タグ:本 ( 77 ) タグの人気記事

ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』ーナショナリズムの産出、exクレオール世界の認知

c0002171_22064756.jpg
ベネディクト・アンダーソンによる『定本 想像の共同体』を読みました。

ナショナリズムを生む"国民意識"というImagined Communitiesが歴史上どのように生まれ得たか。氏はこの起源を近代において宗教共同体と王国というシステムが崩壊し、そこに前後して出版技術の革新による言語・フォークロアの元で欧州に於いて”国民意識”が生まれたとします。

そこから世界各地に国民意識、ナショナリズムは広がっていくのですが、本書を読んでいて面白いと感じたのは南米アメリカにおけるクレオールのナショナリズム勃興の話や東南アジアにおける植民地下での国民意識の創成が語られていたこと。いわゆる受験世界史だと南米や東南アジアの歴史はなかなか学ぶことが無かったので、新鮮に感じました。その点でアフリカにおけるナショナリズムの話も読んでみたかった気がします。

クレオール、つまり「植民地生まれ」という存在が如何に行政的な出世の巡礼が制限されていたか、それは即ち生まれによって人間が差別されるということで、現代においても人種差別や移民問題など、極めて重要な意味を持つ歴史的ファクトだと感じました。

王室による公定ナショナリズムと帝国主義、そして革命のモジュール化。数世紀に及ぶ全球的な論考を浴びることで自分自身も細石なスケールでなく巖のスケールに器が拡がるような感覚が生まれて。ここら辺の歴史絵巻は映画『山猫』におけるガリバルディと貴族の落日をみた気持ちにも通じるものがありました。

著者の縦横無尽な博覧強記ぶりには本当に感銘を受けて。例えば『ヴェトナム(越南)』という国名は当初『ナムヴェト(南越)』にしようとしていたところ中華から横やりが入って決まったものだとか、思わず”ほう…”と零れるような話が盛りだくさんで、その夥しい知見を編み上げる手腕にほれぼれとする書物でした。

スヴァールバル諸島のロングイェールビーンのような労働ビザなしで働けるフリーゾーンもある一方で、軽い處ではW杯などもそうだし、ここ数年のグローバル化へのバックラッシュもそうですが、今でも「国家」という意識は大きなプレゼンスを以て鮮烈に存在しています。されどそれは(歴史の中で強化されてきた)想像の存在であるという論考に目を瞠って。

本書で取り扱わなかった範囲としてアフリカの他中東もそうだと想います。本書をさらに拡充させるそれらの地域の研究もその後為されているのでしょう。日本に於いて海外の報道はただでさえ少なくて閉口ですが、普段注目されない土地へ光を当てる巖のような書籍へさらに手を伸ばしていきたい、掘り下げていきたい。そんな開拓心に駆られる読書となりました。

by wavesll | 2018-07-21 00:02 | 書評 | Trackback | Comments(0)

SNSの”正しい息苦しさ”に岡田尊司『過敏で傷つきやすい人たち』を読む ー鈍感と過敏は同居し、愛着障害による幸福感の欠如は零百思考をしないことと安全基地をつくることから改善する

c0002171_17302443.jpg
ふかわりょうの「ハイレゾ社会に御用心」というコラムを読んで”ハイレゾに関する基礎知識では間違っているけれど、Twitterがどんどん些細な粗さも許されなくなってきているなぁ”と想う昨今。

個人的には「少しのズレも許せなくなっちゃった」という意味で『LOVE PHANTOM症候群』と名付けているこの現象を考える上で岡田尊司『過敏で傷つきやすい人たち』を読んでみました。

やー!この本は面白い!同著者の『対人距離がわからない』はあまりガツンと来なかったのですが、『過敏で傷つきやすい人たち』の内容は上のような問題意識を持っていたからか、かなりするっと入ってくるものでした。

本書の中で語られるのは過敏性を持っている人は”ネガティヴな認識をしがちな人”よりも生きづらさを感じやすい事。そして遺伝などの生得的要因と強い結びつきがある神経学的過敏性よりも、養育要因や社会的体験、愛着対象との関係が強く影響する心理社会的過敏性が不味い場合の方が生きづらさや幸福度に強い相関を示すという事。

面白いなと想ったのは過敏な人は同時に鈍感な一面(低登録)も持っているという事。それ故ワガママだと認識されたり、人から指摘されることも多く、ネガティヴな認識を持ちやすい傾向がある、と。そしてネガティヴな認知以上に過敏さと強い相関があるのが、全部良いか全部悪いかのどちらかになりやすい両極端な認知(二分法認知)の傾向でした。

過敏性の原因には発達障害や愛着障害も成り得て、不安定な愛着は「他人には何も期待せず関わりを断つ回避型」か「大騒ぎして愛情や関心を得ようとする不安型」をもたらします。そして愛着不安が強い人は幸福度が低くなる傾向がかなり強いそうです。

愛着は単なる心理的現象ではなく自律神経系の働きに密接に結びつく生物的・生理的なもので、愛着が安定した人はストレス耐性が強いのに対し、不安型愛着の人はストレスに対して情緒的反応が過剰になりやすく、家族やパートナーにも愛憎の両方を巻き起こしやすく、ストレスも長引きやすい、と。

一方回避型愛着スタイルの人は一見クールに見えながら、実は気づかないふりをしているだけでストレスホルモンは上昇しており、直接自分がストレス源と関わる立場になるとポッキリ折れてしまうことがあるそうです。

愛着障害はもともとは親から虐待されたりネグレクトされた幼児に使う言葉でしたが、実際には大人になっても引き摺っている人が多く、その人たちを「未解決型愛着スタイル」と言うそうです。

ではどうすればいいのか。本書は過敏な人の適応戦略として

1. 刺激量を減らす
外からの刺激が閾値を超えないようセーブ。頭に出てくる雑念は懸案事項を書き留めることで外部化し抑える。またこのタイプの人と話す人は喋り倒さず沈黙も設ける。

2. 刺激を予測の付くものにする
生活や活動をルーティン化し、予測ができるようになると刺激の苦痛は半減。このタイプの人と付き合う人はサプライズは避ける。

3. 安全限界を超えない
刺激が閾値を超えそうになって、イライラや疲労感、集中力の低下などの兆候を見つけたら限界を超える前に止める。休みの日にぼーっとすることもメンテナンスとして大切。

4. 薬も効果的

5. 不快な刺激やストレス源の人間などを回避する

6. 感覚探究が高く神経システムが安定するために必要な刺激量が大きい人は旅行や芸術、スポーツなども大切に

7. 低登録な人は気が回らなかったり切り替わりが悪いと言われる人もいるが、寧ろ運鈍根は信用を得ることも。また過敏さと鈍感さが同居している人の過集中は天才的な閃きを生むことも。

8. 低登録の人は大きな刺激でないと感応できないので、スイッチが入りやすいように刺激強め、行動や質問と組み合わせてメッセージを送る

等が挙げられていました。(過敏な人たちは多様であり、これら等から自分に合うメソッドを自分で選び出すことが大事。)

本書はさらに進んで、過敏性を克服するために

1. 肯定的認知エクササイズで幸福と社会適応を高める

・感謝するエクササイズで、得ることが出来ている快楽に馴れっこにならないようにする
・「奇跡が起きて何でもできる力を得たとしたら、あなたはどうなりたいですか」という希望のエクササイズをする
・親切にするエクササイズはオキシトシンを分泌させる

2. 二分法的認知の克服エクササイズ

・良いところ探しのエクササイズ
・許しのエクササイズ
・第三者の視点を持つメタ認知のエクササイズ
・自分が相手と入れ替わるエクササイズ

・マインドフルネスの三分間呼吸法
背を伸ばし座って目を閉じ、1分目は自分の心の状態を感じ、2分目は呼吸を意識し、3分目は足先から膝、腿、尻、腹、背中、腕、肩、首、顔、頭の感覚に目を向けボディ・スキャニング。

・ひたすらポジティヴであればいいのではなく批判的な目も持たないと危険

・行動目標は小さなゴールの成功体験を積み重ねる
・主体的な関与が苦痛を減らす

3. 安全基地を強化する

・一日中ぴったりとくっついていられ、安全で、心地よい存在で、自分の反応に応えてくれる存在=安全基地をつくる

・ケアが必要な人の問題を解決する時は、その人をケアする人の大変さを受け止めたり本人の状況の理解を援けたりすることが効果的。

・愛着は相互のものであり、不快な相手は逆に自分のことを不快に感じていることも。相手を責める前に自分を客観視することが肝要。

・相手を全否定することは人間関係を破壊する。つい気を許して口にする否定的な口癖も積み重なれば相手を安全基地ではなくさせてしまう。

・人が健康に生きていくには依存と自立両方が必要

・安全基地になれない人からは、心理的、物理的に距離を取る

・恋愛や家庭でなく、仕事や趣味が安全基地になることも

という過敏性の本の愛着障害の克服に安全基地が大事だということを記し本書は終わるのですが、ここまで読んで冒頭のSNSの「少しのズレも許せない症候群」に関して、寧ろSNSを安全基地としている人が多いことの裏返しなのかもしれない、なんて思いました。

明け方書いたエントリで「左の人は無自覚な右の人を受け止め諭す度量がないと現実は変わらない」と書きましたが、寧ろSNSでのエコーチェンバーが安全基地としての機能を果たしているとすれば、無理に意見を異にする人と交わろうとするよりもクラスタで固まることが精神を安寧させるのではと。そういった意味でブロックやミュートを駆使するのは現実的改善かもしれませんね。

その上で、他者、それも「当たり前」が異なる人と語り合おうとする人は、クソリプの応酬だと拒絶されぬ工夫、例えば「Yes~but~」法などを使うことが、鬱憤晴らしに終わらない実効力を持つのではないかと改めて記してこの記事を終わります。

by wavesll | 2018-06-19 19:15 | 書評 | Trackback | Comments(0)

岡田 尊司 著『対人距離がわからない ─どうしてあの人はうまくいくのか?』読書感想メモ

c0002171_04383930.jpg
コミュニケーション指南書として期待していた柔らかい感じではなく、教科書的な堅めにコミュニケーションタイプによって人々を分類して、それごとの特質を分析・羅列する本でした。

人と親密になりやすい演技性パーソナリティーは幸福度が高いが、長い付き合いの中では真面目な強迫性パーソナリティ―の方が人から重要視されるとの話。またシゾイドや回避性パーソナリティー等のヒトとの関わりから遠のくタイプは幸福度が低いとのこと。

多くのコミュニケーション不全が自分に重なりなりつつもほとんどの話は深く刺さることはありませんでしたが、言語性IQ、動作性IQの他に処理速度という軸が社会の中でのロールを決めるという話と、「自分の悲しみやつらさを乗り越え、相手の視点など自分を超えた視点で振り返り、それを許そうとする」という「メンタライゼーション」という技術が人生を前向きに安定させるという話は興味深いものでした。

演技性パーソナリティーや反社会的特性のある人間に対しては拒否をきちんと主張しつつ、自分自身はそういうライフハックをすることを現実を上手く廻すために薦めながらも、最後に他者の心を打つのは真っ当な誠実さだと読めて、綺麗な噺に落ち着いたと感じました。

この著者はみてみると似たようなテーマで本を量産していて、ちょっと看板や視点を架け替えてるだけだと感じてもうこれ以上金を払うことはしないだろうけれど、一人の人間のリソースではそんなに多種多様に深く物事を書き記せるものでもないから、食っていくためには少しインスタントになっても新作を出し続ける必要があるのだろうなと。

お薦め度は3/10。特に「コミュニケーションのコツが知りたい」だとタイトルを観て期待した人にはあまり参考にはならない本だと想います。


by wavesll | 2018-06-13 05:01 | 書評 | Trackback | Comments(0)

ケリー・マクゴニガル監修『図解でわかるスタンフォードの自分を変える教室』で呑む量を梳く。

c0002171_04593837.jpg
元TOKIOの山口メンバーのアルコール依存症の話を聴いたとき「自分も”今日は何もなかったな”なんて日についつい酒を飲むことで脳を疲れさせ何かした気になっちゃうことあるな」と少し怖くなり、酒量を減らそうと試みました。

取敢えず飲むの抑えようと決めた週は平日5日飲まず、その後は大体休肝日を週3くらいやっていて。特に必要のない時は飲まない感じにしていきたいです。

そんな中で一助になってくれたのが『図解でわかるスタンフォードの自分を変える教室』
脳科学、心理学から意志力を身体的心的に鍛える方策が書いてあって。サクッと読めました。

中でも心に残ったのは「よいことをすると悪いことがしたくなる」の章。この心の働きに「モラル・ライセンシング」という名称があるとは。

自分を甘やかさないためには「今日と同じ行動を明日もとる」と決意することで”今日まではイイや・明日からやろう”というのに意思の力で乗り越えるというのも面白いなと。

意志力を充電するためには睡眠をとる、血糖値をあげる、自然を浴びることがいいというのも具体的で。これは試してないけれどマインドフルネスのHow toも書いてありました。

君子危うきに近寄らずというか、金持ちはコンビニに寄らないと聴きますし、ドーパミンの誘惑をそもそも起こさない行動パターンを選ぶのはいいですね。逆にストレスも意志力への大敵で、そういう人物や事柄からも身を離すのが普通に心身に良いのだなと。

また敢えて誘惑に負けて”欲望に従ったけれど想ったほど歓びはなかった”という悟りを得たり、或いは欲望のニンジンを使って意義あることへのモチベーションにするというのも当たり前の言説だけれど、その当たり前の積み重ねが善い習慣なのだと。例え欲望に一時負けてしまっても”もうどうにでもなれ”でなく、レジリエンスが大切なのだと。

レジリエンスでいうと”やらなきゃならないことの動き出し”が私は遅い癖に小さな失敗でも零百思考をしてしまって。それでも小さく細かくしてとっかかるとスッとやれるもので、反復とレジリエンスはハイ・スタンダードを造れるなと。

一方”やらないようにすること”では個人的には酒が一番飲みたくなるのは飲んだ翌日の夜で。そこを乗り越えると結構いい感じに楽に過ごせる感覚があります。欲望をなくしすぎると何のために生きてるのか分からないから、さらに高い欲望に誘導できるように自分をハンドリングしていけたらと想います。

酒以外の所でも最近スマホから2chビュウワーを削除したりPCからブックマークを削除したりして。環境を整備すること、ちょっとした段差をつけることで行動の変化に繋げられるんだなぁという実感があります。

”生産性”なんて言葉はどうにもアレだと想ってしまう人間でゅ ゑ 、ζ、 ゎこそ善きかななんて想ったりしてしまいますが、もうあまり箴言も受けない年ですし自分の躾は自分でしていきたいなーと。取り合えず腹も凹むし懐にも優しいし減呑は無理のないペースで続けていきたいです。

by wavesll | 2018-05-28 05:29 | 書評 | Trackback | Comments(0)

『エジプト神話集成』杉 勇 翻訳 , 屋形 禎亮 翻訳 人の理解を超越した神の争いと分かり過ぎる人の世の教訓文学

c0002171_20152425.jpg
『エジプト神話集成』杉 勇 翻訳 , 屋形 禎亮 翻訳(筑摩書房)を読みました。

古代エジプトは紀元前3000年頃に統一王朝が誕生したと言われる。ファラオ(王)たちが永遠の命を求め、神々への賛辞を謳う一方で、庶民のある者は労働の苦労や恋心を歌にし、またある者は官吏になることを目指してさまざまな教訓を学んだ。ピラミッドに刻まれた碑文やパピルスは、太古の言葉を今に伝える重要な資料である。本書は「ホルスとセトの争い」、「メンフィスの神学」など有名な神話に加え、「ピラミッド・テキスト」、神々への讃歌、処世訓などを原典から直接訳出して収録。後世の神話や文学にも絶大な影響を及ぼした作品がここに蘇る。

という本書。神にも比される存在であるファラオ、そして領主の絶対権力と市井の人々の苦難、そして人智を超えた神の世界。生き生きとかの地の伝説を今に伝えてくれます。

特に強い印象を受けたのが『ホルスとセトの争い』というイシスの子であるホルスとオシリスの弟であるセトの争い。これが本当に理解不能というか、双方男なのにお互いに精液を相手に注いで孕まそうとしたり、変身・策謀なんでもありの神々の闘いは安能務そして藤崎竜による『封神演義』を見るかのような幻想バトルが展開されていました。

また日本の神話もそうですが、エジプト神話も「人間界の王」の上に「神界の王」が居り、それとは別にさらに上の世代に「国産みの神々」がいて。つまり王権を握った一族の守護神が世界をつくった訳ではない。そこに素朴な謙虚さを感じたり、「世界の始まり」はやはり不可知の神秘なのだなと想いました。

そして時代は下って、人の世。古代エジプト文学の最も特徴的なものに”教訓文学”というものがあるというのを今回初めて知って。例えば『宰相プタハヘテプの教訓』はほぼ完全な形で残されている最古の教訓文学で、引退する宰相プタハヘテプが彼が継がせようとしている息子に対して伝達する教訓となっています。

これはつまるところ処世術なのですが、この中で幾度も伝えられていることが「余計なことは喋らず、沈黙が身を助ける」ということで。BlogやらTwitterやらやっている身としてはなんとも耳が痛いのですが、確かに時に言葉を発するよりも黙ることで相手の言葉を引き出した方が上手く物事が行くことってありますよね。

この教訓文学では「己の知識を誇るな」とか「どんな相手でも礼を以て接せよ」などが書かれていて。これはつまり”傾聴せよ”ということに繋がっているように思います。『雄弁な農夫の物語』もそうですが、古代エジプトにはべしゃりの才が迸った人が多かったのかもしれません。

必要とされる時に言葉を発する。激情に流されない。SNSで色々なものが漏洩してしまっている今こそ古代エジプトの智に耳を傾けるべきかもしれません。

聖蛇と鰐が戯れるナイルの物語は神の美をもって古の空気を伝えてくれます。注訳がとにかく多く、そこは初読では飛ばしながら読まざるを得なかったのですが、注に頼らずとも脳内にヴィジョンが浮かぶようになったら本当に面白くなっていくタイプの本かも。現在、政情が不安定な地ではありますがいつか彼の地を訪れ、砂漠の風、ナイルの熱を浴びてみたくなる、そんな興味を喚起される書物でした。

by wavesll | 2018-04-02 20:42 | 書評 | Trackback | Comments(0)

『BORN TO RUN 走るために生まれた ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族”』ウルトラマラソンにかけることへの愛

c0002171_23070771.jpg
『BORN TO RUN 走るために生まれた ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族”』を一気呵成に読んでしまいました。超弩級のスゴ本。ベストセラーになるには理由がある。これ読んでブチ上がらない人類はいないって出来。

物語は著者がランニングで足を痛め、医師達から「ランニングは足に悪いからやめなさい」と言われ続け、それでも走りたいと調べメキシコ辺境に棲む”走る民族、ララムリ”が「80才でも数十キロ走る」と聴き、彼らを探し当てる旅に出る処から始まります。

そこで出会った正体不明の男、カバーヨ・ブランコが話すララムリが参加したアメリカの苛酷を極めるウルトラマラソン大会での激烈なるレース!もうほんとここら辺からどんどん話がドライヴしていって。

ナイキを始めとするランニングシューズメーカーへの”裸足派”からの”高機能・高価格よりもローコストのシューズ方が足を痛めない”という批判や持久力走狩りでは女も活躍したという長距離を走ることへの人間の進化生物学的な話、そしてクライマックスは世界最強のウルトラマラソンランナー達VSララムリの精鋭によるウルトラマラソン・レース。矢継ぎ早に繰り出される"RUN"のストーリーがあまりに面白すぎてハイスピードで読破に駆られました。

この本がきっかけで一時期五本指シューズが流行ったり、ララムリの昼夜ずっと走るララジパリという祭りが幾つかのTV番組で取り上げられたりしてこの本へ”文化的な側面での楽しみが大きな読書体験になるかな”と想っていたのですが、本書の眼目は”身体に負荷がかからない太古からの理想のランニングフォーム”と”競走への熱そして愛”だと。特にレッドヴィルの描写は凄まじく面白い。

長距離走は究めて平等なスポーツで、短距離走と比べて男女の差が小さいばかりかウルトラマラソンは女性の方が完走率が高かったり、19才と64才が同じようなタイムで走れたりもするという意外な事実が在ったり、ララムリの走りの秘訣は「楽に、軽く、スムーズに走ることで速くなる」ということは様々なことへの示唆を与えて呉れる気がしました。

また登場人物も曲者揃い。ウルトラマラソンへチャレンジする人たちはやっぱりどこか頭抜けていて、もう走ることそのものへの愛情に満ちあふれていることが伝わって。

金の為でも名声の為でも、誰かに評価されるためでもなく、ただひたすらにRUNNINGの楽しさを駆けていく。誰に遠慮することもなく、自分が出せる最上の100%を走り抜けらえれる歓び。時に無鉄砲でもLOVEがあふるる兵どもの人生懸けの駆ける姿に心打たれました。

私自身いま迄2度河口湖マラソンで42.195kmを走っているのですが最近は弛みまくっているので、これを機にまた駆けだしたい心にMoveされました。ウルトラマラソンはNHKBSのGRATE RACEとかみてると別次元な世界に感じますが、またフルマラソンに挑戦したい。サブフォー、そしていつかアテネクラシックマラソンを走れたらいいなぁ。

by wavesll | 2018-02-28 23:41 | 書評 | Trackback | Comments(0)

2月22日26時に聴く怪談風朗読 萩原朔太郎「猫町(ねこまち)―散文詩風の小説―」



TL曰く2/22はにゃんにゃんにゃんの日と。せっかくなのでこの機会に『猫町』を読もうとシ、この朗読動画を見つけました。『猫町』、こんな話だったのか。

旅の話、それも不思議な旅の話。主人公は普通の旅に飽いて麻薬で精神世界に遊ぶ者で、近所を歩くときもまるで杜王町で起きるような奇妙な体験が語られて。その”わたし”が北陸で体験した妖しい事象の想い出噺。

この不可思議な噺が、しかし素っ頓狂に聞こえないのは”わたし”の語り口が非常に理知的であったということが大きくて。三半規管であったり、軽便鉄道で在ったり、微分であったり。科学的知見が物語をさりげなく支えている。

1935年当時と比べて2018年は科学技術の発達は目を瞠るばかりであり、文学者にとってテクノロジーに文学的な心象風景を託すことに手におえていないのではないか等とふと思い、いやいや、原子力に於ける『鉄腕アトム』、ビデオテープに於ける『リング』、インターネットに於ける『マトリックス』その他サイバーパンク、新技術は文学に新たな地平を造ったではないかと思い直し。

けれど、このレトロな旅行記が持つ古風だけれどもホラーな味わいは、野生の思考的な人間の身体が太古から持っているRhythmを刻鳴しているように感じた。

因習、宗教、迷信。これらの風俗・文化に於ける”異境の味”は、旅に於ける快楽の源泉であって、その向精神的な作用こそが物理移動を越えた精神の移動であると、私は想い、その意味でこの奇っ怪な旅行記はまさしく39:22の異界への旅であると感じた。

その上で、けれどヒトはヒトであって、ヒトとの交わりによる物語性は一種差別的で妄想的なファンタジーを崩していくし、”ちゃんとして”いる。こうした向精神的な刺激を求めることは得てして”スピリチュアル”と浅薄な行為であるとされる。

それ故、こうしたものを旅に求める姿勢は極論的には麻薬を求めるに近いアティチュードであり、どこか後ろ暗いものがあり、その翳の中に静かに、究めて平静を装いながら語られるべきものだなと、私はこの朗読を聞いて想いました。

by wavesll | 2018-02-23 02:22 | 書評 | Trackback | Comments(0)

「俺になれ」を越えて -『高校生のための批評入門』を読んで

c0002171_19431387.jpg
一時期、男友達と話すとどいつにもこいつにも「俺になれ、俺のような価値観を持ち行動しろ」と言われているような気分になったことがありました。

それは恐らく被害妄想で、彼らは彼らの最善手と想う話をしてくれただけで、寧ろ「俺になれ」と望んでいたのは私で、相手が共感を示さないことに独り相撲でイラついていたのかもしれません。

大抵の人にとって最善の行動のラインは一つで。勝ち筋を一つしか見いだせない結果他人に助言する際に「俺になれ」となりがち。それは器の小ささでもあり、”本当に求められている言葉・態度ってどんなものだろうか”と想っていたのですが、この筑摩書房『高校生のための批評入門』はそれを考える一助になってくれました。

この本は批評のメソッドを直接的に解説する本ではなく、11のテーマで選ばれた51の批評文が載っているものです。批評の対象も、芸術作品や文学作品の批評というよりも世界が広くて、イルカ漁に関する反応の話から、奈良時代の世界音楽フェスティバルについての話、さらには「紐の結び目」についての話など多岐にわたっていました。

様々な世界の一端へのそれぞれの著者の視点を批評文ーそれは内なる声、世界への違和感であったり、個人的な想念ーを読み、そして付属の現代文的ワークをみながら感じたのは『違う視点の提供』や『易々と同一化しない』ことの意味。

相手の発言に対して理解を示すことは同調することがすべてではなく、異なる視点、違う人間としての言葉を出すことでもあるのだと。芯を食った批判は時に自分の同調者よりも語られていることを理解していることもあるかもしれないと想ったのでした。

全てが賞賛され、全体が盛り上がるのは楽しいものです。それは例えば「バーフバリ!バーフバリ!」と歓声を上げるマヒシュマティの国民をみても明らか。けれど、大いなる予定調和の中で塗りつぶされようとしてしまう”声”はないのか。その”声”も尊重されるべきではないかとも思ったのです。

ところで私は昔から”空気が読めない”、或いは”変な人”なんて評価を受けることが多かったのですが、個人的にはかなり保守的で付和雷同な人間なのではないかと思っていて。

自分で一から考えるというより”その分野に詳しい人たちの発言を調べ、その最大公約数を情報分析し、自分なりに噛み砕いて語る”ことが基本ラインで。

その結果情報処理は得意になったのですが、問題設定能力、つまり”問い”を創るのが不得手で。自分自身で課題を設定して意思決定する推進力が弱いところ、誰かの後に付いていくのではなく道を切り拓く力が弱いことがコンプレックスで。

自分自身が付和雷同的な人間だから、相手にも付和雷同を求めて「俺になれ」のような感覚を持ってしまっていたのかもしれないと今思います。

そして今回「批評・批判が必ずしも相手を貶すことではない」と腑に落ちたのは、長文で丁寧に文章で諭され、心に栄養を摂取できたことがあったと思います。

自分と違う感性の話を納得するにはしっかりとした分量での語りが必要になるのだと想います。批判自体は良くても、説明が足りていない批判だと価値が認識できず、反発を起こすことがあると。これは「自分の考えが理解されない」と相手の理解力の乏しさを逆恨みする前にも考えたいこと。

他者や周囲と全く異なる考えを持つことを恐れない、或いは相手に安易に同化を求めない。そして安易に譲らない。

言葉を尽くした上で異なる視座が同時に存在することを認める。I'm right, You're right. No one is left here.の心意気を持ちながら個人としての”自らの感覚、或いは違和感”を大切にする。そんな姿勢をこの本から学びました。

by wavesll | 2018-02-07 20:21 | 書評 | Trackback | Comments(0)

他者としての”己の変節”から足場の悪い誠実性に生きるー千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために』から想ったこと

c0002171_22185149.jpg
千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』を読みました。

勉強することはあるノリ(共同体のコード)から別のノリに移り、ノリが悪くなること、キモくなること。

アイロニーに走って水を差し続けたり、逆にユーモアで連想を広げ過ぎてナンセンスになってしまうことを越えて、自分自身の享楽的なこだわりに自覚的になり小賢しいバカになることを目指すべき。と説く。

その上で有限化というキーワードを駆使して具体的な勉強法も提示するという、非常に読み易く、またフランス現代思想に裏打ちされた書籍となっていました。

東浩紀『観光客の哲学』を読んだ際に”『存在論的、郵便的』と比べてかなり読み易いけれども結局『観光客』についての記述が芯を食ってない”なんて想ったことを思い起こして。

その上で『勉強の哲学』の補論を読むと『観光客の哲学』は哲学の枠組みをダイレクト気味に出していて、『勉強の哲学』は極めて分かりやすく具体例まで噛み砕いてくれている書なのだなと。相当に分かりやすい。

勉強する前の人は無自覚に所属するコミュニティの論理にしたがって生きている。勉強をすると、他者の話にノリで共感を示せなくなって一次情報等の論拠を求めるようになる。

けれど”どの共同体にも越える最終論理はないから、アイロニーの突き詰めは不毛”。等の話はかなり腑に落ちるところがありました。『エレガントな宇宙』を読んだ時に”この世の全てが弦の振動なら人間世界のルールには何の意義もない”なんて思ったことを思い出してw

また「人は誰もマゾヒズムの快楽を得ている」としていて。みなさんがどうかは分かりませんが私は一時期自らを弄ることで悦びを得ていました。それは芸人根性というか、ネガティヴを笑いに換える行為で。この本でアイロニーをツッコミ、ユーモアをボケと説明することの背景にはマゾヒズム=芸人根性という視座があるのかもと思いました。

コミュニティのノリの話だと共同体内部での”役割やポジション”も言動形成に大きな影響を与えるようになる実感があります。

看守と囚人の実験でもそうですし、鶏口となるも牛後となるなかれとは良く言ったもので、自分が下位としてギリギリ入れる集団にいるよりも自分が上位に在れる集団にいる方が活き活きと能力が開放されることはあると思います。逆だと無為に道化になってしまい自己嗜虐に繋がる。

そうした意味で”在りたい自分であれるノリの共同体”をみつけることは人生に於ける幸福度を極めて高めることになるのではと想います。それは本書に於ける”享楽的なこだわり”を共有しあえる場なのではと。

その上で”ノリを変えること”が”過去の自分から変節し裏切ること”でもあるように私は思ってしまうのですが、それは決して悪いことだけでもないのではないかと思うのです。

例えば私は生徒の頃は勉強と漫画が好きでその後はロックンロールに心酔したのですが、その頃は漫画やロックの非常に強い刺激に麻痺し等身大の刺激に反応できない状況がありました。

言葉でのバーチャルな学びをするだけで生身の感覚を知らなかった。素晴らしい藝術は精神を加速してくれますが、それは他者の創造物。その後自分で手を動かしたり人生の現場を潜り抜けることで挫折も含め己の身体性の分を知って行くことになりました。

そうしていく内に世間一般として音楽のプレゼンスが落ち、そして”ダッド・ロック”と言われるようにロックがクールさが目減りしてラップ、R&B、ジャズ、或いはアイドルなんかが時代の寵児になって行って。私自身の聴く音楽もロックだけに止まらない、新たな領域に拡大していくのを少し後ろめたい気持ちを持ちながら拓いて行きました。

そうなると昔の言動から変節するところが生まれてきます。それは昔の自分の責任を放棄しているのではないかと想ったり。

けれど、今は”逆にそれがいいんじゃないか”と。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という格言に対し”俺は愚者だなぁ、実際に自分がそうならないと解からない”と思うのですが、ここで効いてくる。

『己の変節』を経験することで、他者としての”昔の自分”と”未来にそう変節するかもしれない自分”に想像力や共感が及ぶというか。今の価値観が絶対でないと想えること、不安定で宙ぶらりとした居心地の悪さはありますが、一種の誠実さがある態度になる気がしているのです。

別の可能性を想起することは自信満々の態度を取れなくなってしまう気もして、それは時に信頼を得難かったり他者の押しに脅かされることもあります。誠実であるよりもハッタリをかます方が現実的な力を得ることも。それでも”己の正義”に少し斜めの目線を持つくらいの用心深さを持つ老獪さが最新の最適解だと今は想う所です。

先日出た『メイキング・オブ・勉強の哲学』も気になる處。勉強は必ずしも現実的にいいことばかりでもないですが、自分なりの誠実な勝ち筋を探究していけたらいいなぁと。そして此の記事自体が脱共同体的で自己目的的な享楽のノリの語りに他ならないなと思ったのでしたw

by wavesll | 2018-02-05 23:08 | 書評 | Trackback | Comments(0)

東浩紀『観光客の哲学』感想:壊さないでネットワークを育むまなざしにふわふわした真摯さをみる

c0002171_20215351.jpg
漸く2度目の読了を終えました。

『観光客の哲学』という題名ですが、具体的な個別の観光の話をするのではなく、特定の共同体にのみ属する「村人」でもなく、どの共同体にも属さない「旅人」でもない「観光客」という像を以て「他者論」を行うという本書。

そしてその奥にあるテーマとしては「人として成熟したと認められるにはどう成ればいいのか」というもの。

ヘーゲルに於ける「国民となること」、そして国際社会の市民となることという個人→家族→国民→世界市民という流れではなく、観光客というふわっとした存在の「誤配」性を以て世界平和に寄与するという論旨。

『人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実に社会をつくる。なぜか。』というルソーの解釈。或いは『現代社会における政治(ナショナリズム)=上半身と経済(グローバリズム)=下半身の二元統治の上でリベラリズムをリバタリアンやコミュニタリアンが越え、〈帝国〉にマルチチュードが反旗を翻す』といった現在までの思想史の論じ方は非常に面白く読めました。

特に面白かったのは第一部の終盤に論じられたネットワーク理論。「スモールワールド」と「スケールフリー」という「べき乗分布」の枠組みによってウェブページの被リンク数や年収の分布、都市の規模と数の関係、論文の引用頻度と点数の関係、戦争の規模と発生数の関係、書籍の部数と出版点数の関係、金融危機の規模と発生数の関係、地震の大きさと頻度の関係、大量絶滅に於ける絶滅種類と頻度の関係が説明可能だというくだり。

ネットワーク理論により、人間社会の構造をあたかも自然現象であるかのように説明する言説の可能性が久々に現れた知的興奮がそこにありました。

その一方で第二部で提示される”成熟のカタチ”として「不能の父親として嬰児に触れるように他者と交わる」というアティチュードは、結局のところ問題の先送りというか主体的なプレイヤーであることの放棄な気がしたのも事実でした。

ただ、それも含めて東氏のありのままの思想表明となっていたというのはひしひしと感じて。

多くの先行研究である思想史の解説、繋ぎ合わせが大半を占める構成は批評家がかける”編むことによる先端の更新”であると感じたし、その二次創作的な姿勢から”創造至上主義者”から大なり小なりの批判を受けた結果であろうエクスキューズの多さにしても、そして「親子」という解も借り物でない実体験から生まれてきていることも含めて、東氏の今出せる棚卸的な本音の著作と感じました。

本書に於ける不満は「結局”観光客”という存在は何の意義をもたらすのか」が具体的に語られないところだと思います。

観光客というのは結局のところその行動としては「傍観者」。けれど例えば私自身先日のネパール旅行で生のカトマンズにて思った以上に文化財が残存していることを体感してそれをTweet等で拡散したことから「ネットワークに”近道”を創る」ことを実践したかもしれないと思って。

観光客は直接的に旅先の政治状況を動かすことはなく、或いは郷里の状況を決定的に動かすこともないかもしれないけれども、ふわふわした眼差しのRootを繋げることで、蝶の羽搏きを惑星にもたらすことはあるかもしれないと想いました。

それは”壊さないで、育む”親としての眼差しかもしれない。さらに言えば去勢された父親を肯定するとは戦後の米国に雌伏するこの国の姿を認めることでもある。いのちを繋げていけば未来が営まれる。そう想ったときに、第二部の意図するところにわずかばかりの共感を持てた気がしました。

by wavesll | 2018-01-19 21:00 | 書評 | Trackback | Comments(0)