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“常連”考

函館のラーメン店がミシュランに掲載され一見客であふれかえり、常連が入れなくなってしまったことから閉店したというニュース。

これに新宿のベルクの店長さんが反応していて。店は呼吸の合う常連がいるから成り立ち、ベルクは常連率が7割だからやっていける(新規が3割くらいあるのは気分転換になる)。と。

やっぱり何かの事業を営む上で常連という存在は何とも有難いものなのだなぁと想います。

この話を聴いたときに”さて、店にとって常連とは何人くらいいるのだろう?”とふと思って。ちょっと計算してみようかと。

念頭に在ったのは自分自身が好く訪ねる飲食店。それでも大体1ヶ月に1回訪ねるくらい。ディナーの店ならそれくらいの頻度が普通では?なんて思います。

カウンター席が20席くらい。営業時間が18:00-23:30。客の滞在時間が小一時間として、開店直後は待ちの列もでるので、全体としては7割埋る位で回転するとして、20 X 330/50 X 7/10 =92.4。

1日の客数が(客単価は考えていないけれども)90人として、それが30日で2700人。この内の7割が常連だとしたら1890。もし毎週通う常連がほとんどだとしても500人弱の常連が必要になるなと。

飲食店に於いて客側では”自分は常連”だと想っていても、店からしたら1/500、あるいは1/2000だとしたら、人間的な付合いのコミュニケーションは薄いのが当然というか、客として特別な関係を求めるのは求めすぎで、芸に惚れ、その上でのプラスアルファとしての阿吽の呼吸があるのだと。でもその呼吸があるからサービスが営めるのだなぁと。

逆に人間関係がもっと発生すると常連として訪れる頻度は高くなることはあると想います。バーなんかはほぼほぼ週何回も訪れる常連客で回っているだろうし。マスター、ママ、或いは客同士の濃いコミュニケーションがあるからこそ少人数でも頻度が上がって成立する形。

まぁ、その”人間関係”というのも曲者で、私も昔いきつけのバーがあったのですが代替わりして足が遠のき、かといってまた新たな人間関係へ身を投じるのも億劫ですっかり呑み屋に行かなくなってしまいました。またバーでも美味い酒とか、飲食店としてのクオリティもなければ客は居つかない。バランスは異なれど飲食店もバーも双方必要ですね。

そういった意味では今はTwitterのTLがサードプレイスというかバー的なタマリバとして生活の中で機能しているかもしれません。

では”Twitterで自分の『常連』って何人だろう?"と考えてみると、1800人強のフォロワーさんがいらっしゃいますがファボやRT、リプをくれるのは十指にみたない感じです。これはこの鴎庵もそうで、大体5000/monthくらいアクセスがあるけれども、そのほとんどは過去記事とかの一見さんで、最新記事を取り上げる内容に関わらずみてくれてそうなアクセス数は10/dayいない位。

なんと常連率が1割を切っているw 自らの筆力、惹きの無さを猛省するばかりですが、「今の時代ブログの常連になる人がどれくらいいるだろう?SNSを通して記事を読むだけがメジャーな行動様式だろう」なんて思ったり。時間が有限な以上、幾つもの場の常連には物理的にもなれませんものね。

とは言え目に見える反応は嬉しいもので、Twitterなんかの好反応には本当にモチベーションを大いに与えられています。そうした意味で自分に嵌ってくれる常連の方々という存在は何かをやっている人間には真に援けになるものだと、しみじみと想った次第でした。

by wavesll | 2018-05-22 02:46 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

レコメンドはセレンディピティを破壊するか

最近日々が充実しているというか、5月に入ってからこっち遊興を盛んに行っていて。

そんな中でも特に個人的には嬉しかったのがカザフスタン民族音楽コンサート@東京都立中央図書館太尾堤緑道のヨコハマビエンナーレ'89の彫刻遺産群。というのもこれは私自身が足で稼いでみつけたモノゴトだからです。

カザフスタン・コンサートは元々はTwitterで広尾の図書館でカザフスタン展をやっているのをみて先月訪ねた際に館内のポスターで知ったもので、太尾町の緑道は偶々初めて訪ねた時に見付けたもの。

今、自分のWeb巡回のほとんどはTwitterを通してに為ってしまっていて。自分自身でフォローした方々が発信してくれる情報だから基本的に自分好みの情報が集まってくるのですが、段々換気が必要になるというか空気に新規さがなくなって来る感覚があって。

特に素晴らしい景色とかを先にWebでみて興味を惹かれてその地に行ったりすると、何だか”答え合わせ”をしてしまっているような気になることがあります。

"先に概念を知ること"が世界から神秘性を失わせることはあるのかもしれません。例えば私は幸運にも暈(ハロ)環水平アークをその概念を知る前に体験し大いに驚いたのですが、もし既知の現象だったとしたらあんなにも自然の驚異を感じてはいなかったと想います。先に知識を得ることで、フレッシュな驚きが損なわれてしまう。

自分で編んだ居心地のいい濃い情報網よりも、寧ろ街中でエンカウントする広告の方が”既知でない”。或いは自分の足でみつけたモノゴトの方がWeb定期巡回路よりも”自分とって特別な情報”となるのは、生身で五感を駆使した方が”自分事”になりやすいからかもしれません。

ただ、Webが未知感のある情報を届けてくれないかというとこれは勿論違って。

例えばYoutubeのお薦め動画はなかなか馬鹿にならなくて。過去の閲覧記録からのお薦めで私が好きそうな未知の音楽をYoutubeで発見する事が結構あります。Webがセレンディピティを破壊するのではなく、Webメディアのフィリタリングを通して紹介されたモノゴトに”手垢がついた”と感じてしまう、というのが論点なのかもしれません。新しい血を入れ続けることが肝要なのかも。

兼好法師は「レアモノを有難がるのは情弱だ」と言っていましたが、自分が関わる度合いが高い経験ほど充実感・特別感は増していくもの。Webには生の第一次データの発信も大量にありますから、メディアの選別を経ない野良データに当たって行ったら、効率は悪くなるかもしれないけれど、Web体験とセレンディピティがより両立できるのかもしれない。そんな事を想いました。

追記
上に書いた話は、私がメディア漬け人間だからこその感慨なのかもしれません。多くの方々にとっては”そりゃ自分でやった方が遣り甲斐あるだろ”かとw

私はWebにモノを書き始めた時に”内輪受けだけは嫌だ”と強く想っていました。私を個人的に知らない人にも価値があるものを書きたいと。

その流れでメディア一般にオーソライズされていることについて書くことが多かったように思えます。上に書いた”自分が関わる度合いが高い経験ほど充実感・特別感は増していく”というのは逆に言えば他者から見ると”ンなこと他人には関係のないことだ”となるでしょう。

実際、鴎庵の記事別アクセス数は取り上げる題材にかなり左右され、今月でいうとオザケンのライヴ感想レポが一番集めていて。カザフコンサートや太尾町の彫刻はニュースネタとしては客観的には確かにコアなさざれ石で、私自身の筆力の足りなさ故に惹きつけられてないのは精進しないとなと想います。

その上で今の自分がより”野生の物事”感に惹かれるのは、Twitterによって自分の関心による情報収集の濃さに満たされたからともいえると想います。自分の好きな味だけを思う存分食べられた故に次の段階へ行けるようになったと。

何か物を書く上で必要なのは廣く情報を得るだけでなく、寧ろ情報を絞ること、時に情報を断つことで己の密度を高めて内から湧き出す声に耳を澄ますことだと感じていて。ネタがマイナーでも逆にメジャーでも奥い語りが出来たら独自性のある記事が書けるだろうと。

今新しい心持ちを持てているのは鱈腹情報摂取できた結果で、Twitterに感謝しながら次の展開を張っていけたらと今は想う処です。

cf.
13年前の個人ニュースサイトをメインとしてやってた頃の記事。昔の方が堅い記事書いてたなぁ、今は緩いw



by wavesll | 2018-05-16 04:01 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

ぞめきの濤

ここ幾日か音楽ライヴの人の密集地で音と光を浴びたからか、目を閉じ安楽に入ろうとすると、海に行った夜に波が意識のなかで起きるように、ざわめきとイメージが脳からどんどん湧き出でる。

今湧き出でると書いたけれど、どちらかというと脳に刺さった刺激の破片がぽろぽろ抜けていくイメージ。明確なストーリーもなく、ぞめきの奔流に包まれフラッシュバック的な視覚が浮かんで、なんか映画サークルがつくった自主映画をみているような気になる。

その中で不意に沸いてくるメロディーとまでではないが節のついた音楽的なぞめき。この半瞑想の、半無意識から鳴る音像をカタチに落とし込めたらちょっとしたアンビエント作品になりそうなんだけど、今はこのほろほろと沸いてゆくぞめきをまどろみながら意識するのみだ。

by wavesll | 2018-05-05 00:37 | 私信 | Trackback | Comments(0)

”理解されない”という傲慢を越えて


その昔、このサイトが羅列型ニュースがメインだった頃に目にした一言コラムに「自分で書いた文章はすべて名文」というものがあって。その意は”書いてあるバックグラウンドをすべて理解できるから価値が認識できる”というもの。

確かにそうかもしれません。逆に月日が経つと自身も別人になっていくのか、大昔の自分の書いたものとか読むと”こいつ何を言いたいのかさっぱり分からない”なんてこともザラにあってw

昔の『気分』だけで書いた文よりかは今は客観的な情報説明を入れているつもりですが、また月日が経ってからみたらスッカスカに感じるかもしれません。

そんなこともあって、想うに”理解されない”なんてのは”理解しにくく書いている”結果なことが多いんじゃないかと。

大昔の私は”こちとら読解力があるから周りの言うことを理解できるけど、周りは俺の言うことの価値を理解できないことが多い”なんて驕り高ぶっていて。恥ずかしい限りで。

確かに自分は”面白がる”ことは得意かもしれませんが、”面白がらせる”のはどうか。鑑賞と創造は脳の遣う部位が異なる気がします。

様々に想念を拡げて楽しみをみつけることと、表現したいことを伝達するために意思決定し形に切り落としていくこと。逆に鑑賞の時でも”自分ならこの主題、題材、技法でどんな感覚を造るか”なんて考えたら脳の新領域が駆動し面白い、というのは脱線余談。

私にとっての「面白い」には「(私にとっての)新領域、理解できる際」という側面があって。そうなるとプレゼンできるほど咀嚼せずに「これ面白いでしょ」と出すことも多く、”何がどう面白いのか”提示できなければ当然伝わるものも伝わらないなと。

それでも”情報を出すことはサービス”だと思って情報も出さずにリアクションも薄い周囲に昔は”サービス精神が足りない”なんて思っていましたが、今は徐々に”あぁ、されたい『サービス』のベクトルが異なっていたんだ”と気づいて。

私は論理や美、刺激は好きなのですが、怒りや羞恥心等の心理的負荷は耐えられなくて。或いは慈しみや尊敬すらこそばゆく。“人間味”と呼ばれるものが苦手なのかもしれないと近頃思います。逆に多くの人はそれを大きく好む印象で。こうした要素が弱い人間は薄っぺらいと認識されるかもと。

”面白いこと”は余剰で”人間味のある行為”があるかどうかでエリミネートされる。そこの認識の齟齬が問題で、心のタフさと気配りは養うべき課題。その上で”そうか、感性が異なる人間と無理に一致させることもないじゃないか”とも想って。

『他者について分かるところは分かるし分からないところは分からない、けれどそれぞれのテリトリーを認めあって、共にそれぞれに生きれればいい』。本質的に必要なのは空間であり、認知の多様性を認めるから世界は豊穣。

理解しえぬ領域だからと言って価値がないわけでなく、寧ろ可能性の宝庫。異なる見識もまた玉である。また敬意の示し方は様々であって、熱心に喋ることより余裕を持って訊くことが有効な場面も多い。そして他者は他者。

第三者に伝わりやすいように努めたらそこからは”伝わった分の奇跡”に認識を向け、そして自分も他者に無理に付き合わず”理解できるという驕り”から身を離すことが肝要、期待値は甘え、出来得る限り零に近づける、それがWebで10余年I/Oをしてきて得た最新の知見でした。

by wavesll | 2018-01-29 04:37 | 私信 | Trackback | Comments(0)

距離での格闘

Fleet Foxes - Crack Up (Full Album)


ネパールから帰ると郵便受けに年賀状が届いていて。

「今度飲みましょう」とメッセージが書かれた家族写真のハガキをみながら”また飲もう 言われて飲んだ ためし無し”と一句発して。けれどすぐに”然言う友は 宝なりけり”と続けて。

実際に会うわけではないけれども、”会いたいと想える”、そんな仲が”旧友”ということかもしれません。現在進行形とは異なるけれども、それも玉だと。

昨年末幼年期の終わりという文章を書いて。あぁいうものを書いてしまうこと自体が私が未だにコミュニケーションに大きく絡まっているという証で。近づきすぎると依存や諍いが発生してしまう恐れがあって。無用の衝突を避ける”適切な距離”を探して未だFootworkしている次第です。

例えば、前述の年賀状だとか、年1の忘年会だとか、あぁいうものにはどうにも形骸化した縁を想ってしまって。相手に興味関心があれば普段からそれなりにやり取りをするだろうと。

けれど、別の道を歩む中では普段からコミュニケーションを持つのはコストがかかりすぎてしまうかもしれないなとも現実的に共感出来ます。絶対的に時間がないし。

近況を知らせるにしても普通の人は”聴かれてないことをわざわざ伝える”ことはしないし、そういった意味で儀礼が良い切っ掛けと機能しているのだと理解できます。

渡世の中、私は未だ社会性の問題を解けていないと感じます。”相手の土俵にどこまで付き合うか”とか。或いは”先の先・後の先”とかの問題になって来るのかも。

"自分が話したいこと"があったとして”相手に聴きたいこと”があるか、それを知るためにも”相手が話したいこと”はあるか。冒頭の和歌に繋がってくる感じ。

そんなわけで明日からもまたぎこちなく”距離”と格闘していくことでしょう。

by wavesll | 2018-01-18 21:08 | 私信 | Trackback | Comments(0)

あの早朝から23年。阪神大震災の震災文学から次代への眼差しを想う

満月の夕/ソウル・フラワー・ユニオン

23年前のことは実はあまり覚えていない。当時10歳。小学生の頃の記憶はぼんやりしている。寧ろ後のTV映像で高速道路とかが崩れたのをみて記憶が増大していったのが大きい。

幼心の体感ではあの時「頑張ろう、神戸」と首都圏から切り離されていたのを覚えている。その印象からか311時の「ニッポン」「絆」推しには「東京が揺れたら日本全体か」と思ったものだった。

無論、東日本の多くの場所を津波が襲い、いまも福島第一が現在も続いているという意味で日本が抱える大きな出来事だったのは確かだが、阪神大震災の時の首都圏の空気と311の時の報道を思ったとき、「東京は自己中心的なのではないか」との考えが去来したのは確かだった。

されど、シャルリーエブドの時シリアやリビアとかで「何故私たちのことは騒ぎ悲しまないのか」という声が上がったのもそうだが、身近なものを重要視してしまう本性が人間にはある。その上で“どう身近にするか”という意味で地場メディアの力が重要だろう。東京にはキー局があった。それはパワーの泉でもあった。

ネパールでもBBCやCNNはみれた。アル・ジャジーラもそうだが、全球的な報道・情報発信のプラットホームの存在は大きい。

正月に放送されたNHKBSのクマリの番組ではカトマンズの被災が大きく感ぜられた。ただ、実際に行ってみると、確かに爪痕は未だに残ってはいたが、人々の生活の活気と、思いのほか残る歴史遺産が印象深かった。

「何を伝達するか」の選別は、「力」そのものでもある。

あの時の震災文学として『いいひと』が“建物は再建されても、そこでの人の心や暮らしはまだ再建も癒しもされていないのですよ”と描いていて。東北を振り返れば今なお仮設住宅で暮らす人がいる。この23年、この7年、復興の馬力が落ちてきているのでは、と想ってしまう。建物ができても心の復興はその先なのに。

総体的に縮小のフェーズに今のこの国があるとして、新しい容への切り替えが必要として、そんな時に”ドメスティックの外”と小さな物語を連携させるような、そんな情報発信の土台を日本から出せないか。

一人一人の”現場の声”から発して一般意志の形成を行う途上に我々はいるのかもしれない。そのプラットフォームを創れたら、次代の一角獣となり、この国の50年を支えるのではないか。その為には”他者”と”自己”への客観的なまなざしがいるのではないか。あの満月の夜を描写したような、心を打つのは真摯なまなざしであるように23年目に想。

by wavesll | 2018-01-17 22:40 | 私信 | Trackback | Comments(0)

Blogの対価

Webに文章を書くことを表現活動というのはかなり烏滸がましいですが、一種のアウトプット・サーヴィスを行っているものとすれば、ではその”対価”は何だろう?とも思います。

実は私の中でそれは答えが出ていて、”藝仲間”がいること”共に情報を送ってくれること”が対価かなと。

アナクロなWebの住民としてはROM(Read Only Member)には何処か釈然としない思いもあって。鴎庵は特に縛りはないですが、Twitterのフォローは呟きもリアクションもない方は外したりしてます。趣味のアウトプットだからこそ拘れるものだと思うので。

面白い藝を提供してくれる人たちと繋がれるのは嬉しくて。昔は情報発信しない人にけしかけたりとかアレな行為をしていましたが、今は反響営業が主で楽しくやれています。

ただ、こうして好きなことをWebで発信できていると、飲みとか年賀状かの付き合いごとに対する意欲が落ちるところはありますねw

相手からすると「Webで遊ぶのはともかくちゃんと行事には付き合えよ」とか「ネットでなく現実を生きろよ」いう感じかもしれませんが、コミュ欲が情報通信で満たされていると「Webで非同期でコミュニケーションできればプレゼン的に後にも残るし一番よくないか?」とか。「飲みの誘いの前に面白い噺があるかWebで試聴させろよ」とかw不遜だw社会性が無いw

まぁ、忘年会でだけ会うのもナンセンスというか、今の時代コミュニケーションしたいことがあったらWebですぐやりとりできますし、そういった非同期の対話が呼び水となって会った方が形骸化してないかなと。実際、やりとりすると必ず発見がある友には感謝がたえません。

恋人や家族がいて、仕事もあって。中々コミュニケーションにリソースを割けない。それなら年一で一気にやりたいというのも、わからんではないです。だからWebのアウトプットは強いれるものではないと思います。

ただ自分は、未だに何となく普段から場を共有する関係が好きで、ある程度密度のあるコミュニケーションをしたい。

とはいえ余りに濃いコミュニケーションは少数相手では負荷になりますから。直接話すパートナーと言える人達がいれば、したい話をしてもどっかで受け止めてくれる人がいる位の大海にボトルメールが投げられている今の環境はありがたく、”みなに好かれなくてもいい”自由を愉しんでいます。目下の処Twitter社が倒産しなければいいなというのが願いです(苦笑

今思ったのは私が飲み会よりSNSを好むのは、酒や飯を肴にするより、音楽や画、映画や文章など文化的肴をアテに話がしたいというのがより精確な処かもしれません。普段の暮らしの面白話もWebに書いちゃう人間なのでwそういった意味でPCやオーディオでネタを引き出せる家飲みなんかは好きですね。

人のプライヴェートへの関心が薄い、人との折衝を避けるという意味で、"本当の人生を生きてない文化中毒者”という指摘は考慮すべきだとは想います。

これは今に始まったことではなく学生の頃も「このサークル飲みの金でCDや映画を払える…」とかアレなこと想ってた人間でしたから、中々に筋金入りで…。それでも月一で普段合わない人や新しい人との飲みは入れ、新しい血を入れるよう努めている感じです。

cf.
◆人付き合いとWeb同期 文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値

◆何でも公開したいとみなが思っているとは限らないという当たり前の事実について
by wavesll | 2017-09-25 21:13 | 私信 | Trackback | Comments(0)

藝と支え Ametsub / Mbira Lights 1 EPに寄せて

Ametsub - Mbr / Flurries (Easy)


ametsub - mbr/mbirambient


Ametsub - Ajisai


Ametsubが音楽レーベルflauに空き巣に入ったことで逮捕された件を知り、何ともいえない気持ちになって丑三時までLogを読んでいました。

音楽は魔法を産むけれど、それを支える会社は人間が営む組織で、魔法ではなく労働と資金で動きます。その経営を危うくする程の損害を与えたのは犯罪です。

それでも、Ametsubくらい名の知れた人が窃盗をしなければならないほど貧すれば鈍す、というシビアな事象があったのではないかと想わざるを得ません。

私自身でいえばAmetsubは一度生でライヴをみたことがあり、またレコ屋やWebサイトで当然良く名前を観ていました。

今までは音楽はそこまでは嵌っていなかったのですが、今回の騒動から検索して知った今夏リリースの『Mbira Lights 1 EP』が特筆すべき音楽で、尚更茫然としました。

霊性を帯びて深く響く金属製の楽器の音。そこに珠のように転がるンビラ?の音。山霧の様な通底音と、心地よく刻まれ放たれるビート。素晴らしい。こんな音を創れる人がよりにもよって窃盗とは…。

この事件は、金だけの問題ではないだろうけれども、やはり他者と他者との軋轢は金で解決できる部分は大きいだろうし、YoutubeやSpotifyでフリーライドしている"客"ともいえない者としては「残念だ」とか、とてもじゃないけど言えないというか。それを引き起こしたのは金を払わなかったお前にも一因があるだろうと自問してしまいます。

金を出すのは藝への一番のサポートで。特に今の時代、音源や活字の様な情報に金を出すのはその人の活動への投資といった色合いも大きく感じます。

ただ”アーティストを支える”というのは、大してあるわけではない可処分所得の中で音楽やアート、旅をやっている自分には重荷な所もあって。やはり藝そのものへの対価として藝を認めた人に出来る限り何か貢献したいし、”楽しんでおいて評価するだけ”でフリーライドしてるのは非情な行為だとは自認しておきたい。

中々システム作りが難しいのかもしれないけれど、数百円単位で軽く投げ銭できる仕組みができると一番いいなぁと。Bandcampなんかは結構理想に近い感覚はあります。国内市場で成り立たないならば全球的に広く浅くが理想だなと。いいYoutube動画やサンクラ音源には個々に100円以上は払いたいです。

鋭利な音楽を好む人間には演奏側にも聴取側にも一定の割合で人格破綻者がいて。灰域の美から排除されず、Ametsub氏がカムバックすることを外野として望むばかりです。

cf.
フィクションと現実の『真情と芝居』.

by wavesll | 2017-09-25 07:57 | 私信 | Trackback | Comments(0)

正論を吐いてるつもりがフォースの暗黒面(憎しみ・批難・不満)に堕さないようにする心的スタンス

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

 汝《なんじ》は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣《あくらつ》、古狸《ふるだぬき》性、妖婆《ようば》性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗《ひやあせ》、冷汗」
 と言って笑っただけでした。

 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

 そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。

ー太宰治『人間失格』

土用の丑の日は、もうダサイことにしようぜ…
人でなしになりきれないニンゲンの意見

と鰻への想いを連呼しているのですが、こんなに土用の丑の日DISをしている人間がいても身近な人間にも鰻を食べた者達が散見されて、嫌な気持ちに苛まれます。

とは言え、俯瞰すればグリーンピースなんかには自分も醒めた視線を向けているし、こうした時に相手を動かしたい側が声高に叫ぶのは合理的な策ではないと想います。

いっくら口酸っぱく言った所で肉親すら動かせないんじゃ…と想いますが、宮崎駿ですら作品の想いが伝わらないと悩み、対象年齢をポニョまで下げていったという逸話を引き合いに、「ロリならぬ次世代にしか未来はないのかもしれぬ」と嗤った方がいいかもなんて想ったり。

まぁ、この状況下で鰻を食べることを煽るメディアや食べちゃう人間は愚鈍というか、無知蒙昧というか、世間や「普通」ならば問題ないという自らの頭で考える知能のない人間だなとは思いますが、と同時に「僕の思い通りにならないなんて嫌だい嫌だい」なんて愚図るのも無様で、「他人は他人、己は己」と峻別するアドラー心理学的な割りきりが必要なのだと想います。他人は所詮他人なんだから。

「社会正義」を成そうとして、寧ろ毒にまみれて嫌われる人を散見します。

「毒を吐く」ヒトは、外部から嫌な気持ちにさせられて体内で生成された「毒」を吐いていて、当人としては致し方のない防御反応なのかもしれません。

しかし毒塗れの人は嫌われてしまう。この非共感メカニズムはアダムスミスも『道徳感情論』に描いています。

黒いヘドロ、フォースの暗黒面に囚われないためには、あくまで"自分は自分が欲することをしている"という観点に立脚するといいと想います。

不愉快なことを「俺はそれは不愉快だ」というのはよくても、そこに「正義」の御旗を掲げると途端に心は不安定になります。「当たり前・普通」が為されないと、黒いヘドロが生成されてしまう。

あくまで「己の欲望」と捉えた方が発散的で、心的バランスを崩さないように想います。それは優しい幻想のない酷な話だけれど、酷(Cool)で実際的なスタンスだと、私は思います。(と書くことで発散する方策w 鰻の資源消費をサステイナブルにしようとする者たちにフォースのご加護のあらんことを。

John Williams Conducts The Main Theme From Star Wars

by wavesll | 2017-07-26 08:05 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

人でなしになりきれないニンゲンの意見

Linkin Park - The Messenger


土用の丑の日DISがまるで社会正義を嘯くいい子ちゃんみたいになっていますが、逆で。

鰻大好きだから持続可能に食いたく、ワシントン条約に引っかかるようになって食えなくなって欲しくないから価格メカニズムや法規制でウナギを守りたい。根底に欲望のない主張は信頼ならないと私は想います。

例えば私は旅行が好きで。特に海外旅行には胸が躍ります。しかし地球温暖化という意味では大陸間を航空機で飛ぶことは排出ガスから大変に悪い行為で。

だからエコロジストを自認する人間が世界を飛び回ってる、なんてのはとんでもない自己矛盾だと想うのですが、私自身も自分の欲望を優先し旅してしまいます。

また、鰻を買わないという行動が消費者として最も大きな意思表示だ、なんて思ったりするのですが、ブラック企業、例えばユニクロではなるだけ買わないようにしていても、大手コンビニなんかは気にせずに利用してしまったり。Amazonもマケプレなんかは利用してしまっています。レインズ系飲食店やアリさんマークの引越社は絶対使わないけど。

陰鬱な哲学者は"全世界で悲惨な暮らしをしている人がいるのに幸福を享受するのは罪だ"というけれど、それは"自然"から求められるところではない、なんてアダム・スミスの論がありますが、他人の気持ちを踏みにじった時、悪く思う気もしながら、どこか権力の快楽を感じたりもするゴミ具合。自身の行為を全部振り返って、自分のことを善人だ、とか、真っ当な人間だなんてとてもじゃないけれど言えません。

キリスト教には原罪なんて言葉がありますが、罪を犯していない人間はいません。

「自分は真っ当な人間だ」なんて言いながら土用の丑の日に嬉々として鰻を食っていたり、意識高い系を自認するのに飛行機を使いまくってる人間には「お前クソ野郎じゃねえか、勘違いするな」と言いたくなります。

かといって自分は悪くないって思ってるヒトの方が悪なのか、自分は悪いよと開き直ってるヒトの方が悪なのか。まぁ両方悪です。

個人的には自分は悪くないと思ってるやつの方が気分悪いけれど、「自分は悪だから、悪の道を突き詰めたっていいんだ、俺は糞野郎なんだから」とやられたらたまらない。

そう考えると、日本人よりも海外の方が犯罪が多いのは、海外は「自分はクズだ(から犯罪して当然だ)」という人間が多くて、日本人の方が(それも勘違いなのだけれど)「自分は真っ当な人間だ」とプライドを持っている人間が多いからかも、なんて思ったりします。

さて、色々とこじらせているアスペ気味の自分は、自分のことを無批判に"真っ当だ"なんて思えません。それどころか、突き詰めて言えば、この世の人間は全員あるく糞袋みたいなものだとすら思ったりします。

それでも。自分は汚点があると認識したうえで、出来る範囲は善き人間であろうとしたい。100%の善人になれなければ100%の悪人になる、なんて0-100の思考ではなくて、勇気ある灰色の姿勢をゆければ、なんて思います。

さて、鰻。

欲望を抑えるのではなく、サステイナブルに消費できる資源を拡大していくことこそがベストな道で。20世紀を乗り越えていくというのは、そういうことなんじゃないかなと想います。

このままではワシントン条約で規制され一気に鰻が食べれなくなるハードランディングになる未来がみえていますし、水産庁が動かないのも大きな要因ですが、お上に任せる豚になるだけでなく、消費者としても自律的に不買行動で示すのが必要だと私は思います。

今はWebを探索すれば代替食品はかなり見つかるのですが、正直代替では状況を変えるのは難しい気がします。"鰻系"で"鰻を越える"のが生まれるのがゲームが決定的に変わる時だと。

さらなる快楽による解決策を模索したくて。たとえば酒は私も大好きで最近金麦が案外行けるじゃないかと思う安舌人間なのですが、ビールを止めるには禁欲ではなくて別の快楽を用意するのが手っ取り早いと想います。

例えば数日飲まないで本を読んだりオーディオで音楽を聴いたときの脳内麻薬を味わったとき「飲まないのも悪くねえな」と想ったことがあります。

蛇の道は蛇。欲望を絶つことで寧ろ快楽が増えるような有機体の神秘を、どっか活かせないかなぁなんて、悟っても善人でもないけれど人でなしにもなり切れない、でも『何も考えずいい塩梅』になれないくらいは色々こじらせてるニンゲンとしては想うのです。まずは土用の丑の日の旬でない鰻は完全スルーから。
by wavesll | 2017-07-25 22:20 | 小噺 | Trackback | Comments(0)