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欲望の資本主義2017 ルールが変わるとき 第1章~第3章 書き起こし

前編「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」20160103(Dailymotion)

"富や成功"への欲望 "資本"は自由自在に移動する "消費"が資本主義のエンジンだ わたしたちはいつからこんな世界を生きているのだろう?ヒトとモノの間をお金が行きかう、際限なく膨張してきた資本主義。

"経済的豊かさ それを求めるのは人の本能だ" "イブは『欲望』に呪われた"

より早くより遠くへより良いものを 飽くなき欲望が加速する世界 市場の論理にすべてが覆われ一瞬先も予測不能なこの世界 そして今

トランプ「メキシコとの間に壁をつくる!」

流れが変わったのか。"「闇の力」が目覚めたようだ" 消費・成長・富への欲望 私たちは何処へ向かうのか "アダム・スミスは間違っていた" 経済学の父はあやまちを犯したのか "もう一度ルールを書き換えろ" ルールを書き換えよ "ケインズは「悪用」されている" "ケインズだったら「クレイジーだ」と言うね" あの男を呼び覚ませ "日本が成長を追い求め過ぎれば資本主義の「死」を迎えるだろう 『KAROUSHI』という名のね" "資本主義の「死」を宣言するのはまだ早い"

資本主義は何処へ向かうのか 世界の経済のフロントランナー達が紡ぐ欲望と言う名の物語

「欲望」は満たされることを望まない 「欲望」は増殖することを望む

太古からヒトは所有と交換を繰り返してきた ある時お金が生まれ市場が生まれ欲望の交換はこの貨幣なるものに託された やめられない、止められない


第一章 資本主義の、現在

資本主義 それはお金、資本を際限なく投じ増殖を求めるシステム

安田洋祐(大阪大学准教授)
「今 多くの国が低成長に苦しんでいます。それでも世界経済は成長し続けられるのでしょうか?成長し続けていくべきなのでしょうか?」

ジョセフ・スティグリッツ(コロンビア大学教授 2001年ノーベル経済学賞受賞 アメリカ大統領経済諮問委員会委員長 世界銀行チーフエコノミストなどの要職を歴任)
「いま問題なのは世界の総需要が不足していることだ。そのせいで世界経済が減速している。それにはいくつかの原因がある。
まず中国の減速。"量の成長"から"質の成長"へ変化し世界に大きな影響を与えている。もうひとつはユーロ圏だ。数々の問題を抱えている。ユーロでは通貨の統合が成長を妨げてきた。

ただ全体としては別の要因が潜んでいる。不平等の増大だ。貧困層から富裕層へと富は吸い上げられ富裕層は貧困層に比べお金を使わない。これが全体の需要を押し下げ成長にブレーキをかけているのだ」

トマス・セドラチェク(チェコ総合銀行チーフエコノミスト 経済学者 24歳のとき初代大統領の経済アドバイザーに抜擢 チェコでベストセラーとなった著書『善と悪の経済学』は世界15か国語に翻訳)
「今の世界は資本主義かそれとも"成長"資本主義か。僕は"成長"資本主義だと思っている。みんな成長のことばかり気にしている。成長できなかったら「もう終わりだ」ってね。おかしいだろう、どこに書いてある?聖書に?空に?数学モデルに?過去に証明されたのか?ノーだ。資本主義が必ず成長するというのはナイーブな思い込みだ。

成長に反対なわけじゃない。いい天気が嫌なはずがないだろ。問題は社会 年金 銀行…すべて成長が前提となっていることだ。まるで毎日快晴だと決めつけて船を造るようなものだね。そんな船はダメだ。凪でも嵐でも航海できるのがいい船だろう。そりゃ天気がいいに越したことはない。でもそれを前提にして船を造ってはいけない」

スティグリッツ
「低成長は避けられる。もしもアメリカ ヨーロッパ 各国で考え方を変えることができれば成長は可能だ」

安田
「資本主義はこれからも持続可能だと考えますか?」

スティグリッツ
「市場経済はずっと続いていくだろう。市場経済のあり方には政治が大きく影響する。30年ほど前にアメリカをはじめ各国で市場経済のルールの書き換えが始まった。ますます不平等を生むようなルールに書き換えられたのだ。それだけでなく市場経済の効率性が下がり生産性の下落を招いたのだ。目先のことだけに人々が夢中になってしまうようなルールの変更だ。

長期の投資ニーズがあり長期の貯金をしている人々がいる。だが金融市場は目先のことだけで機能不全に陥っている。私たちの市場経済が招いた決定的な変化の一つだ。だから今再びルールを書き換えないといけない。これからのルールは繁栄を分かち合い、より成長しより公平な分配をうながすものでないといけない。実現できると思うし実行可能な目標だと思う」

セドラチェク
「共産主義だった国から来た身としては共産主義を捨てて資本主義をインストールしていたころ民主主義国家での資本主義は何よりも自由のためのものと信じていた。成長は良いものかもしれないけれどたとえるなら車の"最高速度"だ。それは大事なことか?そうだ。一番大事なものか?いいえだ。

確かに資本主義は"成長"のための豊かな土壌だ。しかしこの20年間で二つの関係がひっくり返って私たちは成長を資本主義の"絶対必要条件"だと信じ込んでいる」

東京の百貨店で
セドラチェク
「消費の大聖堂だね。いつもリュックひとつで旅をするんだ 僧侶みたいだろ。手でもてる以上の物は僕はいらない。自由はかつて"物からの自由"を意味していた。今や自由といえば"消費する自由"だ。消費できるほど自由を感じる。消費できないと自由じゃないと思ってしまう。だから毎日働かないといけない…。映画『マトリックス』でもあっただろ。いらないものを買うためにしたくもない仕事をする。エデンの園の呪いだね」

禁じられた果実 もうヒトは後戻りできない 消費への欲望 それを満たすための労働 果てしない欲望の無限回路がはじまる

セドラチェク
「『CUBE』っていう映画を知ってるかい?『CUBE』はカフカの不条理劇にも通じるんだが気がつくと四角い空間に閉じ込められていて…物語の終盤、実は自分たちが『CUBE』を造っていたことに気がつくことになる。

専門化した社会では自分のしていることが分からなくなる。フランスの哲学者ラカンはこう言った"分かっているけど止められない"。私たちの問題は分かってさえもいないことだ。どんなに働いても欲望を満たすだけのものは作れない」

第2章 成長は、至上命題?

スティグリッツ
「経済成長について話すときは"成長"の意味をはっきりさせないといけない。GDPは経済力を測るにはいい指標とは言えない。環境汚染、資源乱用を考慮にいれてないし、富の分配も社会の持続性も考慮されていない。問題だらけだ。経済における成長の本質をこの先変えていくべきだと強く思っている。

すでに明らかなのは物質主義的経済ー天然資源をじゃぶじゃぶ使って二酸化炭素を大量に排出するようなことは持続不可能だという事だ。もうそのような成長はなしえない。だが他のかたちの成長がある。まだまだ反映できるし新たなイノベーションを生み出せるはずだ」

安田
「その変化を起こすには何が重要ですか?」

スティグリッツ
「政府の政策が必要だ。テクノロジーやインフラや教育にもっと投資をしないといけない。地球の気温を2度も上昇させてしまったことで多くの投資が必要になっている。経済を整え新エネルギーに移行し都市構造を変える。私たちには巨大なニーズがあるはずだ」

新たな需要を生む変化 その予兆はやはりこの地(サンフランシスコ)から生まれるのか

スコット・スタンフォード(シェルパ・キャピタルCEO 元ゴールドマン・サックス社員 2013年ベンチャー投資企業を設立)
「Uberへの投資がきっかけで今の会社の共同設立者と出会った。立ち上げのかなり早い段階で投資をした。ごく小さい会社だったがアイデアに魅力を感じた」

彼はアプリでクルマを呼べる新しいビジネスモデルに投資した それは従来のタクシードライバーの雇用を奪う事にもなる 創造と破壊は裏表

スタンフォード
「テクノロジーは経済を活性化するか雇用を奪うだけか。そういうことは考えてない。そういう心配をするのは僕たちの仕事じゃない。僕たちは5億ドルを運用している。そのお金は僕たちのお金ではなくて出資するパートナーたちのものだ。彼らは自らの資本を僕らの投資に委ねてくれている。僕らに収入があるのは投資がリターンを生んだ時だけだ。資本金をコントロールするボスがいるのさ」

安田
「以前はゴールドマン・サックス(投資銀行)に所属していたんですね。投資の戦略や考え方で何か違いがありますか?」

スタンフォード
「面白い質問だね。考えたこともなかったな。はっきり言えることはすべての仕事は資本主義システムの中にあるんだよ。そもそもゴールドマン・サックスでも今の会社シェルパ・キャピタルでも目的は同じだ。短期間でお金を稼ぐこと。ただ今は常に新たなビジネスのアイデアを考えている。誰かの起業を手助けするだけでなく時には自分たちで新しい会社を立ち上げる」

お金、投じれば増えて返ってくる そんな資本主義のセオリー だがいつでも通用するわけではない

安田
「利子率はますます低くなっています。もう投資も成長も見込めないと言う人たちもいますが…」

スティグリッツ
「ケインズを始め 多くの近代経済学者たちは利子率の役割 調整機能を強調しすぎた。利子率より重要なのは借り入れのための"信用"だ。低い利子率は不況を招いている政策の結果に過ぎない」

セドラチェク
「クルーグマン(経済学者)の主張で同意できないことがあるんだが、彼の主張は"低い利子率で借金すれば"、"経済が好転して"、”借金を返せるようになる”。真ん中の文を抜いたらどうなると思う?違う意味が見えてくるよ?"低い利子率で借金すれば"、"借金を返せるようになる"。これは銀行員だったら警報ものだよね。危険すぎる。火で火を消そうとするようなものだよ」

スティグリッツ
「テクノロジー、インフラ、温暖化対策に投資すれば利子率なんてすぐに上がるさ!」

セドラチェク
「ナイフや火のようなものだ。コントロールできる代物じゃないんだ。利子率っていうのはどう扱っていいものか本当にわからないものだ。どんなにいい投資でも、高速道路・大学・研究機関とかを作ったとしてもお金は必ず返さないといけない。教育レベルが高くて優秀な経済学者がたくさんいて大きな潜在力を持っている日本のような国でも借金を返せずに苦労している

文明社会は"安定"を売り払ってしまった。そして無限に"成長"を買っている。僕らはいつもではなくとも時々成長をもたらす経済を作り出したが今は崩れかかっている」

安田
「人々の成長への期待が膨らみ利子という概念が広まったことは成長資本主義のそもそもの起源なのかもしれないですね。人々の考えを変えたのかもしれません」

セドラチェク
「その通りだと思う。利子はアルコールのようなものだ。どちらもエネルギーをタイムトラベルさせることができるから。

金曜日の夜にお酒を飲んでいると突然歌いだしたり…ほら、この国は"カラオケ"好きの国だろう?お酒が入っていると歌いやすいよね。"このあふれるほどのエネルギーはお酒が与えてくれたものだ"って思うかもしれないが、ノーだ。それは間違いだ。お酒がエネルギーをくれるわけじゃない。お酒がしたのは土曜の朝のエネルギーを金曜日の夜に移動させただけだ。

二日酔いは間違いなく翌日に来るがお金は40年も50年も時を超えることができる。こんな風に危機につながったりするんだ。エネルギーが消えてしまうのだ本当に必要な時に…」

カネは時を越え時がカネを生む この錬金術を何故ヒトは欲望したのか

第3章 魔術の誕生

セドラチェク
「西洋の古い書物を読んでみると実に皮肉で興味深いんだが必ず利子について論じられている。聖書・ヴェーダ(ヒンドゥー教の経典)・コーラン・アリストテレス。否定的な感情とともにね。なぜかわからないが利子は禁じられていた。歴史を振り返ると利子は"禁断の果実"だったんだ。富をもたらす一方で問題を引き起こしてきた」

利子、それは未来の利潤のため休むことなくヒトを働かせる これも、禁断の果実

そこにはある男の欲望があった 14世紀イタリア メディチ家の始祖ジョバンニ・メディチは利子を禁ずる教会の目を避け、フィレンツェとロンドンの為替レートの違いを利用し莫大な利益を得た 

カネは時だけでなく空間の差を利用して無限に増殖していくことに


"貨幣は元々交換のための手段 しかし次第にそれをためること自体が目的化した" アリストテレス

昨日より今日、今日より明日 増え続ける 欲望 その欲望を正当化し免罪符を与えた男がいる 経済学の父 アダム・スミス(1723~1790) 『国富論』(1776年) "それぞれが自らの利益を求めれば見えざる手によって社会全体も富み栄える" その理論は人々に欲望を肯定したのだ

安田
「そもそも資本主義の推進力は何なのでしょうか?」

アルヴィン・ロス(スタンフォード大学教授 2012年ノーベル経済学賞受賞 市場の制度を設計する「マーケットデザイン」研究の先駆者)
「市場の最大の機能は誰が何を欲しがっていて誰が何を持っているかすべての情報を集めることだ。供給と需要が一致することで魔法のように価格が決まる。その難しさは 情報を得て計画することなど誰にもできないことにある。なぜなら情報は多くの人々に拡散するものだからだ。そしてまた情報が市場に集まることで最適な結果が生まれる」

安田
「世界の利子率は下がり続けてマイナス金利の国もあります。資本主義の終わりの兆しを語る人々もいますが?」

ロス
「資本主義の死を宣言するのは早計だ。資本はリターンを得続けているよ。シリコンバレーに住んでいるんだが多くのビジネスが集まっているのは今も新しい会社が利益を上げているからだ。もしもマイナス金利が続いたとしても新しい形の金融取引が発展し金融機関の資本はリターンを得られ続けるだろう」

スティグリッツ
「市場とはある日誕生したのではなく進化しつづけてきたものだ。何千年も前の市場経済はとてもシンプルなものだっただろう。私が思う大変化は産業革命だった。資本主義は科学と技術を両輪としている」

発明 イノベーション 大規模化 成功すれば競争相手に一歩先んじ生産効率を上げられる その加速は止まらない

スティグリッツ
「このダイナミズムによって人々が農作物を市場で買ったり女性が家で編み物をしていたような原始的な市場経済からより大規模な会社ほど有利で経済規模を拡大できることになった。そしてイノベーションが駆動する経済だ」

スタンフォード
「私たちはより効率化する方法を常に探しているんだ。経済学でいうところの生産性だね。労働力が変わらないのに成果物は増える。そして利潤 成長 波及 創造的破壊を追究する。いかにして効率的な進化がなされない古い産業を駆逐するか。市場をとれ。需要と供給が働きあって加速して規模の効果が働いて新旧交代が起こる。それがイノベーションだ。そして消費者をハッピーにするんだ」

思想 そして技術が 欲望を開放し 資本主義は成長がかかせないシステムへと変貌した

欲望の資本主義2017 ルールが変わるとき 第4章~第5章 第6章~第8章 第9章~最終章
『欲望の資本主義2017 ルールが変わるとき』をみて

cf,
アダム・スミス 著, 山岡 洋一 訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』 読書メモ

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む

欲望の民主主義 世界の景色が変わる時 第1・2章 第3・4章 第5章 第6章 第7・最終章
by wavesll | 2017-04-03 22:15 | 書評 | Trackback | Comments(0)

透き通る文体の奥にある生と我 / リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』個人的な読み解き

c0002171_21454752.jpgこの感想文はネタバレを含みます。ご注意を。ただ、この物語は文体や質感を味わう作品だと想います。

Richard Brautigan (原著), 藤本 和子 (翻訳) / 西瓜糖の日々を読みました。2度読みました。

2度、とあえて断ったのは初回の読後感が、まさにスイカの甘みのような、美味しいんだけれどどう感想を書いていいかがわからないものだったという事があったのです。

非常に繊細な"わたし"が身を寄せる、心の機微が尊重されるiDEATHというコミューンの姿とそこから弾かれた人達の破壊衝動の対比が西瓜糖のほのかな甘みの文体の先にありました。

そして今2回目の読書を終えて想うのはこの本は淡々とした現実的な時間進行でありながら、おとぎ話やSF的な要素の層を持ちながら、枠組みとしては『我と生』という存在を描こうとしたものであろう、ということです。

物語は大きく2つの構造があります。一つは組織対組織、一つは個人対個人。

この物語には「町」以外に、主人公が身を寄せるiDEATH(アイデス)に対してインボイルという狼藉者が暮らす『わすれられた世界』の一団、そして虎の群体という集団があります。

『西瓜糖の日々』では多くの事が完全に解説されずに話が進んでいくのですが、この『わすれられた世界』についてもそう。

ただ多くのファンタジーではこういった存在は"文明崩壊後の世界の側から見た現代社会をロストテクノロジーとして捉えたもの"であり、この本でもそれで大まかにはあっていると想います。

そうしてみるとマーガレットにとっては非常に面白いモノが落っこちているという、そして"わたし"にとっては醜悪なものが多いという『わすれられた世界』は"欲望が渦巻く現代消費世界の残骸"と捉えられます。

そして『iDEATH』とは『我執を捨てた者たちのコミューン』という意味なのではないか、と想うのです。

そう考えるとインボイルが「虎を殺してはならなかった」といい、己達を血みどろし死ぬことでアイデスを蘇らせようとしたことは、人食い虎達は暴力的な存在であるけれども、自然のままに生きている存在で、iDEATHが忌避する"資本主義的な欲望"から最も遠い存在でもあったからだと想います。

実際最後の虎達が殺されて燃やされた跡地にiDEATHが鱒の孵化場を創るのは「狩りから畜産」という"資本の蓄積"がiDEATH自身の内にあることを示しているのではないかと。

しかし結局のところ、欲望に溺れその原理を追求したインボイル達は自ら命を絶つ結果となりました。iDEATHという死を冠した組織の方が存続しました。

サステイナブルという観点で"進歩・発展"がない、或いは遅々として進まないiDEATHのような在り方の方が破滅へは至らず世界を消費しきらない、ということなのかもしれません。

ここでもう一つの構造、個人対個人に話を移したいと想います。

『西瓜糖の日々』は一言でいえば『"わたし"とマーガレットの話』です。
"わたし"はこの物語で描かれている日々、常にマーガレットに捉われています。

昔の恋人、しかしマーガレットは『わすれられた世界』の物達に魅了され、そのことに嫌悪感を持った"わたし"の心は離れ、今は"わたし"はポーリーンと付き合っている。

しかしマーガレットは未だに"わたし"に執着していて、マーガレットの親友だったポーリーンも気を病んでいる。

私は"わたし"の気持ちも分かるし、マーガレットやインボイルの気持ちも分かります。

単純に面白いことや刺激を追い求めたいマーガレットの探究心も分かるし、その刺激的な世界に身を置いているインボイルの側から見るとiDEATHの連中は愚鈍でお花畑で、現実をみていないようにみえるのもわかります。

逆に"わたし"等iDEATHの面々から見ると"何故不必要な快楽を得たいとするのか"とマーガレットやインボイルに嫌悪感を抱く。自分の中にない欲望を持った人間を人は忌避してしまう。

そうした無理解を受けたインボイルやマーガレットが、最初は理不尽からの悲しみを、そして怒りを覚え、対立、破壊衝動に駆られていく…。

快楽に身をゆだねる人は弱さを抱えていて、そして段々と"快楽を必要としている"から意識が"こんなに凄い快楽を得られる自分は凄い"になっていく。私自身もそういうところがあるので、この本を読んでいてちょっと心が痛んだところもありました。

"生の歓び"を謳歌しようとしたときに、その歓びが"大人しい人々"からは嫌悪の眼で見られる事、あると想います。

例えば私は中高の頃はクラスの端で寝てた人間なので、クラスの中心で騒いでいた連中をどこか斜めの眼でみていましたし、今だってFacebookのリア充自慢はちょっと見てられないなと想います。

一方で私自身も自分の気の合う人々とコミューンではないですが緩いつながりをもって、私自身の生の歓びを追求している。"i"を"DEATH"はさせられない、そうして日々を過ごしてます。

そして"わたし"自身もマーガレットに正面から向き合わず、避けることで彼女を死へと追い詰める、そしてそれを罪とも感じないドライさも、リチャード・ブローティガンは描き出しています。

この物語はどちらの肩を持つこともなく、明確な正解を出すわけでもない。或いはこうした物語構造としてのパースペクティヴをはっきりと示しているわけでもありません。

この”西瓜糖”の甘みのような、ほんのりした、すらすらと過ぎていく文章自体がこの物語の価値で、その曖昧として明確な解がないことが、この物語を"現実の比喩"に在らせているのだと想います。

自然の掟の虎でも、我執と欲望に駆られたインボイル一派でも、或いは西瓜糖のような生のiDEATHともまた違った、しかしそのトライアングルの内側のP点に私の人生は座標がある、そんな感想を持ちました。

Schubert, Trout quintet D. 667 — S. Kuznetsov et al. — ピアノ五重奏曲『鱒』(フランツ・シューベルト)。

by wavesll | 2017-03-10 22:34 | 書評 | Trackback | Comments(0)

アダム・スミス著/山岡 洋一訳 『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』第四・五編読書メモ

c0002171_1103964.jpg第一編 読書メモそして第二・三編読書メモ
から一年弱。度々の長期の離脱を経て、今朝方とうとう国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究 (下) を読み切ることができました。

下巻の内容は第四編「経済政策の考え方」では重商主義や重農主義を検証しながら、自由貿易こそが社会における真の富を増加させる方策と論じられました。

その論理から当時イギリスのものだったアメリカ植民地にも敬意ある自立を促した方がいいと導きされたり、統治を商人が行う東インド会社の害悪について論じたり非常に先進的な思想が語られていました。

また最終章である第五編「主権者または国の収入」は主権者が行うべきサービス(夜警国家としての防衛、司法、道路などの公共施設の経営)と税についての噺。

伝えたい理論を古今東西の夥しいファクトで実証し現実が仮説と違う場合もきちんと書いた実体のある理論書でした。

第四編で貿易において、一国との間で赤字となったとしても規制を掛けずに富を自由に動かした方が国の真の富は増加していると論じているのは、確かに輸送技術やインターネットによるトランスナショナル化等商業環境が18世紀とは大きく変わっている点はあるにせよ、現代の重商主義者である米国大統領なんかにも読んでもらいたいな、なんて思ったりしました。

また幹線道路などの整備は国全体の利益になるとしながらも、基本的には通行料などで黒になる計画として行うべきで、国は乱脈経営してはならない、という話は北海道新幹線を通した人間達に聴かせてみたいな、等と想ったり。『国富論』は経済学の古典ですが、現代においても聴くべき思考が書いてあると想います。

中でも最も心に残ったのは
施しやふるまいが度を超えることはめったにないが、虚栄心はかならず度を超える。
という一文。

アダム・スミスは地域の名士や宗教が人々の心を原初に掴み、尊敬されていたのに、今はその神通力を失ったことは商業の発展と密接に関係あると論じています。

古代、自分が食べられる分を大きく超える農作物を生み出す土地権益をもった者は、多くを周りの人々に振る舞って、人々を援けていた。そうして尊敬を集めていた。
しかし商業が発展して、交換価値が高い技巧が凝らされた"商品"が登場して、自分の産み出したものを自分で使い切っても足りないくらいの贅沢な欲望が生まれる環境が形成されました。
そうして権力者はそのパワーを自分のために使いきるようになり、"サービス"は"対価"を必要とするようになり、結果として民衆からの敬意は失われていった、と。

自分だけの利己的な楽しみに収入を使う場合には、どれほどつまらない楽しみでも、思慮分別のある人ですら、熱中しすぎて身を滅ぼすことがある。
(中略)
だが、贅沢にならないもてなしや見栄をはらない施しで財産を食いつぶした人は、あまりいないはずである。(贅沢なもてなしや、見栄をはった施しで身を滅ぼした人は多いだろうが)。


虚栄心とどう付き合うかは、例えばSNSで肥大化した承認欲求のコントロールへ繋がったり、現代人にも響くテーマとなっていると想います。

日々の愉楽が、労働の再生産に必要な分を超えたとき"浪費"になる。食っていける人が多くなればなるほど、社会は真の意味で発展しているのであり、真っ当にいきることが価値ある生だ。アダム・スミスはそう言っているようにも思います。

確かに消費が美徳になるというのは貴族的なアティチュードであって。それを身を滅ぼしながら行おうとするのは愚か者のすること。脳と躰を動かして創造を行うことは消費の螺旋から解脱することに繋がるのかもしれない。そう想いました。

無論、消費には社会的・個人的な効能があって。他者に奉仕する事だけが美徳とされる価値観は抹香臭いなと感じてしまいます。その上で"時間をかけて咀嚼する事が生み出すふくよかさ"に思いを馳せる読書となりました。

大学一年生の頃、教授から「砂や小石でバケツを満杯にしてしまったら岩を入れるスペースはなくなってしまう。しかし先に岩を入れれば、その隙間に砂や小石を入れられる、だから大学時代は古典を読もう」と言われたことが頭に残っています。

あれから十年以上を経て、漸く巖に手を伸ばす気になりました。そして今『国富論』を読み終わって。今、ゴールではなくスタートラインに立っているような気分です。

"いつか『国富論』を読んでみたい。『国富論』を読めば何かが変わるかもしれない"そう想っていたところがあったのですが、それは"インドに行けば何か変わる"というのと同じようなことで。

古典を読むことは旅に似ていて。或いは登山もメタファになると感じます。違う景色をみながら一歩一歩高まっていく。

けれど、今は古典読書はワークアウトに近い気がしています。効能がすぐめきめきとインスタントに現れる事ではない、一発逆転はない。けれど振り返れば、前とは違う起点へ進んでいる。そういう上下巻でした。

cf.
アダム・スミス著 村井章子+北川知子訳『道徳感情論』"もしアダ"が書きたくなる稀代の"いいね論"

by wavesll | 2017-02-27 19:05 | 書評 | Trackback | Comments(0)

ノードラッグ・ノーアルコールで爆発しよう。

Rom=Pari - Views [Full Album]


Twitterで教えていただいたこのアルバム。Amazonの商品説明だと
それぞれがJOSEPH NOTHINGとCOM.Aという名義でも活動する日本人の兄弟デュオ・ROM=PARIの1stアルバム。変則&高速ドラム、シンセ、サウンド・コラージュなど様々な要素が入り混じった作品。ヨーロッパからのリリース先は老舗のSUB ROSA。
とのこと。20世紀終わりから911後辺りまでの"終わらなかった終末期"のテンションが凄くて。

そしてこれ聴いてたら脳内麻薬の分泌が凄くて。ヤーヴァいっすね。『Doctor Strange』の映像体験があのペーパー・ドラッグ『ウルトラヘヴン』っぽいと聴いて食指が伸びかけていたのですが、これはこの音楽だけでも十分に脳内麻薬れるかも(というか小池佳一先生、次巻を首長族になりながらお待ちしております。

そして、この脳内麻薬分泌が活性化してる原因に思い当たることがあって。
それはアルコールを抜いていること。最後に飲んだのはMAD MAX 怒りのデス・ロード BLACK & CHROME at 川崎チネチッタ LIVE ZOUNDの帰りだから、今日で断酒6日目。これだけ脳が活性化しているということは、今までアルコールにどれだけ毒されていたんだ…!とマクロビに嵌っちゃう人みたいなことを想ったりw

後、もう一つの理由が今ある古典の学術書を読んでいて。これが二重の意味で脳を大回転させておりまして。一つは脳の体力がぐったり消耗するくらい理力を動かすこと。これが良い脳の運動になっているのではと。新しい学習をするって活性化させてくる、スポーツのような快楽があります。

そしてもう一つは本を読むためには精神筋力を使わなくてはならないので、酒が飲めないw酒を飲まなくても面白いというのがありますし、酒飲んじゃうと本が進まなくて。これが音楽だとアルコールと一緒に愉しむとより楽しくなっちゃうので、そういう意味だと本ってカラダにいいですね◎

140文字呟きのさざれ石なStreamを泳ぐのも面白いのですが、Hugeな巖を噛み砕き、よじ登っていくのもまた別個の身体の使い方で。ウォーキングでは筋力増強はしないなんて話も思い出しつつ、いいプライヴェート・ライフサイクルをつくれればと想います。

そうそう、アルコールも、あんまり飲まな過ぎると耐性が落ちて、偶に飲むと一気に弱くなるので、ちょこちょこ飲もうかとは思ってます。でも酒を断っても楽しいのがわかったから飲酒量は減るかも。
by wavesll | 2017-01-29 17:38 | 私信 | Trackback | Comments(0)

宇宙と芸術展 at 森美

宇宙と芸術展をみに六本木ヒルズ、森美術館に行ってきました。

このメインヴィジュアル、直にみると水墨画のような色味でそそられます。
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初端の北山善夫『この世界の全死者に捧ぐ』の黒白の宇宙の綺麗。『グヒヤサマージャ立体マンダラ』のレゴ感は砂曼陀羅がにょきにょき生えた様。『ヤマーンタカ・マンダラ』のZ旗の様な鮮やかな四色は見れてよかったものの一つ。『十二天像』は焔(閻)魔天と羅刹天がツラが良かった。『伏羲女媧図』に藤崎竜『封神演義』のが頭をよぎりました。

向山喜章『Sanmon GCC - yupotanjyu + nupotanje』は金剛界曼陀羅を大円に、小円を丸く配置し胎蔵界曼陀羅を顕すミニマリズムが佳い作品。北脇昇『竜安寺の石庭ベクトル構造』は空中から庭を眺める趣が面白い。

そしてめっけものが国友藤兵衛重恭の『月面観測図』『太陽黒点観測図』。理科的筆致が掛け軸に描かれているのがギャップがあって好い。国友の『反射望遠鏡 銘一貫斎眠龍能当』の複製も展示してありました。

王致遠『淳祐天文図』の宝貝盤古幡感。『天地明察』の渋川春海による『天文分野之図』も好。『竹取物語絵巻』に高畑勲『かぐや姫の物語』はこの筆捌を出そうとしたのではと。隕石で造られた岡吉国宗『流星刀』もありました。
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レオナルド・ダ・ヴィンチ『アトランティコ手塙』も。本展覧会のみどころとなっているのが自然科学の名著の初版本。プトレマイオス『アルマゲスト』、ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』、アイザック・ニュートン『自然哲学の数学的原理(プリンピキア)』、ヨハネス・ケプラー『新天文学』、ニコラウス・コペルニクス『天球の回転について』、チャールズ・ダーウィン『種の起源』など。

本は情報こそ本体ですが、知識が焼き付けられた本物の物体はモノとしてのコレ性がありあました。
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宇宙観測用具も。伝エウスタキオ・ディヴィーニ『望遠鏡』のアナコンダの如き太さ大きさがインパクトありました。ジム&ローダ・モリス『ガリレオ望遠鏡』の複製は金紋が美しい筒。マンフレッド・セッターラ『プトレマイオス天球儀』や大野規行『渾天儀』から古代の星の運航を夢想。

宇宙に着想を得た平面美術。18世紀初頭のアンドレアス・セラリウス『セラリウスのキリスト教天球儀』に星座をみて、21世紀初頭のアンドレアス・グルスキー『カミオカンデ』にニュートリノをみました。右下に浮かぶ舟が失われた神殿のような風雅さが。

立体作品も。メビウスの輪がさらに捻じれたような森万里子『エキピロティック ストリング II』は超弦理論やプレーン宇宙論にインスピレーションを得たそう。ビョーン・ダーレム『ブラックホール(M-領域)』は多元宇宙がモチーフ。『プラネタリー・ツリー』には中東神術を想起。
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コンラッド・ショウクロス『タイムピース』は機械仕掛けの神を思わせる時を刻むメカニカルな作品。セミコンダクター『ブリリアント・ノイズ』は太陽の画像を元にした映像に電磁波を変換した音を響かす作品。
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杉本博司『石炭記』は太古の海のウミウリのジオラマを写した作品。数年前グルスキー展見た際も感じたのですが“写真のような絵”ならぬ“絵のような写真”が今面白い。
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ローラン・グロッソ『古の異邦人(エイリアン)』は国宝展でみた『仮面の女神』をもとにしている立像。この土偶のガチャ、持ってますw
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雑誌に描かれた宇宙人の想像の姿の展示。火星人、異星人教授、水星人、土星人、金星人、冥王星人、海王星人、木星の衛星カリスト星人、木星の衛星ガニメデ星人、宇宙戦争の表紙。
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今回の展示の一番の話題作『常陸国鹿島郡京舎ヶ濱漂流船のかわら版ずり』『うつろ舟の蛮女』『小笠原越中守知行所着舟』。江戸の昔のUFO騒ぎ、銀魂感ある世界観。実録か東スポ的フォークロアか!?
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パトリシア・ピッチニーニ『ザ・ルーキー』はヘンテコな生物。オッサンな顔がツボ。ヴァンサン・フルニエ『ロボット・クラゲ・ドローン(キアネア・マキナ)』のサイバネティックな宇宙船感や良し。
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空山基『セクシーロボット』!これをみにきた◎
金属の艶。エアロスミスの"Jaded"世代には堪らないものがあります。
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ヴァンサン・フルニエ『火星砂漠研究基地 #11、火星教会、サン・ラファエル・スウェル、ユタ州、アメリカ、2008年』のポール・オースター『ムーン・パレス』感。
『ソコルKV2宇宙服、ソユーズ・ロケットのカズベック・シート、倉庫、ロンドン、イギリス、2009年』の揺り籠感。
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これがみれるとは!
『アポロ11号任務記録(月着陸交信記録)』
“これは人間にとっては小さな一歩だが, 人類にとっては大きな飛躍である”
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ロケット理論開発、宇宙旅行の父、コンスタンチン・ツィオルコフスキーの手塙
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トム・サックス『ザ・クローラー』はチャレンジャー号の模型。野村仁『“moon'score:ISS Commander - Listening to it on Mars, now.』は月のクレーターを音符に変換した音楽と写真の作品。
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ネリ・オックスマン『カマール:月を彷徨う人』(橙)と『ズハル:土星を彷徨う人』(黄緑)
未来の宇宙服とか、そんな感じのプレゼンテーションでした。
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サーチ/クラウズ・アオ『マーズ・アイス・ハウス』。NASAの火星住居コンペで賞獲ったものだとか。
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チームラボ『追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして衝突して咲いていく-Light in Space』
これも目玉でしょう。かなーり楽しくて計4回みたw!床と壁4面がスクリーンだから三半規管揺らすアトラクション!Real VR.こうなると天井もやってほしくなる。こんな映像体験でROVOを聴いたら気絶するかもw!ROVOもBjorkみたいなVR作品創って欲しい!


やー、かなり楽しかったです、宇宙と芸術展。
ポップさと知的刺激と現代美術性が鼎立していました。
科学と美術の関わりだけでなく、例えば音楽が音量によって体験そのものが変わるように、チームラボの展示のような空間に入り込む作品や世界史的初版本の持つモノの魅力によって、質的体験の認識宇宙が高められた気がしました。これで1600円なら満足満足~(←室井滋の声で。)。この隕鉄製の稀少な日本刀《流星刀》を、ファイナルファンタジー等のキャラクターデザインを手掛けた天野喜孝氏が擬人化し、描き下ろしたビジュアルを11/23(水・祝)より森美術館内にて特別公開するそうですよ。お薦めです★

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cf.
野尻抱影 『星と伝説』

世界が死んだ後、人はオルタナティヴな世界を生きられるのか -杉本博司 ロスト・ヒューマン展をみて
by wavesll | 2016-11-16 23:33 | 展覧会 | Trackback | Comments(0)

読書感想: 新田祥子 / もうだいじょうぶ! 心臓がドキドキせず あがらずに話せるようになる本

c0002171_18521595.jpg新田祥子著 『もうだいじょうぶ! 心臓がドキドキせず あがらずに話せるようになる本』を読みました。

私は緊張しいの人間で。特に仕事とかで"これは失敗してはいけない"という思いが強い時や"きちんとしなければ"と言う思いが強い時は物凄くあがってしまいます。文章を書く際なんかも、Webにはこれだけ饒舌に書けるのにも関わらずビジネス上の文だったり、"読み手が批判的な目で粗探ししてきそうだ"というプレッシャーの中で文章を書きあげるのがどうにもこうにも不得手で。

今までプレゼン白熱教室なんかをみて、<準備と想定演習を反復することを重ねて、ターゲットの好みを徹底的にリサーチして反映させる>とか"成る程"と想ったのですが、実際問題それだけの準備の時間的余裕が与えられないことも多いし、"正攻法に人事を尽くして天命を待つ事が出来ればいいけれど、そのスピード感に体力・精神力的についていけん…"と想っていたことも事実。そんなわけでこの本を手に取ったのです。

そこで書かれていたのは<『あがる』とは精神現象でなく生理現象>だということ。<あがる人は恥をかいた記憶が反芻されて、脳が自尊心を守ろうとして過剰防衛反応を示している>とのことでした。

あがる人は鬱なんかにもなりやすい性質らしく、完璧を求めて反省を繰り返すそうです。その為自分の駄目だったところばかりが記憶に残り、<あがった、失敗した>という記憶が強化され、ますます苦手意識が高まるそう。

原因は幼少期に勉強をしすぎたり、TVゲーム等で対人コミュニケーションの経験に乏しくなってしまったり、最近だとSNSに没頭してフェイス2フェイスのコミュニケーションに触れる時間が少ない場合もあるとか。しかし大人になってからでも訓練であがり症は直すことができるそうです。

まず減点嗜好を脱却し出来たところを見ること。"ま、いっか"と安心で心を満たせばあがらないとのこと。
更に声の震えなんかは、骨伝導で聴く自分自身の認識程他人にはつたわっていないので、"最低限これだけは伝えるポイント"さえクリアすればOK、くらいなラインを設定するのも有用かと。過剰な反省でますます苦手意識が強化されるのを避けるのを優先したいところ。

そして面白いと想ったのは口や舌、表情筋の筋トレをするといいというくだり。また猫背や服装をしゃんとするという"見た目の与える印象の改善"というアドバイスも。

不安というのは漠然としているからこそ大きくなるもので、やるべきことを具体化すると不安は半分は解消されるというのもその通りだと想いました。"あがり"というのを脳に原因を求めるというより身体全体の問題と定義するのが好感が持てました。

きちんとした訓練を積んで”ドキドキしないスピーチ”の記憶を定着させればあがることはなくなるそうです。ここら辺は著者の人がやってるセミナーの宣伝だなと想いましたがw

そして人に対する苦手意識の段では”この人苦手だな”と記憶するより”この人はこういう特徴がある”と記憶すると漠然とした苦手意識で記憶が埋まることなく、寧ろフラットな”事柄”として記憶されるとのこと。

そして<対人コミュニケーションを上手くいく為に>の段ではまず<コミュニケーションが上手くいかないのはあなたが自分の話ばかりしているから。相手の話を聞くのが大事>とのこと。”それは知ってるんだよ”とwしかしここからが面白かったのです。

<質問をするときは『事柄』でなく『相手の感情』にフォーカスを>とのことでした。『情報』を得ようとすると相手は”なんでそんな根掘り葉掘り聞かれなきゃならないんだ”と想い、反応が悪くなる。そこを<その時相手は何を想ったのか>を聴くと会話が弾むと。なるほど!といった感じでした。自分がLINEなんかで友人と話が弾まないのは相手に情報を聴いていたからかと。なるほどなーといった感じ。

また何かを断る場面では"状況/事情"の説明が大事だとのことでした。これは実際の場面では話したくない事情なんかもあったりするだろうし、上手い事いい抜ける狡さもいるかなと。

大前提としてあがり易い人は相手の反応を自分で推測してどんどんネガ思考に陥ってしまうという点があり、そんなコトは相手が考えればいいことだと切り離すのが大事だとのことでした。

ここら辺は"うっわ耳が痛いなー"というか。昔mixiで足跡がついたのに"いいね"が押されないことに対して「俺の書くものは1クリックもする価値がないほどつまらないと想われてるのか」と逆切れした黒歴史があるのです>< 自発的に書いていることなんだから、アドラー心理学を持ち出すまでもなく相手の反応は相手の課題ですからね(苦笑

特に私のような極私的な関心ごとを書く場合は、mixiのような閉鎖的な人間関係の所に書くよりも、寧ろWebの大海に書いた方が性に合っている気がします。このBlogの一日のhit数が大体PCからが100、スマホからが100なので、日本国民の1/500,000の確率でも関心が共有出来たなら僥倖で。その代わりに書きたいことを画くインディー・スピリットでやっていきたいなぁと想います。

とはいえ、この本を読んで一番びっくりしたのは文字が大きくて1ページ辺りの文字数がとても少ない事!
まとめサイトで良くあるみたいなリーダビリティーを追究したつくりに”1500円の本でも、いやだからこそここまで読みやすさを追求しないと手に取ってもらえないのか”という其のサービス精神に驚きました。

私は利便性とか機能性を疎かにしたのはインディー・スピリットの追求というより怠けかもなぁと想いました。とはいえ、この”怠け”というぼんやりした言葉では漠然とした不安が広がるばかりですから、”テーマ検索のしやすさ”とか"英語でもサマリーを書く"とか、具体的な案件に明瞭化してこうと思った次第です◎
by wavesll | 2016-11-02 18:58 | 書評 | Trackback | Comments(0)

武士の家計簿をみた -算盤の音響と時代の変遷を超えていく力

BS JAPANでやっていた『武士の家計簿』をみました。

『武士の家計簿』 予告


磯田 道史 / 武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新(新潮新書)を下敷きにしたこの物語、地味ながら面白く見れる佳作で。影響されやすい私はXperiaに早速家計簿アプリを入れてしまいましたw

上に書いた元となった新書がかなり面白そうで。

Amazonページに寄せた著者のコメント
東京・神田の古書店で、加賀藩士がつけた「家計簿」が発見された。饅頭ひとつ買っても記録した詳細なものである。天保13年(1842)から明治12年(1879)年まで37年分が残されており、金沢城下の武士の暮らしぶりが手にとるようにわかる。

家計簿をつけたのは加賀藩御算用者(おさんようもの)・猪山直之。藩の経理係であり、将軍家から前田家輿入れした姫様のそろばん役を務めていた。仕事が経理であったため、自分の家でも緻密に家計簿をつけていたらしい。彼は、年収の2倍をこえる借金を抱え、年18%の高利に苦しんでいた。妻の実家に援助してもらい、お小遣いも現在の貨幣価値で5840円におさえられていた。しかし、天保13年に一念発起して家中の家財道具を売り払い、債権者と交渉して借金の整理に成功。「二度と借金地獄に落ちるまい」と、それ以後、家計簿をつけはじめた。

その後、猪山家は家運が急上昇。江戸時代の武士社会では、猪山家のようなソロバン役人は低く見られていたが、維新の動乱期になると、会計技術者は兵站係として重宝された。直之の子、猪山成之は明治政府の軍事指揮官・大村益次郎にヘッド・ハンティングされて兵部省入りし、のちに海軍主計となって東京に単身赴任する。その年収は現代の3600万円にもなった。一方、金沢に残された成之の従兄弟たちは政府に出仕できず、年収は150万円。明治士族の厳しい現実である。

本書では、なるべく、猪山家の人々の「声」を掲載することにした。幕末明治から大正にかけて、激動期を生きた家族の肖像写真をそのまま見て頂きたいと思ったからである。
あなたは猪山家の物語に何を想われるであろうか。
大層面白い感じに聴こえませんか?映画を超えてそう。
「大きな社会変動のある時代には、『今いる組織の外に出ても、必要とされる技術や能力をもっているか』が人の死活をわける(p.218)」
とのこと。古書店で一次資料を発見するエピソードも含め興味深い噺を読めそうで、倹約ついでにまたしても早速図書館に予約を入れてしまいました。

映画についてですが、世間体や体面の為に借金を重ねてしまう武家社会の現実に対して、家財を売り払ってでも借金取りと交渉したり、或いはArtやDIYの力で"貧乏の苦労"を"工夫の楽しさ"に変えていく猪山夫婦に生きる力を魅させてもらいました。

身の丈に合った、持続可能な人生のファイナンシャルプランは大事だなと思いました。そして生きる工夫に勤しむ人に「貧乏ったらしい」なんて蔑む人間の心のさもしさといったら無いなぁとも思ったり。

と、同時に、困窮を解決する策として倹約のみが照射されていましたが、”仕事を創って金を稼ぐ”という策も今を生きる我々としては観たかったなぁとも思いました。結局息子の成之は高給取りになるのですが、現代の物語で置き換えるなら起業家精神的なものを江戸時代に見出した話なんかもみてみたいです。

また映画をみて、フィールドレコーディング的な音響好きとしては加賀藩御算用者達が一斉に鳴らす算盤(ソロバン)の音が"これ良い音だな"と想ってw

そこで算盤の音響作品はないかと検索してみると、ASMRモノに混じってこんな作品がYoutube上にありました。

弾かれる音 ダイジェスト


服部麻耶さん(名古屋学芸大学メディア造形学部映像メディア学科3年)の作品で、
そろばんを使ったパフォーマンス作品です。
プログラミングによりランダムに映し出される数字を計算しそれによって弾き出されたそろばん特有のパチン、パチンという音をリアルタイムで録音、またそれを遅らせて再生させ増幅させています。
音を積み重ねるということでそろばんの音が迫ってくるような感覚が生まれ、感じたことのない空間を体験していただけたら幸いです。
とのこと。Yosi Horikawa - Bubblesを生でパフォーマンスしちゃったような素晴らしい演奏だと想いました。ほんとソロバンの音響作品があるとは流石だ◎

新書を読み終わったらまた追記したいと想います。今年公開された『殿、利息でござる!』も磯田さんの原作だそうで。そちらも機会があればレンタルしてみようかな。

cf.
Sports Fieldrecording スポーツ音響楽曲群

The Vegetable Orchestra・おみそはん・Yosi Horikawa・NANTAのお料理音楽
鉄道音楽III両集
Yosi Horikawa - Artとしてのサウンドスケープ
和田永のエレクトロニコス・ファンタスティコスがスゴい!
by wavesll | 2016-10-27 20:50 | 映画 | Trackback | Comments(0)

三島由紀夫 『葉隠入門』に想起する侍の魂、男のマナーそして現代を生き抜く術

c0002171_2053267.jpg三島由紀夫 『葉隠入門』を読みました。この新潮文庫版には『葉隠入門』の他、笠原伸夫訳の『「葉隠」名言抄』も収録されていて、鍋島藩に仕えた山本常朝自身の言葉も見ることができました。

さて『葉隠』。佐賀出身NUMBERGIRLのNum-Ami-Dabutzを初めとして幾度となく聴いてきた『武士道とは死ぬことと見つけたり』の理論。無論この精神姿勢は本書の哲学の中心となる概念ですが、思った以上に侍でない現代の人々、とりわけサラリーマンに響く箴言達だと感じました。

例えば"批判の仕方"に関して

意見して人の欠点を直すのは大切だが、意見の仕方に骨を折る必要がある。他人のやってることを批判するのは簡単で、言いにくいことを言ってやるのが親切だと大方の人は考えるようだが、これは何ら役立たずだ。いたずらに人に恥をかかせる悪口で、気晴らしの類でしかない。
意見はまずその人がそれを受け入れるか否か良く見分け、相手と親しくなり信用されるようにしむけるところから始めなければならない。その上で趣味の方面から入って、言い方も工夫し時節も考え或いは手紙、或いは帰りがけに、自分の失敗を話したり、相手の良いところを褒めたり、そうした上で欠点を直してゆくというのが意見である


どうです?かなり『葉隠』のイメージ、変わりませんか?この他”欠伸を止める方法”や”翌日のことは前の晩から考えておくこと”、”色んな事態を前もって検討しておくこと”、”まず勇気をもって着手せよ”、或いは”上役は倹約ばかり説かず、少しは見逃したりすることで下が安穏できる”とか、"正義に惑溺すると真理を見失う、第三者に相談して傍目八目を利用するのも書物で古人に学ぶのも良い"とか、"過ちの一つもない人間は信用できない"、"利口さを顔に出すものは成功しない"、"名人も人なら、我もまた人"、"役職者は上には厳しく目付けし、部下は褒めること"、"初対面のつつましさで付き合うこと"、"好人物は人に後れを取る、強み(バイタリティー)にあふれている人間でなくてはならない"や"昔は良かったと懐かしがってばかりいてはいけないし、逆に現代風ばかりよいと想うのも思慮が浅い"、"会議の前に根回ししておくべし"、"刀(意地)は抜き身ばかりだと人が寄り付かず、納めてばかりいると錆び付く"等、現代人でも通じる渡世術に満ちていました。

一方で武士ならではのダンディズムというか男らしさを示すものも多く、何事も自分一人で国を背負うくらいの高慢さを持って事を行えとか、威厳を保つために言動を厳しく律したり、顔色が悪い時は紅を指しても威を示す身繕いなど、男としてのマナーがかなり語られていて、こういう形でのマナー論だとしっくり受け止められるなと想いながら読んでいました。

さて、そういったプラグマティックな付録がありながら、『葉隠入門』はしかし三島自身の哲学も色濃く『葉隠』を読み解いたテキストでした。

『葉隠』が書かれたのは天下泰平の時代における死への欲望であり、三島がこの文章を書いた平和な戦後においても、メメント・モリが魅惑をもって輝くという論拠。死が遠ざかるほど、人は死を求めるのではないか、三島はそう説くのです。

男の女性化が進み、意気のある、秘する闇のある人間がいなくなっていく明るい時代への反骨の精神。福祉国家の倦怠、社会主義の抑圧、穏やかな世の中に対する怒りを三島の文章からは感じます。生が薄くなることへの怒り。爆発的なエネルギーを持って死ぬ気で物事を為す、一瞬一瞬を生き、失敗したら死ぬくらいの気概が逆に人間を解き放つことになるという『葉隠』の哲学に三島は魅了されたのだと想います。

単純な功利主義では"死ぬより生きた方が得だ"となり誰かの為に殉じることも何かを為すため身を投じることも小賢しい人間はできない。西洋は生の哲学を日本に教えたが、享楽や利殖を追うだけの人生に何の価値があろうか?この問題意識はマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でニーチェの"末人"を引用して伝えたものに通じる気がします。

神風特攻で死ぬことも、或いは自分で自殺を選ぶことも、運命と自己選択の両方が(程度の差はあれ)混じっていて、真理としてただ圧倒的な死だけがある。そして死を身近に想うことが生を輝かす。三島はそう論じています。

三島のこの思想に触れた時に私の頭に浮かんだのは村上龍最良の後継者であり震災後文学の最高傑作としての『シン・ゴジラ』(飯田一史)でした。この記事の中で語られる村上龍の変遷は、興味深い提示になると想います。

つまり、『限りなく透明に近いブルー』の頃は、経済発展の平和に倦む人間たちが生を実感するには暴力かセックスかスポーツしかなく戦争を起こすことでしか日本という国は生への切実な思いは得られないと考えていた村上龍が近年『カンブリア宮殿』等を手掛けるのは、"長らく続く不況の中で、企業こそが『生き抜く危機意識』を体現した存在となっている"ことに気付いたからだという論旨。

今現在の日本は、長らく続いた昭和・平成の"戦後の平和"が翳りつつあります。震災による津波の衝撃、福島原発という不安・穢れの残存、毎年数万人の自殺者が出る経済状況、そしてイスラム過激派による全球的なテロ。台頭する中共、暴走しそうな北鮮。さらには安倍首相による"戦前"を思わせる政治的な動きは、"戦後"に蹴りをつける段階に日本も否応なしに至ってきたことを示していると想います。

そういった中で、惰眠を貪れる贅沢な状況は日本においては終わり、三島がこの書を書いた頃とはパラダイムが完全に変化したようにも想うのです。今、特に若者はかなり死に近いものを身近に感じる時代になりつつあるというか、楽に生きれる時代はとうに過ぎ去ってしまった。そう私は感じます。

そのストレス状態で更に死を想うのは鬱送りになってしまう恐れもありますが、私自身は鬱の末に『もし俺が死にたいのなら今すぐ死んでいるはずだ。俺は生きているのだから、生きていたいんだ。みな、色んなことを勘案したうえで生き方を選択しているのだから、全部ひっくるめたうえで"みなやりたいことをやりたいようにやっているんだ"』というアドラー心理学的な意識へ達したので何事も突き詰めるのはいいことかもしれないなとは思います。死んだら終わりだけど、最悪でも死ねばもう自分の生は関係なくなる、この考えで楽になる人はいると想います。

侍の魂を現在へ受け継ぎながらも、今はどちらかというと武者というより実務家としての侍のメソッドを会得して、江戸町人的な「いき」の塩梅も活かしつつ、この時代をSurviveして渡っていければいい、それで何かを成せれば万々歳。今私はそう思う次第です。


cf.
SMiLE.dk 『Butterfly』

Ay, iyaiyai,
Ay, iyaiyai
A-a-a iyaiyai,
私のサムライは何処?

あの人を探しにきた
ニッポンに
私のサムライを探すために
強い人
ちょっとシャイな人
そんなサムライが私には必要なの

Ay, ay, ay,
私はあなたのチョウチョだから
グリーンやブラックやブルーの蝶々が
空を染め上げる
Ay, ay, ay,
そんなチョウチョみたいなものよ
グリーンやブラックやブルーの蝶々が
空を染め上げる

森の中を探す
丘の上を捜す
私のサムライを探し回る
後ろ向きにならない人
私を掴んで離さない人
そんなサムライが私には必要なの


エレファントカシマシ 『昔の侍』
ウルフルズ 『サムライソウル』
Lance Mungia 『SIX STRING SAMURAI』


Samurai - Djavan - Luz

Ah,
多くの欲望
わが心の内に…

Ah,
俺を苦しめてくれ
殺しかけてくれ
殺さないことが、俺を傷つける

やれ…
何も言わずに
受難の館で

離れてくれ…
君が望んだときに
侮辱してくれ
そして俺の肌を撫でてくれ

月よ満ちてくれ
深く耀くために
熱情の暗黒

闘おうとした
愛の力に反逆しようとした
しかし俺は破れ勝者に跪いた
奴隷になった
サムライの奴隷

しかし俺は幸福だ
それは愛だと噂される
魅了される


SHERBET(浅井健一) きせき
 ―平和な世界がやってきたらきっと僕は退屈で生きてはいけないだろう 生きてはいけないさ

by wavesll | 2016-09-08 22:15 | 書評 | Trackback | Comments(0)

九鬼周造 『「いき」の構造』を読む -民族から生まれた精神性・価値観は国外に互換し輸出入は可能か?

c0002171_5371069.jpg九鬼周造著 『「いき」の構造』、哲学者九鬼が生きた現実を闡明にしていく本書、私は数年前、図書館で見掛け"なんか面白そうだな"と手に取ったのですがその時は借りず、数年経った今"よし、読んでみよう"と読み切った次第でした。この藤田正勝氏による全注釈が付いた講談社文庫版は章ごとの解説も含めとても読みやすく仕上がっていました。

初端から「言語というのは各国語で交換可能な物か」という問いが提示され、興味深い。
フランス語のCiel, Boisは英語のSky, Wood、ドイツ語のHimmel, Waldとは完全には一致しないという話。
これは実は私自身も、
"「猫」という単語は日本で見られる猫から立ち上がる言葉であって、CatやGatoはやっぱり英語圏やスペイン語圏の猫から立ち上がる概念だから、それぞれ微妙に異なるのではないか"
と考えたことがあって、同じ問題意識をもって読めました。言わば"猫という言語→実在する猫"ではなく"実在する猫→猫という概念"というディープラーニング方式で人は「猫」という言葉/概念を体得すると想うのです。

民族的な特殊性が言葉に現れる顕著な例として、九鬼はフランス語のEspritがドイツ語のGeistや英語のSpirit, Wit, Intelligenceと交換可能か?という問いを放ちます。これらの言葉は各々の国の民族性や風土に根差した魂のありようをもって存在している言葉、九鬼はそういうのです。

そして日本語においては「いき」という概念が、この種の民族的色彩の著しい語で、Chic、Elegant, Coquet等では完全に互換することは出来ないと九鬼は述べます。「いき」に近い感覚を形相的には西洋文化にも見つけることができるけれど、それは偶然似通っただけで、意味体験としての「いき」の理解は本質を問わなければならないと述べるのです。

そこから「いき」とは何かの語が示す事柄の説明に入ります。九鬼は江戸時代の文献などを駆使して、「いき」とは

・異性に対する「媚態」:一元的の自己が異性との間に可能的関係を構成する二元的態度

・「意気」すなわち「意気地」:「いき」は媚態でありながら尚、異性に対して一種の反抗を示す強みを持った意識

・「諦め」:運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心。これにより垢抜けにあっさり、すっきり、瀟洒なる心持ちとなる

要するに「いき」とは、我が国の文化を特色づけている道徳的理想主義(意気)と宗教的非現実性(諦め)との形相因によって、質量因たる媚態が自己の存在実現を完成したもの。「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということができないだろうか?そう九鬼は定義するのです。
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その後、九鬼は上品―下品、派手―地味、渋味―甘味といった軸から「いき」の座標を求めようとします。「いき」は媚態であるのだけれども、派手すぎたら野暮になる、また「いき」は意気の反抗心もあるから上品すぎても違う。「いき」は甘味から渋味に至る路の間にある、と九鬼は論じています。

確かに日本人の好きなテイストって「このケーキ甘すぎなくて美味しい」とか、甘ったるさのみなのを嫌います。また媚態というか、モテたいという意味でも、あんまりがっついてる人は嫌われるというか、恋人が欲しくても出会いは自然じゃないと格好が悪いといった感じ、あるかもしれないよなーと想いながら読んでいました。

面白いのは意気・野暮・甘味・渋味・上品・下品・派手・地味を各頂点として「いき」を図示しようとしている点。この直六面体を使えば、「雅」や「乙」、「きざ」そして「いろっぽさ」等も求められるそうです。

ここから「いき」が現れる具体的事例が挙げられていきます。湯上りは「いき」だとか、横縞より縦縞が「いき」だとか。ただここら辺はそこまでピンとこなかったかな。音楽において完璧な調和よりちょっとした変位の崩しがあるほうが「いき」だというのはちょっと面白かったです。

そして結論部。

体験を味わう際、五感は独立しているのではなく混然一体となり連携する、その中で聴覚と視覚は物事の違いを分けていく働きがあり、それは感覚上の趣味といえる。趣味とは道徳的及び美的評価に際して見られる人格的および民族的色合いのこと。ニーチェは「愛しないものを直ちに呪うべきか」と問い「それは悪い趣味で、下品だと思う」と述べています。

「いき」という趣味を九鬼は「媚態」「意気地」「諦め」とこれまでいってきましたが、この結論部ではそれらの観念的分析では抜け落ちる間隙があることを率直に認めています。

その上で、外国にあるものでも「いき」に似た感覚の具体的事象(芸術作品や仕草、建築)があるかもしれないけれども、「いき」の持つ本質は日本民族に固有のものであって、海外のもので「いき」に感じるものがあってもそれは「現代人の好む何ものか」でしかない、「いき」はわが民族存在の自己開示として把握されるべきものであると〆ます。

ここの議論で私が思ったのはHip HopはNYの黒人のルールに則らなければならない、或いは日本人がロックをやるのは馬鹿らしい、といったような論点、つまりその土地固有の魂から出ずる表現や精神様態は、域外に輸出、或いは逆に輸入可能なのかという点です。

九鬼は本書の草稿を巴里において書いたそうですが、異国の地から逆に日本が照らされたこの本はしかし、未だ世界が分断されていた、世界が広くグローバル化に塗り潰される前の世の中に書かれたようにも想います。

インターネットが地球を覆い、全球化した世界で生きる先進国を初めとする若者たちは一種文化に壁など意識しないのではとも想ったり、しかしISを初めとして民族・宗教間対立が起こり、右派勢力が台頭するのを見ると人間、妥当な"自分たちの国・文化"と想える範囲が広すぎるのも辛いのだなとも思ったり。

そんな中で、共生していく為に、まず互いの異なる点を真摯に見つめて、単にそれを一面的な価値観で塗り潰すのではなく、寧ろその色合いのグラデーション、或いは粒立ちが維持されたまま共に生きる、点描のような世界像へ向けた思索の試みだったのではないかなと、私は想いました。

XXYYXX // XXYYXX // Full Album


最後に最近気に入ってる「いき」な音楽を。海外産だけどw1995年生まれの俊英が2012年に出したこの音楽、音のシンプルさに、ジャンルも国も違うのだけれどもTHE BLUE HEARTSのような瑞々しい感性を感じました。ロックはともすると野暮になりがちだし、野暮を良しとする文化かもしれません。そういった意味で文化圏が全球化したインターネット以後の世界で生み出される色気と抑制が織りなすビートシーンに日本人の「いき」の感性は寄り添える気がします。
by wavesll | 2016-09-07 07:16 | 書評 | Trackback | Comments(0)

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む

c0002171_5405238.jpgマックス・ウェーバー (著), 中山 元 (翻訳)『日経BPクラシックス プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読みました。

ドイツにおいてプロテスタントが経済的な上層の地位に占める割合が高いのは何故なのか?を論の切っ掛けに、ベンジャミン・フランクリンが言うような≪「時は金なり~したがって時間を無駄にせず勤勉であれ」、「信用は金なり~他人との取引において正直・誠実であれば信用は高まり、さらなる利益を生む」、「金は金を生む~だから浪費するのでなく節約と合理的な運用が必要」≫という自分の資本を増やすことを自己目的にする倫理、「資本主義の精神」はどこから来たのかを論じます。

その結論を述べると、『天職(ベルーフ、コーリング)という観念を土台とした合理的な生活態度はキリスト教的な禁欲から生まれたもの』とマックス・ウェーバーは解き明かします。

ルターの宗教改革からカルヴィニズムが生まれ、とりわけ"神によって救われる人間か救われない人間は予め定められている"という予定説が人々に"私は神によって救われるのか否か"と常に不安定な状態をもたらし、"労働を天から与えられた職業"と考え、仕事に打ち込み神の栄光を現世に表すことに従事することによって"自分は救われている"と確信するための手段にしているとウェーバーは論じます。

プロテスタントの禁欲の教えは全てのキリスト者に対して、できる限り多くの利益を獲得するとともに、できる限り節約するように戒めます。この勤勉と節約により富が蓄積されるのです。

日本のお釈迦さまは『蜘蛛の糸』のように試しに罪人にチャンスを与えてサイコロを振りますが、全知全能なるGodは全てを見通しているはずだ、という論争。まさにロゴスの闘いというか、みな日本教なこの国にいると中々信教の実質的な影響力は感じずらいですが、海外では倫理というのは宗教から生まれえる、だからこそ異教徒・異民族と"常識"がぶつかり合う。そんな17世紀~19世紀欧州の空気を感じました。


c0002171_6354564.jpg今回の読解に非常に援けになったのは牧野 雅彦 (著) 新書で名著をモノにする 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 でした。ある意味『プロ倫』本体より面白い読書体験だったかもしれません。

『プロ倫』の前段階としてマルクスの『資本論』があり、ウェーバーはニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』にも大きな影響を受けています。また同時代のゾンバルトとも大いに論戦を行った。そういった流れを踏まえて『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』やその他のウェーバーの論文を論じたいい新書でした。

マルクスの『資本論』は富の基本形態は商品であり、商品の価値には使用価値と交換価値があり、マルクスは価値の源泉はその商品に投下された人間の労働だと言います。
労働力という特殊な商品は、その価格(多くの場合労働を再生産できるだけの賃金)を超えて働かせることができ、その剰余価値が資本家に搾取され利潤となり投資され、生産力が拡大されていく。とマルクスは論じます。

これに対しゾンバルトは『近代資本主義』において経済のシステムを「需要充足経済」と「営利経済」に分類し、個人などの具体的な需要充足を目的とする前者と飽くなき利益を求める後者としての資本主義経済を支える精神は単なる金銭欲や黄金欲とは異なっていると提示しました。

『プロ倫』はこれらの議論を受けての書物でしたが、ウェーバーは利潤追求の精神の直接の起源がプロテスタンティズムにあると論証したわけではなく、上に書いたようにむしろ利潤を追求しない禁欲的精神態度に由来し、天職に打ち込む態度をプロテスタンティズムは生んだというものでした。

ウェーバーの思想や問題意識の源泉を彼の個人史に求めるのは彼の知性に失礼かなとも思うのですが、脚注にあったウェーバーの個人的な事情は面白く読めました。彼は1897年に神経症に倒れ、病気からの回復過程で「プロ倫」等を書きます。不安から必死に逃れるため学問に打ち込んだウェーバー、ウェーバーは親に経済的に依存している「面目ない立場」に苦しむとともに母ヘレーネからの「職業を通じて己の使命を果たす人間のみが一人前」という圧力から解放されるために論文に打ち込んだのかもしれません。「資本主義の精神」を無限の利潤追求の精神でなく「職業義務」の観念の由来から検討するという課題設定という話は面白く読めました。

カルヴィニズムから生まれた禁欲による資産形成とその運用による資本形成は徐々に宗教的な熱狂は冷めていき、ウェーバーは「宗教的生命力に満ちた17世紀が功利主義的なその相続人達に残したのは何よりもまず、貨幣獲得もそれが合法的にさえ行われるならそれでいいという、恐ろしく―パリサイ的なといってもいい―疚しくない良心であった。『神に喜ばれるのは難し』という精神は消え失せた。こうして独特の市民的な職業のエートス(精神態度)が生まれたのである」と述べています。

ここの「パリサイ的」精神とは律法や規則に拘るだけではなく、それに従わないものを道徳的に非難し自分たちの道徳基準を強制しようとする攻撃的で強圧的な態度が「資本主義の精神」には孕まれているということ。

「疚しくない良心」とそれに基づく資本主義的労働者の形成により造られた近代的な経済秩序は「鋼鉄のような檻」と化しそこに住むのは「精神無き専門人、心情無き享楽人、この無に等しい者達は、自分達こそ人類が未だかつて到達したことのない段階に到達したのだと自惚れることになるだろう」とウェーバーはいいます。とこの「末人」は『ツァラトゥストラ』に出てくるものです。

ルサンチマンに牽制され、理想であれ富であれ遠くを見据えものに挑む努力そのものに人々が倦み飽きる時代が来る、彼らはそこそこの生活に満足し、適度の刺激と健康さえあれば満足する。その点で皆平等で、そう思わぬものは狂人として排除される。彼らは自分達が知識があり賢明で、ぬるま湯のような生活が本当の幸福であると想いこむ。そんな時代が来るだろうとニーチェは言うのです。

論文の最終局面に「末人」を書いたマックス・ウェーバーの問題意識は現代にも響くものがあります。

ウェーバーは神々から召命された天職を全うする、といった精神から倫理が消え、欲望も理想もなくなる社会が来るのではと想ったのかもしれません。何にも情熱を持てなくなった時に、その世界は徐々に冷えていくのか…? ロボットが労働を代理するようになればますます人間が"働く"意味もなくなります。さらに言えばAIが人間を知能で越えるシンギュラリティが起きれば"理性"すら意義を失い半ば家畜になってしまうかもしれません。

一方で、マネーを求めるレースにより、需要充足経済の朴訥とした時代が終わり、厳しい競争時代になっているとも言えます。経済選良達が弱者に対して無慈悲性を出すのは"努力"がトリガーとなっている気も。

私自身の考えを言えば、経済活動によって神の国を造るというよりは、CERN等の宇宙物理理論を発展させていくことこそ人類の使命であり、最もわくわくする事柄に感じますが、それも"人類"の名を借りた科学振興なのかもしれません。お金を別の方向に使えば救える悲劇もあるのにとも思いながらも、ついついマネーを心躍る方向に遣いたいとも思ってしまう。

その時"人間の使命、或いは地球市民の喜びとは?"或いは個人間における"人間らしさ"とは何かを考える事こそが社会的・哲学的課題になる時代、シンギュラリティは2045年ごろやってくると言われています。

その問題意識に通じるものを百年前に描いたウェーバーに感嘆するとともに、"人間"をもっともっと知りたい、社会システムを思考するためには人間理解こそ重要なのだという気持ちが高まった読書体験でした。

俺で良けりゃ必要としてくれ CALL ME CALL ME
電話一本でいつでも呼んでくれ 後悔ないようにしとくぜ
「人間的」とは何かな 答えの数が世の中の形
何年過ぎても同じさ 人が人の上を目指し 何年先でも同じさ 「I LOVE YOU」 「I LOVE YOU」が灰になる
―YOSHII LOVINSON/CALL ME



by wavesll | 2016-08-31 08:04 | 書評 | Trackback(1) | Comments(0)