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BS1スペシャル スプツニ子!「個人情報が世界を変える~データ社会の光と影~」 日本の主体性のなさ。最低でも最速の二番手であらねばなるまい。


スプツニ子!さんがプレゼンターとなって米国と欧州に現在起きているWebにおける個人情報の取扱いに関する取材をしたドキュメンタリー。

前半はU.S.で、CESを初めとして個人情報をどんどん提供することでさらによりよいサービスを受けることが出来る、そんなイノベーションをどんどん紹介しながらも、トランプが大統領選で行ったWebでのヒラリーのネガティヴキャンペーンに、Webの個人情報がプロファイリングされ利用された事例も紹介。

ケンブリッジ・アナリティカの元社員と、裁判を起こして自分の個人情報がどう利用されたか公開を求めて活動している人を取材し、スティーヴ・バノンが関わったケンブリッジ・アナリティカではアプリのゲームを配布し、それをPlayした人とその人と繋がりのある人からfacebookの情報を抜き出し、そこでAIを使って属性を分析。公開を求めた人の話によると、様々な政治トピックにおいて何を重要視しているかとか政治的な位置、共和党支持者か民主党支持者かも分析されていたらしいです(その人は浮動層と分析されていたそう)。

前半ラストで米国の研究者が「今プライバシーなんてものは無い。どんどん個人情報を提供し、どんどん生活を便利にしていく、そういう時代だ」と語る様子が流れます。

一方後半はEUで採択された一般データ保護規則(GDPR=General Data Protection)に関する取材。

これはデータの主権を個人に取り戻すという取り決めで、データをEU域外に持ち出すのも、勝手にプロファイリングするのも禁止し、場合によっては個人情報は削除を要求できるというもの。

というのも、現在では個人情報こそが富の源泉となっていて、トランプが大統領選で利用した手法も、基本的には広告会社がターゲッティング広告を行うために使っていたもの。ある調べではEU域内からU.S.カリフォルニアに流れている個人情報の価値は125兆円にものぼるといいます。この利益を欧州に取り戻そうというのがGDPRの主眼。実際この法律を使ってEUはGoogleに62億円の制裁金を課そうとしています。

EU議会の選挙に向けて政治的な鍔迫り合いはもう始まっていて、左派も右派も一般市民にそれぞれの主張を勉強会で話します。特に極右とされるグループの影にはあのスティーヴ・バノンが暗躍していたり、無論GDPRに関する立場も左派と右派では異なります。寧ろ極右はプロファイリング広告などを使って「ネットで真実」を推し進めるためにGDPRには反対していたり。

このGDPRが決まることで、欧州からITの大企業が引き上げる恐れがあったり、あるいはITにおけるイノベーションが立ち遅れることが懸念されたりもしていましたが、少なくとも現状ではベルリンはフィンテックにおける第一の都市であるし、あるいはプライバシーフレンドリーなスタートアップがどんどん起きていて、個人に紐づいた情報を4日間しか保持しない検索エンジンECOSIAのように寧ろ創新が起きている事例が紹介されていました。

番組の最後ではカリフォルニア議会で採択されたインターネットにおける厳しいプライバシー規制法案を取り上げて終わりました。

さて、この番組をみて感じたのは、ことWebにおける日本の主体性のなさ。
GoogleにせよFacebook、Twitter、あるいはSpotifyにせよ欧米にサービスを持っていかれて。Tiktokは中華だし、LINEは韓国。ITのサービスの利益をみすみす海外に渡してしまっています。

これは日本の意志決定層の後進性と言うか足の引っ張り合いも大きくて。LINEの開発チームはもともとはライブドアの人たちで。ホリエモン憎しで潰したせいでものの見事に鳶に油揚げをかっさらわれ、膨大な個人情報を明け渡すことに成りました。(LINEは韓国の国家情報院(旧KCI)Aに傍受・分析されているのは有名です)

ここ数年のITであったりAIの番組を見ていると、日本においても競争力を高めるためにプライバシーはどんどん捨てていかねばなるまいという論調が大きいものでした。中国ではITにおける社会信用システムが築かれているとか、そういう煽りも。日本でも信用スコアの動きは始まっていますね。

そんな流れの中で欧州のハッカーたちは自分達でオープンリソースの地図を作ったり、プライバシーに配慮したチャットアプリをつくっているという話には心打たれました。また経済的な利便性の論理に流されることなく「本当に自分たちにとって重要で利益に成ることは何か」を考察し、決定を下すEUは、やはり哲学が根付く土地であるなと想いました。

また中国にしても自国でYoutubeやTwitterを使わせない政策をしたことでウェイポーやアリババなど自国のIT産業を育てたのは”まず自分が第一運動であろう”という意志に感じて。

日本の場合はF社などの守旧派が幅を利かせ、ベンチャー企業を圧迫しているとも聴きます、ライブドアにしてもそう。イノベーションを阻害する老害は除去する必要がありますが、それ以前に少なくとも現状では自分が第一運動であろうとせず、流されるままにヴィジョンなく動いてしまっているとも感じて。まぁこれは軍事面でU.S.に依存し属国化しているというのもあるとは思いますが、残念なこと。

そしてもしゼロから思想を立ち上げることが現状苦手だとしても、最速の2番手と言うか、世界の最新の動きを分析・実践し、フットワーク軽くスピード感をもってITの世界では勝負をしていかないと本当に今後の日本の産業は目も当てられないことになりそうです。想うに、国産への想いは多くの国民は持ちながらも、F社などのせいかは分かりませんがあまりにも窮屈なサービスの惨状から海外産のサービスに日本のユーザーも流れてしまっている。創新が活発化するには、抑え込んでいる老害から解放し、「自分が何を欲しているかを真摯に見つめ、行動する」ことを促すことが何よりも重要だとも感じました。

この番組は2019年5月11日(土) 午前0時40分から再放送されるそうです。もし良ければ是非ご観覧を◎

by wavesll | 2019-05-10 01:20 | 小ネタ | Comments(0)

BAD COMMUNICATION



以前のことでトラウマとなっているのは、躁鬱で傍若無人に暴れた際人間関係が破綻したことで、その象徴として「もう二度と会うことはないだろう」と言われたことがありました。
その時正直“会いたいと思うほど愛せる魅力を君はみせていたつもりなのか?”と思ってしまって“嗚呼俺は人でなしなのだな”と己に呆れたことがありました。魅力をみせる努力しない人っているものだと思うと共に、自分は”友達づきあい”に求めすぎなのだと感じます。

ンな事みな要求してない、というか向こうからしたら私なんかはToo Muchなのだろうと。最低限の礼儀がありゃ友人関係の維持には何の問題もないということでしょう。それじゃつまらない、となると羅の螺旋に入る(苦笑)

自分は他人に話したいネタが多いタイプで、自分ばっかり話すのも悪いと一時期友人に「何か面白いことあった?」とあいさつ代わりに聴いていたのですが、これが不評でw今見返すと鬼のような”What's up?”だなとは思いますw「面白いこと」の程度にはよりますが、鉄板レベルだとそうそう人生で産まれるものでもないですしね。

そもそもこのBlogを立ち上げる時も”どうせやるなら毎日更新したいけれど、自分でネタをつくっていたら毎日更新は難しいから、そうだ羅列型ニュースをやろう”と個人ニュースサイトとして始めたのでした。

その後羅列型ニュース更新は止め、自分で主に画くエントリが増えましたが、それでも藝に対するレポートが多く、取材して書くという点では広い意味で鴎庵はニュースサイトだなぁと想っています。ほぼ日刊更新で完全に内から出てくるものだけで書き続けるのは少なくとも私には難しい。

となると「取材(という名の遊興)」を行う訳ですが、ここで友人との齟齬が起きてくる。そりゃ未だ一人やもめの私と子供ができ、下手したら家のローンも払っている友人とでは遊びの話題、特に頻度が合うという訳にもいかない。

そんな訳で話しかけるPushを止め、Webに綴り反響営業を待つPullへと軸を移したのでした。

「面白い」にも色んな観点がありますが、私の場合は趣味と実益を兼ねるというか、自分自身に藝や學びのカリキュラムを組んで、それを論述するというのが基本で。これも家庭を持つと自分のきままなわがままを通せない場面も多いと思います。

逆に夫婦・子ども・あるいは「働き」なんかは私から見たら完全独自コンテンツであって、メディア的なものより第一運動純度の高い面白さがそこにあるとおもいます。オーガニックというか。それを成せることへの憧憬は私も勿論あります。”俺は煩悩だけなんじゃないか”と。

冒頭の古い友人への想いもそうなのですが、私は面白さを求めてどこか破綻していたのだなと想うし、逆に言えばこのあいだ描いた居たかった場と縁・出発というエントリで書いたようなTwitterという書くことで存在する安全基地のお陰で、自分の欠落へ目を向ける力を得れたのかもしれないなと思います。

B'zの「Pleasure '91 -人生の快楽-」に「勝手知ったる少ない仲間と敵だ味方だと騒いでる 止まれないこの世界で胸を張って生きるしかない」なんて詞がありますが、お互い道が離れていったときに「Love Phantom」とように「2人で1人になれちゃうことを気持ちいいと思ううちに 少しのズレも許せないセコい人間になってたよ」では不味いということでしょうね。それぞれの道から遠くへ交信を送るくらい、異なることへの真摯さが必要なのだなぁと今朝想いました。

by wavesll | 2019-04-21 09:10 | 私信 | Comments(0)

居たかった場と縁・出発

種田は誰かに批判されるのが怖いんだ!!大好きな大好きな音楽でさ!!でも褒められてもけなされても、評価されてはじめて価値がでるんじゃん!?-浅野いにお『ソラニン』

Twitterをやって良かったと思うのは、自分が方向性が同じだとか思ったり感性を憧れる人たちの中で自分の呟きに評価の実力差を突き付けられたこと。

私は大学時代、かなりWebに物を書くことに嵌まって。mixiなんかも猛烈な勢いで書いたのですが、私からみると浅い趣味にみえた友人たちの方が仲間内で“いいね”を得ていることに、というか自分がまるでいいねやコメントを得れないことにいらだちと失望を覚えていました。

今思えばそれは自分のサークル内でのキャラもあったというか、変人として自分で自分をネタにするような人間で、そしてサークル運営で他者の世話し気遣いをみせるわけでも競技で格好いい姿をみせるわけでもない自分は、いわばWebの場で「何を言うか」の前に実生活での「誰が言ったか」のレイヤーで評価を得られる人間ではなかったのでしょう。言葉より行動が大事で。もっと言えば他者にとっては「話をされる」より「聴く/訊く」方が喜ばれるというのも後に知りました。

それでも、その昔は「俺は内輪ウケはやらずに一般でも通じるネタをやるんだ」というつもりでした。けれど、今TwitterのTimeLineに安住している処から見返すと、自分はムラ的な狭いネタ人間なのではないかと想います。確かに「人間関係の話題による内輪ウケ」はしないけれども「狭いコンテンツの話題による“わかってる”クラスタ内での一種の内輪ウケ」ではないかと。

そしてこんな私でも受け入れてくれるニッチがあることをTwitterで知れて。いいねやリプライもされるし、自分が好きな音楽や美術の話題が“変わってる”とされない、寧ろ私が浅い人間になる世界。これは私にとってはオアシスといえました。

けれど、私自身が浅い存在になることと、自分より遥かに深く面白い、それこそ島宇宙の蛸壺を越えて一般にも通じる面白ネタを書ける人と同じ空間に載ることになりました。そこには嫉妬も感じることがあったのも白状しなければなりません。

しかし、これがなければ”何処か別の世界へ行けば俺は認められ輝けるはずだ”とか恥ずかしい妄想を抱えたままでした。

この自分が等身大での勝負というか、やりたい場で他己評価を知ることで、一つ地に足がついたというか、現実を見据えて、何か筆の向上、開けたコミュニケーションに謙虚に向き合える、寧ろどんどん邪念が取れ素直に澄んでいく気がします。

そして、もう長年といってもいい付き合いのあるフォロワーさんもいて。WebとRealというけれど、この二つは繋がっている部分もあるのだろうなぁと。虚心坦懐に縁を大事にしていければいいなと今は思います。

by wavesll | 2019-04-15 22:27 | 私信 | Comments(0)

Sentimentoの季節 The 1975 - A Brief Inquiry Into Online Relationshipsに徒然寄せて

A Brief Inquiry Into Online Relationships / The 1975 (Youtube)


The 1975はデビューの辺りでInterFM Awesome Beatsが推していて、「Chocolate」とかヘビロテされていた想い出が。そこそこいいなと思いながらもナヨっとした雰囲気がどうも少女趣味に感じてストライクはしなくて。

昨年の話題作『ネット上の人間関係についての簡単な調査』もどうにもピンと来ていなかったのですが、ここ数日で非常に精神的に傷を負うというか、それこそ人生の進め方とかを重くダウナー気味に考えてしまって、そんな夜の暗黒の中、鬱っぽいTweetを打ち込みながら聴いた本作は、聖なる魔のようにするりと心の襞に入り込んできたのでした。

というわけで、久しぶりに徒然な文章を書きたいと鍵盤を叩いております。このアルバムの内容については下記の記事などが参照になるかと思います。




最近、人生について考えることが結構あって。『レディ・プレイヤー・ワン』を視た時に”Real”は神がつくりしゲームだとして、その最もメジャーなゲームは恋愛であり子育てなのだろうなと想って。

人間、同じゲームをやってる者同士だと話が合う確率が上がります。例えば自分は旅先で旅人同士で話すのが好きなのですが、それは「旅」という同じゲームのプレイヤーだからだし、Twitterが居心地がいいのもあの世界で可視化され集積しているのはtweetをしている同志だからだと思います。

一方で、そういったShow/コンテンツ(という言い方は嫌いなのですが)での会話以外、例えばリアルの知己などにあった時に、カルチャートークを封じられ徒手空拳になった時に”そうか、良く『オタクは「人」と話すのでなく「コンテンツ」を話している』というけれど、ここでいう「人」とは仕事であり家庭の話なのだな”と感じて。17時からオトコのグロンサンマンとしてはその方面はめっぽう薄弱で。

最近、会う人間から「お前はつまらない/つまらなくなった」と言われることが増えて。私自身としては過去で一番面白いことを追求している状態に感じているのですが、これはいわゆる仕事・家庭レースから外れて、同じゲームをやっていない故の断絶が起きているのかもしれないと感じます。勿論、鑑賞の度合いが増えすぎ、私自身がプレイヤーとなった時の筋力が落ちている恐れはありますが…。

ここ数年『「誰にでも好かれよう」は止めよう』として、ともすれば誰にも評価されなくても己が面白いと想うことを取材しその事柄への愛を綴れればそれでもいいのではないかと考え、いわゆるサーヴィス精神、他者の視線を捨象していたのかもしれません。

自分自身が『コンテンツ/Show』に溺れすぎて、人の道から外れてしまっているのではないだろうか…俺は本当に大切な事、例えば命とか以上に大切なことはないし、人との縁や絆を蔑ろにし過ぎてしまったのではないか。けれども『普通』に過適応して壊れてしまった過去を想うと、己のサヴァイヴを優先しないといけない。では俺が本当に欲しているものはなんなのだ…。

暗い部屋で一人、ディスプレイはつけたままそんな堂々巡りの逡巡をしながらこのThe1975の音楽を聴くと、初めて彼らの音が自分と共鳴したように感じたのでした。危機的状態に近年なかったというか、安定している時に響く音ではなく、精神的にダウナーな時に響く電子加工されたLow-Fiな柔らかいロック。

自己否定と憐憫、そして快楽原則への率直さと移り気な浮わつき。そこに思想というか偏屈な正義を加え、破壊と創造(というか変異・変奏)を常としてきたのがROCK MUSICだとしたら、The1975は正しくその系譜にあると想えます。

機械による語りがあるのはOK COMPUTERをつい想起しますが、インターネット技術はアーカイヴの再奏を産み、新たなプラットホームで歴史が繰り返されていることは指摘したい。その時代の風は例えば荒木飛呂彦はジョジョ6部ラスト以降で意識的か無意識的か描いていると想います。

ただ、フィリップス・コレクションをみても想ったのですが、文化が文化の内のみで進化を遂げ、社会の実相と関係が薄くなることはないのかなと想ったり。鏡であること、Realの比喩であることが絶対正義ではないけれど、現からの遊離が産まれやしないかと。

文化自体が環境化・外なる自然化してるのは『レディプレイヤーワン』でも『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』でもそう。ただ真善美の『真』をオタク・ユニヴァースの参照で強化する感は『シンゴジラ』をみて違和感があったところでもありました。ロックも文脈・参照のカルチャーでもあると思って。

ただ『A Brief~』はSNSによって現実がコンテンツに仮想的に侵食された環境下で生きる我々の人間関係が良きにつけ悪きにつけネットと(拒否するという選択肢を含め)相対しなければならない現代の実相からの反鳴で。そこではマッチングが設計され、出逢いと別れは容易にクリック出来る。そこへのThe1975の解・意志は歌詞カードをみないとわからず、今Geniusを読んでいるところです。

今年サマソニで来日する彼ら、最初は”B'zの前でなくイエモンの前とかもっと言えばYoshii Lovinsonの前が良かった"とか思ったのですが、冒頭に載せたO2アリーナのLIVE映像をみるとスタジアムクラスのバンドに成長したのが感じられて。今年の夏もFesのどの日に行くか悩ましく快い日々が過ごせそうです。

by wavesll | 2019-02-06 02:44 | 私信 | Comments(0)

ボルダリング触発想念徒然

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初めてボルダリングをやりました。傾斜がつくと難易度ガチ上がり。何気に開始の石での姿勢維持が難しい。アトラクションでなく継続して向上していく活動といった感じ。夏のプール以外のスポーツ・レクリエーションをみつけられ大収穫。他人を気にせずに勝手に鍛練できる個人競技なのが性にあってて。で、今日は筋肉痛でしたw握力の消耗も半端ないw

此処の処「プレイヤー」と「鑑賞者」のことを考えていて。スポーツをやるというのはまさにプレイヤーになることですね。

運動やってる輩の輩振りには辟易させられることがしばしばあるのですが、自分で運動やると“そうか、自分が主体なのと肉体疲労+脳内物質分泌で自分の目的以外の事がどうでも良くなるのかもしれん”と。仕事で精神疲労すると重い作品とかより軽いポップを求めたりしますが、他者に構う気持ちが薄くなると共に自己肯定感が増進するのだなと。

文化系にしても自分で創作している人は己に関するところのみを集中しているというか、鑑賞・批評的な人の方が“社会的正しさ”とかに拘泥する印象があって。「挑戦している人には批判する時間はないし、批判している人には挑戦する時間はない」というのはある程度当たっているところもあるなぁと。

私自身はヲタな側の人間なので、双方の感覚を知るとどうにもどっちつかずな蝙蝠な心持ちになります。

最近Instagramにアカウントだけつくって漠然と眺めているのですが、あの空間もプレイヤー的と言うか、顔出してガンガン陽るく第一運動している人が多くて、相対的にTwitterの場ってネガティヴさとかポリコレ棍棒な空気が溜まっているなと想ったり。

“何てセンスが粗いんだ”と言う側に身を浸せば、対岸は“何故そんなにセンシティヴなのだ”となって。そして「双方を知ればいい」とつい言いそうになりますが、総花的にリソースを分割すると一点に突き抜ける者には勝てないというのも人生で学んだことで、ポートフォリオを雑に薦められる立場にはないのも現状です。どの念能力を伸ばすのもストラテジーで。

ただ、日本ではあまりにも社会的な論議の情報が薄く、そうした言論の流布・討議の場としてTwitterは機能していたりするなとは想ったりします。例えば「鰻を食べることは現状問題がある」みたいな話はTwitterだと大勢を占める意見となっていますが、TVのみを視聴してそうな人には「そもそも問題自体ないでしょ、しゃらくさい」と一笑に付されることもしばしば。問題を意識した上で露悪的になるとか以前な状況で。

ドイツ人が「日本人はそんなに仕事をして家族と過ごしたり社会のことを考える時間はあるのかい」と言ったというような噺がありますが、日本の場合は労働の強度が高すぎる故に社会的な意識が削られているというか。なんでも“我慢”も有限資産なのだそうです。物理的でないものでも“減るものじゃなし”ではなく、減るのだそう。ヤポネシアの人は色々我慢しすぎて自制心が壊れてた結果、痴漢もするし鰻も食べるし差別上等になってるのかもしれません。南米とかで”これでも社会が回るのか”というカルチャーショックを浴びるのも一手かもしれませんね。

そうした意味で、TwitterやらSNSをやれている層はある程度の余裕が生活に在る層なのかもしれません。日本のハードな労道社会状況だとWebでアウトプットするのもリスクもあるし、子どもがいたりしたらそれこそ眼前の状況に注力しないと回らないし。

古い友と会った際「まだブログやってんのw?」と言われることがあります。彼等は仕事で自己実現度合いが高いのかもしれないし、私は子どももいなく暇というのもあるのでしょう。誰に需要があるか謎に読書感想文を自主的にあげる始末w ただ下手だとしても、好きなのだなぁと。R.バックにとっての飛行機のような愛するコトとしてWebに文章を綴る生活習慣があるのだなと想います。ここら辺は”なんでそんなWebを大事に思うのw?”とか理解されづらい處ではありますが。

自分自身がWebに文章をボトルメールのように投げるのは、感覚が刺さってくれる受容体のある人がフェイス2フェイスでは見付けづらかったのもあるかもしれません。オタクは人間とでなく話題と会話しているなんて揶揄もありますがやっぱり内容のあるコミュニケーションが好きで。またこうして勝手に音楽や本の感想をUpしている人間ですが、学生時代は読書感想文などは嫌いで。今でも他者の評価に曝される文を書く時は強張ってしまいますが、センスの合わない教師の評価を受けるために文を書くのも本を読むのも無価値に想え、渋々芥川の『鼻』とか『蜘蛛の糸』とか極薄の奴で書いたものでした。

昔は「俺の文章全然反応が返ってこない」なんて懊悩がありました。ただこのBlogも十年を超え、過去の自分の文章が他者の文章のような距離感で読めるようになると己の文章の問題点がみえてきて。端的に言って一人よがり。基本情報が足りえていないので分かっている人しか分からず、そして分かっている人にはクオリティの掘り下げが物足りない半端な代物であるということ。未だにこの課題が私の文章では解消されていないなぁと。インスタントな文章より推敲を積み重ねて長く読まれる記事に仕上げるのも一策なのかもしれないと想ったりしています。

と、こんな感じでつらつら想念が湧き出でたのでした。最近はすっかり付き合いが悪い人間になっていたのですが、誘いに応じて自分の土俵から出て新体験をし身体と脳が活性化したのか、旅の夜のような異化体験が起きて。縁を大事にするという意味だけでなく、他者の企画に乗るのは世界次元を拡げてくれるなぁと。

行きたいライヴや展覧会、旅が多過ぎて“自分は他者の声を聴くのは好きだし尊重してる”と思っていても、それは”自分が大きな関心を寄せる対象”に限られていたのかもと。身近な人からは“あいつは好きなものは好きだけど大好きじゃないものは一顧だにしない”とか思われてたりする恐れもあるかもと。

下手にWebでヴォランタリーに情報発信していると、ついつい「面白い噺をなるだけこちらに負荷かけずにFreeに発信して呉れよ」とか思ってしまい、こりゃブラック企業な発想だなと(苦笑 Tweetで発信してくれるサービス精神ある人ばかりでもないし、顔を突き合わせないとアイスブレイクしない、或いは適切な会話のキャッチボールからでないと噺が零れない人の方が多いですものね。

昔は文章を読まれても何の反応もないことに「搾取されてる」みたいな頓珍漢な怒りを覚えたこともありましたが、相手の時間と気力をコストとして払わせてしまっていたよなぁと今は想います。みなそれぞれ辛苦了しながらやってるのだと。頼まれてもいないのにネタを披露しておいて「ネタつくる苦労も分かってくれよ」はお門違いな主張ですね。その上で個人的な我儘でTwitterのフォローはなるだけネタを発信してくれている方に限ったり、できるだけちゃんと読みたい故にフォロー数を絞ったりさせて頂いて。ROMの人がなるだけ視界に入らないようにしています。尊厳をダンピングしないのは肝要で。

他者発の企画に乗るというJUMPもそうですし、ヒトの文章を読むこともそうですが、自分にない領域を始めるにはMPの消費があって。そしてボルダリングなんかはHPの消費もある。スピード、己のスピードでやれることが最もrelaxできることで、B'zの稲葉さんでなくても自分のスピードでやれないとすぐに潰れてしまうものだなぁと。

そして自分のスピードを大事にするように他者のスピードも大事にしたい。ビジネスでなくプライベートはせめてそうしたい。そうした時に、非同期なコミュニケーションとしてのWebの在り様はまだまだ究めるValueがあるなぁと想った處でした。

by wavesll | 2018-07-27 03:33 | 私信 | Comments(0)

礼儀は盾

Webだと無礼がマナーというか、丁寧過ぎる言説よりも暴言ギリギリくらいの煽り合いが”冗談がわかっている”と良しとされることがありますが、切羽詰まっている人にとってはいじりが大きく尊厳を傷つけて恨みを溜め込ませ予期せぬ暴発を招くことがあります。特に死を近くに感じている人には安全地帯に居る”普通の者”は憎悪の対象になってしまう。

人間、いつ一番無礼な物言いになるかと言えば、己が絶対正義になった時。

マスコミがマスゴミ呼ばわりされキャスターやコメンテーターが槍玉に挙げられるのは彼らが澄ました顔で社会正義の高みから指摘を続けることが不愉快に感じられるから。彼ら自体は権力に対して市民の味方で言論を発しているはずなのに、「人にケチをつけてばかりだ」と誹りを受ける。人を批判するというのは全く諸刃の刃なものです。

それでも社会の公器ならば最低限のマナーを(往々にして破るのがマスゴミですが)守るのがマスコミですが、ネットウォッチ界隈は不快な痰壺で、それでいて一種の”正義感”を自認している。いやいや、賎しい行為だと弁えた方がいいと想いますがそれは藪蛇ですね。

人を呪わば穴二つと言います。私自身もこういうエントリを書くのは不遜なのだと想います。

批判する行為において参考になるのはマツコ・デラックス。明らかに異形の怖さとしょうもないヌケ、そして共感を突く意見。”絶対正義”の側ではなく、敢えて穴を開け負けをつくることでヘドロが堪らない塩梅の上手さがマツコさんにはあります。

いじり・いじめ的なコミュニケーションが受容されるのは芸人文化のなした業ですが、弄る側が弄り返されたときに不愉快な態度で圧をかけてしまったらそれは双方が楽しむ仲間のコミュニケーションでなく一方的な殴りつけのハラスメントです。

日本は自殺的な社会だから”それくらい許してやれよ、洒落が分からん奴だ”となりますが、想い出すのは南米に旅行した時のこと。

イグアスの滝壺ボートツアーで客を撮影するスタッフに中指を立てた白人男性は詰問されボートを下ろされました。またリマで世話になったガイドさんは「空手を習っていたので街中で女の子に横暴をふるう輩をとっちめたら、付き合っている彼女から『それで復讐されて刺されでもしたらどうするの?私は大切じゃないの!?』と責められた」と言っていて。

海外では人前で罵倒することは暴力と同等と言うか、他殺的な社会では面子を壊したら明確に怒りを招くもの。シャルリーエブド的な社会の方が特殊と言えるかもしれません。

そう想うとWebでは軽視されがちな”礼儀”というのは、自己防衛のために非常に有効な手段なのだなぁと。特にオンライン上だけで完結するのではなくフェイス2フェイスの場にも繋がる場合は。オフラインだけでなくWeb上でも礼儀をもって相手に相対することは自らの安全のためにも大事なのだなと想うのです。

”礼儀正しくするだけだと相手がつけあがるじゃないか”となるでしょう。変な絡みをしてくる人も出てくるかもしれません。そういう人には伝わるように拒否を示すことは大事だとは想います。

ただ、何もかもがクリーンなだけでも人の匂いが消えるもので。木村充揮さんのニクオンでのライヴでヤジを飛ばし捲ってる五月蝿い客がいて『不快だし消えてくれないかなこいつ』と思ったものですが、彼には寧ろそれがハレの場で、木村さんは上手くあしらいヤジも含めてライヴを鳴らしていて。それはとても人情の深さがある磁場だなぁと感じたのでした。

と同時にあまりに無理をしすぎることも自分を過信しているということかもしれません。特に『過敏で傷つきやすい人たち』は不愉快な人間から出来得る限り身を離すことで心の健全が保たれ破滅をさけられることはあると想います。

自分へのいじりには出来る限り寛容に、けれど他者にはできるかぎり礼節をもって。それはアダム・スミスが『道徳感情論』で示した規範の態度でした。

話している当人は自分等そんな大物でもないただの個人だ、だから強者に対して弱者の代表として幾らでも攻撃できるのだと想っていても、一部の人から見れば非常に巨大な権威にみられ、敵視されることもあります。自己も他者もとるにたらない未熟な存在な場合が多いのに。

口は禍の元。冗談の行間が読まれなくなった時代に言葉はヴァーチャルではいられない。虎穴に入らずんば虎子を得ずといいますが、それは伝家の宝刀の例外的場合で。君子危うきに近寄らず、最も不愉快で蟲のような相手にこそ礼儀をもって盾とするのがリアルとWebが地続きになった時代の基本戦略ではないかと想った處でした。

by wavesll | 2018-06-26 22:01 | 小噺 | Comments(0)

SNSの”正しい息苦しさ”に岡田尊司『過敏で傷つきやすい人たち』を読む ー鈍感と過敏は同居し、愛着障害による幸福感の欠如は零百思考をしないことと安全基地をつくることから改善する

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ふかわりょうの「ハイレゾ社会に御用心」というコラムを読んで”ハイレゾに関する基礎知識では間違っているけれど、Twitterがどんどん些細な粗さも許されなくなってきているなぁ”と想う昨今。

個人的には「少しのズレも許せなくなっちゃった」という意味で『LOVE PHANTOM症候群』と名付けているこの現象を考える上で岡田尊司『過敏で傷つきやすい人たち』を読んでみました。

やー!この本は面白い!同著者の『対人距離がわからない』はあまりガツンと来なかったのですが、『過敏で傷つきやすい人たち』の内容は上のような問題意識を持っていたからか、かなりするっと入ってくるものでした。

本書の中で語られるのは過敏性を持っている人は”ネガティヴな認識をしがちな人”よりも生きづらさを感じやすい事。そして遺伝などの生得的要因と強い結びつきがある神経学的過敏性よりも、養育要因や社会的体験、愛着対象との関係が強く影響する心理社会的過敏性が不味い場合の方が生きづらさや幸福度に強い相関を示すという事。

面白いなと想ったのは過敏な人は同時に鈍感な一面(低登録)も持っているという事。それ故ワガママだと認識されたり、人から指摘されることも多く、ネガティヴな認識を持ちやすい傾向がある、と。そしてネガティヴな認知以上に過敏さと強い相関があるのが、全部良いか全部悪いかのどちらかになりやすい両極端な認知(二分法認知)の傾向でした。

過敏性の原因には発達障害や愛着障害も成り得て、不安定な愛着は「他人には何も期待せず関わりを断つ回避型」か「大騒ぎして愛情や関心を得ようとする不安型」をもたらします。そして愛着不安が強い人は幸福度が低くなる傾向がかなり強いそうです。

愛着は単なる心理的現象ではなく自律神経系の働きに密接に結びつく生物的・生理的なもので、愛着が安定した人はストレス耐性が強いのに対し、不安型愛着の人はストレスに対して情緒的反応が過剰になりやすく、家族やパートナーにも愛憎の両方を巻き起こしやすく、ストレスも長引きやすい、と。

一方回避型愛着スタイルの人は一見クールに見えながら、実は気づかないふりをしているだけでストレスホルモンは上昇しており、直接自分がストレス源と関わる立場になるとポッキリ折れてしまうことがあるそうです。

愛着障害はもともとは親から虐待されたりネグレクトされた幼児に使う言葉でしたが、実際には大人になっても引き摺っている人が多く、その人たちを「未解決型愛着スタイル」と言うそうです。

ではどうすればいいのか。本書は過敏な人の適応戦略として

1. 刺激量を減らす
外からの刺激が閾値を超えないようセーブ。頭に出てくる雑念は懸案事項を書き留めることで外部化し抑える。またこのタイプの人と話す人は喋り倒さず沈黙も設ける。

2. 刺激を予測の付くものにする
生活や活動をルーティン化し、予測ができるようになると刺激の苦痛は半減。このタイプの人と付き合う人はサプライズは避ける。

3. 安全限界を超えない
刺激が閾値を超えそうになって、イライラや疲労感、集中力の低下などの兆候を見つけたら限界を超える前に止める。休みの日にぼーっとすることもメンテナンスとして大切。

4. 薬も効果的

5. 不快な刺激やストレス源の人間などを回避する

6. 感覚探究が高く神経システムが安定するために必要な刺激量が大きい人は旅行や芸術、スポーツなども大切に

7. 低登録な人は気が回らなかったり切り替わりが悪いと言われる人もいるが、寧ろ運鈍根は信用を得ることも。また過敏さと鈍感さが同居している人の過集中は天才的な閃きを生むことも。

8. 低登録の人は大きな刺激でないと感応できないので、スイッチが入りやすいように刺激強め、行動や質問と組み合わせてメッセージを送る

等が挙げられていました。(過敏な人たちは多様であり、これら等から自分に合うメソッドを自分で選び出すことが大事。)

本書はさらに進んで、過敏性を克服するために

1. 肯定的認知エクササイズで幸福と社会適応を高める

・感謝するエクササイズで、得ることが出来ている快楽に馴れっこにならないようにする
・「奇跡が起きて何でもできる力を得たとしたら、あなたはどうなりたいですか」という希望のエクササイズをする
・親切にするエクササイズはオキシトシンを分泌させる

2. 二分法的認知の克服エクササイズ

・良いところ探しのエクササイズ
・許しのエクササイズ
・第三者の視点を持つメタ認知のエクササイズ
・自分が相手と入れ替わるエクササイズ

・マインドフルネスの三分間呼吸法
背を伸ばし座って目を閉じ、1分目は自分の心の状態を感じ、2分目は呼吸を意識し、3分目は足先から膝、腿、尻、腹、背中、腕、肩、首、顔、頭の感覚に目を向けボディ・スキャニング。

・ひたすらポジティヴであればいいのではなく批判的な目も持たないと危険

・行動目標は小さなゴールの成功体験を積み重ねる
・主体的な関与が苦痛を減らす

3. 安全基地を強化する

・一日中ぴったりとくっついていられ、安全で、心地よい存在で、自分の反応に応えてくれる存在=安全基地をつくる

・ケアが必要な人の問題を解決する時は、その人をケアする人の大変さを受け止めたり本人の状況の理解を援けたりすることが効果的。

・愛着は相互のものであり、不快な相手は逆に自分のことを不快に感じていることも。相手を責める前に自分を客観視することが肝要。

・相手を全否定することは人間関係を破壊する。つい気を許して口にする否定的な口癖も積み重なれば相手を安全基地ではなくさせてしまう。

・人が健康に生きていくには依存と自立両方が必要

・安全基地になれない人からは、心理的、物理的に距離を取る

・恋愛や家庭でなく、仕事や趣味が安全基地になることも

という過敏性の本の愛着障害の克服に安全基地が大事だということを記し本書は終わるのですが、ここまで読んで冒頭のSNSの「少しのズレも許せない症候群」に関して、寧ろSNSを安全基地としている人が多いことの裏返しなのかもしれない、なんて思いました。

明け方書いたエントリで「左の人は無自覚な右の人を受け止め諭す度量がないと現実は変わらない」と書きましたが、寧ろSNSでのエコーチェンバーが安全基地としての機能を果たしているとすれば、無理に意見を異にする人と交わろうとするよりもクラスタで固まることが精神を安寧させるのではと。そういった意味でブロックやミュートを駆使するのは現実的改善かもしれませんね。

その上で、他者、それも「当たり前」が異なる人と語り合おうとする人は、クソリプの応酬だと拒絶されぬ工夫、例えば「Yes~but~」法などを使うことが、鬱憤晴らしに終わらない実効力を持つのではないかと改めて記してこの記事を終わります。

by wavesll | 2018-06-19 19:15 | 書評 | Comments(0)

冗談の行間が読まれなくなった時代に言葉はヴァーチャルではいられない

鬼畜系サブカルチャーの終焉/正しい悪趣味の衰退 - Underground Magazine Archives
を読んで、「シャレ」が「カルト」になっていく怖さを感じて。

「いい塩梅の悪ふざけ」は実際には相当タフな理力が求められ、実力が足りない者がその高度な遊びを「何でもあり、過激なほどいい」と誤解し全てがぶち壊しにすることは歴史上幾度も繰り返されていたのだろうなと。

私は「◯す」とか「◯ね」といった書き込みで警察が動いたりする昨今には“(悪趣味だけど)洒落が通じない”と思う人間だったのですが、実際、私自身価値観の倒錯から狂信な暴走をやらかすに至った上、「言葉はヴァーチャル」だけでなく心身への物理的影響もあるのだと今は意見を転向しました。

野放図な本音を発するのは軋轢を産んで。世の中のダブルスタンダード性というか、場面場面での受容の変容を受容できるかどうかが成人の作法の大きな要素で。法律でもプライヴェートでもなんでも絶対的な基準でなく、トコロ変わればヒトが変われば基準はいかようにも変わって。

「常に裏表のない」のみだと鵺のような社会の中では生きずらい様に想えます。人の間に絶対はなく即応が現実を動かして。人の間での場に合わせた洗練と真情の折り合いとした本音2.0が落とし処哉と思います。

同様に板の上の芸と板から降りた日常は異なるもの。

サブカルとかで遊んでるようにみえる文化人が政治的に正論を言うのは“遊びは遊び、マジはマジ”という分別があるからですが、Webによりメディアが板の上だけでなくなった今の時代、行間は読まれないとすると、粋ではないかもしれないけれど“この不謹慎は蔑まれるのが前提の遊びだと認識しています”という御断りが必要なのかもしれません。

また腐臭の漂う酸味はあくまでヴァーチャルだからこそ受容の間口を確保できるのであって。インコースぎりぎりを攻めるのはハイレベルな技量ですが「過激なら過激なほどいい」とビーンボールを投げたら総スカン。

極楽山本も「平成生まれ解禁だ~!」と言ってた頃は楽しかったけれども実際に淫行で捕まったら笑えない。『ガリレオ』でも殺人者を演じるために殺人するのが役に立つと言った犯人が喝破される描写がありましたね。

ついつい”ガチ=Nature”をモノホンとして有難がってしまいますが、アール・ブリュット的なモノは狙っても出せない、というか狙わずにも滲み出るものですから、”技芸=Art(ificial)”を鍛錬するのが一つ破滅からの抜け出しになるのかもしれない、なんて思いました。

ただ「デタラメで面白い」と喧伝してた人が一般人がデタラメやりはじめたら「もっと分別持とうよ」と言わざるを得ないのは、所詮そういう人の主張する価値観は絶対的でなく、相対的にオルタナティヴを提示してるだけで、主な役割はバランサーなのだなという点に悲哀も感じて。

その点で『今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。』と言った岡本太郎は筋金が入っていたなと。相対的でなく絶対的に価値認知範囲を拡げる運動というか。

ノイズへの冒険もそうですが、今の時代には「悪趣味を楽しむ(でも自省はする)という淫靡でウェットなフェティッシュ」よりも「より広い世界への探究への斥候としての法螺」の方があっているのかもしれません。

そこにあるのは高度な言語ゲームの粋というよりも野暮だけれどもリアルな迫真かもしれませんが、マルキドサドが『ソドム120日』で真に描こうとしたのは露悪的な性的描写の先に在る自由への渇望でもあったし、倒錯をするときは”倒錯している”と認識を保ち、さらなる広大な視野を抱けるかが遊びの鯔背さと救いの本質哉と想った次第でした。

cf.

追雑記

「いい感じの逸脱」をみた後進が「分かってない暴挙」をして先達が「過激すぎる、それは酷い」みたいなことを嘆く流れって数多ありますね。

私自身が良い塩梅が分からない人間だからか”なら最初から品行方正にしてろ”とか”変に粋を気取らず野暮でもきちんと注釈をいれてくれよ”とか望んでしまいますが、そもそも徳のない上層部は多く、不誠実さも含め誰しも完璧ではないと認識した方が良さそうです。

ですから上にもたれかからず、相手に対して批判的な目を向け、判断を丸投げせず自分の倫理観で判断を下さないと大惨事になるというのは日大アメフトでもそうでしたね。流されない強さが集団や組織の中で己を守る上では求められますね。


by wavesll | 2018-06-06 06:50 | 小噺 | Comments(0)

レコメンドはセレンディピティを破壊するか

最近日々が充実しているというか、5月に入ってからこっち遊興を盛んに行っていて。

そんな中でも特に個人的には嬉しかったのがカザフスタン民族音楽コンサート@東京都立中央図書館太尾堤緑道のヨコハマビエンナーレ'89の彫刻遺産群。というのもこれは私自身が足で稼いでみつけたモノゴトだからです。

カザフスタン・コンサートは元々はTwitterで広尾の図書館でカザフスタン展をやっているのをみて先月訪ねた際に館内のポスターで知ったもので、太尾町の緑道は偶々初めて訪ねた時に見付けたもの。

今、自分のWeb巡回のほとんどはTwitterを通してに為ってしまっていて。自分自身でフォローした方々が発信してくれる情報だから基本的に自分好みの情報が集まってくるのですが、段々換気が必要になるというか空気に新規さがなくなって来る感覚があって。

特に素晴らしい景色とかを先にWebでみて興味を惹かれてその地に行ったりすると、何だか”答え合わせ”をしてしまっているような気になることがあります。

"先に概念を知ること"が世界から神秘性を失わせることはあるのかもしれません。例えば私は幸運にも暈(ハロ)環水平アークをその概念を知る前に体験し大いに驚いたのですが、もし既知の現象だったとしたらあんなにも自然の驚異を感じてはいなかったと想います。先に知識を得ることで、フレッシュな驚きが損なわれてしまう。

自分で編んだ居心地のいい濃い情報網よりも、寧ろ街中でエンカウントする広告の方が”既知でない”。或いは自分の足でみつけたモノゴトの方がWeb定期巡回路よりも”自分とって特別な情報”となるのは、生身で五感を駆使した方が”自分事”になりやすいからかもしれません。

ただ、Webが未知感のある情報を届けてくれないかというとこれは勿論違って。

例えばYoutubeのお薦め動画はなかなか馬鹿にならなくて。過去の閲覧記録からのお薦めで私が好きそうな未知の音楽をYoutubeで発見する事が結構あります。Webがセレンディピティを破壊するのではなく、Webメディアのフィリタリングを通して紹介されたモノゴトに”手垢がついた”と感じてしまう、というのが論点なのかもしれません。新しい血を入れ続けることが肝要なのかも。

兼好法師は「レアモノを有難がるのは情弱だ」と言っていましたが、自分が関わる度合いが高い経験ほど充実感・特別感は増していくもの。Webには生の第一次データの発信も大量にありますから、メディアの選別を経ない野良データに当たって行ったら、効率は悪くなるかもしれないけれど、Web体験とセレンディピティがより両立できるのかもしれない。そんな事を想いました。

追記
上に書いた話は、私がメディア漬け人間だからこその感慨なのかもしれません。多くの方々にとっては”そりゃ自分でやった方が遣り甲斐あるだろ”かとw

私はWebにモノを書き始めた時に”内輪受けだけは嫌だ”と強く想っていました。私を個人的に知らない人にも価値があるものを書きたいと。

その流れでメディア一般にオーソライズされていることについて書くことが多かったように思えます。上に書いた”自分が関わる度合いが高い経験ほど充実感・特別感は増していく”というのは逆に言えば他者から見ると”ンなこと他人には関係のないことだ”となるでしょう。

実際、鴎庵の記事別アクセス数は取り上げる題材にかなり左右され、今月でいうとオザケンのライヴ感想レポが一番集めていて。カザフコンサートや太尾町の彫刻はニュースネタとしては客観的には確かにコアなさざれ石で、私自身の筆力の足りなさ故に惹きつけられてないのは精進しないとなと想います。

その上で今の自分がより”野生の物事”感に惹かれるのは、Twitterによって自分の関心による情報収集の濃さに満たされたからともいえると想います。自分の好きな味だけを思う存分食べられた故に次の段階へ行けるようになったと。

何か物を書く上で必要なのは廣く情報を得るだけでなく、寧ろ情報を絞ること、時に情報を断つことで己の密度を高めて内から湧き出す声に耳を澄ますことだと感じていて。ネタがマイナーでも逆にメジャーでも奥い語りが出来たら独自性のある記事が書けるだろうと。

今新しい心持ちを持てているのは鱈腹情報摂取できた結果で、Twitterに感謝しながら次の展開を張っていけたらと今は想う処です。

cf.
13年前の個人ニュースサイトをメインとしてやってた頃の記事。昔の方が堅い記事書いてたなぁ、今は緩いw



by wavesll | 2018-05-16 04:01 | 小噺 | Comments(0)

言葉がヴァーチャルであれない時代のネタづくりは心臓の声を聴くことかもしれない。



Web上での言葉の取り扱いがどんどん厳しくなっている昨今。おいそれとネタで罵詈雑言を使うと脅迫だ、名誉棄損だ、差別だ、ミソジニーだと世の中がどんどんクレンジングされているなぁと想います。

こればっかりは公に意見を書いているものですから居酒屋での与太話のような内輪のノリではいけないんだなと。”ネタじゃないか”というのは今の時代では通じず。実際圧縮空気を尻に入れて人が死んでしまったり、悪影響を無視できないところはあります。

今はShow(つくりもの)と実生活(現実)が峻別されずらくなっているというか、Showにはリアリティの追究が求められ、一方で現実が”盛られる”というかShow化している。そんなマーブルな状況の中でネタがネタで在れなくなっている。

人それぞれのポジションによってネタと現実の線引きに齟齬が生じ、その認識のずれから軋轢が生まれている。そう感じます。

そして本当にクローズでないオープンな場で発する言葉であれば、ポリコレに配慮せざるを得ないのが現状だと想います。

仮に原理原則のない恣意的な指弾が行われるにしても、懇切丁寧にハイコンテキストを説明するだけは怒りの炎上は避けられなかったり。

言葉はヴァーチャルだけれど、身体的な嫌悪感やイラつきは実体ですから。そこを論拠に相手が話していることを無視して論理で話しても平行線だし、寧ろ”頭でっかちにならずにスマホを捨てて人と交われ”が解になる場合も多いかもしれません。机上の対義語は身体性だと想うので。

話は変わって。Youtube, Netflix, Spotify, SNS...今あまりにもFREEなShowがありすぎて。そしてCGも含め修正が効く”ヴァーチャルデータ”が氾濫しすぎて。それ故にShowとしての価値が暴落しているのかもしれません。

逆に生身の価値が上がっていることはあると想います。スポーツが価値を高めているのもその流れというか。形而上的な議論の価値が落ちて、全てがネタ(≒ヴァーチャル≒嘘)とされてしまう今は”プラン”には価値がなく実装によってのみ価値が証明されるのだと。

体感化する事と、その際に起きる反応を仁鍛する事がこれからのネタには必要になるのかもしれない。鍵となるのは身体性。脳だけでなく心臓の声を聴くこと。そんな噺を認めてみました。

by wavesll | 2018-02-14 19:44 | 小噺 | Comments(0)