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レコメンドはセレンディピティを破壊するか

最近日々が充実しているというか、5月に入ってからこっち遊興を盛んに行っていて。

そんな中でも特に個人的には嬉しかったのがカザフスタン民族音楽コンサート@東京都立中央図書館太尾堤緑道のヨコハマビエンナーレ'89の彫刻遺産群。というのもこれは私自身が足で稼いでみつけたモノゴトだからです。

カザフスタン・コンサートは元々はTwitterで広尾の図書館でカザフスタン展をやっているのをみて先月訪ねた際に館内のポスターで知ったもので、太尾町の緑道は偶々初めて訪ねた時に見付けたもの。

今、自分のWeb巡回のほとんどはTwitterを通してに為ってしまっていて。自分自身でフォローした方々が発信してくれる情報だから基本的に自分好みの情報が集まってくるのですが、段々換気が必要になるというか空気に新規さがなくなって来る感覚があって。

特に素晴らしい景色とかを先にWebでみて興味を惹かれてその地に行ったりすると、何だか”答え合わせ”をしてしまっているような気になることがあります。

"先に概念を知ること"が世界から神秘性を失わせることはあるのかもしれません。例えば私は幸運にも暈(ハロ)環水平アークをその概念を知る前に体験し大いに驚いたのですが、もし既知の現象だったとしたらあんなにも自然の驚異を感じてはいなかったと想います。先に知識を得ることで、フレッシュな驚きが損なわれてしまう。

自分で編んだ居心地のいい濃い情報網よりも、寧ろ街中でエンカウントする広告の方が”既知でない”。或いは自分の足でみつけたモノゴトの方がWeb定期巡回路よりも”自分とって特別な情報”となるのは、生身で五感を駆使した方が”自分事”になりやすいからかもしれません。

ただ、Webが未知感のある情報を届けてくれないかというとこれは勿論違って。

例えばYoutubeのお薦め動画はなかなか馬鹿にならなくて。過去の閲覧記録からのお薦めで私が好きそうな未知の音楽をYoutubeで発見する事が結構あります。Webがセレンディピティを破壊するのではなく、Webメディアのフィリタリングを通して紹介されたモノゴトに”手垢がついた”と感じてしまう、というのが論点なのかもしれません。新しい血を入れ続けることが肝要なのかも。

兼好法師は「レアモノを有難がるのは情弱だ」と言っていましたが、自分が関わる度合いが高い経験ほど充実感・特別感は増していくもの。Webには生の第一次データの発信も大量にありますから、メディアの選別を経ない野良データに当たって行ったら、効率は悪くなるかもしれないけれど、Web体験とセレンディピティがより両立できるのかもしれない。そんな事を想いました。

追記
上に書いた話は、私がメディア漬け人間だからこその感慨なのかもしれません。多くの方々にとっては”そりゃ自分でやった方が遣り甲斐あるだろ”かとw

私はWebにモノを書き始めた時に”内輪受けだけは嫌だ”と強く想っていました。私を個人的に知らない人にも価値があるものを書きたいと。

その流れでメディア一般にオーソライズされていることについて書くことが多かったように思えます。上に書いた”自分が関わる度合いが高い経験ほど充実感・特別感は増していく”というのは逆に言えば他者から見ると”ンなこと他人には関係のないことだ”となるでしょう。

実際、鴎庵の記事別アクセス数は取り上げる題材にかなり左右され、今月でいうとオザケンのライヴ感想レポが一番集めていて。カザフコンサートや太尾町の彫刻はニュースネタとしては客観的には確かにコアなさざれ石で、私自身の筆力の足りなさ故に惹きつけられてないのは精進しないとなと想います。

その上で今の自分がより”野生の物事”感に惹かれるのは、Twitterによって自分の関心による情報収集の濃さに満たされたからともいえると想います。自分の好きな味だけを思う存分食べられた故に次の段階へ行けるようになったと。

何か物を書く上で必要なのは廣く情報を得るだけでなく、寧ろ情報を絞ること、時に情報を断つことで己の密度を高めて内から湧き出す声に耳を澄ますことだと感じていて。ネタがマイナーでも逆にメジャーでも奥い語りが出来たら独自性のある記事が書けるだろうと。

今新しい心持ちを持てているのは鱈腹情報摂取できた結果で、Twitterに感謝しながら次の展開を張っていけたらと今は想う処です。

cf.
13年前の個人ニュースサイトをメインとしてやってた頃の記事。昔の方が堅い記事書いてたなぁ、今は緩いw



by wavesll | 2018-05-16 04:01 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

言葉がヴァーチャルであれない時代のネタづくりは心臓の声を聴くことかもしれない。



Web上での言葉の取り扱いがどんどん厳しくなっている昨今。おいそれとネタで罵詈雑言を使うと脅迫だ、名誉棄損だ、差別だ、ミソジニーだと世の中がどんどんクレンジングされているなぁと想います。

こればっかりは公に意見を書いているものですから居酒屋での与太話のような内輪のノリではいけないんだなと。”ネタじゃないか”というのは今の時代では通じず。実際圧縮空気を尻に入れて人が死んでしまったり、悪影響を無視できないところはあります。

今はShow(つくりもの)と実生活(現実)が峻別されずらくなっているというか、Showにはリアリティの追究が求められ、一方で現実が”盛られる”というかShow化している。そんなマーブルな状況の中でネタがネタで在れなくなっている。

人それぞれのポジションによってネタと現実の線引きに齟齬が生じ、その認識のずれから軋轢が生まれている。そう感じます。

そして本当にクローズでないオープンな場で発する言葉であれば、ポリコレに配慮せざるを得ないのが現状だと想います。

仮に原理原則のない恣意的な指弾が行われるにしても、懇切丁寧にハイコンテキストを説明するだけは怒りの炎上は避けられなかったり。

言葉はヴァーチャルだけれど、身体的な嫌悪感やイラつきは実体ですから。そこを論拠に相手が話していることを無視して論理で話しても平行線だし、寧ろ”頭でっかちにならずにスマホを捨てて人と交われ”が解になる場合も多いかもしれません。机上の対義語は身体性だと想うので。

話は変わって。Youtube, Netflix, Spotify, SNS...今あまりにもFREEなShowがありすぎて。そしてCGも含め修正が効く”ヴァーチャルデータ”が氾濫しすぎて。それ故にShowとしての価値が暴落しているのかもしれません。

逆に生身の価値が上がっていることはあると想います。スポーツが価値を高めているのもその流れというか。形而上的な議論の価値が落ちて、全てがネタ(≒ヴァーチャル≒嘘)とされてしまう今は”プラン”には価値がなく実装によってのみ価値が証明されるのだと。

体感化する事と、その際に起きる反応を仁鍛する事がこれからのネタには必要になるのかもしれない。鍵となるのは身体性。脳だけでなく心臓の声を聴くこと。そんな噺を認めてみました。

by wavesll | 2018-02-14 19:44 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

”理解されない”という傲慢を越えて


その昔、このサイトが羅列型ニュースがメインだった頃に目にした一言コラムに「自分で書いた文章はすべて名文」というものがあって。その意は”書いてあるバックグラウンドをすべて理解できるから価値が認識できる”というもの。

確かにそうかもしれません。逆に月日が経つと自身も別人になっていくのか、大昔の自分の書いたものとか読むと”こいつ何を言いたいのかさっぱり分からない”なんてこともザラにあってw

昔の『気分』だけで書いた文よりかは今は客観的な情報説明を入れているつもりですが、また月日が経ってからみたらスッカスカに感じるかもしれません。

そんなこともあって、想うに”理解されない”なんてのは”理解しにくく書いている”結果なことが多いんじゃないかと。

大昔の私は”こちとら読解力があるから周りの言うことを理解できるけど、周りは俺の言うことの価値を理解できないことが多い”なんて驕り高ぶっていて。恥ずかしい限りで。

確かに自分は”面白がる”ことは得意かもしれませんが、”面白がらせる”のはどうか。鑑賞と創造は脳の遣う部位が異なる気がします。

様々に想念を拡げて楽しみをみつけることと、表現したいことを伝達するために意思決定し形に切り落としていくこと。逆に鑑賞の時でも”自分ならこの主題、題材、技法でどんな感覚を造るか”なんて考えたら脳の新領域が駆動し面白い、というのは脱線余談。

私にとっての「面白い」には「(私にとっての)新領域、理解できる際」という側面があって。そうなるとプレゼンできるほど咀嚼せずに「これ面白いでしょ」と出すことも多く、”何がどう面白いのか”提示できなければ当然伝わるものも伝わらないなと。

それでも”情報を出すことはサービス”だと思って情報も出さずにリアクションも薄い周囲に昔は”サービス精神が足りない”なんて思っていましたが、今は徐々に”あぁ、されたい『サービス』のベクトルが異なっていたんだ”と気づいて。

私は論理や美、刺激は好きなのですが、怒りや羞恥心等の心理的負荷は耐えられなくて。或いは慈しみや尊敬すらこそばゆく。“人間味”と呼ばれるものが苦手なのかもしれないと近頃思います。逆に多くの人はそれを大きく好む印象で。こうした要素が弱い人間は薄っぺらいと認識されるかもと。

”面白いこと”は余剰で”人間味のある行為”があるかどうかでエリミネートされる。そこの認識の齟齬が問題で、心のタフさと気配りは養うべき課題。その上で”そうか、感性が異なる人間と無理に一致させることもないじゃないか”とも想って。

『他者について分かるところは分かるし分からないところは分からない、けれどそれぞれのテリトリーを認めあって、共にそれぞれに生きれればいい』。本質的に必要なのは空間であり、認知の多様性を認めるから世界は豊穣。

理解しえぬ領域だからと言って価値がないわけでなく、寧ろ可能性の宝庫。異なる見識もまた玉である。また敬意の示し方は様々であって、熱心に喋ることより余裕を持って訊くことが有効な場面も多い。そして他者は他者。

第三者に伝わりやすいように努めたらそこからは”伝わった分の奇跡”に認識を向け、そして自分も他者に無理に付き合わず”理解できるという驕り”から身を離すことが肝要、期待値は甘え、出来得る限り零に近づける、それがWebで10余年I/Oをしてきて得た最新の知見でした。

by wavesll | 2018-01-29 04:37 | 私信 | Trackback | Comments(0)

あの早朝から23年。阪神大震災の震災文学から次代への眼差しを想う

満月の夕/ソウル・フラワー・ユニオン

23年前のことは実はあまり覚えていない。当時10歳。小学生の頃の記憶はぼんやりしている。寧ろ後のTV映像で高速道路とかが崩れたのをみて記憶が増大していったのが大きい。

幼心の体感ではあの時「頑張ろう、神戸」と首都圏から切り離されていたのを覚えている。その印象からか311時の「ニッポン」「絆」推しには「東京が揺れたら日本全体か」と思ったものだった。

無論、東日本の多くの場所を津波が襲い、いまも福島第一が現在も続いているという意味で日本が抱える大きな出来事だったのは確かだが、阪神大震災の時の首都圏の空気と311の時の報道を思ったとき、「東京は自己中心的なのではないか」との考えが去来したのは確かだった。

されど、シャルリーエブドの時シリアやリビアとかで「何故私たちのことは騒ぎ悲しまないのか」という声が上がったのもそうだが、身近なものを重要視してしまう本性が人間にはある。その上で“どう身近にするか”という意味で地場メディアの力が重要だろう。東京にはキー局があった。それはパワーの泉でもあった。

ネパールでもBBCやCNNはみれた。アル・ジャジーラもそうだが、全球的な報道・情報発信のプラットホームの存在は大きい。

正月に放送されたNHKBSのクマリの番組ではカトマンズの被災が大きく感ぜられた。ただ、実際に行ってみると、確かに爪痕は未だに残ってはいたが、人々の生活の活気と、思いのほか残る歴史遺産が印象深かった。

「何を伝達するか」の選別は、「力」そのものでもある。

あの時の震災文学として『いいひと』が“建物は再建されても、そこでの人の心や暮らしはまだ再建も癒しもされていないのですよ”と描いていて。東北を振り返れば今なお仮設住宅で暮らす人がいる。この23年、この7年、復興の馬力が落ちてきているのでは、と想ってしまう。建物ができても心の復興はその先なのに。

総体的に縮小のフェーズに今のこの国があるとして、新しい容への切り替えが必要として、そんな時に”ドメスティックの外”と小さな物語を連携させるような、そんな情報発信の土台を日本から出せないか。

一人一人の”現場の声”から発して一般意志の形成を行う途上に我々はいるのかもしれない。そのプラットフォームを創れたら、次代の一角獣となり、この国の50年を支えるのではないか。その為には”他者”と”自己”への客観的なまなざしがいるのではないか。あの満月の夜を描写したような、心を打つのは真摯なまなざしであるように23年目に想。

by wavesll | 2018-01-17 22:40 | 私信 | Trackback | Comments(0)

「面白いことを書く遊び」について

先日クローズアップ現代+にTwitter社のジャック・ドーシーCEOが出て、「TwitterはSNSだとは思っていません。SNSは友達・家族・クラスメート・同僚を探すツールですが、Twitterは全く違います。Twitterでは「関心」によって、誰かとつながるのです」と言っていました。

これには私もかなり膝を打つところがあって。私自身のTwitterの使い方も、RTが多いのもそうだし、自分のTweetも自分自身が主役というよりも「体験した何かがどう楽しいか」と何かの作品やイベントそしてニュースを具としたコミュニケーションが主だなと。

私みたいに「この飲み会の金で音楽や映画、展覧会行けるな」とか思っちゃう人でなしにはぴったり嵌るというか(苦笑) 勿論Twitterの使い方は一つだけではありませんが、「人」を押し出すよりも「作品/イベント/ニュースへの関心」が主だからこその繋がりってあるなぁと想いました。

ただ、こういう発話を「それは他人の褌でお前の手柄ではない」と想う人が結構な割合でいるのも理解できます。それにTwitterでも何かの感想よりオリジナルの写真や絵、動画や140文字で紡がれる独自の文章ネタの方が”いいね”で評価されてます。

先日ねほりんぱほりんでネトゲ廃人が取り上げられていて「ネトゲ廃人には 課金型と時間投下型がある」というのをほえーと見ながら”考えてみるとTwitterなんかもネトゲの一種かもしれない”と想って。

自然に生まれる”面白いこと”ってそうポンポンあるものでもないし、”俺、もしかして課金型とか時間投下型のプレイヤーになってないか?”と少し怖くなって。

勿論、好きな音楽や展覧会に行き観想した事ですし、Twitterの反応含めてそれが加速するのは時にいい循環でもあるのだけれども、遊びは遊び。それに振り回されてしまっては本末転倒だなと。

だから承認欲求や地位財としての消費からなるだけ身を離し自然に内発する心のままであることが大事だと感じます。

愉しい営みとしてのWebへの鍵盤打筆というか、「自分が読みたいものを自分で書いてみる」という基本に立ち返る重要性。そのヴォランタリーなコントロールが出来れば、SNSやBlogは「面白い、書きたい」への感性を増大させてくれ生活を豊かにしてくれますから。

私自身昔は周りの人たちに「最近面白いことあった?」とか雑に聴こうとしたり逆に”こっちはこれだけ書いてるのに何の反応もせずにフリーライドか”とか変に気張って失敗してきました。

今はいい意味で明きらめたというか、「しゃべりたいことがない人から無理に聞き出さなくても自発的に情報を発してくれる人の声で十分じゃないか」と想って。また「面白いことを何の見返りもなく書いてほしい」と強いるのはブラック企業的な価値観でもあるなと。プライベートは鬼門ですし荒らしたくもない。

その上でいつもTweetで愉しませてくれるフォロイーさんたちや、LINEで面白い噺を送ってくれる友。またBlogerの人やメディア上で好い番組や作品をだしてくれる人たちへは自然と親しい有難さを感じています。辺境探検家 高野秀行氏講演会 'N' 早稲田大学探検部カムチャツカ遠征報告会のように、公開してくれるものだけでも相当コアな噺聴けますしね。

「面白いこと探し」はあくまで遊び。けれどだからこそ本気になれるし、私ももっと純度の高い心が入った文章を画けたら嬉しい限りです。個人的には一週間くらい37℃台の熱を出したのが快復し対面したときに「最近面白いことあった?」と聴いたら「風邪が扇風機で飛ばされた」と応えた祖母の感性を目指したいですw

無論Face 2 Faceの場においては傾聴が主張よりも大切な場面は多いし、お互いの情報交易が平衡することが大事だと思います。或いはTwitterとかの半ば公道では余りに呟きすぎると嫌がられることも。そういった意味で、Blogのような自サイトで思う存分文章を認めて非同期の時間軸での発信をするって善いなと。

ゲームにおいて一番いいプレイは時間投資量で勝負するのでも課金チートで勝つのでもなく機知と技量の水準を上げていくことだと想います。此のサイトの記事でも単なる紹介レポートではなく黒田清輝展@東博 もう一つの坂の上の雲年を重ね今解る椎名林檎『平成風俗 大吟醸』の良さのように「論」があると良いもの書けたなと想います。 そうした本質的なLv上げならガンガンやっていきたいなと←意識だけ高い派にならないようにしないといかんですねw

by wavesll | 2017-11-30 05:01 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

Blogの対価

Webに文章を書くことを表現活動というのはかなり烏滸がましいですが、一種のアウトプット・サーヴィスを行っているものとすれば、ではその”対価”は何だろう?とも思います。

実は私の中でそれは答えが出ていて、”藝仲間”がいること”共に情報を送ってくれること”が対価かなと。

アナクロなWebの住民としてはROM(Read Only Member)には何処か釈然としない思いもあって。鴎庵は特に縛りはないですが、Twitterのフォローは呟きもリアクションもない方は外したりしてます。趣味のアウトプットだからこそ拘れるものだと思うので。

面白い藝を提供してくれる人たちと繋がれるのは嬉しくて。昔は情報発信しない人にけしかけたりとかアレな行為をしていましたが、今は反響営業が主で楽しくやれています。

ただ、こうして好きなことをWebで発信できていると、飲みとか年賀状かの付き合いごとに対する意欲が落ちるところはありますねw

相手からすると「Webで遊ぶのはともかくちゃんと行事には付き合えよ」とか「ネットでなく現実を生きろよ」いう感じかもしれませんが、コミュ欲が情報通信で満たされていると「Webで非同期でコミュニケーションできればプレゼン的に後にも残るし一番よくないか?」とか。「飲みの誘いの前に面白い噺があるかWebで試聴させろよ」とかw不遜だw社会性が無いw

まぁ、忘年会でだけ会うのもナンセンスというか、今の時代コミュニケーションしたいことがあったらWebですぐやりとりできますし、そういった非同期の対話が呼び水となって会った方が形骸化してないかなと。実際、やりとりすると必ず発見がある友には感謝がたえません。

恋人や家族がいて、仕事もあって。中々コミュニケーションにリソースを割けない。それなら年一で一気にやりたいというのも、わからんではないです。だからWebのアウトプットは強いれるものではないと思います。

ただ自分は、未だに何となく普段から場を共有する関係が好きで、ある程度密度のあるコミュニケーションをしたい。

とはいえ余りに濃いコミュニケーションは少数相手では負荷になりますから。直接話すパートナーと言える人達がいれば、したい話をしてもどっかで受け止めてくれる人がいる位の大海にボトルメールが投げられている今の環境はありがたく、”みなに好かれなくてもいい”自由を愉しんでいます。目下の処Twitter社が倒産しなければいいなというのが願いです(苦笑

今思ったのは私が飲み会よりSNSを好むのは、酒や飯を肴にするより、音楽や画、映画や文章など文化的肴をアテに話がしたいというのがより精確な処かもしれません。普段の暮らしの面白話もWebに書いちゃう人間なのでwそういった意味でPCやオーディオでネタを引き出せる家飲みなんかは好きですね。

人のプライヴェートへの関心が薄い、人との折衝を避けるという意味で、"本当の人生を生きてない文化中毒者”という指摘は考慮すべきだとは想います。

これは今に始まったことではなく学生の頃も「このサークル飲みの金でCDや映画を払える…」とかアレなこと想ってた人間でしたから、中々に筋金入りで…。それでも月一で普段合わない人や新しい人との飲みは入れ、新しい血を入れるよう努めている感じです。

cf.
◆人付き合いとWeb同期 文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値

◆何でも公開したいとみなが思っているとは限らないという当たり前の事実について
by wavesll | 2017-09-25 21:13 | 私信 | Trackback | Comments(0)

日清焼そばU.F.O.のCMがヤバいw

昔のU F O仮面ヤキソバン~その後のヤキソバン


日清焼そばUFO CM  吉川晃司&水原希子 からの 梅宮辰夫


日清焼そばU.F.O. CM 「エクストリーム!ヤキソボーイ 篇」 120秒 / 中川大志・藤岡弘、


日清焼そばU.F.O. CM 「エクストリーム!ヤキソボーイ2 篇」 100秒 / 中川大志・藤岡弘、


日清焼そばU.F.O.上海オイスター CM 「日清 上海オイスター エクストリーム!上海ちょいスター篇」110秒


面白CM 未確認藤岡物体襲来ww 藤岡弘 日清焼きそばU F O


日清焼そばU.F.O. 「インチキ超能力者のうた 篇」 180秒 / エクストリーム☆マリック


友達から教えてもらったU.F.O.のCM群。これは見入るw最近TVCMのキレが落ちたと感じていたのですが、こーれはキレッキレですね。
by wavesll | 2017-08-13 23:48 | 小ネタ | Trackback | Comments(0)

承認欲求を求めてもいいし、みなに好かれなくてもいいし、全てに肯定的でなくていい

pokka pokka / Fishmans


NUMBER GIRL - I don't know (ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2002) LIVE


私は面と向かって相手の気分を害することを言うことが苦手で。その癖Webなんかだと駄々洩れさせたりとかして口ならぬキーボードから災いを招いたりしてしまって。空リプの誤配もあったり、結局陰口ですしね。

また、「分からないこと」が我慢ならなくて。人から何かを薦められたときなんかも、その時魅力が分からなくても”この人が薦めるものなのだから、きっといいものなのだろう”と期待値を込めて肯定的な返答をしたりしてしまいます。

その後魅力が分かった時に「最初は分かってなかったのだけれども魅力が分かった!」と興奮気味に伝えて、「何で最初分からなかったときにそう言わないのか」と言われたことがあって。

"そうか、期待値込みでポジティヴを装うのも、それが期待値で今は分かってないと伝えないと裏切りになるのか"と気づかされました。

そう想って振り返ると、世の人は"わからないこと"には寛容なのだなと。

相手の魅力が分からない内は最強というか、どんなに無礼な発言をしても罪悪感は感じないというか。”そもそも価値がないことを分かっているんだ”というスタンスかもしれません。

寧ろ”価値があるんだ”と力説することの方がみっともないことと想われている節があります。いわゆる「承認欲求叩き」なんかも相手が今ある評価に満足せずに承認をさらに求めることに対するいらだちというか。

ただ、そもそも承認欲求それ自体はマズローの欲求5段階説の中のタームで。ネガティヴな色はありません。

食欲・性欲・睡眠欲の生理的欲求、風雨や危険をしのげる安心な暮らしがしたい安全欲求、集団に属したり仲間を得て孤独から逃れる社会的欲求(帰属欲求)が満たされた人間が、次に求めるのが、他者から認められたい、尊敬されたいという尊厳欲求(承認欲求)です。

私も昔はコミュニケーション欲とでもいうか、分解すれば社会的欲求と承認欲求が欲しくて欲しくてクレクレ乞食な無様なこともやってしまって。Blogやmixiにコメントが付かないのに悩んだ時期もありました。

ただそれは狭い村社会に属していたから起きた問題で。Webの公海に出て、Twitterなんかで800人弱の人をフォローして、十数人の方々と良くやり取りをして、そこそこの頻度でいいねなんかが来て、たまに返信コメントが付いたりするとそれで結構満足する自分を発見します。

逆にこのTweetなんか830RTされて1500いいねとかされているんですが、正直言うと通知がひっきりなしに来る感覚で。数字だけだと自分の器では体感を越えているし、寧ろ体感するくらいのリアクションが来たら対応できないと。普通のTweetで3, 4いいねがつくくらいが一番いいというか。

ひとりの人間が親しくつながっていられる最大数は50人から150人程度だという説もありますが、現在のリアルとオンラインのコミュニケーション量で、社会欲求も承認欲求も飽和に近いなと。

そういった意味で、今は"他人にウケることを目的にしているではなく自分が読みたいことを書くためにWebをやってる"、なんてマズローでいえば自己実現欲めいたことを言えるのですが、これも4段階まで満たされたから言えることで。他者からの評価を得るために頑張るって至極真っ当な動機だと想います。

だいぶ話がそれました。元に戻すと、"わからない人間"を相手にするときは相当骨が折れるのが常だと覚悟するか、そもそものターゲットを絞るのが、生業にし数字を求めないなら有効な方策ということ。

”分かっている人相手”でも相当な人数が存在するし、可処分時間でコミュニケーションに割ける分なんかそれで埋まるのが、私は実際の処です。

また、"わからないコトはわからない/わかってはいない”と言うのが誠実だと。

昔の私は傲慢で、身近な人のいうことは何でも理解できて適切に面白さをこちらは判断できるのに周りはこちらの感性を理解しえないことが多いと驕っていました。

しかし、Webの大海に出て、自分自身が大切にしている分野でも先達はいくらでもいて、前は理解できなかったものでも時を経ると良さがわかることを知って。一方で自分自身の理解にも限界があることも知って。

面白く感じていないモノを、わざわざ声高に貶す必要はないけれど、おべんちゃらを無理に言うのも不誠実なのだと今は感じています。無知の知を知った上で、誠実に発言することの大事さを知りました。

こういうサイトを結構な頻度で更新したいと思うとついネタに妥協というか、本心でない褒めをやってしまいそうになります。

でも、金を得ているわけでもないインディーメディアなのだから、本当に書きたいものだけを書くことこそがレゾンデートルだよなと。昔の仲間には"どうせ分からないからぬるいことを言っておけばいい"と考えていましたが、自分で推すものは、誠の心をもって今は発言したいです。

それで読まれなかった時でも"これ読まないなんてもったいないことしてるなぁ"と想える水準を出すのが理想だと。

社会的欲求と承認欲求が満たされたから、自己実現を目指せる。案外私の欲求の器は無尽蔵でもありませんでした。

もしかしたらその先に、マズローが晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると唱えた「自己超越」という段階へ行ける時もあるのかもしれません。

”「目的の遂行・達成『だけ』を純粋に求める」という領域で、見返りも求めずエゴもなく、自我を忘れてただ目的のみに没頭し、何かの課題や使命、職業や大切な仕事に貢献している状態”。なんだか読み切りの『ZETMAN』みたいな話ですね。

スピッツ / チェリー

by wavesll | 2017-07-06 23:19 | 私信 | Trackback | Comments(0)

ショウペンハウエル『読書について』『思索』『著作と文体』ーWeb時代にも通ずるWriting/Readingリテラシー

Dummy Mix 311 // Sharp Veins ('Then Falls Apart' Mix)
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ショウペンハウエル『思索』『著作と文体』『読書について』を読みました。

<読書とは他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費やす勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失っていく>で有名な本書ですが全編に貫かれるのは悪文への怒り。「言葉はヴァーチャルなお遊び」なんて思考に鉄槌を食らわせる。Web時代の議論を先取りしているように感じました。

『思索』における"読書は他人の思考で自らの思考ではない"という"書籍哲学者"への批判は私も実感があって。2chTV実況を読み耽った時分<感想すら人任せって危なくね?>と思ったものでした。

私は自由時間はWebTV本メディア漬けな人間なのですが、だからこそ旅の夜、静寂の中で思索が湧出するのはメディアの濁流から脱してるからだと想います。

「他人の言うことを鵜呑みにせず吟味し得心行かなければ乗っかってはいけない」というRT拡散への戒めのような言葉。

<「世間から思想家であると思われること」を目的に、名声の中に幸福を求めるのは偽物で、自分自身のために思索するのが本物の思想家>という承認欲求モンスターへの指摘。

こんな感じでWeb時代にもあらわれる情報へのリテラシーが描かれてるのを読むと"人類って変わらないモノだなぁ"としみじみと。ショウペンハウエルは「不朽の名作だけ読め」といい、その不朽振りは数百年単位というのもさもありなん。

では「時代精神をあらわしたFRESHさ」をどう扱うか。新鮮さが風化した後に残るものも、フレッシュな質感のある作品も私は好きです。ただトレンドは追いかけるものではなく、その時代に生きることで自然と馨りづけられるものなのではないか、最近はそう思います。

ともすれば狭量、偏屈をこじらせているとも読めるショウペンハウエルの箴言は『著作と文体』でさらに華々しく筆がスパークしています。その指弾は「新刊本以外は読もうとしない民衆の愚かさ」にも。ハウエル師匠キビしいw

「作品を評するときに作品自体を語るのではなく作者の私的環境や作品の元となった実際の出来事を探ることの滑稽さ」。作品論と作家論の混同、私もついついやってしまうなこれは。「"文脈論"論争」もそうだけどメタ視点を語るのは心理主義、か。

ただ「作品における着想の元の出来事や人を知りたい」って欲望は"複製でない生の1次情報に当たりたい"って欲望ではないかなと思います。音楽にはライヴがあって、劇には舞台があって。美術には展覧会がある。では文学・詩は情報の世界だけのものなのか?

「書籍のモノ性・コト化」は現代的課題でもある気がしますが、ショウペンハウエル師匠はそもそも金銭のために書くことを批判しているのでこの発想も歯牙にもかからなそうw

Web時代においても燦然と輝くショウペンハウエル師匠の論説ですが、コピペ剽窃や素人雑記が夥しく生み出される現代に放り出されたら発狂しそう。「価値ある天才にこそ時間と金が遣われるべきだ、大衆は低級なものばかり読む」は正しいけれど、みなさん誇り高き阿呆だからその正論じゃ動かないでしょうね。

と想っていたら「匿名、偽名は卑劣漢」となw!匿名の批評家は「不肖この私めは」、「臆病狡猾なこの私は」、「卑しき素浪人の私は」と名乗るべきとなwやっぱりこの人の論はWeb時代にこそ輝きを放ち、そして当人が現代に生きていたら憤死すること間違いなしだw

また文章の価値を論ずるとき、書かれた対象が珍しい買ったり価値ある材料だから評価されるのか、それとも凡庸な材料を非凡な調理で逸品としてるのか、との指摘も大きく響きました。

私自身はモチーフが珍しい絵なんかも好きなのですが「筆力・調理力」と「取材力・選球眼」の違いは峻別されるべき、か。そう考えると「編集力」って両方の領域にも想えます。そして確かに素材をそのまま持ってくることは筆力としての評価とはまた違ったものだなと思いました。

さらに師匠は「修辞でデコレーションこねくり回すのは朦朧とし凡庸」と断じ、「考え抜かれた、主張すべきものを所有し、それを素直に書くのが美点」と説きます。

思索を重ね理論が醸造されていることはレトリックに頼らずともすらりと書け、内容がない時ほどレトリックで誤魔化しがちなのは確かですね。

明瞭なれど含蓄が深いというのは時がいかに醸され凝縮されているか、理論があるかで。玲瓏な言葉で飾り立てるのはインスタントな行為とショウペンハウエル。ここら辺はシンプルな機材でグリッチノイズを創るミュージシャンに似ている気がしました。

確かに理論があると脳が熱を帯びますが煩悩に囚われている私は表現にも淫したいなとも思いました。

そして『読書について』。
外山滋比古『思考の整理学』の「グライダー人間」の記述にも繋がるこの指摘。

確かに、受動的なインプットに依存しては血肉とはならないし、何かを生み出すというのはインスタントな行為ではなくリアルで一種平坦な生の環境から葡萄酒を醸造するようなところがあり、楽しい楽しいだけではつるりとしたものしか生めないとも思います。

さらにこの一編は世の中の書籍のほとんどは畸形児のような悪書で、良書を読むための条件は悪書を読まぬことだと記します。

これは「知るだけで素材として価値がある」のか「それを道具として使うことに価値がある」のかとも繋がる話だと感じました。と、同時に「文筆」が必要とされる"仕事"なのか?とも想いました。

やりたいことをやった結果善きコトを成す、では足りなくて、必要とされた時に必要とされることを為すのがプロだとしたら、現在の活字飽食の時代、個人の無作為の、金も承認すらも求めない文がビッグデータで解析されジャストに集配されればそれでいいのでは、と。

ただ現在のCGMは商業メディアを基にしたものが多いので、一旦供給を絶ったら飢餓感が生まれるのか、それとも古典を掘り下げる方向へゆくのか。とは言え、現状プレイヤーよりもプラットフォームの胴元でないと"金を産める仕事"ではないようにも想います。

その意味で、匿名記者を抱える出版社・編集部を痛烈に批判したショウペンハウエルのように、今の時代の"文責"はプラットフォームに向けられてしかるべきなのだな、と。

昨今のキュレーションメディア騒動もそうだと想うと、またしても"人類100年前も1000年前も基本、心や騒動は変わらない"し、その点でクラシックな名著を読めというショウペンハウエルの論は色褪せていないと改めて思います。

そしてショウペンハウエル、怒りすぎてて"師匠w"って言いたくなるけど、この熱さを読むと決してペシミストではないなと想うし、今の冷笑的なWeb世界を打破する気概はそこにあるのではとも想いました。
by wavesll | 2017-06-07 07:15 | 書評 | Trackback | Comments(0)

梅棹忠夫『知的生産の技術』読書ノート

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梅棹忠夫『知的生産の技術』を読みました。

昨晩の外山滋比古『思考の整理学』読書ノートから間髪入れずに読んだため、その共通点(というか『思考の整理学』の種本がこれではないかw)と相違点が良く分かりました。

以下、心残点と感想を。

はじめに

学校は情報を教え過ぎる癖に知識の獲得の仕方は教えない。技術論が大事。もっといえば情報の時代の今日(1969年)コンピューターのプログラムの書き方が個人的な基礎技能になる日が早く来るかもしれない。

インターネット時代を予見したマクルーハン『メディア論』、シンギュラリティの時代にどう生きるかを示唆した『思考の整理学』に続き、ここにも未来視が。時の試練を越えるものには未来の価値観が含まれているのかもしれません。

本書はハウツー本ではないと書かれていますが、結構実際的なHow toが書かれていました。

野帖

メレジュコーフスキィ『神々の復活』ではレオナルド・ダ・ヴィンチは手帳に何でも書き込むとあった。わたしも手帳に「発見」を書いた。「発見の手帳」をつけると「二重発見」をチェックできるし、発見達の相互連関をみつけることができる。

野帖(フィールド・ノート)としてカードを開発して情報を整理した。カードはコンピューターに似ている。どちらも「忘却の装置」である。資料の整理は規格化が肝心で、体系的な管理システム構築により「時間」の捻出というより生活の「秩序と静けさ」がつくれる。


ここら辺のカード式情報管理法は「思考の整理学」にも書いてあったし、詳細なファイリング法も描いてありましたが、今はEvernote等で代用できる気がします。実際、BlogやTwitterを情報管理のツールとして有用で。

そこら辺のアプリ論は『知的生産の技術』の各章を、現代の視点から(シゴタノ!)に詳しいです。

とはいえ、電気を必要としないシステムってかなり強靭だとも思いました。

読書技術

i. 本ははじめからおわりまで読む。これが「よんだ」。一部だけ読んだものは「みた」。

ii. 読んだ日付や基本情報などの「読書の履歴書」をつくる

iii. 一気に読む

iv. 傍線を引く

v. 読書ノートをつくる。その際に一旦一気に読んだ後、つん読して、もう一度短時間で読む「読書二遍」が有効。

vi. 「その本の著者にとって大事な所」と「自分にとって面白い所」の二重の文脈で読む

vii. 読書にとって大事なのは著者の思想を正確に理解する事もあるが、それによって自分の思想を開発し、育成すること。それが創造的読書。

vii. 本は何かを「いうために読む」のでなく「いわないために読む」。引用するのが多いことは、それだけ他人の言説に頼っていて、自分の想像に関わる部分が少ないこと


読書技術についてかかれた部分が本書で一番有用でした。特に読書ノートを作る際に、自分と著者の間で化学反応した「自分の文脈」を大事にするというのはキュレーションサイトが色褪せたイマに非常に有効な提案だなと想いました。

文章の書き方

i. ローマ字で日本語を書くと日本語の分かち書きが身に付き、日本語理解が深まった

ii. 手紙の形式の周知の必要性

iii. 日記は、時間が立つと「他人」になる「自分」との文通で、魂の記録だけでなく宮廷貴族の昔から自分の為の業務報告もある。

iv. 原稿の書き方は、きちんとしたルールを訓練しないといけない。

v. 行動家は文章嫌いなきらいはあるが、文章は才能より訓練。文芸的な文章よりもビジネス的な文章の方が必要とされる場合は大きく、わかりやすさが大切。国語教育の設計しなおしが必要。


文学と異なる実際的な文章メソッドの話は山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 に詳しいです。

この『知的生産の技術』は『思考の整理術』だけでなく、『伝わる・揺さぶる!文章を書く』や斎藤孝『三色ボールペンで読む日本語』の父となった大樹に感じて。その樹形図の流れを視ることで、これから私たちの世代がいかに古典を現代へ転置していくかについても興味深く読むことができました。
by wavesll | 2017-05-30 21:39 | 書評 | Trackback | Comments(0)