激量が大きい人は旅行や芸術、スポーツなども大切に

7. 低登録な人は気が回らなかったり切り替わりが悪いと言われる人もいるが、寧ろ運鈍根は信用を得ることも。また過敏さと鈍感さが同居している人の過集中は天才的な閃きを生むことも。

8. 低登録の人は大きな刺激でないと感応できないので、スイッチが入りやすいように刺激強め、行動や質問と組み合わせてメッセージを送る

等が挙げられていました。(過敏な人たちは多様であり、これら等から自分に合うメソッドを自分で選び出すことが大事。)

本書はさらに進んで、過敏性を克服するために

1. 肯定的認知エクササイズで幸福と社会適応を高める

・感謝するエクササイズで、得ることが出来ている快楽に馴れっこにならないようにする
・「奇跡が起きて何でもできる力を得たとしたら、あなたはどうなりたいですか」という希望のエクササイズをする
・親切にするエクササイズはオキシトシンを分泌させる

2. 二分法的認知の克服エクササイズ

・良いところ探しのエクササイズ
・許しのエクササイズ
・第三者の視点を持つメタ認知のエクササイズ
・自分が相手と入れ替わるエクササイズ

・マインドフルネスの三分間呼吸法
背を伸ばし座って目を閉じ、1分目は自分の心の状態を感じ、2分目は呼吸を意識し、3分目は足先から膝、腿、尻、腹、背中、腕、肩、首、顔、頭の感覚に目を向けボディ・スキャニング。

・ひたすらポジティヴであればいいのではなく批判的な目も持たないと危険

・行動目標は小さなゴールの成功体験を積み重ねる
・主体的な関与が苦痛を減らす

3. 安全基地を強化する

・一日中ぴったりとくっついていられ、安全で、心地よい存在で、自分の反応に応えてくれる存在=安全基地をつくる

・ケアが必要な人の問題を解決する時は、その人をケアする人の大変さを受け止めたり本人の状況の理解を援けたりすることが効果的。

・愛着は相互のものであり、不快な相手は逆に自分のことを不快に感じていることも。相手を責める前に自分を客観視することが肝要。

・相手を全否定することは人間関係を破壊する。つい気を許して口にする否定的な口癖も積み重なれば相手を安全基地ではなくさせてしまう。

・人が健康に生きていくには依存と自立両方が必要

・安全基地になれない人からは、心理的、物理的に距離を取る

・恋愛や家庭でなく、仕事や趣味が安全基地になることも

という過敏性の本の愛着障害の克服に安全基地が大事だということを記し本書は終わるのですが、ここまで読んで冒頭のSNSの「少しのズレも許せない症候群」に関して、寧ろSNSを安全基地としている人が多いことの裏返しなのかもしれない、なんて思いました。

明け方書いたエントリで「左の人は無自覚な右の人を受け止め諭す度量がないと現実は変わらない」と書きましたが、寧ろSNSでのエコーチェンバーが安全基地としての機能を果たしているとすれば、無理に意見を異にする人と交わろうとするよりもクラスタで固まることが精神を安寧させるのではと。そういった意味でブロックやミュートを駆使するのは現実的改善かもしれませんね。

その上で、他者、それも「当たり前」が異なる人と語り合おうとする人は、クソリプの応酬だと拒絶されぬ工夫、例えば「Yes~but~」法などを使うことが、鬱憤晴らしに終わらない実効力を持つのではないかと改めて記してこの記事を終わります。

by wavesll | 2018-06-19 19:15 | 書評 | Comments(0)

愛国ソング批難騒動から想う「当たり前」が違う相手との実効性のあるコミュニケーション

を聴いて。

最初は”ううぇえ…こういう話は聴いてて靄りそうだし、聴かないでおこうか”と考えたのですが、きちんと聞いてみると一面的な批判ではなく、真っ当な考察がなされて、また論客の一人が結構右だったりして左過ぎない構成になっていて聴けました。

個人的には「HINOMARU」も「ガイコクジンノトモダチ」も「NIPPON」も彼らの楽曲の中では凡曲に感じるのですが、それに対して「軍歌だ」「排外主義だ」と声高に批判されるのはどうにもTwitterも息苦しくなったものだなぁと。

無法図な批判が表現の自由からのバックラッシュが起こすという点も番組では触れられていて、やはり良くモノを考えている人の考察は深いと想ったので当ラジオ番組を聴かれるのをお薦め致します。番組の中でも「『HINOMARU』は軍歌ではない」と先ず語られていて、その上で歌詞の出来の悪さが語られていたりします。

ゆずの二人についても中高生の時にオールナイトニッポンSUPERで浜辺から公開放送してリスナーに「絶対ここにくんな!いやク〇ニ!」とか言ってバカ騒ぎしていた二人を知っている身からすると、今の二人にはとても”正しい事”が求められているんだなぁと。

“もう彼らは少年少女が気持ちを重ねる若手な立場と言うより、或いは音楽好きの若者から「あいつら大したことないのに売れやがって」というルサンチマンを浴びる大メジャーな存在なんだなぁ、「栄光の架橋」あたりからその流れに一気になったのかなぁ、二人もおっさんの年だものなぁ、お互い年取ったなぁ”なんて思ったり。

番組の中でも『「右でもなく左でもなく」は無自覚なウヨクのテンプレ』『無思想を表明することの暴力性』が語られていましたが、確かに右の方がマジョリティな分、自分のポジションに無自覚な処はあると感じます。「何を言ってるの?これは”普通”でしょ?」と。

逆に「『右でも左でもなく』というのは右」と言われるということは、是々非々で語るのは右が多く、左は聴く耳を持たない印象があるのではと。これは左の人は普段右の世界に合わせなければならない状況の中で、異議を常に発する立場な構造が前提にあると想います。左の人は「『当たり前』が通じない世界」に怒りを感じざるを得ない。

人間激昂する時は何にかといえば「当たり前」が為されない時であって、「当たり前」が違う人同士で語ることの難しさを改めて感じた一件でした。

現状で出来るとしたら、無自覚な右派は自分が語っていることがどのポジションにあるかを自覚する事、そして左派はバックラッシュの藪蛇を生み出す言葉狩りの触発よりもアイメッセージ等を使っての他者への諭しがコレクトなのではないかと。意識を高くあろうとする側こそ度量がいるなと。

以前に知り合いから聴いたのは、選挙で、特に地方での選挙に於いては「どんなに相手が馬鹿だと想っても、馬鹿だなと見下げた瞬間に票は消えていく」ということ。革新派よりも保守派の方が清濁併せ呑む余裕があるというか、左派の方が原理主義的に感じることがあります。

Webではその狭量さが可視化されやすいのが残念な反発を招いている気がして。

現実世界ではマジョリティの保守派や腐敗した政治家が無自覚にデリカシーのない横暴を行っていて。逆に左派は多様性や弱者への優しい眼差しがあるのに、古くは新聞などのメディア、今だとWebでのエコーチェンバーで塊で提示される故に左派がマジョリティ的にプレゼンテーションされ、逆説的に”保守”がオルタナティヴな本音の選択肢として一つの土着になってしまった流れが、『ゴーマニズム宣言』以降の流れだと。

実効性のある戦いを左派がするために、濁りや愚かさを感情的打破ではなく深い言葉、叡智も駆使しながらやってほしいななんて先般の知事選のバウトをみても想う処です。

by wavesll | 2018-06-19 02:10 | 小ネタ | Comments(0)

岡田 尊司 著『対人距離がわからない ─どうしてあの人はうまくいくのか?』読書感想メモ

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コミュニケーション指南書として期待していた柔らかい感じではなく、教科書的な堅めにコミュニケーションタイプによって人々を分類して、それごとの特質を分析・羅列する本でした。

人と親密になりやすい演技性パーソナリティーは幸福度が高いが、長い付き合いの中では真面目な強迫性パーソナリティ―の方が人から重要視されるとの話。またシゾイドや回避性パーソナリティー等のヒトとの関わりから遠のくタイプは幸福度が低いとのこと。

多くのコミュニケーション不全が自分に重なりなりつつもほとんどの話は深く刺さることはありませんでしたが、言語性IQ、動作性IQの他に処理速度という軸が社会の中でのロールを決めるという話と、「自分の悲しみやつらさを乗り越え、相手の視点など自分を超えた視点で振り返り、それを許そうとする」という「メンタライゼーション」という技術が人生を前向きに安定させるという話は興味深いものでした。

演技性パーソナリティーや反社会的特性のある人間に対しては拒否をきちんと主張しつつ、自分自身はそういうライフハックをすることを現実を上手く廻すために薦めながらも、最後に他者の心を打つのは真っ当な誠実さだと読めて、綺麗な噺に落ち着いたと感じました。

この著者はみてみると似たようなテーマで本を量産していて、ちょっと看板や視点を架け替えてるだけだと感じてもうこれ以上金を払うことはしないだろうけれど、一人の人間のリソースではそんなに多種多様に深く物事を書き記せるものでもないから、食っていくためには少しインスタントになっても新作を出し続ける必要があるのだろうなと。

お薦め度は3/10。特に「コミュニケーションのコツが知りたい」だとタイトルを観て期待した人にはあまり参考にはならない本だと想います。


by wavesll | 2018-06-13 05:01 | 書評 | Comments(0)