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SNSの”正しい息苦しさ”に岡田尊司『過敏で傷つきやすい人たち』を読む ー鈍感と過敏は同居し、愛着障害による幸福感の欠如は零百思考をしないことと安全基地をつくることから改善する

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ふかわりょうの「ハイレゾ社会に御用心」というコラムを読んで”ハイレゾに関する基礎知識では間違っているけれど、Twitterがどんどん些細な粗さも許されなくなってきているなぁ”と想う昨今。

個人的には「少しのズレも許せなくなっちゃった」という意味で『LOVE PHANTOM症候群』と名付けているこの現象を考える上で岡田尊司『過敏で傷つきやすい人たち』を読んでみました。

やー!この本は面白い!同著者の『対人距離がわからない』はあまりガツンと来なかったのですが、『過敏で傷つきやすい人たち』の内容は上のような問題意識を持っていたからか、かなりするっと入ってくるものでした。

本書の中で語られるのは過敏性を持っている人は”ネガティヴな認識をしがちな人”よりも生きづらさを感じやすい事。そして遺伝などの生得的要因と強い結びつきがある神経学的過敏性よりも、養育要因や社会的体験、愛着対象との関係が強く影響する心理社会的過敏性が不味い場合の方が生きづらさや幸福度に強い相関を示すという事。

面白いなと想ったのは過敏な人は同時に鈍感な一面(低登録)も持っているという事。それ故ワガママだと認識されたり、人から指摘されることも多く、ネガティヴな認識を持ちやすい傾向がある、と。そしてネガティヴな認知以上に過敏さと強い相関があるのが、全部良いか全部悪いかのどちらかになりやすい両極端な認知(二分法認知)の傾向でした。

過敏性の原因には発達障害や愛着障害も成り得て、不安定な愛着は「他人には何も期待せず関わりを断つ回避型」か「大騒ぎして愛情や関心を得ようとする不安型」をもたらします。そして愛着不安が強い人は幸福度が低くなる傾向がかなり強いそうです。

愛着は単なる心理的現象ではなく自律神経系の働きに密接に結びつく生物的・生理的なもので、愛着が安定した人はストレス耐性が強いのに対し、不安型愛着の人はストレスに対して情緒的反応が過剰になりやすく、家族やパートナーにも愛憎の両方を巻き起こしやすく、ストレスも長引きやすい、と。

一方回避型愛着スタイルの人は一見クールに見えながら、実は気づかないふりをしているだけでストレスホルモンは上昇しており、直接自分がストレス源と関わる立場になるとポッキリ折れてしまうことがあるそうです。

愛着障害はもともとは親から虐待されたりネグレクトされた幼児に使う言葉でしたが、実際には大人になっても引き摺っている人が多く、その人たちを「未解決型愛着スタイル」と言うそうです。

ではどうすればいいのか。本書は過敏な人の適応戦略として

1. 刺激量を減らす
外からの刺激が閾値を超えないようセーブ。頭に出てくる雑念は懸案事項を書き留めることで外部化し抑える。またこのタイプの人と話す人は喋り倒さず沈黙も設ける。

2. 刺激を予測の付くものにする
生活や活動をルーティン化し、予測ができるようになると刺激の苦痛は半減。このタイプの人と付き合う人はサプライズは避ける。

3. 安全限界を超えない
刺激が閾値を超えそうになって、イライラや疲労感、集中力の低下などの兆候を見つけたら限界を超える前に止める。休みの日にぼーっとすることもメンテナンスとして大切。

4. 薬も効果的

5. 不快な刺激やストレス源の人間などを回避する

6. 感覚探究が高く神経システムが安定するために必要な刺激量が大きい人は旅行や芸術、スポーツなども大切に

7. 低登録な人は気が回らなかったり切り替わりが悪いと言われる人もいるが、寧ろ運鈍根は信用を得ることも。また過敏さと鈍感さが同居している人の過集中は天才的な閃きを生むことも。

8. 低登録の人は大きな刺激でないと感応できないので、スイッチが入りやすいように刺激強め、行動や質問と組み合わせてメッセージを送る

等が挙げられていました。(過敏な人たちは多様であり、これら等から自分に合うメソッドを自分で選び出すことが大事。)

本書はさらに進んで、過敏性を克服するために

1. 肯定的認知エクササイズで幸福と社会適応を高める

・感謝するエクササイズで、得ることが出来ている快楽に馴れっこにならないようにする
・「奇跡が起きて何でもできる力を得たとしたら、あなたはどうなりたいですか」という希望のエクササイズをする
・親切にするエクササイズはオキシトシンを分泌させる

2. 二分法的認知の克服エクササイズ

・良いところ探しのエクササイズ
・許しのエクササイズ
・第三者の視点を持つメタ認知のエクササイズ
・自分が相手と入れ替わるエクササイズ

・マインドフルネスの三分間呼吸法
背を伸ばし座って目を閉じ、1分目は自分の心の状態を感じ、2分目は呼吸を意識し、3分目は足先から膝、腿、尻、腹、背中、腕、肩、首、顔、頭の感覚に目を向けボディ・スキャニング。

・ひたすらポジティヴであればいいのではなく批判的な目も持たないと危険

・行動目標は小さなゴールの成功体験を積み重ねる
・主体的な関与が苦痛を減らす

3. 安全基地を強化する

・一日中ぴったりとくっついていられ、安全で、心地よい存在で、自分の反応に応えてくれる存在=安全基地をつくる

・ケアが必要な人の問題を解決する時は、その人をケアする人の大変さを受け止めたり本人の状況の理解を援けたりすることが効果的。

・愛着は相互のものであり、不快な相手は逆に自分のことを不快に感じていることも。相手を責める前に自分を客観視することが肝要。

・相手を全否定することは人間関係を破壊する。つい気を許して口にする否定的な口癖も積み重なれば相手を安全基地ではなくさせてしまう。

・人が健康に生きていくには依存と自立両方が必要

・安全基地になれない人からは、心理的、物理的に距離を取る

・恋愛や家庭でなく、仕事や趣味が安全基地になることも

という過敏性の本の愛着障害の克服に安全基地が大事だということを記し本書は終わるのですが、ここまで読んで冒頭のSNSの「少しのズレも許せない症候群」に関して、寧ろSNSを安全基地としている人が多いことの裏返しなのかもしれない、なんて思いました。

明け方書いたエントリで「左の人は無自覚な右の人を受け止め諭す度量がないと現実は変わらない」と書きましたが、寧ろSNSでのエコーチェンバーが安全基地としての機能を果たしているとすれば、無理に意見を異にする人と交わろうとするよりもクラスタで固まることが精神を安寧させるのではと。そういった意味でブロックやミュートを駆使するのは現実的改善かもしれませんね。

その上で、他者、それも「当たり前」が異なる人と語り合おうとする人は、クソリプの応酬だと拒絶されぬ工夫、例えば「Yes~but~」法などを使うことが、鬱憤晴らしに終わらない実効力を持つのではないかと改めて記してこの記事を終わります。

by wavesll | 2018-06-19 19:15 | 書評 | Trackback | Comments(0)

冗談の行間が読まれなくなった時代に言葉はヴァーチャルではいられない

鬼畜系サブカルチャーの終焉/正しい悪趣味の衰退 - Underground Magazine Archives
を読んで、「シャレ」が「カルト」になっていく怖さを感じて。

「いい塩梅の悪ふざけ」は実際には相当タフな理力が求められ、実力が足りない者がその高度な遊びを「何でもあり、過激なほどいい」と誤解し全てがぶち壊しにすることは歴史上幾度も繰り返されていたのだろうなと。

私は「◯す」とか「◯ね」といった書き込みで警察が動いたりする昨今には“(悪趣味だけど)洒落が通じない”と思う人間だったのですが、実際、私自身価値観の倒錯から狂信な暴走をやらかすに至った上、「言葉はヴァーチャル」だけでなく心身への物理的影響もあるのだと今は意見を転向しました。

野放図な本音を発するのは軋轢を産んで。世の中のダブルスタンダード性というか、場面場面での受容の変容を受容できるかどうかが成人の作法の大きな要素で。法律でもプライヴェートでもなんでも絶対的な基準でなく、トコロ変わればヒトが変われば基準はいかようにも変わって。

「常に裏表のない」のみだと鵺のような社会の中では生きずらい様に想えます。人の間に絶対はなく即応が現実を動かして。人の間での場に合わせた洗練と真情の折り合いとした本音2.0が落とし処哉と思います。

同様に板の上の芸と板から降りた日常は異なるもの。

サブカルとかで遊んでるようにみえる文化人が政治的に正論を言うのは“遊びは遊び、マジはマジ”という分別があるからですが、Webによりメディアが板の上だけでなくなった今の時代、行間は読まれないとすると、粋ではないかもしれないけれど“この不謹慎は蔑まれるのが前提の遊びだと認識しています”という御断りが必要なのかもしれません。

また腐臭の漂う酸味はあくまでヴァーチャルだからこそ受容の間口を確保できるのであって。インコースぎりぎりを攻めるのはハイレベルな技量ですが「過激なら過激なほどいい」とビーンボールを投げたら総スカン。

極楽山本も「平成生まれ解禁だ~!」と言ってた頃は楽しかったけれども実際に淫行で捕まったら笑えない。『ガリレオ』でも殺人者を演じるために殺人するのが役に立つと言った犯人が喝破される描写がありましたね。

ついつい”ガチ=Nature”をモノホンとして有難がってしまいますが、アール・ブリュット的なモノは狙っても出せない、というか狙わずにも滲み出るものですから、”技芸=Art(ificial)”を鍛錬するのが一つ破滅からの抜け出しになるのかもしれない、なんて思いました。

ただ「デタラメで面白い」と喧伝してた人が一般人がデタラメやりはじめたら「もっと分別持とうよ」と言わざるを得ないのは、所詮そういう人の主張する価値観は絶対的でなく、相対的にオルタナティヴを提示してるだけで、主な役割はバランサーなのだなという点に悲哀も感じて。

その点で『今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。』と言った岡本太郎は筋金が入っていたなと。相対的でなく絶対的に価値認知範囲を拡げる運動というか。

ノイズへの冒険もそうですが、今の時代には「悪趣味を楽しむ(でも自省はする)という淫靡でウェットなフェティッシュ」よりも「より広い世界への探究への斥候としての法螺」の方があっているのかもしれません。

そこにあるのは高度な言語ゲームの粋というよりも野暮だけれどもリアルな迫真かもしれませんが、マルキドサドが『ソドム120日』で真に描こうとしたのは露悪的な性的描写の先に在る自由への渇望でもあったし、倒錯をするときは”倒錯している”と認識を保ち、さらなる広大な視野を抱けるかが遊びの鯔背さと救いの本質哉と想った次第でした。

cf.

追雑記

「いい感じの逸脱」をみた後進が「分かってない暴挙」をして先達が「過激すぎる、それは酷い」みたいなことを嘆く流れって数多ありますね。

私自身が良い塩梅が分からない人間だからか”なら最初から品行方正にしてろ”とか”変に粋を気取らず野暮でもきちんと注釈をいれてくれよ”とか望んでしまいますが、そもそも徳のない上層部は多く、不誠実さも含め誰しも完璧ではないと認識した方が良さそうです。

ですから上にもたれかからず、相手に対して批判的な目を向け、判断を丸投げせず自分の倫理観で判断を下さないと大惨事になるというのは日大アメフトでもそうでしたね。流されない強さが集団や組織の中で己を守る上では求められますね。


by wavesll | 2018-06-06 06:50 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

レコメンドはセレンディピティを破壊するか

最近日々が充実しているというか、5月に入ってからこっち遊興を盛んに行っていて。

そんな中でも特に個人的には嬉しかったのがカザフスタン民族音楽コンサート@東京都立中央図書館太尾堤緑道のヨコハマビエンナーレ'89の彫刻遺産群。というのもこれは私自身が足で稼いでみつけたモノゴトだからです。

カザフスタン・コンサートは元々はTwitterで広尾の図書館でカザフスタン展をやっているのをみて先月訪ねた際に館内のポスターで知ったもので、太尾町の緑道は偶々初めて訪ねた時に見付けたもの。

今、自分のWeb巡回のほとんどはTwitterを通してに為ってしまっていて。自分自身でフォローした方々が発信してくれる情報だから基本的に自分好みの情報が集まってくるのですが、段々換気が必要になるというか空気に新規さがなくなって来る感覚があって。

特に素晴らしい景色とかを先にWebでみて興味を惹かれてその地に行ったりすると、何だか”答え合わせ”をしてしまっているような気になることがあります。

"先に概念を知ること"が世界から神秘性を失わせることはあるのかもしれません。例えば私は幸運にも暈(ハロ)環水平アークをその概念を知る前に体験し大いに驚いたのですが、もし既知の現象だったとしたらあんなにも自然の驚異を感じてはいなかったと想います。先に知識を得ることで、フレッシュな驚きが損なわれてしまう。

自分で編んだ居心地のいい濃い情報網よりも、寧ろ街中でエンカウントする広告の方が”既知でない”。或いは自分の足でみつけたモノゴトの方がWeb定期巡回路よりも”自分とって特別な情報”となるのは、生身で五感を駆使した方が”自分事”になりやすいからかもしれません。

ただ、Webが未知感のある情報を届けてくれないかというとこれは勿論違って。

例えばYoutubeのお薦め動画はなかなか馬鹿にならなくて。過去の閲覧記録からのお薦めで私が好きそうな未知の音楽をYoutubeで発見する事が結構あります。Webがセレンディピティを破壊するのではなく、Webメディアのフィリタリングを通して紹介されたモノゴトに”手垢がついた”と感じてしまう、というのが論点なのかもしれません。新しい血を入れ続けることが肝要なのかも。

兼好法師は「レアモノを有難がるのは情弱だ」と言っていましたが、自分が関わる度合いが高い経験ほど充実感・特別感は増していくもの。Webには生の第一次データの発信も大量にありますから、メディアの選別を経ない野良データに当たって行ったら、効率は悪くなるかもしれないけれど、Web体験とセレンディピティがより両立できるのかもしれない。そんな事を想いました。

追記
上に書いた話は、私がメディア漬け人間だからこその感慨なのかもしれません。多くの方々にとっては”そりゃ自分でやった方が遣り甲斐あるだろ”かとw

私はWebにモノを書き始めた時に”内輪受けだけは嫌だ”と強く想っていました。私を個人的に知らない人にも価値があるものを書きたいと。

その流れでメディア一般にオーソライズされていることについて書くことが多かったように思えます。上に書いた”自分が関わる度合いが高い経験ほど充実感・特別感は増していく”というのは逆に言えば他者から見ると”ンなこと他人には関係のないことだ”となるでしょう。

実際、鴎庵の記事別アクセス数は取り上げる題材にかなり左右され、今月でいうとオザケンのライヴ感想レポが一番集めていて。カザフコンサートや太尾町の彫刻はニュースネタとしては客観的には確かにコアなさざれ石で、私自身の筆力の足りなさ故に惹きつけられてないのは精進しないとなと想います。

その上で今の自分がより”野生の物事”感に惹かれるのは、Twitterによって自分の関心による情報収集の濃さに満たされたからともいえると想います。自分の好きな味だけを思う存分食べられた故に次の段階へ行けるようになったと。

何か物を書く上で必要なのは廣く情報を得るだけでなく、寧ろ情報を絞ること、時に情報を断つことで己の密度を高めて内から湧き出す声に耳を澄ますことだと感じていて。ネタがマイナーでも逆にメジャーでも奥い語りが出来たら独自性のある記事が書けるだろうと。

今新しい心持ちを持てているのは鱈腹情報摂取できた結果で、Twitterに感謝しながら次の展開を張っていけたらと今は想う処です。

cf.
13年前の個人ニュースサイトをメインとしてやってた頃の記事。昔の方が堅い記事書いてたなぁ、今は緩いw



by wavesll | 2018-05-16 04:01 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

言葉がヴァーチャルであれない時代のネタづくりは心臓の声を聴くことかもしれない。



Web上での言葉の取り扱いがどんどん厳しくなっている昨今。おいそれとネタで罵詈雑言を使うと脅迫だ、名誉棄損だ、差別だ、ミソジニーだと世の中がどんどんクレンジングされているなぁと想います。

こればっかりは公に意見を書いているものですから居酒屋での与太話のような内輪のノリではいけないんだなと。”ネタじゃないか”というのは今の時代では通じず。実際圧縮空気を尻に入れて人が死んでしまったり、悪影響を無視できないところはあります。

今はShow(つくりもの)と実生活(現実)が峻別されずらくなっているというか、Showにはリアリティの追究が求められ、一方で現実が”盛られる”というかShow化している。そんなマーブルな状況の中でネタがネタで在れなくなっている。

人それぞれのポジションによってネタと現実の線引きに齟齬が生じ、その認識のずれから軋轢が生まれている。そう感じます。

そして本当にクローズでないオープンな場で発する言葉であれば、ポリコレに配慮せざるを得ないのが現状だと想います。

仮に原理原則のない恣意的な指弾が行われるにしても、懇切丁寧にハイコンテキストを説明するだけは怒りの炎上は避けられなかったり。

言葉はヴァーチャルだけれど、身体的な嫌悪感やイラつきは実体ですから。そこを論拠に相手が話していることを無視して論理で話しても平行線だし、寧ろ”頭でっかちにならずにスマホを捨てて人と交われ”が解になる場合も多いかもしれません。机上の対義語は身体性だと想うので。

話は変わって。Youtube, Netflix, Spotify, SNS...今あまりにもFREEなShowがありすぎて。そしてCGも含め修正が効く”ヴァーチャルデータ”が氾濫しすぎて。それ故にShowとしての価値が暴落しているのかもしれません。

逆に生身の価値が上がっていることはあると想います。スポーツが価値を高めているのもその流れというか。形而上的な議論の価値が落ちて、全てがネタ(≒ヴァーチャル≒嘘)とされてしまう今は”プラン”には価値がなく実装によってのみ価値が証明されるのだと。

体感化する事と、その際に起きる反応を仁鍛する事がこれからのネタには必要になるのかもしれない。鍵となるのは身体性。脳だけでなく心臓の声を聴くこと。そんな噺を認めてみました。

by wavesll | 2018-02-14 19:44 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

”理解されない”という傲慢を越えて


その昔、このサイトが羅列型ニュースがメインだった頃に目にした一言コラムに「自分で書いた文章はすべて名文」というものがあって。その意は”書いてあるバックグラウンドをすべて理解できるから価値が認識できる”というもの。

確かにそうかもしれません。逆に月日が経つと自身も別人になっていくのか、大昔の自分の書いたものとか読むと”こいつ何を言いたいのかさっぱり分からない”なんてこともザラにあってw

昔の『気分』だけで書いた文よりかは今は客観的な情報説明を入れているつもりですが、また月日が経ってからみたらスッカスカに感じるかもしれません。

そんなこともあって、想うに”理解されない”なんてのは”理解しにくく書いている”結果なことが多いんじゃないかと。

大昔の私は”こちとら読解力があるから周りの言うことを理解できるけど、周りは俺の言うことの価値を理解できないことが多い”なんて驕り高ぶっていて。恥ずかしい限りで。

確かに自分は”面白がる”ことは得意かもしれませんが、”面白がらせる”のはどうか。鑑賞と創造は脳の遣う部位が異なる気がします。

様々に想念を拡げて楽しみをみつけることと、表現したいことを伝達するために意思決定し形に切り落としていくこと。逆に鑑賞の時でも”自分ならこの主題、題材、技法でどんな感覚を造るか”なんて考えたら脳の新領域が駆動し面白い、というのは脱線余談。

私にとっての「面白い」には「(私にとっての)新領域、理解できる際」という側面があって。そうなるとプレゼンできるほど咀嚼せずに「これ面白いでしょ」と出すことも多く、”何がどう面白いのか”提示できなければ当然伝わるものも伝わらないなと。

それでも”情報を出すことはサービス”だと思って情報も出さずにリアクションも薄い周囲に昔は”サービス精神が足りない”なんて思っていましたが、今は徐々に”あぁ、されたい『サービス』のベクトルが異なっていたんだ”と気づいて。

私は論理や美、刺激は好きなのですが、怒りや羞恥心等の心理的負荷は耐えられなくて。或いは慈しみや尊敬すらこそばゆく。“人間味”と呼ばれるものが苦手なのかもしれないと近頃思います。逆に多くの人はそれを大きく好む印象で。こうした要素が弱い人間は薄っぺらいと認識されるかもと。

”面白いこと”は余剰で”人間味のある行為”があるかどうかでエリミネートされる。そこの認識の齟齬が問題で、心のタフさと気配りは養うべき課題。その上で”そうか、感性が異なる人間と無理に一致させることもないじゃないか”とも想って。

『他者について分かるところは分かるし分からないところは分からない、けれどそれぞれのテリトリーを認めあって、共にそれぞれに生きれればいい』。本質的に必要なのは空間であり、認知の多様性を認めるから世界は豊穣。

理解しえぬ領域だからと言って価値がないわけでなく、寧ろ可能性の宝庫。異なる見識もまた玉である。また敬意の示し方は様々であって、熱心に喋ることより余裕を持って訊くことが有効な場面も多い。そして他者は他者。

第三者に伝わりやすいように努めたらそこからは”伝わった分の奇跡”に認識を向け、そして自分も他者に無理に付き合わず”理解できるという驕り”から身を離すことが肝要、期待値は甘え、出来得る限り零に近づける、それがWebで10余年I/Oをしてきて得た最新の知見でした。

by wavesll | 2018-01-29 04:37 | 私信 | Trackback | Comments(0)

あの早朝から23年。阪神大震災の震災文学から次代への眼差しを想う

満月の夕/ソウル・フラワー・ユニオン

23年前のことは実はあまり覚えていない。当時10歳。小学生の頃の記憶はぼんやりしている。寧ろ後のTV映像で高速道路とかが崩れたのをみて記憶が増大していったのが大きい。

幼心の体感ではあの時「頑張ろう、神戸」と首都圏から切り離されていたのを覚えている。その印象からか311時の「ニッポン」「絆」推しには「東京が揺れたら日本全体か」と思ったものだった。

無論、東日本の多くの場所を津波が襲い、いまも福島第一が現在も続いているという意味で日本が抱える大きな出来事だったのは確かだが、阪神大震災の時の首都圏の空気と311の時の報道を思ったとき、「東京は自己中心的なのではないか」との考えが去来したのは確かだった。

されど、シャルリーエブドの時シリアやリビアとかで「何故私たちのことは騒ぎ悲しまないのか」という声が上がったのもそうだが、身近なものを重要視してしまう本性が人間にはある。その上で“どう身近にするか”という意味で地場メディアの力が重要だろう。東京にはキー局があった。それはパワーの泉でもあった。

ネパールでもBBCやCNNはみれた。アル・ジャジーラもそうだが、全球的な報道・情報発信のプラットホームの存在は大きい。

正月に放送されたNHKBSのクマリの番組ではカトマンズの被災が大きく感ぜられた。ただ、実際に行ってみると、確かに爪痕は未だに残ってはいたが、人々の生活の活気と、思いのほか残る歴史遺産が印象深かった。

「何を伝達するか」の選別は、「力」そのものでもある。

あの時の震災文学として『いいひと』が“建物は再建されても、そこでの人の心や暮らしはまだ再建も癒しもされていないのですよ”と描いていて。東北を振り返れば今なお仮設住宅で暮らす人がいる。この23年、この7年、復興の馬力が落ちてきているのでは、と想ってしまう。建物ができても心の復興はその先なのに。

総体的に縮小のフェーズに今のこの国があるとして、新しい容への切り替えが必要として、そんな時に”ドメスティックの外”と小さな物語を連携させるような、そんな情報発信の土台を日本から出せないか。

一人一人の”現場の声”から発して一般意志の形成を行う途上に我々はいるのかもしれない。そのプラットフォームを創れたら、次代の一角獣となり、この国の50年を支えるのではないか。その為には”他者”と”自己”への客観的なまなざしがいるのではないか。あの満月の夜を描写したような、心を打つのは真摯なまなざしであるように23年目に想。

by wavesll | 2018-01-17 22:40 | 私信 | Trackback | Comments(0)

「面白いことを書く遊び」について

先日クローズアップ現代+にTwitter社のジャック・ドーシーCEOが出て、「TwitterはSNSだとは思っていません。SNSは友達・家族・クラスメート・同僚を探すツールですが、Twitterは全く違います。Twitterでは「関心」によって、誰かとつながるのです」と言っていました。

これには私もかなり膝を打つところがあって。私自身のTwitterの使い方も、RTが多いのもそうだし、自分のTweetも自分自身が主役というよりも「体験した何かがどう楽しいか」と何かの作品やイベントそしてニュースを具としたコミュニケーションが主だなと。

私みたいに「この飲み会の金で音楽や映画、展覧会行けるな」とか思っちゃう人でなしにはぴったり嵌るというか(苦笑) 勿論Twitterの使い方は一つだけではありませんが、「人」を押し出すよりも「作品/イベント/ニュースへの関心」が主だからこその繋がりってあるなぁと想いました。

ただ、こういう発話を「それは他人の褌でお前の手柄ではない」と想う人が結構な割合でいるのも理解できます。それにTwitterでも何かの感想よりオリジナルの写真や絵、動画や140文字で紡がれる独自の文章ネタの方が”いいね”で評価されてます。

先日ねほりんぱほりんでネトゲ廃人が取り上げられていて「ネトゲ廃人には 課金型と時間投下型がある」というのをほえーと見ながら”考えてみるとTwitterなんかもネトゲの一種かもしれない”と想って。

自然に生まれる”面白いこと”ってそうポンポンあるものでもないし、”俺、もしかして課金型とか時間投下型のプレイヤーになってないか?”と少し怖くなって。

勿論、好きな音楽や展覧会に行き観想した事ですし、Twitterの反応含めてそれが加速するのは時にいい循環でもあるのだけれども、遊びは遊び。それに振り回されてしまっては本末転倒だなと。

だから承認欲求や地位財としての消費からなるだけ身を離し自然に内発する心のままであることが大事だと感じます。

愉しい営みとしてのWebへの鍵盤打筆というか、「自分が読みたいものを自分で書いてみる」という基本に立ち返る重要性。そのヴォランタリーなコントロールが出来れば、SNSやBlogは「面白い、書きたい」への感性を増大させてくれ生活を豊かにしてくれますから。

私自身昔は周りの人たちに「最近面白いことあった?」とか雑に聴こうとしたり逆に”こっちはこれだけ書いてるのに何の反応もせずにフリーライドか”とか変に気張って失敗してきました。

今はいい意味で明きらめたというか、「しゃべりたいことがない人から無理に聞き出さなくても自発的に情報を発してくれる人の声で十分じゃないか」と想って。また「面白いことを何の見返りもなく書いてほしい」と強いるのはブラック企業的な価値観でもあるなと。プライベートは鬼門ですし荒らしたくもない。

その上でいつもTweetで愉しませてくれるフォロイーさんたちや、LINEで面白い噺を送ってくれる友。またBlogerの人やメディア上で好い番組や作品をだしてくれる人たちへは自然と親しい有難さを感じています。辺境探検家 高野秀行氏講演会 'N' 早稲田大学探検部カムチャツカ遠征報告会のように、公開してくれるものだけでも相当コアな噺聴けますしね。

「面白いこと探し」はあくまで遊び。けれどだからこそ本気になれるし、私ももっと純度の高い心が入った文章を画けたら嬉しい限りです。個人的には一週間くらい37℃台の熱を出したのが快復し対面したときに「最近面白いことあった?」と聴いたら「風邪が扇風機で飛ばされた」と応えた祖母の感性を目指したいですw

無論Face 2 Faceの場においては傾聴が主張よりも大切な場面は多いし、お互いの情報交易が平衡することが大事だと思います。或いはTwitterとかの半ば公道では余りに呟きすぎると嫌がられることも。そういった意味で、Blogのような自サイトで思う存分文章を認めて非同期の時間軸での発信をするって善いなと。

ゲームにおいて一番いいプレイは時間投資量で勝負するのでも課金チートで勝つのでもなく機知と技量の水準を上げていくことだと想います。此のサイトの記事でも単なる紹介レポートではなく黒田清輝展@東博 もう一つの坂の上の雲年を重ね今解る椎名林檎『平成風俗 大吟醸』の良さのように「論」があると良いもの書けたなと想います。 そうした本質的なLv上げならガンガンやっていきたいなと←意識だけ高い派にならないようにしないといかんですねw

by wavesll | 2017-11-30 05:01 | 小噺 | Trackback | Comments(0)

Blogの対価

Webに文章を書くことを表現活動というのはかなり烏滸がましいですが、一種のアウトプット・サーヴィスを行っているものとすれば、ではその”対価”は何だろう?とも思います。

実は私の中でそれは答えが出ていて、”藝仲間”がいること”共に情報を送ってくれること”が対価かなと。

アナクロなWebの住民としてはROM(Read Only Member)には何処か釈然としない思いもあって。鴎庵は特に縛りはないですが、Twitterのフォローは呟きもリアクションもない方は外したりしてます。趣味のアウトプットだからこそ拘れるものだと思うので。

面白い藝を提供してくれる人たちと繋がれるのは嬉しくて。昔は情報発信しない人にけしかけたりとかアレな行為をしていましたが、今は反響営業が主で楽しくやれています。

ただ、こうして好きなことをWebで発信できていると、飲みとか年賀状かの付き合いごとに対する意欲が落ちるところはありますねw

相手からすると「Webで遊ぶのはともかくちゃんと行事には付き合えよ」とか「ネットでなく現実を生きろよ」いう感じかもしれませんが、コミュ欲が情報通信で満たされていると「Webで非同期でコミュニケーションできればプレゼン的に後にも残るし一番よくないか?」とか。「飲みの誘いの前に面白い噺があるかWebで試聴させろよ」とかw不遜だw社会性が無いw

まぁ、忘年会でだけ会うのもナンセンスというか、今の時代コミュニケーションしたいことがあったらWebですぐやりとりできますし、そういった非同期の対話が呼び水となって会った方が形骸化してないかなと。実際、やりとりすると必ず発見がある友には感謝がたえません。

恋人や家族がいて、仕事もあって。中々コミュニケーションにリソースを割けない。それなら年一で一気にやりたいというのも、わからんではないです。だからWebのアウトプットは強いれるものではないと思います。

ただ自分は、未だに何となく普段から場を共有する関係が好きで、ある程度密度のあるコミュニケーションをしたい。

とはいえ余りに濃いコミュニケーションは少数相手では負荷になりますから。直接話すパートナーと言える人達がいれば、したい話をしてもどっかで受け止めてくれる人がいる位の大海にボトルメールが投げられている今の環境はありがたく、”みなに好かれなくてもいい”自由を愉しんでいます。目下の処Twitter社が倒産しなければいいなというのが願いです(苦笑

今思ったのは私が飲み会よりSNSを好むのは、酒や飯を肴にするより、音楽や画、映画や文章など文化的肴をアテに話がしたいというのがより精確な処かもしれません。普段の暮らしの面白話もWebに書いちゃう人間なのでwそういった意味でPCやオーディオでネタを引き出せる家飲みなんかは好きですね。

人のプライヴェートへの関心が薄い、人との折衝を避けるという意味で、"本当の人生を生きてない文化中毒者”という指摘は考慮すべきだとは想います。

これは今に始まったことではなく学生の頃も「このサークル飲みの金でCDや映画を払える…」とかアレなこと想ってた人間でしたから、中々に筋金入りで…。それでも月一で普段合わない人や新しい人との飲みは入れ、新しい血を入れるよう努めている感じです。

cf.
◆人付き合いとWeb同期 文字コミュニケーションの時間的レンジの広さの価値

◆何でも公開したいとみなが思っているとは限らないという当たり前の事実について
by wavesll | 2017-09-25 21:13 | 私信 | Trackback | Comments(0)

日清焼そばU.F.O.のCMがヤバいw

昔のU F O仮面ヤキソバン~その後のヤキソバン


日清焼そばUFO CM  吉川晃司&水原希子 からの 梅宮辰夫


日清焼そばU.F.O. CM 「エクストリーム!ヤキソボーイ 篇」 120秒 / 中川大志・藤岡弘、


日清焼そばU.F.O. CM 「エクストリーム!ヤキソボーイ2 篇」 100秒 / 中川大志・藤岡弘、


日清焼そばU.F.O.上海オイスター CM 「日清 上海オイスター エクストリーム!上海ちょいスター篇」110秒


面白CM 未確認藤岡物体襲来ww 藤岡弘 日清焼きそばU F O


日清焼そばU.F.O. 「インチキ超能力者のうた 篇」 180秒 / エクストリーム☆マリック


友達から教えてもらったU.F.O.のCM群。これは見入るw最近TVCMのキレが落ちたと感じていたのですが、こーれはキレッキレですね。
by wavesll | 2017-08-13 23:48 | 小ネタ | Trackback | Comments(0)

承認欲求を求めてもいいし、みなに好かれなくてもいいし、全てに肯定的でなくていい

pokka pokka / Fishmans


NUMBER GIRL - I don't know (ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2002) LIVE


私は面と向かって相手の気分を害することを言うことが苦手で。その癖Webなんかだと駄々洩れさせたりとかして口ならぬキーボードから災いを招いたりしてしまって。空リプの誤配もあったり、結局陰口ですしね。

また、「分からないこと」が我慢ならなくて。人から何かを薦められたときなんかも、その時魅力が分からなくても”この人が薦めるものなのだから、きっといいものなのだろう”と期待値を込めて肯定的な返答をしたりしてしまいます。

その後魅力が分かった時に「最初は分かってなかったのだけれども魅力が分かった!」と興奮気味に伝えて、「何で最初分からなかったときにそう言わないのか」と言われたことがあって。

"そうか、期待値込みでポジティヴを装うのも、それが期待値で今は分かってないと伝えないと裏切りになるのか"と気づかされました。

そう想って振り返ると、世の人は"わからないこと"には寛容なのだなと。

相手の魅力が分からない内は最強というか、どんなに無礼な発言をしても罪悪感は感じないというか。”そもそも価値がないことを分かっているんだ”というスタンスかもしれません。

寧ろ”価値があるんだ”と力説することの方がみっともないことと想われている節があります。いわゆる「承認欲求叩き」なんかも相手が今ある評価に満足せずに承認をさらに求めることに対するいらだちというか。

ただ、そもそも承認欲求それ自体はマズローの欲求5段階説の中のタームで。ネガティヴな色はありません。

食欲・性欲・睡眠欲の生理的欲求、風雨や危険をしのげる安心な暮らしがしたい安全欲求、集団に属したり仲間を得て孤独から逃れる社会的欲求(帰属欲求)が満たされた人間が、次に求めるのが、他者から認められたい、尊敬されたいという尊厳欲求(承認欲求)です。

私も昔はコミュニケーション欲とでもいうか、分解すれば社会的欲求と承認欲求が欲しくて欲しくてクレクレ乞食な無様なこともやってしまって。Blogやmixiにコメントが付かないのに悩んだ時期もありました。

ただそれは狭い村社会に属していたから起きた問題で。Webの公海に出て、Twitterなんかで800人弱の人をフォローして、十数人の方々と良くやり取りをして、そこそこの頻度でいいねなんかが来て、たまに返信コメントが付いたりするとそれで結構満足する自分を発見します。

逆にこのTweetなんか830RTされて1500いいねとかされているんですが、正直言うと通知がひっきりなしに来る感覚で。数字だけだと自分の器では体感を越えているし、寧ろ体感するくらいのリアクションが来たら対応できないと。普通のTweetで3, 4いいねがつくくらいが一番いいというか。

ひとりの人間が親しくつながっていられる最大数は50人から150人程度だという説もありますが、現在のリアルとオンラインのコミュニケーション量で、社会欲求も承認欲求も飽和に近いなと。

そういった意味で、今は"他人にウケることを目的にしているではなく自分が読みたいことを書くためにWebをやってる"、なんてマズローでいえば自己実現欲めいたことを言えるのですが、これも4段階まで満たされたから言えることで。他者からの評価を得るために頑張るって至極真っ当な動機だと想います。

だいぶ話がそれました。元に戻すと、"わからない人間"を相手にするときは相当骨が折れるのが常だと覚悟するか、そもそものターゲットを絞るのが、生業にし数字を求めないなら有効な方策ということ。

”分かっている人相手”でも相当な人数が存在するし、可処分時間でコミュニケーションに割ける分なんかそれで埋まるのが、私は実際の処です。

また、"わからないコトはわからない/わかってはいない”と言うのが誠実だと。

昔の私は傲慢で、身近な人のいうことは何でも理解できて適切に面白さをこちらは判断できるのに周りはこちらの感性を理解しえないことが多いと驕っていました。

しかし、Webの大海に出て、自分自身が大切にしている分野でも先達はいくらでもいて、前は理解できなかったものでも時を経ると良さがわかることを知って。一方で自分自身の理解にも限界があることも知って。

面白く感じていないモノを、わざわざ声高に貶す必要はないけれど、おべんちゃらを無理に言うのも不誠実なのだと今は感じています。無知の知を知った上で、誠実に発言することの大事さを知りました。

こういうサイトを結構な頻度で更新したいと思うとついネタに妥協というか、本心でない褒めをやってしまいそうになります。

でも、金を得ているわけでもないインディーメディアなのだから、本当に書きたいものだけを書くことこそがレゾンデートルだよなと。昔の仲間には"どうせ分からないからぬるいことを言っておけばいい"と考えていましたが、自分で推すものは、誠の心をもって今は発言したいです。

それで読まれなかった時でも"これ読まないなんてもったいないことしてるなぁ"と想える水準を出すのが理想だと。

社会的欲求と承認欲求が満たされたから、自己実現を目指せる。案外私の欲求の器は無尽蔵でもありませんでした。

もしかしたらその先に、マズローが晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると唱えた「自己超越」という段階へ行ける時もあるのかもしれません。

”「目的の遂行・達成『だけ』を純粋に求める」という領域で、見返りも求めずエゴもなく、自我を忘れてただ目的のみに没頭し、何かの課題や使命、職業や大切な仕事に貢献している状態”。なんだか読み切りの『ZETMAN』みたいな話ですね。

スピッツ / チェリー

by wavesll | 2017-07-06 23:19 | 私信 | Trackback | Comments(0)