タグ:コミュニケーション ( 99 ) タグの人気記事

他者としての”己の変節”から足場の悪い誠実性に生きるー千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために』から想ったこと

c0002171_22185149.jpg
千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』を読みました。

勉強することはあるノリ(共同体のコード)から別のノリに移り、ノリが悪くなること、キモくなること。

アイロニーに走って水を差し続けたり、逆にユーモアで連想を広げ過ぎてナンセンスになってしまうことを越えて、自分自身の享楽的なこだわりに自覚的になり小賢しいバカになることを目指すべき。と説く。

その上で有限化というキーワードを駆使して具体的な勉強法も提示するという、非常に読み易く、またフランス現代思想に裏打ちされた書籍となっていました。

東浩紀『観光客の哲学』を読んだ際に”『存在論的、郵便的』と比べてかなり読み易いけれども結局『観光客』についての記述が芯を食ってない”なんて想ったことを思い起こして。

その上で『勉強の哲学』の補論を読むと『観光客の哲学』は哲学の枠組みをダイレクト気味に出していて、『勉強の哲学』は極めて分かりやすく具体例まで噛み砕いてくれている書なのだなと。相当に分かりやすい。

勉強する前の人は無自覚に所属するコミュニティの論理にしたがって生きている。勉強をすると、他者の話にノリで共感を示せなくなって一次情報等の論拠を求めるようになる。

けれど”どの共同体にも越える最終論理はないから、アイロニーの突き詰めは不毛”。等の話はかなり腑に落ちるところがありました。『エレガントな宇宙』を読んだ時に”この世の全てが弦の振動なら人間世界のルールには何の意義もない”なんて思ったことを思い出してw

また「人は誰もマゾヒズムの快楽を得ている」としていて。みなさんがどうかは分かりませんが私は一時期自らを弄ることで悦びを得ていました。それは芸人根性というか、ネガティヴを笑いに換える行為で。この本でアイロニーをツッコミ、ユーモアをボケと説明することの背景にはマゾヒズム=芸人根性という視座があるのかもと思いました。

コミュニティのノリの話だと共同体内部での”役割やポジション”も言動形成に大きな影響を与えるようになる実感があります。

看守と囚人の実験でもそうですし、鶏口となるも牛後となるなかれとは良く言ったもので、自分が下位としてギリギリ入れる集団にいるよりも自分が上位に在れる集団にいる方が活き活きと能力が開放されることはあると思います。逆だと無為に道化になってしまい自己嗜虐に繋がる。

そうした意味で”在りたい自分であれるノリの共同体”をみつけることは人生に於ける幸福度を極めて高めることになるのではと想います。それは本書に於ける”享楽的なこだわり”を共有しあえる場なのではと。

その上で”ノリを変えること”が”過去の自分から変節し裏切ること”でもあるように私は思ってしまうのですが、それは決して悪いことだけでもないのではないかと思うのです。

例えば私は生徒の頃は勉強と漫画が好きでその後はロックンロールに心酔したのですが、その頃は漫画やロックの非常に強い刺激に麻痺し等身大の刺激に反応できない状況がありました。

言葉でのバーチャルな学びをするだけで生身の感覚を知らなかった。素晴らしい藝術は精神を加速してくれますが、それは他者の創造物。その後自分で手を動かしたり人生の現場を潜り抜けることで挫折も含め己の身体性の分を知って行くことになりました。

そうしていく内に世間一般として音楽のプレゼンスが落ち、そして”ダッド・ロック”と言われるようにロックがクールさが目減りしてラップ、R&B、ジャズ、或いはアイドルなんかが時代の寵児になって行って。私自身の聴く音楽もロックだけに止まらない、新たな領域に拡大していくのを少し後ろめたい気持ちを持ちながら拓いて行きました。

そうなると昔の言動から変節するところが生まれてきます。それは昔の自分の責任を放棄しているのではないかと想ったり。

けれど、今は”逆にそれがいいんじゃないか”と。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という格言に対し”俺は愚者だなぁ、実際に自分がそうならないと解からない”と思うのですが、ここで効いてくる。

『己の変節』を経験することで、他者としての”昔の自分”と”未来にそう変節するかもしれない自分”に想像力や共感が及ぶというか。今の価値観が絶対でないと想えること、不安定で宙ぶらりとした居心地の悪さはありますが、一種の誠実さがある態度になる気がしているのです。

別の可能性を想起することは自信満々の態度を取れなくなってしまう気もして、それは時に信頼を得難かったり他者の押しに脅かされることもあります。誠実であるよりもハッタリをかます方が現実的な力を得ることも。それでも”己の正義”に少し斜めの目線を持つくらいの用心深さを持つ老獪さが最新の最適解だと今は想う所です。

先日出た『メイキング・オブ・勉強の哲学』も気になる處。勉強は必ずしも現実的にいいことばかりでもないですが、自分なりの誠実な勝ち筋を探究していけたらいいなぁと。そして此の記事自体が脱共同体的で自己目的的な享楽のノリの語りに他ならないなと思ったのでしたw

by wavesll | 2018-02-05 23:08 | 書評 | Trackback | Comments(0)

器がない兄が見た『バーフバリ 王の凱旋』&『バーフバリ 伝説誕生』

c0002171_09551295.jpg
「バーフバリ 王の凱旋」予告編

今話題沸騰のインド映画、『バーフバリ 王の凱旋』をみてきました。この映画は前作『バーフバリ 伝説誕生』からの完結編なのですが、本編が始まる前にダイジェストが流れるし、本作から見てもみれます。ただDVDとかで前作を見てからの方がいいかもしれません。

全世界で300億円を売り上げている『バーフバリ 王の凱旋』。Webの評判で”『MADMAX 怒りのデス・ロード』並みの神話!これをみればみな「バーフバリ!バーフバリ!」となる!”という絶賛具合に惹かれてみたのですが、実は途中までそこまでノリきれなくて。

神話的なつくりが大味に感じたというか、闘う女性像を打ち出していたのはわかるのだけれどもその点は『怒りのデス・ロード』が勝っているように感じたし、何よりこれを言っては詮無いのですが、王家の血を引く素晴らしい人物という主人公像が前時代的に感じて。

そういった意味では『シン・ゴジラ』の官僚たちの方が現代性が有るように感じたのでした。勿論”大衆が求める英雄像”は国によって異なるし、”俺はノリきれないけれどこのダイナミズムが絶賛される理由はわかる”と途中まで見ていて。

ただ或る視座を持ってから一気に物語が”自分事”になって。そのパースペクティヴは『器のない兄にとっての弟』というもの。

私は弟から尊敬されてはいない兄で。それどころか軽くみられるような具合。それも客観的にみれば私自身が甘ちゃんすぎて人の上に立つ器がない故で。

インドに儒教的な価値観があるかは不明ですが、弟から敬意を得られている感覚がない兄というのはどうにも具合が悪く。それは己の責任なのですが、その歪んだルサンチマンがバーフバリの兄を悪漢とさせてしまったのではないかと。

そんな訳で敵役に半ば感情移入する形でこの映画を見たのでしたw

ただ、私自身はこの邪悪な兄よりかはすこしはマシな心の在り様になれたのは、弟からの承認を明らめたことにあります。

愛ゆえに憎しみが湧くというか、承認欲求が満たされない故に苛立つことってあるのではないでしょうか?情を薄めることになるかもしれないけれど、承認を放棄することでその分憎悪に囚われることも減った気がします。

想えば年下の人間に成熟を求めるのも理不尽な話、そして一分野において劣っていたとしても全分野で敗北する訳でもなく、適切な距離を置くことが無為な衝突・消耗を避けることに繋がる。相手の美点も汚点も第三者的に観るのが肝要だと。

それに器を拡げる、或いは配慮を与えることをせずにただ敬意を受けるというのは理のない話。ましてや恐怖で得ようなんてのは最悪手、器とはいかに下に自由にさせられるかかもしれない、私欲を越えた行いこそが善君の在り様かもなぁなんて考えていたらラストバトルが終わっていました。

そんなわけで様々な想念が湧くいい映画で帰りにパンフも買ってしまったのですが、パンフは『マハーバーラタ』からの絵解きや『十戒』や『ベン・ハー』等の古典へのリンクばかりが語られていて、”本当は読みたかったのはもっと具体的で直接的な演出や演技についての話なのになぁ”とは想ったり。

これは好き好きというか、こうした文脈・血脈を語ることにも意味はあるとは思うのですが、ある映画の良さを語る時にその素晴らしさを”参照先からの正当性”に求めるよりも、その作品そのものに語れたらいいななんて最近は想っていたのでした。

なーんて言いながらこのエントリでは自分語りをガンかましてしまっているのですがw少なくともそこまで人の心の扉を開くエナジーに充ち満ちた映画でした。

2/2 追記
c0002171_19452630.jpg
Blu-rayを借りて『バーフバリ 伝説誕生』をみました。後編への伏線にあふれていて”時系列の入れ替えも含めこれは続けてみたい、まさに2本で一本だ”と想いました。

改めて舞台のヴィジュアルが素晴らしい。滝もそうですがマヒシュマティの王宮の威容が神話的な堂々たる迫力を支えていました。

また感心したのは戦闘スタイルが人物造形に繋がっている事。シヴドゥが滝登りで鍛えた肉弾派のファイティング・スタイルならば父バーフバリは王家の武術を学んだことを顕わす武具を卓越したファイティング・スタイル。

また『伝説誕生』の戦国無双を思わせる闘い方から『王の凱旋』では水戸黄門的な諸国漫遊からの一気に締めるスタイルなのは、武将から個人への物語のダイナミズムを表している気がしました。

また後編を見て上で綴った名君の条件は前編ではさらにあからさまに描かれていて、民を想う優しさ、兵を鼓舞する指導力、そして戦いに際しての機知と、これは大した王だ、と。その上で1・2共にヒロインがバーフバリに惚れるのはその強さに於いてというのも、男の条件を提示しているようにも感じました。

自分の権威を誇示したり、「俺はこれだけのことを為しているのに認められない」と”(正当だと自分では思う)取り分をよこせ”と喚くのは見苦しく、それは価値ある人だとしてもその価値を損なうことになってしまいます。バーフバリの無自覚な素晴らしさは実力に裏打ちされた上での利他精神にあるでしょう。

その上で、それは無自覚に(劣る者から)取り分を奪っているとも感じて。現代のテロリズムは弱者の凶行というか、まともに戦った結果勝てないことを理解した上で支配され奪われるわだかまりを無法に向けてしまっていると。

人生は奪い合いであり、そして最適化の結果が社会の在り様でもあります。その上でテロルに堕ちないよう世界の内に別次元のアジールのような曖昧な情況を維持した上でスポーツマンシップなエリアで競うことが大局の安定化にもなるのかもしれない、けれども実力・正義の人は、翳には配慮はしないかもしれない。ならば、生存空間を開くほかない。そんなことをこの豪気な映画を見て想いました。

by wavesll | 2018-02-01 21:19 | 映画 | Trackback | Comments(0)

”理解されない”という傲慢を越えて


その昔、このサイトが羅列型ニュースがメインだった頃に目にした一言コラムに「自分で書いた文章はすべて名文」というものがあって。その意は”書いてあるバックグラウンドをすべて理解できるから価値が認識できる”というもの。

確かにそうかもしれません。逆に月日が経つと自身も別人になっていくのか、大昔の自分の書いたものとか読むと”こいつ何を言いたいのかさっぱり分からない”なんてこともザラにあってw

昔の『気分』だけで書いた文よりかは今は客観的な情報説明を入れているつもりですが、また月日が経ってからみたらスッカスカに感じるかもしれません。

そんなこともあって、想うに”理解されない”なんてのは”理解しにくく書いている”結果なことが多いんじゃないかと。

大昔の私は”こちとら読解力があるから周りの言うことを理解できるけど、周りは俺の言うことの価値を理解できないことが多い”なんて驕り高ぶっていて。恥ずかしい限りで。

確かに自分は”面白がる”ことは得意かもしれませんが、”面白がらせる”のはどうか。鑑賞と創造は脳の遣う部位が異なる気がします。

様々に想念を拡げて楽しみをみつけることと、表現したいことを伝達するために意思決定し形に切り落としていくこと。逆に鑑賞の時でも”自分ならこの主題、題材、技法でどんな感覚を造るか”なんて考えたら脳の新領域が駆動し面白い、というのは脱線余談。

私にとっての「面白い」には「(私にとっての)新領域、理解できる際」という側面があって。そうなるとプレゼンできるほど咀嚼せずに「これ面白いでしょ」と出すことも多く、”何がどう面白いのか”提示できなければ当然伝わるものも伝わらないなと。

それでも”情報を出すことはサービス”だと思って情報も出さずにリアクションも薄い周囲に昔は”サービス精神が足りない”なんて思っていましたが、今は徐々に”あぁ、されたい『サービス』のベクトルが異なっていたんだ”と気づいて。

私は論理や美、刺激は好きなのですが、怒りや羞恥心等の心理的負荷は耐えられなくて。或いは慈しみや尊敬すらこそばゆく。“人間味”と呼ばれるものが苦手なのかもしれないと近頃思います。逆に多くの人はそれを大きく好む印象で。こうした要素が弱い人間は薄っぺらいと認識されるかもと。

”面白いこと”は余剰で”人間味のある行為”があるかどうかでエリミネートされる。そこの認識の齟齬が問題で、心のタフさと気配りは養うべき課題。その上で”そうか、感性が異なる人間と無理に一致させることもないじゃないか”とも想って。

『他者について分かるところは分かるし分からないところは分からない、けれどそれぞれのテリトリーを認めあって、共にそれぞれに生きれればいい』。本質的に必要なのは空間であり、認知の多様性を認めるから世界は豊穣。

理解しえぬ領域だからと言って価値がないわけでなく、寧ろ可能性の宝庫。異なる見識もまた玉である。また敬意の示し方は様々であって、熱心に喋ることより余裕を持って訊くことが有効な場面も多い。そして他者は他者。

第三者に伝わりやすいように努めたらそこからは”伝わった分の奇跡”に認識を向け、そして自分も他者に無理に付き合わず”理解できるという驕り”から身を離すことが肝要、期待値は甘え、出来得る限り零に近づける、それがWebで10余年I/Oをしてきて得た最新の知見でした。

by wavesll | 2018-01-29 04:37 | 私信 | Trackback | Comments(0)

距離での格闘

Fleet Foxes - Crack Up (Full Album)


ネパールから帰ると郵便受けに年賀状が届いていて。

「今度飲みましょう」とメッセージが書かれた家族写真のハガキをみながら”また飲もう 言われて飲んだ ためし無し”と一句発して。けれどすぐに”然言う友は 宝なりけり”と続けて。

実際に会うわけではないけれども、”会いたいと想える”、そんな仲が”旧友”ということかもしれません。現在進行形とは異なるけれども、それも玉だと。

昨年末幼年期の終わりという文章を書いて。あぁいうものを書いてしまうこと自体が私が未だにコミュニケーションに大きく絡まっているという証で。近づきすぎると依存や諍いが発生してしまう恐れがあって。無用の衝突を避ける”適切な距離”を探して未だFootworkしている次第です。

例えば、前述の年賀状だとか、年1の忘年会だとか、あぁいうものにはどうにも形骸化した縁を想ってしまって。相手に興味関心があれば普段からそれなりにやり取りをするだろうと。

けれど、別の道を歩む中では普段からコミュニケーションを持つのはコストがかかりすぎてしまうかもしれないなとも現実的に共感出来ます。絶対的に時間がないし。

近況を知らせるにしても普通の人は”聴かれてないことをわざわざ伝える”ことはしないし、そういった意味で儀礼が良い切っ掛けと機能しているのだと理解できます。

渡世の中、私は未だ社会性の問題を解けていないと感じます。”相手の土俵にどこまで付き合うか”とか。或いは”先の先・後の先”とかの問題になって来るのかも。

"自分が話したいこと"があったとして”相手に聴きたいこと”があるか、それを知るためにも”相手が話したいこと”はあるか。冒頭の和歌に繋がってくる感じ。

そんなわけで明日からもまたぎこちなく”距離”と格闘していくことでしょう。

by wavesll | 2018-01-18 21:08 | 私信 | Trackback | Comments(0)

あの早朝から23年。阪神大震災の震災文学から次代への眼差しを想う

満月の夕/ソウル・フラワー・ユニオン

23年前のことは実はあまり覚えていない。当時10歳。小学生の頃の記憶はぼんやりしている。寧ろ後のTV映像で高速道路とかが崩れたのをみて記憶が増大していったのが大きい。

幼心の体感ではあの時「頑張ろう、神戸」と首都圏から切り離されていたのを覚えている。その印象からか311時の「ニッポン」「絆」推しには「東京が揺れたら日本全体か」と思ったものだった。

無論、東日本の多くの場所を津波が襲い、いまも福島第一が現在も続いているという意味で日本が抱える大きな出来事だったのは確かだが、阪神大震災の時の首都圏の空気と311の時の報道を思ったとき、「東京は自己中心的なのではないか」との考えが去来したのは確かだった。

されど、シャルリーエブドの時シリアやリビアとかで「何故私たちのことは騒ぎ悲しまないのか」という声が上がったのもそうだが、身近なものを重要視してしまう本性が人間にはある。その上で“どう身近にするか”という意味で地場メディアの力が重要だろう。東京にはキー局があった。それはパワーの泉でもあった。

ネパールでもBBCやCNNはみれた。アル・ジャジーラもそうだが、全球的な報道・情報発信のプラットホームの存在は大きい。

正月に放送されたNHKBSのクマリの番組ではカトマンズの被災が大きく感ぜられた。ただ、実際に行ってみると、確かに爪痕は未だに残ってはいたが、人々の生活の活気と、思いのほか残る歴史遺産が印象深かった。

「何を伝達するか」の選別は、「力」そのものでもある。

あの時の震災文学として『いいひと』が“建物は再建されても、そこでの人の心や暮らしはまだ再建も癒しもされていないのですよ”と描いていて。東北を振り返れば今なお仮設住宅で暮らす人がいる。この23年、この7年、復興の馬力が落ちてきているのでは、と想ってしまう。建物ができても心の復興はその先なのに。

総体的に縮小のフェーズに今のこの国があるとして、新しい容への切り替えが必要として、そんな時に”ドメスティックの外”と小さな物語を連携させるような、そんな情報発信の土台を日本から出せないか。

一人一人の”現場の声”から発して一般意志の形成を行う途上に我々はいるのかもしれない。そのプラットフォームを創れたら、次代の一角獣となり、この国の50年を支えるのではないか。その為には”他者”と”自己”への客観的なまなざしがいるのではないか。あの満月の夜を描写したような、心を打つのは真摯なまなざしであるように23年目に想。

by wavesll | 2018-01-17 22:40 | 私信 | Trackback | Comments(0)

年1の忘年会飲みはレディヘ新譜のようなものかもしれない



私はどうにも内向的な人間で、多人数の飲みとかはHPMP削られるので近年なるだけ避けてるのですが、昨夜は地方から帰浜した友と、もう一人の友と三人で野毛で軽い忘年会をしてました。

そこで感じたのは私生活で自分が随分政治経済から藝術興行に時間配分してしまっていたなぁということ。後、何かを説明するときにちょこちょこスマホでWebを引用しようとしてしまって、口頭での説明スキル高めないとなと。

Twitterなんかに身を浸していくとどんどん濾されるというかコアな噺に行きがちですが、年1くらいでのコミュニケーションだとお互いのベースとなる常識が異なって、基礎噺の交換が主なんだなぁと。普段触れない分野の話が色々聴けて新しい血が入れられた感じ。

私がすっかり『年一人仲間内の誰かと関係悪化してるキャラ』扱いになっていてw「いやいや俺も学んで本格的な衝突の前に距離置く選択するようになったんだよ」と弁解w近くなりすぎて期待しすぎると色々と軋みも生まれますしね。

「今年は鴎庵全然読まなかったなぁ」と言われ、読んだ中として鰻の記事を小馬鹿にされピキピキっときつつも読者なんてのはそんなもんだろうとwこのBlogなんかも褒めるコメントなんかめったにつかないけれど誤認情報へのツッコミは即座に入るし、大体自分も音楽やArtやその他に好きなこと書いてますし、表現したらこういうのはしゃーないもんでしょう。

それこそ昔は「普段面白いと想うことをWebでプレゼン記事書いて欲しい」なんて期待を顔見知りに持っていたのですが、そもそも「面白い刺激」を必要としなくなってる感が傍目だとあったり、情報公開リスク意識もあるだろうし書かない奴に期待するだけ無駄だといい加減覚ってw

そこら辺はTwitterのフォロイーさんやLINEで好いネタを送ってくれる友とだけやってればいいかなと。で、まぁWebに書かない連中も会ってみれば話のネタは持っていて。それこそ似た感覚で集まりやすいTLでは拾えない噺で。

やっぱり年一での会合だとぎこちない所もあったりするのですが、逆にそのしっくりいかない感じは新領域を探索してる部分、レディオヘッドの新譜に求めるいい意味での違和感だと。

強いて言えば、もうちょっと面白く深堀り出来そうな話題を上手く質問できなかったなというのはあって。自分は好きなようにガンガン話すタイプなので”聴きだす”というのが下手なんですよね。。

とはいえ、他分野の噺が時をかけて咀嚼・消化され血肉になるかもと感じれて、飲み会に対するイメージが好転した夜になりました。

by wavesll | 2017-12-30 05:52 | 小ネタ | Trackback | Comments(0)

幼年期の終わり

The Smiths ‎– The Queen Is Dead (Full Album) = 1986

今になって旧い友たちの意識が分かる、そんなことがあります。
例えば他者からの論評に付和雷同せず、一次情報に自分で当たる大切さとか。SNSなんかの又聞きで判断する、さらには声を上げるのは危険なことと認識して。

或いはアクロバティックなことばかりに目を奪われず日々のルーティンのカイゼンをやり抜くことの強靭さや、或いは社会の権力闘争に於ける悪意の存在。こういった”場を守る”ことの意義に、今も完全に分かっているわけでもないのですが、昔は一欠片の敬意もなかったなと。

そうした”しっかりしたもの”に対する覇道として”感性”があるとして、分かり合えぬ人々に”君の話は面白くない”と話すのもまた一種の逃避なのかもしれません。面白くない人間がいるのではなく、面白がれない自分がいる。

そもそも年を経るにつれ”面白いという刺激”がいらなくなったりかまける余裕がなくなるのかもなんて周囲を見ていて感じたり。とは言え必要なものが確保できれば相手のゲームに乗らない身の軽さは維持したいものです。

”正しいこと”と”コミュニケーションが成り立つこと”は完全には一致しないもの。主張だけで傾聴が欠けては意思疎通は成立しないし、”正しさ”は立場と時代によって変わるもの。私は昔は”誰にも愛されたい”のような粗野な夢想をしていましたが、今は”石の舟はついに浮かばず”も悪くないと感じています。

生来の気の軽さから、旧くからの関係に酷い言葉をかけてしまった過去があって。あれは粗忽な行為でした。大切に想える/想われるのでなければ無理に交わらなくても良いかもしれないと今は考えています。庵は開いていますしね。

もしかするとアイデンティティに迷い友人関係に重く依存する幼年期を漸く抜けつつあるのかもしれません。要るものは身一つ、あとは端末でもあればそれでいい。共に生きる人が存在すれば大変な幸福。R&DとPR、そして対話のバランスの微調整を続けながら、75億のあかりの一つを燈して。どっかしら外して生きたい。そう想います。

by wavesll | 2017-12-27 04:45 | 私信 | Trackback | Comments(0)

疲弊からくる悪意と、身を離し、獣を制御すること

人間、悪意が沸くのは疲弊しきっている時が多いのではと想って。たまにナチュラルにマウンティングを仕掛けたがるクズもいますが、悪意というのは弱った手負いの獸の余力の無さから来るのだと。今日本に憎悪が増してるとしたら、その根本は疲弊、弱りではないか。躁状態も崩壊との際。立ち止まって振り返ることで掬われる灰汁もあるのでは。

私にとっては今でもフラッシュバックするのは大学でて最初の会社辞めて暴言吐いて荒んで騒いでた頃にレディオクレイジーから直行格安バスで東京での先輩主催の忘年会に疲弊しながら顔出したのに先輩が後輩の女の子に「こいつと付き合いたい?」と聴いて女の子が鬼の形相で「絶対嫌です」と言い思わず「結構です」と返してしまった時のこと。

はっきりいえば私が無礼者の輩で仕事もできなかったのが悪いのは間違いなく。その上で、無能の者である立場でどんどん道化の道を極めたというか、鶏口となるも牛後となるなかれとはよく言ったものでいいフィードバックサイクルでないと感じた場からはさっさと離脱するべきで。

何しろ、あの「結構です」は完全敗北宣言でした。

意外性や突拍子の無さ、インスタントな刺激をやり過ぎて、色々と麻痺してて。あの頃私は恥を売って、寧ろ周りに“何故恥を売らないんだ”とブラック思想で。“普通”の腹黒さに対しても無防備で。どいつもこいつもクズなのだけど、クズである自覚がない事を知らない、未熟な坊っちゃんでした。

盲信も、憎悪も、依存。結局私はあまちゃんだったし、世の中の“普通”はかなりタフだと今なら敬意はありませんが痛感はしています。とは言え忘年会の時期になると、自分の極限の弱さを露呈したあの出来事を思い出して。省みる限りは繰り返すことはないでしょう。

プライドというか、自分を大切にしていい。寧ろそれは作法であるということを知ったのがこの十年でした。無駄にサービスしても何も有り難がられはしない。

時に矛を以て、時に盾を以て、時に遁走もして、それでもサヴァイヴ出来れば御の字ではないか。不愉快な輩にかける程情は余ってないこと悟り、ヤマアラシのジレンマが距離によって解消されていくことを感ずる。そんな冬至の夙めてとなりました。

by wavesll | 2017-12-22 06:56 | 私信 | Trackback | Comments(0)

「面白いことを書く遊び」について

先日クローズアップ現代+にTwitter社のジャック・ドーシーCEOが出て、「TwitterはSNSだとは思っていません。SNSは友達・家族・クラスメート・同僚を探すツールですが、Twitterは全く違います。Twitterでは「関心」によって、誰かとつながるのです」と言っていました。

これには私もかなり膝を打つところがあって。私自身のTwitterの使い方も、RTが多いのもそうだし、自分のTweetも自分自身が主役というよりも「体験した何かがどう楽しいか」と何かの作品やイベントそしてニュースを具としたコミュニケーションが主だなと。

私みたいに「この飲み会の金で音楽や映画、展覧会行けるな」とか思っちゃう人でなしにはぴったり嵌るというか(苦笑) 勿論Twitterの使い方は一つだけではありませんが、「人」を押し出すよりも「作品/イベント/ニュースへの関心」が主だからこその繋がりってあるなぁと想いました。

ただ、こういう発話を「それは他人の褌でお前の手柄ではない」と想う人が結構な割合でいるのも理解できます。それにTwitterでも何かの感想よりオリジナルの写真や絵、動画や140文字で紡がれる独自の文章ネタの方が”いいね”で評価されてます。

先日ねほりんぱほりんでネトゲ廃人が取り上げられていて「ネトゲ廃人には 課金型と時間投下型がある」というのをほえーと見ながら”考えてみるとTwitterなんかもネトゲの一種かもしれない”と想って。

自然に生まれる”面白いこと”ってそうポンポンあるものでもないし、”俺、もしかして課金型とか時間投下型のプレイヤーになってないか?”と少し怖くなって。

勿論、好きな音楽や展覧会に行き観想した事ですし、Twitterの反応含めてそれが加速するのは時にいい循環でもあるのだけれども、遊びは遊び。それに振り回されてしまっては本末転倒だなと。

だから承認欲求や地位財としての消費からなるだけ身を離し自然に内発する心のままであることが大事だと感じます。

愉しい営みとしてのWebへの鍵盤打筆というか、「自分が読みたいものを自分で書いてみる」という基本に立ち返る重要性。そのヴォランタリーなコントロールが出来れば、SNSやBlogは「面白い、書きたい」への感性を増大させてくれ生活を豊かにしてくれますから。

私自身昔は周りの人たちに「最近面白いことあった?」とか雑に聴こうとしたり逆に”こっちはこれだけ書いてるのに何の反応もせずにフリーライドか”とか変に気張って失敗してきました。

今はいい意味で明きらめたというか、「しゃべりたいことがない人から無理に聞き出さなくても自発的に情報を発してくれる人の声で十分じゃないか」と想って。また「面白いことを何の見返りもなく書いてほしい」と強いるのはブラック企業的な価値観でもあるなと。プライベートは鬼門ですし荒らしたくもない。

その上でいつもTweetで愉しませてくれるフォロイーさんたちや、LINEで面白い噺を送ってくれる友。またBlogerの人やメディア上で好い番組や作品をだしてくれる人たちへは自然と親しい有難さを感じています。辺境探検家 高野秀行氏講演会 'N' 早稲田大学探検部カムチャツカ遠征報告会のように、公開してくれるものだけでも相当コアな噺聴けますしね。

「面白いこと探し」はあくまで遊び。けれどだからこそ本気になれるし、私ももっと純度の高い心が入った文章を画けたら嬉しい限りです。個人的には一週間くらい37℃台の熱を出したのが快復し対面したときに「最近面白いことあった?」と聴いたら「風邪が扇風機で飛ばされた」と応えた祖母の感性を目指したいですw

無論Face 2 Faceの場においては傾聴が主張よりも大切な場面は多いし、お互いの情報交易が平衡することが大事だと思います。或いはTwitterとかの半ば公道では余りに呟きすぎると嫌がられることも。そういった意味で、Blogのような自サイトで思う存分文章を認めて非同期の時間軸での発信をするって善いなと。

ゲームにおいて一番いいプレイは時間投資量で勝負するのでも課金チートで勝つのでもなく機知と技量の水準を上げていくことだと想います。此のサイトの記事でも単なる紹介レポートではなく黒田清輝展@東博 もう一つの坂の上の雲年を重ね今解る椎名林檎『平成風俗 大吟醸』の良さのように「論」があると良いもの書けたなと想います。 そうした本質的なLv上げならガンガンやっていきたいなと←意識だけ高い派にならないようにしないといかんですねw

by wavesll | 2017-11-30 05:01 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

挑発する藝術の秘 アイ・ウェイウェイ《安全な通行》《Reframe》@横浜トリエンナーレ

c0002171_922882.jpg

横浜トリエンナーレでのアイ・ウェイウェイ(艾未未)《安全な通行》《Reframe》は救命ボートと難民によって実際に使われた救命胴衣による美術館正面の外壁全面を用いたインスタレーション作品で、トリエンナーレの象徴ともいえる作品。

強力なヴィジュアル・イメージを放つ本作品に対して、Twitterでみた一つの意見に膝を打ちました。
それは「これはケバブなのではないか」という視点。

成程と。なぜ救命胴衣を縦に重ね連ねたかの一つの解としてケバブのメタファとして中東世界からの様を顕わそうとしたというのはあるかもしれないと想ったのでした。

勿論これはアイ・ウェイウェイが提示したこのヴィジュアルに対する一つの見解であり、確定した正解とは言い切れません。寧ろこの謎の意味を考える行為そのものがこのArtの価値なのだと想います。

昨夜「断言には一歩引き、断言で否定されたらその根拠を訊き反論するといい」と書きました。

確かに呪いの様な言論にはその正体を明らかにすることは健全な行為ですが、自分を否定してくる言説に触れたときの方が居心地のいい環境にいるより化学反応というか、論考が深まることはあります。

挑発してくる敵はいまいましいけれども、しかしそういう人間を完全に排除すると色々と鈍ります。

そしてその時に安易に正解を聴かずに”何故か?”を考え続ける営為が思考の深度を増幅させることもあるかもしれません。

ただ前述したように”謎”が人間関係などに関わる場合は寧ろさくっと聴いた方が解決スピードが上がり実利があることも多く、そして悩みすぎて潰れてしまっては元も子もありません。

そうした時にArtが”この意味が分かるか”と挑発することはとても大きな意義を持つと想うのです。

挑発するArtは現代美術に限らず、例えばジブリ・アニメもそうです。宮崎駿監督の『耳をすませば』の企画書が凄すぎるという記事が先日話題になりましたが、その企画書を具現化する能力に舌を巻くと共に企画としての深い眼差しに驚嘆しました。

それは「もののけ姫」企画書に於いても「風立ちぬ」企画書に於いても、名匠による作品は時代へ突き刺さる洞察から、いかに生きるべきかという本源的な秘に挑む目論見なのだなと。

それはアイ・ウェイウェイのインスタレーションにも通じるものがあると感じました。圧倒的なヴィジュアルの強さで具現化された”Concept”の見事さ。
無論全てのArtがそういうものでもないと理解していますが、生の秘、その深い謎を提起する藝術を私はみてみたいなぁと透徹な朝の空気に想いました。
by wavesll | 2017-10-26 09:43 | 私信 | Trackback | Comments(0)